1-04『不知火夏生は謎が多い』

 俺からの問いに、不知火しらぬいは目を細めながら首を傾げる。

 それに続けて言った。


「名前だよ。俺の名前。忘れられたままなら自己紹介しようかな、って」


 俺としては、それは名乗る流れを作る枕みたいな確認だったのだが、意外にも不知火は細い目のまんまで短く答えた。


「……景行かげゆきでしょ、景行」

「なんだ、思い出してくれたのか」

「だから別に最初から忘れてないっての」

「いや、さっき忘れたの認めてたろ」

「……そんなの忘れた」


 ふいっと目線を逸らす不知火。見ればまた耳が朱色に染まっている。

 少なくとも負けず嫌いなのは間違いなさそうだが。考えるより先に喋るタイプ。


 本当に、あの朝からはまったく予想できないことになった。

 実は双子の不知火しらぬい冬子ふゆこですとか言われたら、そっちを信じてしまいそうだ。

 思わず笑いそうになるのを堪えながら、息を整えつつ不知火に告げる。


「呼び方は不知火でいいよな?」

「え」


 俺の言葉に、きょとんと不知火は目を見開いた。それから、


「い、――いきなり名前で呼ぶ……!?」

「……いや名前では呼んでないと思うんだが……」


 むしろ名前で呼ぶことにならないよう仕向けたまであるのだが。

 そんな俺の疑問をよそに、不知火は真っ赤な顔で。


「苗字も名前の一部でしょお!?」

「そりゃ、そういう言い方をすればそうかもしれんけど……じゃあなんて呼んだらいい?」

「そんなの知らないけど!?」

「オイなんなんだよコイツめんどくさいな」

「めんどくさい――!?」


 叫ぶ不知火。何やらショックを受けた様子だが、そんな大層な話だろうか?

 俺にはわからなかったが、少なくとも不知火にとっては重要な問題であったらしい。


「……うぅ、ほかの学校だとこういうものなの……? でも普通こういうのって、もっと段階を踏んで、親しくなってから距離を詰めるものなんじゃないの……?」


 などと、困惑したように不知火は零す。


 そんな詰まってないけど、距離。

 むしろエグい勢いで離れてるまであるけど。


「……ほかに呼び方も思いつかないし、ひとまず不知火って呼ぶぞ?」


 いいよな、と念を押すように俺は訊ねる。

 不知火の顔は赤いままだったが、彼女側にも代案はないのだろう。

 どこか不承不承ながらも、こくりと小さく頷きを見せた。


 身持ちが固い……というよりは慣れていない感じか。

 この嫌でも目立つような容貌で、まさかこんな反応を見せられるとは思っていなかったが、これも演技なのだろうか。


 とてもそうは思えない一方、不知火の演技力の高さなら一度見ている。

 本気の不知火の演技を見抜ける自信は俺にはなかった。

 ……まあ、さすがに違うとは思うけれど。


 少しあってから不知火は言った。


「ま、まあ、いいけど……でもそれなら、わたしも呼び捨てにしていいんだよねっ!?」

「いいけど……」

「いいの!? えっ、本当にいいのっ!?」

「そんなに驚くところか、それ?」

「じゃ、じゃあ呼んじゃうからね、呼び捨てで! こ、後悔しても知らないよ!?」

「ご自由にどうぞ……」

「えっ、あっ、えっと……か、かげゆき……、……っ!」

「…………」

「…………」

「……できなかったんだ?」

「会ったばっかの男の子を呼び捨てにできるわけないでしょお!?」


 叱られてしまう俺だった。恥ずかしいご様子である。

 どうやら思ったより愉快な奴らしい。

 俺は徐々に不知火のことが気に入りつつあった。


 もっとも逆に、不知火側からの好感度は、あまり高くなさそうだが。


「……まあ、呼び方は好きにしてくれればいい。景行くんでもなんでも」

「う、うるさいなあ、景行! あっほら呼べた! 今後は景行って呼ぶからっ!!」

「おめでとう」

「あ、うん。ありがとう。――じゃない! バカにしてんの!?」

「いや、まさか。もうバカにする隙すらないよ」

「だったらいいけど……いや待ってそれどういう意味!?」


 愕然とする不知火であった。

 打てば響くというか、なんというか。

 もはや面白くなってきた。


「冗談だ。ちょっとからかった」

「このぉ……」

「ま、とりあえずよろしく。少なくとも下の名前では呼ばないから安心してくれ」


 つけ加えるように俺は言った。

 別に、大して意味のある言葉ではない。

 だが不知火は、その問いにすっと目を細めた。


「……それだと、ややこしい人がいるからね」


 俺に言ったというよりは、まるで独り言が零れたみたいな小さな声。

 それを聞いた俺は、なんの気なく彼女に確認する。


樹宮きみやのことか」

「……ああ、そっか。A組ってことは、あの子のことは知ってるってわけだ」

「ん? まあ、そうだな。クラスが同じなんで、入学してから割と世話にはなってる」

「――別に聞いてないんだけど」


 冷めた言葉だった。思わず面食らってしまうほどに。

 さきほどまでとは異なる、それは初めて会ったときに少し似た拒絶の態度。

 何かを拒絶するような頑なさがありながら、それがこちらには向いていない気がする違和感――。


 ただ結局、その態度の意味を確認する時間はこのときなかった。


「まあ、どうでもいいけど」


 ――それより。

 と、不知火はこちらにまっすぐ目線を向けて。


「景行く――景行は、いつからいたの?」

「え?」

「だから、ここに。いきなり窓から声かけてきたけど。……見てたの?」


 探るような、あるいは睨むような視線が不知火から向けられる。

 どう答えるか少しだけ迷ったが、結局のところ、正直に答える以外はない。


「いや、来たのはついさっきだよ」

「本当に? 何も聞いてない?」

「まあ少しは聞こえたけど。気合いとか根性とか」

「――それは少しじゃないぃっ!!」


 頭を抱えて不知火は叫んだ。


「ああ……やっぱりアレ訊かれたくなかったんだな」

「あんなの聞かれたいわけないでしょ!?」

「それはそうだけど」


 どうしよう。マジでずっと面白いんですけど、この人。

 やっぱり始めて会ったときの子って、アレ別人だったのかな……。


「うわぁぁぁ聞かれてたあぁぁっ!! なんで隠れて聞いてるんだよぉぉぉ……っ!?」

「いや、隠れてないから。窓のほうが開きっぱだっただけだから」

「だったら耳のほうを塞いどけばいいでしょお!?」

「ムチャクチャ言うじゃん、不知火……」

「うぅ、くそぉ……こんな時間に、こんなところまでは誰も来ないと思ったのに……!」


 不知火は涙目になって唇を噛み締める。

 今にも『ぐぬぬ』とか言い出しそうな表情だ。


 まあ、だからって睨まれ続けるのもなんなので、フォローするように俺は告げる。


「そんなに気にするなよ。何やってたのか知らないけど、独り言くらい別にいいだろ」

「……、……」


 やはり不知火はしばらく俺を睨み続けていたが、やがて納得したように鼻を鳴らして。

 それから、こんなことを言った。


「じゃあ誰にも言わないで」

「うん?」

「考えてみれば、確かにあんたに見られてもそんなに問題はない。だけど、絶対に誰にも言わないで。わたしがここで何してたのか」


 そういう意味で言うのなら、そもそも何をしていたのかは俺もわからないんだが。

 それを言っても不知火は納得しないだろう。素直に頷いておく。


「わかった。約束しよう」

「……、ならいい」


 決して『ならいい』という顔ではなかったが、一応は頷きを見せる不知火。

 この再会は、果たして点数としてはどのくらいだろう。

 高得点だったとは口が裂けても言えないし、むしろ赤点の可能性が高そうだ。

 少なくとも長居できる空気感ではない。


 ただ俺には、これっきりにしようという気はさらさらなかった。

 できればこの学校の全員と良好な関係を築きたいと、俺は本気で思っているし、それが可能だと信じている。

 つまり不知火夏生は、大事な友達候補というわけだ。


 ――だからこそ。

 だからこそ、ひとつだけどうしても確認したくて、最後に俺は訊ねてみる。


「なあ、不知火?」

「……何よ」

「いや、入学式の日の話なんだが。あのときは、ずいぶん態度が違わなかったか?」

「――別に」


 不知火は小さく鼻を鳴らす。実につまらない話を振られたという態度で。


「あのときは、あの一度しか話さないと思ってたから」

「…………」

「それだけだけど。なんか文句ある? ないならもう帰ってほしいんだけど」


 取りつく島もなかった。ただ、奇妙な答えでもある。

 あの一度しか話さないと思ってたから――だからどうしたのか。

 だから優しくしようとしたのか、だから態度を変えたのか。

 どちらかわからないし、どちらでも不思議だった。


 とはいえ不知火は、今や鋭くこちらを睨んでいる。

 もともと見られたくないところに居合わせてしまったようだし、ここらが瀬戸際か。


「わかった。邪魔したみたいで悪かったよ、俺はもう戻る」

「――――――――」


 不知火からの返事はなかった。

 残念だが、まあいずれ挽回の機会もあるだろう。

 せめて笑顔を作って俺は言う。


「じゃあ、また。ホームルームには遅れないようにな」


 手を振って踵を返そうとした瞬間、呼び止めるように不知火が言った。


「……景行」

「うん?」

「下の名前、なんて言ってたっけ?」


 それは彼女なりの、歩み寄りの姿勢だったのかもしれない。

 さきほどまでとは違って、彼女は感情の読めない、透明な目をしている。

 だから俺には今の問いの真意が掴めなかった。

 単に本当に、覚えきれなかっただけの可能性もある。


 だとしても、確認しようと思ってもらえたのなら悪くはない。


 笑顔とは優秀な武装だ。

 何がいいって、いつだって無料なところがいい。

 ゼロ円スマイルにはお金に換えられない価値がある。

 元手がなくても高値で売れる。


「想だ。木に目に心の想うって字で、想」

「……そう」


 不知火は言った。

 初対面の男子を下の名前では呼ばないらしいから、今のはただの相槌だろう。


「ま、これから三年間よろしくな。んじゃまた」

「…………」


 不知火は何も答えなかった。


 だとしても、俺はまた彼女に会いに来ようと――懲りずにそう考えている。

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