1-10『水瀬懐姫は書き綴る』

     5



 六限の授業が終わって放課後になった。

 約束の十六時半までは、まだあと一時間以上の余裕がある。


 ――いろいろと迷った末に俺が選んだのは、再び第二部室棟まで向かうことだった。


 特に理由はない。ただ一応、目的としては第二文芸部室にでも顔を出そうかな、なんてことを予定してはいる。

 まあ歓迎してもらえるかどうかは、少し怪しいところだったが。


 俺の中で、この征心館せいしんかんを進学先として選んだ第一義は人脈の構築にこそある。

 せっかくできた接点を、それだけで放置するのはあまりに惜しい。

 幸い俺には《仕事の募集》という体のいい口実があるため、無関係な部活を訪ねる理由づけなら用意できる。


 ――かくして俺は、放課後の第二文芸部室を訪れていた。


 昼休みよりは、さすがに人の気配がだいぶ多い。文化系の部室や、同好会規模の小さい団体は基本的には第二部室棟が拠点なのだ。

 二階まで上がった俺は、再び《第二文芸部室》と書かれた扉の前で立ち止まった。


 ノックをしてみる。

 コンコンと二度叩いて反応を待ったが、何も聞こえてこない。


 誰もいないのだろうか。

 まあ約束していたわけでもないから仕方がないが、一応ドアに手をかけてみる――と、鍵はかけられていなかったのか、あっさり開くことができた。


「あれ、外出してるだけか?」


 となると、これはちょっと迷ってくる。ほかに予定がなければ待つところだが、約束のことを考えると時間が限られるからだ。

 ……それならリミットを決めておくか。


 十分待って誰も来なければ今日は諦めよう。

 そう決めて、俺は誰もいない第二文芸部室で待たせてもらうことにした。


 改めて室内を見ると、同じ作りなのに演劇部室よりだいぶ簡素だ。

 電気ケトルなんかが備えられていているくらいで、部活動らしい備品はほとんど見受けられない。

 初めて請けた仕事で第一文芸部室にも入ったことがあるが、あちらは歴代の部誌や印刷用のプリンター、本棚に納められた文庫の数々など、いかにもな品が揃えられていた。


 単純に第一文芸部は規模が大きく、場所もここではなく本校舎により近い第一部室棟にあるから、差があって当然かもしれないけれど。

 こちらは、あまり文芸部感がなかった。

 棚はスカスカだし、執筆に使いそうな原稿用紙やパソコンなども見当たらない。

 目につくのは例のスケッチブックくらいだ。

 水瀬みなせの私物なのだろうか。


 なんの気なく俺はスケッチブックを手に取ってみる。

 文芸部よりは美術部っぽい備品だよな、なんて考えながらパラパラとページをめくってみると『おかえり、イサ』『成果は?』『×』『○』――といった、俺をおちょくるために書き込まれた、さきほどの水瀬の字。

 即興であんなコントみたいな真似をされては堪らない、と肩を揺らす俺の視界に、


「…………あん?」


 ふと、予想していなかったものが飛び込んできた。

 それはテーブルの上――ちょうどスケッチブックの真下に置かれていた白い紙の束。

 びっしりと文字が書き込まれたそれは、つまりが小説か何かの原稿だ。


 さすが文芸部。

 執筆活動もしっかり行っているらしい。

 なら覗き見るのも悪いかと目を逸らそうとした俺だったが、――その直前。


 目線が、原稿に吸い寄せられて離せなくなる。


「お……?」


 理由は単純だ。読むでもなく漫然と眺めただけの文字列だろうと、その記述だけは俺は見逃せない。

 なにせ原稿の中に、思い切り《景行かげゆきそう》と俺の名前があったのだから。


「え。これ俺、……だよな?」


 偶然《なつき》という名前だった少女を四人も見ておいてなんだが、偶然《景行想》という名前が一致したとはさすがに考えられない。

 明らかに、そこには俺が書かれている。


「どういうことだ……? なんで俺の名前が……」


 知らず、俺はその小説のような何かを読み始めてしまった。


 内容的には、雰囲気としては学園モノだろうか。

 だが小説なのかエッセイなのかは割と微妙なラインだった。

 描かれていたのは、俺がこの部室に来たときの内容だったからだ。


 登場人物も俺以外には、昼休みに会った砂金いさごと水瀬のふたりだけ。

 俺が砂金を部室まで背負ってきて、そこで水瀬と会う。

 そのくだりが水瀬の視点から記述されている。

 ある意味で、めちゃくちゃ描写の細かい日記とも言えないことはないかもしれないが、文章の雰囲気はやはり小説めいていた。


 原稿用紙の二枚目に移る。

 その辺りから、徐々に内容が実際に起きたこととズレ始めてきた。


 曰く――、



      ※



 しばらく待っても、景行さんはイサを降ろさなかった。

 その背中に当たる柔らかな感触を、できる限り長く楽しもうとしているのだろう。


「気持ちいい、想?」


 悪戯っぽい笑みを浮かべながらイサが問う。けれどその顔に、ほんのり朱の色が差しているのを私は見逃さなかった。景行さんの視界には決して映ることのない艶のある表情。

 彼の視界に映っているのは今、私だけだ。

 その瞳が、嫌らしく舐めるように上から下まで私の体を観察している。

 間違いなかった。彼はイサだけに飽き足らず、私にまでその毒牙を伸ばそうと――



     ※



「事実無根すぎる!」


 と、俺が叫ぶのと同時に扉が開いた。


 読むのに集中していた俺は、突然の音に驚いて両肩を跳ねさせる。

 現れたのは、さきほど出会ったうちの片方――水瀬みなせ懐姫なつき


 その無表情な目線が、椅子に座って原稿を読んでいる俺とまっすぐに交差する。


「…………」

「…………」


 お互い、言葉を作れず無言の時間が流れた。

 水瀬は何を考えているのか。

 変化の少ない表情から読み取ることはできない。


 どうしよう。

 なんだか途轍もなく気まずい空気が部屋に満ちている。

 だがやがて水瀬は見つめ合うことに飽きたのか、そのまますたすたと部屋の中に入ってくると、こちらを見下ろすように目の前に立って言った。


「――えっち」

「それ俺が言われる側?」

「覗き」

「それは悪かったと思うけど……」

「どうだった?」

「感想求められるの俺!? この流れで!?」

「参考までに」

「……てことは、これ書いたの水瀬ってことか?」


 こくりと小さく水瀬は頷く。

 特に照れもせず認められるとは思わなかった。


 いや、どうなんだろう。実は照れているのだろうか。

 どうにも表情変化が少ないせいで水瀬が考えていることは読み取りづらい。


「えーと。……これはいったい?」


 何を言えばいいのか。

 迷った末に訊ねた俺に、水瀬は淡々とした態度でこう答える。


「イサが男の子を連れてくるなんて珍しかったから」

「……、から?」

「面白いシチュエーションだと思って」

「……、思って……?」

「官能小説として仕上げてみようと思いました」

「水瀬は友達のことなんだと思ってるん?」

「ネタ」


 悪びれもしない水瀬だった。

 マジかよコイツ。

 同級生そのまま登場させてエロ小説書くとか勇者すぎるだろ。


「まあ書いてる途中で飽きちゃったんだけど」

「それを聞いて正直ほっとしたよ俺」

「モデルが悪かった。特に男側があんまりそそられない」

「いや、そう言われるとなんかな……。なんで俺のせいみたいになってる?」


 思わずツッコミを入れる俺。


 と、そこで気づいたが、よく見るとほんの少しだけ水瀬の耳が赤い。

 やっぱり多少なりとも恥ずかしかったのだろう。

 いや、まあこれを見られればそうか。


「悪かったよ」


 俺は原稿用紙を置いて謝った。

 どうあれ勝手に覗き見たことに変わりはなかったからだ。


「俺の名前があったから気になっちゃって。慰めになるか知らないけど、二枚目までしか読んでないから、そこは安心してほしい」

「……どっちにしろ二枚目までしか書いてないけど」

「ならほとんど読んだことになるな……そりゃすまんかった」

「別にいい」


 あくまで水瀬は淡々としていた。

 淡々としたまま、疑問するように小首を傾げて。


「景行さんは怒ってないの?」

「え、俺が?」

「うん」

「いや、別に怒ってないけど……」

「……そうなんだ……」


 こくり、と水瀬は何かに納得したみたいに首を動かした。それから、


「なら、今後ともよろしく」

「いや……この流れでそう言われると話変わってきちゃうんだけどね?」


 今後もネタになってくれ、みたいな意味に聞こえてくるから。

 それはちょっと、割と頷きがたいところがある。少し考えさせていただきたい。


 思わず渋面になってしまう俺。

 その様子がツボにでも入ったのだろうか。

 初めて、水瀬がわずかだけ表情を和らげた。


「……ふふ」


 薄く、ほんの少しだけ顔を綻ばせた笑みを浮かべる水瀬。

 こいつもこういう顔をするんだな、と俺は少し得をした気分になった。


「いいね、景行さん。プラス一点」

「それなんの得点?」

「んー……、優しさポイント」

「なるほど? そりゃどうも」

「言い換えるなら性的魅力ポイントとも言う」

「その言い換えはしないでほしいけども」

「やらしさポイント」

「優しさと一文字違いで大違いだよね」

「まあ、男子としての魅力を感じたって意味だから」

「最初からそう言われてたら喜んでたかもしれない事実が怖いよね」

「今ならさっきより筆も乗りそう」

「時として許される言論弾圧ってあると思わない?」

「表現の自由って知ってる?」

「プライバシーの侵害なら知ってる」

「仕方ない。お互いのデッキでリーガルバトルだね」

「そんな最悪のバトル嫌だ……」

「――ふふ」


 水瀬のわかりづらい表情の変化が、少しずつ読み取れるようになってきていた。

 悪くない気分だ。

 やっぱり変わった奴だが、意外と会話を楽しんでいる自分がいる。


「これ、文芸部の活動なのか?」


 雑談の続きに俺は訊ねる。

 その言葉に水瀬はきょとんと首を傾げて、


「何が?」

「さっきの小説が。まさか俺がネタにされてるとは思ってなかったけどさ」

「……?」


 俺の言葉に、水瀬は不思議そうに首を傾げた。

 不思議そうにされると俺が不思議になってくるのだが、やがて水瀬は得心した様子で。


「そうじゃない。私は、そもそも文芸部員じゃない」

「え。……あれ? 違うの?」

「私は単に、冷やかしに来てるだけだから。第二文芸部員はイサだけだよ」

「そうだったのか……」


 意外な発言に驚く俺だが、そういえば文芸部員だと名乗ったのは確かに砂金だけだ。

 部室にいたから、てっきり水瀬もそうだと思い込んでいた。

 イメージだけで言うなら、砂金よりむしろ水瀬のほうが、文芸部員っぽい雰囲気もあったことだし。


「でも、その割には結構書けてるよな? 割とこなれてるような感じしたけど」


 少なくとも初めて書いたってわけじゃない気はする。

 そう思って言った俺に、もう元の無表情に戻った水瀬は、


「かもね」


 とだけ答えた。

 こうなると、俺にはもう水瀬が何を考えているのかわからない。


「それより景行さん。なんでまたここに?」

「ん、ああ……別に用事があったわけじゃないんだけど」

「…………」

「まあ、ちょっと遊びにきただけだ。水瀬といっしょってことにしといてくれ」

「そうなんだね」


 説明した俺に、水瀬はこくりと小さく頷いてから。

 再び――今度は少しだけ悪戯っぽく笑って、彼女は言った。


「じゃあ、景行さんも何か書いていく?」


 少し迷って俺は答えた。


「……んにゃ、遠慮しとくよ。実はこのあと予定入ってるから、あんま時間ないし」

「なるほど。それは残念」

「俺としては、俺が書くより水瀬が書いたものを読んでみたいんだけど」

「――――――――」


 数秒。水瀬の反応がなかった。まるでフリーズでもしたかのように動かなくなる。

 首を傾げていると、やがて水瀬は再起動するように動き出して。


「……それなら、さっきの作品の続きでも書く?」

「……ちなみに、今後はどういう展開になるの?」

「酒池肉林」

「オーケーわかった。この作品の続編は頼むから世に出さないでくれ」

「仕方ない。景行さんの言う通りにしてあげてもいい」

「ありがとね……」

「その代わり」


 と、水瀬はこくりと小首を傾げながら。

 なんでもないことのように、小さな声でこう言った。


「また来てね」

「……おう。また時間があるときに遊びにくるよ」


 そう答えると、水瀬はほんの少しだけ――嬉しそうに目を細めて。


「ん。仕方ないから歓迎してあげる」


 どうやら少しだけ、水瀬と仲よくなれたらしい。

 と、そう判断してよさそうだ。






 ――それから数分ほど水瀬と話して、俺は第二文芸部室をあとにした。

 結局、砂金が姿を見せることはなかったが、それについて水瀬に訊いてみると――、


「さあ? どこかで疲れて寝てるんじゃないかな」


 とのこと。

 あの妖精は性格に似合わず虚弱キャラすぎる。


 結果的には部外者しか存在しない部室での時間を過ごしてから、本校舎まで戻ることにした。

 時間的にはまだ割と余裕があるが、なんであれ早めの行動を心がけておきたい。


 俺は第二部室棟の玄関にまで戻ってきていた。

 彼女と――再び邂逅したのは、ちょうどその場所でのことである。

 ちょうど入れ違いに、部室棟へ入るところだったらしい。


「か、か――景行想っ!」


 ここで会ったが百年目ばりの勢いで、フルネームで俺の名を呼ぶ少女。

 咄嗟に身構えるように取った戦闘態勢(?)は、なんだか特撮に出てくる変身ヒーローを彷彿とさせた。

 今朝、この近くの古い宿直小屋で見かけた同級生。


不知火しらぬいか」

「な、なんでこんなトコにいるワケ!?」


 別に生徒が部室棟にいたところでなんの不思議もないと思うが。

 どうにも不知火は、俺のことを特別な警戒対象として認識してしまったらしい。


「まさか先回りして部室棟で待ち受けてたんじゃ……!」

「なんでお前が部室棟に来ることを、俺が知ってると思うんだよ。もう帰るところだし」

「む……ぐ。それもそうか……」


 だいぶ勢いで喋る奴だな、不知火は。

 正直、ここまで警戒される謂れはない気がするけれど。


「で、不知火は部室棟に用事なのか? 何部なんだ?」

「な、なんであんたにそんなこと教えなきゃなんないのよ!」

「いやまあ、言いたくないなら別にいいけど」

「そんなこと言ってないけど! それより景行はどうなの。あんた部活入ってんの?」

「いや、俺は部活に入ってない。知り合いの部に顔を出してただけだ」


 俺が言うと、なぜか不知火は渋面を作って。

 それから数秒あってから、なぜだか嫌そうにこう言った。


「……わたしも同じ。別に部活には入ってない」

「ふぅん」

「ただ部室が片づいたからって呼ばれただけだから。なんか文句ある?」

「いや……」


 文句はなかったが心当たりならあった。

 もしかして、不知火を呼んだのは押見先輩だろうか。

 知り合いではあるみたいだし。


「わかった。引き留めて悪かったよ、それじゃあな」


 ともあれ今は急ぐときだ。

 それだけ言って立ち去ろうとしたところ、不知火は突如「うっ」と呻いた。

 あちこちに視線を彷徨わせ、かと思えばやがて小さく、もにょもにょと何か言い出す。


「……えっと、別にいいけど……、その」

「なんだ?」

「……なんでもありません。わたしも行くから。さようならです!」


 最後にそんな捨て台詞を吐くと、不知火はそのまま俺の横を通り過ぎていった。

 いやはや、なんというか。


 ――どうにも突っ張るのが似合っていない奴だった。


 強気な態度を取っているようで、言葉の端々から丁寧さというか、育ちのよさみたいなものが溢れ出している。

 真面目な奴が無理に悪ぶっているかのようなアンバランスさだ。


「…………」


 いまいち、俺には不知火という奴のことが掴めない。

 初めて会った日、あれほど完璧な外面を保っていた奴が、今はぜんぜん態度が違う。


 俺が独り言を盗み聞いてしまったせいか。

 いや、そう考えるにしても奇妙な点はある。


「……どういうことなんだろうな」


 そう。言うならあの日以外の不知火の態度には――打算がないのだ。

 いったいどういう違いなのか。

 気づけば不知火のことを考えているのは、たぶん、それが気にかかっているからだ。

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