1-07『砂金奈津希は疲れちゃって動けない』
「…………」
「――――」
なんで? という顔で、中にいた少女が俺を見て絶句していた。
背中に人を背負っているのだから無理もなさすぎる。
その背中の妖精はと言えば、
「ただいま、ミナ!」
部室にいた少女に、ひらひらと手を振って言った。
しばしの無言。
やがて声をかけられた少女は、ふと静かに目を伏せた。
かと思えばすぐに目を開けて、彼女はテーブルの上に手を伸ばす。
そこには、一冊のスケッチブックが置かれていた。
彼女はそれをパラパラとめくると、真っ白なページの上に、これもテーブルの上にあったサインペンで何かを書き込む。
そしてそれを、こちらに向けて見せてきた。
『おかえり、イサ』
どうして口で言わないんだろう……。
と、もちろん俺は思ったが、下手に触れていい話題なのかは怪しいところだ。
たぶん今日は変な奴と遭遇しまくる日なんだろう。
そう納得しておく。
――室内で待っていた少女は、一見して、少なくとも背中にいる妖精よりはずいぶんと落ち着いた印象の子だ。
淡い色合いのショートカットに、夜のように深い蒼黒の双眸が特徴的だ。
あまり表情が動かないタイプらしく、しいて言えば物静かな図書委員系のイメージが近い感じ。
きゅきゅっとペンを動かして、そいつは再びスケッチブックに文字を書き込む。
『成果は?』
背中の妖精は、文字でのやり取りに面食らった様子もなく笑って。
「あはは、ごめーん。がんばったんだけど、部室棟を出るとこまでは行けなかったや」
けらけらと笑う妖精に、スケッチブックの少女はじとっとした目を向けていた。
どうするべきかいろいろと迷った末、俺は妖精のほうに訊ねてみる。
「……お友達か?」
「うん。ゲームで負けちゃったから、罰ゲームで買い出し行ってたんだよ」
にもかかわらず手ぶらで、しかも見知らぬ男(俺)に背負われて帰ってきたわけか。
そりゃ待っていたほうの彼女も驚いたことだろう。
内心そんなことを考える俺に、あくまで背中から妖精さんは言う。
「ちょっと変わってる子でしょ?」
彼女もお前に言われたくねえとは思うけど。
と、妖精の言葉に反応して、再びスケッチブックに書き込みが加えられる。
新しく提示されたのは記号だった。
『×』
「……バツだってよ。なんか不満があるらしいぞ」
「違う違う。読み取りが甘いよ。これはそういう意味じゃない」
「あ、そうなのか……じゃあどういう意味なんだ?」
「『掛け算をしろ』だね!」
「いや本当に? それ本当に合ってる? 脈略なさすぎるんですけど」
そう言ってみると、スケッチブックの上で再びペンが走る。
『○』
「合ってるってこと……? え、本当に掛け算をしろって言ってたの、この子?」
「だから違うって」
「違うの!?」
「これは『零点』って意味。ちゃんと意図を汲み取ってあげないと!」
「今のが汲み取れてなかったんだとしたら、零点を出されたのはお前のほうだよ!」
「あっははは! さっきからいいツッコミするよね、キミ」
けらけらと背中で妖精が笑う。
かと思えば、部屋にいた奴のほうも、持っていたスケッチブックをぺいっと放り投げ。
「そうだね。面白い。これは逸材を連れてきたね、イサ」
「でしょー? 優秀な新人を連れてきちゃったよね!」
「連れてこられたのはイサだと思うけど」
「それはそう!」
「ていうかそんなことより、イサにはまず飲み物を持ってきてほしかったけど」
やいのやいのと、ふたりは楽しそうに会話していた。
……いや話すのかよ普通に。
だとしたらなんだったんだよ、スケッチブックのくだり。
もはや乾いた笑みが漏れる俺の前で、スケッチブックを置いた少女は溜息を零して。
「はあ……。ゲームで負けたほうが買い出しに行くなんて、イサと賭けても意味なかったよね。どうしたら出かけた用事を忘れて帰ってこられるものかな、この短時間で」
「覚えてたよ!」
「せめて忘れてたって言ってくれたほうがまだ救いもあったんだけど。覚えてたんなら、ちゃんと買って帰ってきてほしかった」
「仕方ないでしょ、途中で体力尽きたんだから。文句ならこっちの勇者くんに言って!」
「……、勇者くん?」
ちらりと、座っている少女の視線がこちらのほうに向く。
執事くんやら勇者くんやら、今日は妙な呼ばれ方が多い日だ。
カゲの人もあったな。
そんなことを考えながら、とりあえず俺は笑顔を作って挨拶してみた。
「あー……どうも?」
「どうも。イサに捕まった?」
イサというのが妖精さんの名前であるのなら。
俺は頷いて伝える。
「ちょっとぶつかっちゃってな。部室まで運んでくれって頼まれた結果こうなってる」
「ふぅん……それで言われた通り背負ってきたんだ? 変わってるね、
「……そっちこそ、さっきのスケッチブックはなんだったん?」
「せっかく初対面だったし、ちょっとキャラ作りしてみようかと思って。無口キャラ」
だとしたらお前に変わってるとは言われたくなさすぎるんだが。
妖精さんは正しかったな。どっちも変わってるわ。
いや、そんなことより。
「――俺のこと知ってたのか?」
苗字で呼ばれたことに気づいて俺は訊ねる。
ミナというらしい少女は、なんでもないことのように、こくりと小さく頷いて。
「そりゃ、話題の新入りくらいはね。いろいろ噂とかも聞いてるし」
「あー……なるほど、そういうこと」
「じゃなきゃイサだって、さすがに背負わせたりしないでしょ。……違う?」
「――ふひひ」
ミナという少女の確認を聞いて、背中にいる妖精が嫌な笑い声を出した。
「……お前も、俺のこと知ってたってわけか」
「や、知らないけどね。わたしが知らない生徒なんて、この学園にひとりしかいないし」
「なるほど……そりゃ記憶力すごいな。征心館の生徒なら全員覚えてるってことか?」
ともあれ、ようやく一応の納得は得られた感じだ。
俺の評判を知っていたから、警戒が薄かったというわけらしい。
「あ、でも背負ってもらった理由は違うよ」
なんて思った俺に、背中からあっさり否定が入った。
「……じゃあなんでわざわざ背負わせたんだ?」
「私の制服に、君の指紋や服の繊維をバッチリ残しておくためとか?」
「……………………」
「ぶつかったなんて弱みを振るわれるのも困っちゃうから、武器は持っておかないとね。裁判になったらこっちが有利だということは、しっかり自覚しておいてもらわなきゃ」
「お前もう背中降りろ」
「あっははは! 別に冗談なのにー!」
ぜんぜん笑いごとじゃないことを、笑いながら言ってくれやがる妖精だった。
いや妖精じゃねえよ。
どっちかって言うなら妖怪の類いだろ。
……まあ、そういう警戒は個人的には嫌いじゃない。
嫌にあっさり背負わせると思っていたが、裏にそういう計算があったのなら、むしろ俺としては安心するくらいだ。
「ご愁傷様」
ミナさん(仮)のほうは、あまり変化のない表情で静かに呟く。
「そんな簡単なひと言で片づけないでほしいんだけど」
「イサは相手の弱みを握ってないと安心できないタイプの人格だから。いつも通りだよ」
「それは終わってらっしゃらない?」
「変な子に絡まれたのが運の尽きだったね。大丈夫、日本の法廷はきっと優秀」
「裁判になったら、ぜひ証人として助けてもらいたいんですけど」
「ごめん。悪いけど面倒臭……悪いけど友達は売れないよ」
「本心が滲み出ちゃってたよ今」
「だるいからパス」
「いや正直に言えばいいって話じゃないから……」
どうやらこのミナという少女は、ずいぶん淡々とした性格らしい。
態度も同じだ。表情らしい表情を見たのは、最初に部屋へ入ったときくらい。
「――よいしょっと!」
と、そこでようやく背中から妖怪が降りてくれた。
文字通りに肩の荷が下りて、俺もようやく気が楽になる。
「ふぅ。ありがとね、運んでもらっちゃって」
「いや……まあ貴重な経験だったよ。ある意味で」
「確かに。さすがのわたしも背負って運んでもらったのは小さい頃以来だよ」
「いつも運ばれてるわけじゃなくてよかったよ」
「ふひひ。キミが初めてだね」
「その言い方やめて?」
「あははははっ!」
けらけら楽しそうに笑いながら彼女は言った。
続けて、
「……まあ正直、乗り心地はあんまりよくなかったんだけどね。今後はやめておこ」
「わざわざ運ばせておいて、お前……」
「てか、なんか気持ち悪くなってきたかも。あっ、やばちょっと眩暈してきた」
「ホント虚弱だなあ、お前!?」
「背中酔いした……」
「そんな車酔いみたいなことある!? だとしたら悪かったね、ごめんね!」
尻が痛いとひんひん呻いていたのは、今思えば割と本気だったのかもしれない。
面倒臭い妖精だった。
いや、いつまで妖精だの妖怪だの言ってるんだろう、俺も。
「名前は?」
がしがし頭を掻いてから、俺は訊ねる。
「うん?」
「や、だから名前だよ。俺のことは知ってるんだろ? そっちの名前も教えてくれよ」
「あはは、まあそれは確かに。そういえば、まだ名乗ってはなかったっけ」
少しの間があって。
それから、ランチパックを咥えていた虚弱妖精は言った。
「――私の名前は
「……………………」
他人の自己紹介でここまで絶句したことはない。
「一年F組。そしてこの第二文芸部の部長でもあるんだけど……、どうかしたの?」
「――え、ああ……いや、砂金だから《イサ》なんだな、と思って……」
なんて風に俺は誤魔化したが、引っかかったのはもちろん苗字ではなく名前のほう。
こいつも、下の名前が《なつき》だってのか。
思わず顔色が悪くなってきていることを自覚する。
そんな俺を見ながら砂金は続けて、
「まあ、私をイサって呼ぶのはこの子くらいなんだけどね」
「ん……お前がつけたあだ名ってことか?」
「や、下の名前が同じなんだよ。ややこしいから苗字からあだ名を取ってるわけ」
「――――――――――――――――」
もはや俺は呆然として、もうひとりの少女――《ミナ》に目を向ける。
それが下の名前だろうと思っていたから、この一致はあまりにも不意打ちすぎた。
――果たして彼女は、再びスケッチブックをその手に取ると。
『水瀬懐姫』
名前を漢字で書き記して、俺に示してこう言った。
「読みは
「……よろ、しく……」
と、俺は答える。
ここまで続くと、一周回って気が抜けてくる感じだ。
こんなに急に謎の《なつき》フィーバーが起きるとか、あまりにも無駄な奇跡すぎる。
樹宮も含めればこれで四人も、同じ学年に同じ名前が集まっていることになる。
確かに珍しい音の名前じゃないが、――だからって、何もこの名前じゃなくたっていいのに。
あらゆる意味で思い出したくない過去を、最も思い起こさせる名前がそれだ。
なにせ俺はトラウマのあまり、小学生の頃はテレビで《なつき》という名前の芸能人を見るだけでも胃が痛くなっていたのだ。
いつの頃からか、それは治ったと思っていたが。
どうやら違っていたらしい。
腹の辺りが、きしきしと軋むような気がした。
それが心理的なモノであると知っているから、気のせいだと自分に言い聞かせる。
忘れろ。
そんなのは、遥か昔の話なのだ。
「景行さん? なんか、顔色が悪いけど」
「あ――いや」
ふと気づくと、
俺はかぶりを振る。
どんな名前だろうと、それは彼女たちが悪いわけじゃないのだから。
「――じゃあ俺、仕事あるから。行くな」
なんとかそれだけを言って、俺は第二文芸部室を後にしようと踵を返す。
「また来てねー」
と、ずいぶん気軽な
そう言ってもらえるなら、ぜひまた来てみるとしよう。
名前のことさえ考えなければ、俺にとっても新しい友達ができたのは嬉しいことだ。
一階に戻って掃除用具を回収し、それから本来の目的地である演劇部室へ向かう。
職員室で借りた鍵を使って、部屋の中へ。
少し時間を喰ってしまったが、見たところ思ったよりは片づいている。
単に利用されていないだけ、というような風情だったから、この分なら三十分もあればいいだろう。
今さら言うまでもないだろうが。
今回請けた仕事とは、演劇部部室の清掃である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます