1-08『樹宮名月には敵わない』
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昨今はロボット掃除機などもずいぶんと高性能になりつつあるが、所詮は平たい円盤に過ぎない奴らにまだまだ仕事は奪わせない。
それくらいの需要は、今のところ存在した。
「……っし。こんなもんかな」
片づけ終えた部室を眺めて、俺は達成感とともに呟く。
さすがにピッカピカにとはいかなかったが、普通に使う分には充分だろう。
演劇部の生徒は、基本的に本校舎の稽古場や公演用の講堂なんかを活動拠点にしているらしく、あまり部室は使わないそうだ。
ほとんど倉庫扱いだと
確かに第二部室棟は校舎から遠い。
ほかに拠点があればそちらを使うだろう。
読み古された指南書や、漫画雑誌の納められた本棚。
謎にあるオセロ盤や麻雀牌。
古いブラウン管のテレビに繋げられた数世代前の型のゲーム機や、過去の公演に使ったらしいベニヤ板の立て看板……置かれているものの雑多さは、なるほど物置的な風情がある。
位置はあまり動かさずに纏め直しつつ、雑巾で拭いたり掃除機を使ったりと、埃っぽい部室を手早く綺麗にした。
昼休み分の依頼としては、我ながら十全な仕事と言えよう。
作業を終えた俺は、掃除機とバケツを手に部室を出る。
そのまま扉の鍵を閉めたところで、廊下の向こうから上級生に声をかけられた。
「おぉー、終わったんだー? さっすが、仕事が早いね執事くん!」
朝方、職員室で仕事を依頼してくれた二年生――演劇部部長の押見先輩だ。
俺は営業スマイルを浮かべて、歩いてくる先輩に会釈を返す。
「どうも先輩。ところで、その執事くんって呼び方は定着しちゃったんですか?」
「あれ、嫌だったかな? キミの仕事振りは執事みたいだって評判だったんだけどな」
「――いえ、そういうわけでは」
嬉しくはないが、嫌というほどでもない。
それなら受け入れておくほうが丸いだろう。
ただでさえ生徒数の多い学校だ。
新入りの珍しさが通用している間に、あだ名がつけば上級生からも覚えてもらいやすくなる。そのほうが、次の仕事には繋がりやすそうだ。
執事ならまあ、雑用と呼ばれるよりは聞こえもいいだろうし。
「それより、わざわざ見にきてくださったんですか?」
「まあ一応ねー。部外者を部室に招き入れといて丸投げってのは、さすがにちょっとアレだし。あと報酬も渡さないとだしね、ほらコレ」
言って、先輩は報酬である食堂の食券(三食分)を手渡してくれた。
実働三十分程度の仕事であることを考えればいい儲けだ。
おそらくだが、押見先輩は俺の仕事振りを試そうと考えていたのだろう。お眼鏡に適うようであれば、新たな仕事を貰えるかもしれない。
「中、確認しときます?」
「だねー」
頷く先輩に、閉めたばかりの部室の鍵を渡す。
「じゃ、ついでに鍵は先輩のほうから返しといてもらえれば」
「あははっ、要領いいね。オッケー、任せといて」
鍵を開けて、部室の中を覗き込む先輩。
真後ろに立つ俺の耳に、息を漏らす音が聞こえてきた。
「おおー、めっちゃ綺麗になってる」
と、押見先輩。
ひとまず赤点は免れたようだ。
「本の類いは纏めて本棚に片づけてます。それ以外のものは、基本的には場所を動かしてない感じですね。明らかにゴミとわかるものだけ纏めたんですけど、一応確認します?」
「ううん、大丈夫。ありがとう。さすが
「や、まあ、ちょっと掃除機かけて棚とか拭いただけですけど」
「充分、充分。ウチの部、誰も掃除とかやりたがんなくてさー。助かっちゃったよ」
聞いた話、生徒の中には『家事はハウスキーパーがやっている』なんて奴も少なくないという。
自分で掃除をする場所は、当番になったときの教室くらいの認識なのだろう。
だからこそ、こんな活動が仕事として成り立つわけだが。
「うん! この分なら、また何かお願いするかも。人手足りてないからさあ」
押見先輩は言った。どうやらある程度の信頼は得られたらしい。
「その際はぜひ。こちらこそ、今後ともよろしくお願いします」
俺も笑顔でそう答えた。
できれば次は、もう少し踏み入った仕事が欲しいところではある。
演劇部では定期的に公演があるから、その辺りに噛んでいきたいところだ。
「じゃ、またよろしくっ!」
手を振る押見先輩に「では」と答えて、俺は部室をあとにした。
帰りしな、一瞬だけ第二文芸部の部室があった廊下に視線を投げてみる。
誰がいるでもなく部室棟は静寂に包まれていたが、
「…………」
部室棟を抜けて外へ。広すぎる敷地の片隅で、遠く晴れ渡る空を見上げながら眩しさに目を細めた。
雲ひとつない五月の蒼色は、誰の何を象徴することもない自然の光景だ。
当たり前の話だが、世界は小さな人間ひとりの心情など反映しない。
「ま、ひとまず演劇部と繋がりが持てただけ収穫だったか。樹宮にまた礼を言わないと」
芸能関係者の生徒も少なくない征心館において、演劇部はかなり規模の大きい部活動のひとつだ。
テレビに出ているような役者はさすがにひと握りだが、元子役や、幼い頃から舞台演劇に携わっているような生徒が、演劇部には多くいると聞いていた。
俺は詳しくないが、押見先輩も外部の劇団に所属して舞台役者をしているそうだ。
そういう集団と接点ができたことは大きい。
――なんてことを考えながら、俺は部室棟を離れて本校舎方面へ戻っていく。
「さて。どうすっかな、昼メシ……」
昼休みは六十分あるが、さすがに今から急いで学食を使うのは少し億劫だ。
これまで仕事の報酬として稼いだ無料分チケットがあるから、できれば学食で昼食費を浮かせたいのが本心ではあるが、移動の手間まで考えると、正直ちょっと面倒臭い。
食堂は南の校門近くだから、いちばん北東のここからだと遠いんだよな……。
かといって昼休みはあと二十分もない。
今から購買に行っても何も残ってないだろう。
こういうとき、無駄に広い敷地がマイナスに働くと思う。
用具置き場に掃除機を返してこなければならないことも合わせると、今日はもう昼食は諦めるべきだろうか――と、
「
本校舎の方向にいる小さな人影が、俺の名前を呼ぶと小走りに駆け寄ってきた。
そう急いでいる様子もないのに、なかなかのスピード感だ。あっという間に目の前まで距離を詰められてしまう。
さすが征心館きってのスポーツ少女、と感心するところなのか。
「どうかしたのか、樹宮?」
「想さんを探していたんですけど……また大荷物ですね?」
首を傾げる俺の目の前で、ぴたりと止まって彼女は言った。
「ん、ああ……演劇部からの依頼でな。さっきまで部室の掃除をしてた」
「知ってますよ。押見先輩から伺いました」
「なるほど。それでこっちのほうに来れたのか」
得心して俺は頷く。
そもそも押見先輩に俺を紹介したのが樹宮らしいから、その報告が行っているのも自然な流れだ。
「何もお昼休みまで潰さなくてもいいんじゃないです? はりきりすぎですよ、想さん」
気遣うように樹宮は言う。
どうやら余計な心配をかけたようだ。
「まあ、こういうのは最初が肝心だからさ。早いうちに顔を売っておきたいというか」
「そんなこと言って、どうせお昼も食べてませんよね?」
「……よくご存知で」
「はあ……。想さんに《仕事》をオススメしたの、間違いだった気がしてきました」
呆れ交じりの溜息を零す樹宮。
今の彼女の様子からは、初めて会ったときの衝撃をとても想像できない。
『――想さんって、私みたいな人間は苦手ですよね?』
入学してまだ間もない、ある早朝。
そんなふうに声をかけてきた彼女のことを、忘れることはないだろう。
「お仕事の依頼は、だいぶ順調に集まっているみたいですね」
樹宮の言葉に、俺は首を縦に振る。
「お陰様でね。このままいけば、演劇部でも大きい仕事が貰えそうだよ」
「それはそれは。想さんのお友達が増えそうで何よりです」
「規模の大きいところと繋がりができれば、今後も輪が広げやすい。樹宮のお陰だ」
「私は何もしていませんよ。全て、想さんの努力の賜物だと思います」
にこりと微笑む樹宮。スポーツ少女然とした快活な外見を裏切るような、淑やかで品のある佇まいだ。
こういう言葉を聞くときに、彼女がお嬢様であることを思い出す。
「もっとも、働きすぎは感心しませんけれど」
釘を刺すように彼女は言う。
なんだか子ども扱いされている感覚もあるが、悪い気分にはならないから不思議だ。
「ちょっと昼休みを潰したくらいで、さすがに大袈裟じゃない?」
「でも想さん、頼まれたら断らないでしょう。昨日もお昼を抜いていたの知ってますよ」
「いや、……それは……」
「想さん、合理派なようでいて意外と行き当たりばったりですから。こうやって食事までなおざりにされるようでは、勧めた立場であることも含めて、お節介せざるを得ません」
「…………」
駄目だ、正論すぎて反論の余地がどこにもない。
普段は優しい奴なのだが、ひとたび理詰めを始めると誰より手強い相手になる。
「想さんがこの学校を選んだ理由なら聞かせていただきましたが」
樹宮は言う。
その言葉の通り、俺はこの学校でただひとり、彼女にだけは理由を明かしていた。
――人間関係を打算で過ごしていきたいから――と。
詳しい事情までは明かしていない。
何か具体的な目標があるわけでもない。
ただ方針だけを語った俺に、彼女は深い事情も聞かず力を貸してくれていた。
「だからといって無理ばかりするのは賛同できません」
「……すんません」
「というわけで、さあ。行きましょうか」
押し黙った俺に苦笑してから、ふと樹宮はそんな風に切り出す。
「え、――行くって、どこに?」
「もちろんお昼ご飯です。買ってはいないですよね?」
「そうだけど……」
「お弁当、実は作ってきたんです。ご披露できなかったらどうしようかと思いました」
少し恥じらうように、樹宮は奥ゆかしくはにかんでいた。
「……作ってきたってことは、手作りってこと?」
「そう言ってますよ。なんです、その質問? これでも料理は得意なんですから」
アホなことを訊いた俺を、おかしそうに見上げて樹宮は肩を揺らす。
まったく気にしていなかったが、確かに彼女の片手には包みで覆われた箱があった。
思わず俺は、それをまじまじ注視してしまう。
そんなこちらをどう思ったのやら、彼女はむっと唇を尖らせて。
「心配せずとも、中身が崩れるほど走ってはいませんよ」
「え? ああ、いやいや、ごめん。そんな心配は最初からしてないよ」
「ですか。では味の心配もされていないと信じるのなら、何が不安なのです?」
その問いに、俺は少し迷ってからこう答えた。
「人気者の樹宮さんから手作り弁当を貰ったなんて、周りに知られたら怖そうじゃない?」
「なるほど。躱すのがお上手ですね、と言っておきますけれど」
――それなら。
と、樹宮は片手の人差し指を立てて、それを唇に這わせると。
「これはふたりだけの秘密としておきましょう。――想さんにだけ、特別ですよっ」
なんて、悪戯っぽく微笑みながら言ってみせるのだった。
――なるほど、これは敵わない。
もともとこの上なくありがたい申し出なのだから、素直に受け取ることにした。
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