1-12『樹宮名月は期待する』

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 自分がどうでもいい奴なのだという純然たる事実を、初めて突きつけられたのは、俺がまだ小学生の頃だった。

 あるパーティー会場で行われた立食会での出来事であった。


 場所は覚えていないが、都内にあるどこかの高級ホテルで行われたパーティーに、母に付き添われる形で参加したことがある。

 会社員である母の仕事上の催しであったらしく、正直なことを言えば、俺にとっては最初から、まったく楽しくない行事だった。

 なにせ出席者は大半が大人で、そこで交わされる会話など子どもの俺にはさっぱり理解できなかったし、そもそも俺のことなんて誰も意に介していなかった。


 ――幸運だったのは、会場には同じ立場の子どもが俺以外にもそれなりにいたことだ。


 子どもは子どもで基本的には別室に集められ、適当に分けられた料理を食べながら同じ年代同士で過ごせるよう取り計らわれていた。

 俺は人見知りするほうではなかったから、同い年くらいの子どもがいることに、最初はそれなりに満足していたと思う。


 では不運だったことは何か。

 それは、こういった社交の場に慣れていないガキが、俺だけだったという事実だ。


 面白くない大人のパーティーに連れ出されて、それを不満に思っていた。

 それだけならよかったものを、俺は同じ立場の子どもたちが、同じ不満を持っていると思い込んだ。

 静かに大人しく待っている子どもの中で、騒がしく話し続けるのが俺だけだったことに最後まで気がつかなかったのだ。


「なあ。ここ抜け出して、どっかに遊びに行こうぜ!」


 だから俺にとって、その提案はごく当たり前のものだった。

 断られることを想定すらしていない発言だ。


「で、でも……お父様は、ここで大人しくいなさい、って」


 当然、誘った子どもからは反発があった。

 その子は、集められた子どもたちの中でも少し浮いていた子だ。

 今にして思えば浮いていたのは俺のほうだし、その子と俺とでは、浮いていたの意味がそもそも違っていたのだが、俺にとっては数少ない、構ってくれる《友達》だった。


「大丈夫だって、バレる前に帰ってくれば! こんなとこいたって楽しくないでしょ?」

「う、うん。わかった。じゃあ、いっしょに連れてって?」


 ――それが俺の無価値を決定的に証明する行為だと、全てが終わってから思い知る。


 たった一夜だけの、あの《なつき》という名の友人との決定的な決別の原因。

 パーティーが終わってから母は言った。


「いいか、そう。人はいつだって他人から値踏みされて生きている。社会で生きるってのはそういうことなんだ。想にどれほどの価値があるのか、誰もがそれを測ろうとしている」


 実際そうなんだろうな、と俺は思った。

 会場には同年代くらいの子どもたちが何人も来ていたが、幼い彼ら彼女らですら、常に振る舞いに気を払って、誰が有用で誰が無能なのか、その視線で目敏く測っていたのだ。


 容貌、服装、態度、視線、表情、家柄、器量、知性、体力、才能。

 あらゆるステータスを競争の道具として認識する世界を、そのとき俺は垣間見た。


 当時の俺が《失格》の烙印を押されることなんて当たり前の話でしかなく、けれどその事実がどうしても受け入れられなかった俺は、それから他者を打算で測るという行為に、徹底的に歯向かって生きることになる。

 脆く幼く、あまりにも下らない子どもの反骨。

 あるいは、お前には価値がないと突きつける存在に対する――根源的な恐怖心。


 当時の母は、そのときの俺にもうひとつ、教えを授けてくれていた。


「――想はこういうのに向いてないね」



     1



 生徒会長と会合した翌日。

 この日も俺は朝早くから登校し、今度はなんの問題もなく教室に辿り着いた。

 自分ひとりしかいない教室で、改めて昨日受け取った資料を見る。


 おそらく生徒会が独自に作成したものだろう。内容的には、定期試験の順位や所属するクラスと部活など、基本的には公開情報と思われるものだけで構成されている。

 逆に言えばそれだけだ。

 個人情報に相当するものは誕生日や血液型すら書き込まれていない。

 というか紙面の大半が空欄で占められており、どちらかと言うなら《ここに書き込める情報を自分で調べ上げてこい》というようなニュアンスが伝わってくる作りだった。


 唯一、三人全員が一芸入試であったことだけは資料に明記がある。

 ただこれも、生徒会からの依頼内容を考えれば当然の前提にはなる部分だ。


「……才能か……」


 生徒会からの依頼は単純だ。

 中等部の入学時に持っていた《一芸》を、彼女たちに再び発揮してほしい、そのためのフォローを俺にしてほしい。

 要約すればそれだけだった。


 まあ、言わんとせんことはわかる。

 たとえば野球でスポーツ推薦を受けた生徒が、野球そのものを辞めてしまっては学校の立場としては困るだろう。

 無論、怪我などのやむを得ない事由があるなら話は別だが。


 なるほど時本ときもと会長が俺に話を持ってきた理由も、冷静になると察しがつく。

 この手の話は、生徒会を含めた学校サイドが無理に強いたところで、まずいい結果には繋がらない。

 言われてやるようなら初めからやっているからだ。


 なら俺のように、よくも悪くもどこの立場にも所属していない人間に話を振るのは悪くない手だった。

 成功すれば無論よし。仮に俺が失敗しても、生徒会は何も困らない。


「そうなると最初の問題は、あいつらがいったいどんな《一芸》を持ってるかだな……」


 まずそこを抑えなければ話が何も発展しない。

 できればそれも資料に載せておいてほしかったところだが、おそらく入試の内容は公開情報ではないのだろう。

 調べる方法はいくらでもありそうだから、これはひとまず措く。


 となると、次に浮上してくる問題はひとつだった。


「どうコンタクトを取るか、だよな……」


 生徒会で頼まれたから――なんて馬鹿正直に言うのはたぶん悪手な気がする。

 普段の仕事と違い、基本想定として本人がやりたがっていないことをやらせようという話だからだ。

 この依頼を《交流》と称した時本会長は、ともすると悪辣な気がしてくる。

 机の上に広げた資料を睨んで、俺はしばらく今後のことを考えてみた。


 ――教室にふたり目の生徒が登校してきたのが、それからおよそ二分後のことだ。


「おはようございます、そうさん。今日こそいちばん乗りですね」


 教室の戸を開けて笑顔を見せた女子に、俺も笑みを作って応じる。


「ああ――樹宮きみやか。おはよう」

「その資料は生徒会からですか、想さん?」


 彼女の問いに小さく頷く。


「そう。ちょっと生徒会から仕事を頼まれてさ、その資料」

「伺っております。私も想さんへの助力を頼まれていますから。聞いていませんか?」

「そういえば言ってたな……。じゃあ樹宮も事情は知ってるのか」

「ええ。むしろ想さんのほうから私へ連絡があるかと思っていたくらいですけど」


 言いながら、彼女は俺の隣の席へ鞄を置いた。

 景行かげゆきと樹宮で出席番号が近いため、席が隣同士なのだ。


「まあ、あくまで俺が請けた仕事だからな。できる限りは自力でやるよ」

「……本当に引き受けたんですね。そんな気はしてましたが」


 小さな溜息とともに、そんなことを樹宮は言う。


「いや、まあなんか断れる空気じゃなかったし」

「想さんに得はないでしょうに。時本会長は辣腕ですが、時に強引でもあります。余計な先入観を持たないように黙っていたのが裏目に出ましたかね……」

「と言うと……樹宮は、反対だったってことか?」

「想さんが決めたことに意見する気はありませんよ。私の責任でもありますから」


 あくまでも樹宮は俺を立ててくれている。

 正直、俺に対して少し気を遣いすぎじゃなんじゃないかと思うほどだ。


「何か私に手伝えることはありますか?」

「まあ、そうだね。ちょっと相談に乗ってもらえたら助かるかな」

「相談に乗るだけでいいんですか?」

「樹宮だって忙しいだろ。なるべく迷惑はかけないよ」

「……そう、ですね。私は、その三人とは少し相性が悪いですから。手伝えることがあるとすれば、実際そのくらいにはなると思います」

「あれ。そうなのか?」

「別に仲が悪いというわけではないですが。まあ、いろいろと事情がありますので」


 言って彼女は首を横に振った。

 基本的には誰とでも仲のいい樹宮の、そんな態度は少し珍しい。

 とはいえ、樹宮が語ろうとしなかったことを掘り下げて訊くのは躊躇われる。


 しばし考えてから俺は言った。


「樹宮って入試は一芸だったりした?」

「わたしですか? いえ、わたしは学力試験でしたよ」

「あ、そうなんだ……てっきりスポーツ関係の何かかと思ってたけど」

「いくつか嗜んだことのある競技はありましたが、どれも実績と呼べるほど打ち込んではいませんでしたから。それに、そもそもスポーツで一芸を受けた生徒は少ないですよ」

「そうなんだ?」

「あくまで中学入試ですし、スポーツ関係は基本、特化した学校を選んだほうがいいですからね。上級生にフィギュアスケートの選手ならひとりいますけど」

「へえ……さすが幅広いな征心館せいしんかん


 でも確かに。学校の部活単位が主体となるスポーツで、あえて征心館を選ぶメリットはあまりない。

 たとえば俺が野球をやっていたら、普通に野球の名門校へ進むだろう。


「ちなみに、この三人が何で入学したのかは知ってる?」


 重ねて俺は訊ねた。リストの内容については樹宮も知っているみたいだし。

 少し思い出すように小首を傾げてから、やがて彼女は小さく。


「ひとりだけ。本人に確認したわけではありませんが、不知火しらぬいさんなら予想はつきます」

「へえ……じゃあ割と有名なのか」


 と、相槌として呟いた俺を見て、彼女は少しだけ妙な表情をした。


「有名ですよ。想さんが思っているよりも。おそらく想さんもご存知だと思います」

「俺が……?」


 首を傾げる俺に、樹宮は小さく頷いて。

 それから、こんな風に続けた。


「彼女は元子役です。《赤坂あかさかナツキ》の名で一世を風靡した有名人なんですよ」


 俺は驚きに目を見開いた。


「――えっ、マジで……?」

「マジで、です」

「そうだったのか……。いや、その名前知ってる……!」


 俺が幼い頃に、社会現象レベルでヒットした作品に出演していたはずだ。

 あまりテレビドラマを観ない俺でも知っているくらいだから、おそらく相当な有名人なのだろう。


 当時の俺は《なつき》という名前を、口にするどころか聞くだけでも反射的に胃が痛くなるトラウマの全盛期だったため、なるべく視界から外していたのだが……。


「そうか……芸能人だったのか、あいつ……」

「はい。もっとも現在では、あまり積極的に芸能活動を行ってはいないようですが」

「なるほど。それで会長が俺にね……話はわかった気がするけど」


 だとすると思ったよりハードルが高いな。


 ただでさえ不知火には初対面から悪い印象を与えてしまっている。

 その上で、いったいどの口で芸能界に戻るように勧められるというのだろう。

 どう考えても「は?」のひと言で終わりじゃないか……?


「まあ、不知火については後回しにするか……。砂金いさご水瀬みなせに関しては何も知らない?」


 取っかかりが見えなすぎるため、ひとまず話を別の方向にずらした。

 ただこちらに関しては、樹宮は首を横に振るだけで。


「すみません。さすがに入試の内容までは」

「そうか……いや、そうだよな」

「ただ、水瀬さんのほうに関しては少し思うところはあります」

「お。と言うと?」

「……中等部までの三年間で、水瀬さんの成績は常に学年トップクラスでした。正直この話を聞くまで、私は水瀬さんも一般受験組だと思っていたくらいです」

「ああ、そういえば……」


 改めて貰った資料を俺は確認する。

 水瀬の試験成績は、そのほとんどが学年一位だ。いちばん低い順位でも三位なのだから安定している。

 最初に見たときは「へえ、成績いいんだな」としか思わなかったけれど。


「こんだけ勉強できて一芸受験だったのは、確かに意外ではあるか……」


 この成績なら、一般入試を受けていれば確実に特待生待遇を得られただろう。

 俺も受けている特待生の援助枠は、これは意外な気もするが、一芸入試には適用されていないのだ。学費の免除を受けたければ、勉学で成績を取る必要がある。

 まあ家が裕福な場合は、あえて特待枠は取らない的な不文律も、あるとかないとからしいけど……。

 ともあれ、何かしらのヒントにはなってくれそうだった。


「よし。ありがとう、参考になったよ――樹宮」


 顔を上げて、俺は樹宮に礼を告げた。

 彼女のほうは静かに首を振って、


「このくらいしかお役に立てそうにありませんから」

「いや、充分だよ。いつも頼ってばっかで悪いな」

「……そんなことはありませんよ」


 どこか強めに、樹宮は俺の言葉を否定した。

 意外に自信がないというか、謙虚が過ぎるというか。

 思ったより控えめなことを言う。


「まあ、とにかく俺は助かってるから。この件は、いずれお礼をさせてくれ」


 樹宮はしばらく無言でいたが、やがて薄く笑みを作って頷いた。


「では、期待に胸を膨らませて待っておきますね」

「……ほどほどくらいで頼む」

「それはダメです。想さんから言い出したんですから、もう撤回はできませんよ?」


 頭を悩ませなければいけないことが、どうやらもうひとつ増えたらしい。

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