1-03『不知火夏生は脇が甘い』

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 再び靴に履き替え、本校舎を出て外に向かう。


 天気はいい。ちらほら朝練の生徒も見え始めてきていた。

 手の中の鍵をポケットに仕舞う。

 これも散策の機会だと思えば悪くはないだろう。


 なにせ、未だに行ったことがない場所のほうが多いくらいなのだ。

 敷地が広すぎるのも考えものらしい。

 この分だと、卒業まで一度も行かない場所すら出てきそうだ。


「…………」


 さきほどまでいた、教室のある建物が征心館の本校舎だ。面積としては学園でいちばん大きい建物だが、そこ以外にも校舎は第四まで存在する。

 そのほか、始業のベルを鳴らす時計塔や学食、図書館、ふたつある部室棟など、広い敷地の至るところに建物があった。

 もちろん各運動部用の施設――室内プールやテニスコート、野球場やサッカーコートに始まり、体育館、さらにバンドや演劇用のホールまで充実のラインナップ。


 もはや高校というよりは大学レベルの規模だろう。

 一応、施設は中等部と共有だし、一部は征心館大学でも利用されているが。

 にしたって、ずいぶん贅沢なものだと思う。


「……まあ散歩にはいいか」


 人の姿がほとんどない学校は、なんだかいつもと違う雰囲気だ。

 遠くから朝練の部活の掛け声が響いてくるから、気配そのものは感じる。

 だがそれが、まるでどこか遠い世界の出来事のように思えてならなかった。

 ――たとえるなら、異世界へ迷い込んだみたいに。


 いや。

 そんな思いは入学からずっと感じ続けている。


 俺にとってこの学園は正しく異世界だ。自分の常識から外れた、知らない世界。


 気づけば運動部の声も聞こえなくなるほど、敷地の端まで辿り着いていた。

 敷地の北東側。主に文化系の部活や同好会に割り当てられている第二部室棟が正面側に見えてくる。

 もはや静けさすら感じられるその場所に、件の小屋はあった。


「――あれか」


 綺麗で真新しいほかの建物と比べ、やけにくたびれた小さな建物。

 この学園の中では異彩すら放って見えるそれが、桧山の言う宿直小屋だろう。

 正面まで近づいた俺は、そこで気づく。

 小屋の入口の扉――その横側にある格子窓が開かれているのだ。


「これは、使われている形跡がある……ってことでいいのか?」


 そう呟きながら、ひとまず扉を開けようと俺は窓から視線を切った――その瞬間。


「気合い! 根性! 熱血! 覚悟! ――とあっ!」


 さっきまで響いていた運動部の掛け声よりも、遥かに熱の籠もった切るような叫びが、小屋の中から響いてきたのだ。

 まるで、ブラックバイトの始業挨拶みたいな言葉が。


 さらに直後だ。


「……はあ、何言ってんだ、わたし……それでどうにかできたら苦労しないのに……」

「……………………」


 どう聞いても同じ声で、どう聞いても同じ人間とは思えないような言葉が響いた。


 なんだ今の。

 この一瞬で財布とスマホを同時に失くしたのか、ってくらいテンションが落ち沈んでいる。

 落差で風邪を引くかと思った。


「ああぁもう本当にもぉ、なんでこんなコトになっちゃったかなあ……!」

「…………」

「でも今さらもう引き返せないし、やるって決めたのわたしだし……うぅ、やっぱ向いてなかったよなあ。本当、キャラじゃないんだよ、わたし、こういうの……」


 小屋から響いてくる独り言が、どんどん暗い方向に流れていく。


 ――どうするかな。


 ポケットから取り出した鍵の行く末に、少し迷う。

 なぜ閉まっているはずの小屋の中から人の声がするのか。

 そして、誰の声なのか。


 声色からして女子なのは間違いない。感じからしてたぶん生徒だろうが、さすがに中高合わせて二千人以上いる中の誰かまでは謎だ。

 知り合いではない、とは思うけれど。


 ――聞き覚えがあるような気もしてくる。


「まあ、確かめてみるか……」


 桧山ひやまからの頼みは、使われている形跡があるかどうかを調べるところまで。

 この時点でそれは達成したと言っていいと思うが、とはいえここで帰ってはさすがに片手落ちだ。


 俺は結局、扉ではなくあえて窓のほうに向かうことにした。

 窓枠に手をかけながら、小屋の中を覗き込む。


「むぅ……」


 見えたのは、何ごとか唸りながらスタンドミラーと向き合っている女子生徒の姿だ。

 ちょうどこちらに背中を向けているため、覗き込んだことはバレていない。

 ただ角度がついているお陰で、俺からは鏡に映った彼女の顔を見ることができた。


「――――――――」


 これは運命なのだろうか。

 なんて、そんな馬鹿げたことを一瞬だけ考えた。


 小屋の中にいたのが、――あの不知火しらぬい夏生なつきだったからだ。


 初対面のときの明るく柔らかな印象とも、その直後の敵意ある刺々しい態度とも違う。

 どちらのイメージも死滅させるような、どこか弱々しさを感じさせる表情だった。


 こちらが、彼女の本当の素なのだろうか?


 にらめっこをするように姿見と向き合う不知火は、両手の指を口元に当てていた。

 人差し指で唇の両端を下に引っ張りながら、自ら渋面を作るように。


「……なんじゃそら?」


 思わず、小さくそう零す。

 笑顔を作るために口角を引き上げる奴ならたまにいるが、その逆は初めて見た。

 言うなれば、機嫌の悪い顔を作る練習をしているみたいな姿だ。

 口を引き結んで眉根を寄せ、目を細くして威圧感のある表情を作っている。


 ――いったい何をしているんだろう?


 疑問に思う俺の前で、少女はそっと手を離して、小さく溜め息を零して呟く。


「……やっぱり怖くないよなあ、わたし……」


 怖くなりたいらしい。

 そうなんだ。

 そっか。

 ……それどういう感情?


 何がどうなったらヒトはそういう思考になるんだろう。

 一周回って興味が湧いてくる。


 自身の威圧感のなさに肩を落としながら(?)不知火は鏡の中の自分と話す。


「……髪型を、変える……、とか? ワンチャン丸刈りとか」


 赤みがかった長めの茶髪をかき上げながら、不知火は首を傾げている。


 どうやら丸刈りのイメトレをしているらしい。

 丸刈りのイメトレってなんだ。


 丸く大きな少女の目が、すっと細くなっていく。鏡越しでもかなり整った顔立ちであることがわかるため、あらゆる意味で丸刈りにするのはもったいない話だ。

 さすがに止めてやったほうがいいような気がするが、しかし。

 まさかこんな形で再会することになるとは。

 予想だにしない展開だったが、できればもう一度、話してみたいとは思ってみた。


「……よし」


 ひとまずコンタクトを取りにいこうと、俺は彼女の背中に向けて声をかける。


 人間関係は全て打算から。

 あくまでも冷静に、ただ目的を達成するために。


「――ちょっとい、」

「どやっひゃあ――っ!?」

「うおっ!?」


 俺が発した声に心底驚いたらしく、彼女は漫画みたいな叫び声をあげて跳ねた。


「な、なな、何!? 誰!? 不審者っ!?」


 慌てふためきながら振り返る少女――不知火夏生。

 なんとか冷静になってもらうべく、俺の側はあえて落ち着いた態度で返した。


「どっちかと言えば、それはこっちの台詞じゃないか?」

「だっ、誰が不審者か! わたしはれっきとしたこの学校の生徒なんですけど!?」

「それは俺もだよ。不知火なつ、きガハッごほっ」

「――どうしたの急に!?」


 名前を口にした瞬間、思わず拒否反応が出てしまった。

 いや落ち着け俺。

 それはもう乗り越えた過去だ。俺の胃は痛くない。


「すまん、なんでもない。気にしないでくれ」

「そ、そうかな……?」

「いつも通りだ。問題ない」

「これがいつも通りなら問題あると思うけど!?」


 心配してくれているのか、あるいはちょっと引いているのか。

 そのどちらかなのかはわからなかったが、やがて不知火は目を細めながら。


「そっか、思い出した……あんた、あのときの――」


 怪訝そうに細めていた目をパッと見開く不知火。

 それに俺は頷いて。


「久し振りだな。あのときは案内ありがとう」

「かっ……かっ!」


 口をぱくぱくさせながら、彼女はしばらく目を瞬かせて。

 それから言った。


「……カゲ、……の人」

「お前、俺の名前忘れただろ」

「うっ……」


 指摘すると、不知火はバツが悪そうに頬を赤らめた。


 まあ仕方なくはある。

 俺のほうは印象的すぎて一発で覚えてしまったが、不知火にしてみれば面倒の原因になっただけの他人だ。

 顔を覚えられていただけでもマシなほうか。


「べ、別に忘れたってわけじゃ……くるぶしまでは、そう、くるぶしまでは出てる」

「それほとんど出てないよね? それとも何? 足から出るタイプなの?」

「間違った。こめかみ。こめかみって言おうと思ってた」

「だとしたら喉を通り過ぎてるだろ……」

「頭から下ろしてるの!」


 ああ言えばこう言う奴だった。なんだこの会話? いや、それよりもだ。


 ――雰囲気が、初めて会ったときとはあまりにも違いすぎる。


 目の前の少女からは、あの入学式の朝の空気感が微塵も感じられない。

 これがあの朝の名女優と同一人物だとはとても信じられない。それくらいの変貌っぷりである。

 俺は窓枠から手を離して、ひとまず扉のほうへ向かう。


「ちょ、ちょっと!?」


 狼狽えたような言葉は聞き流して、入口のドアノブに触れる。

 鍵は開いていた。

 それだけ確認すると、俺は扉を開いて正面から小屋に乗り込んだ。

 さすがに警戒させたのか、少女はさっと身を引きながら強く俺を睨んでくる。


「なっ、なんで入ってこようとする!?」

「…………」

「なんで何も言わないのっ!?」


 相手が警戒心を露わにしている以上、こちらから解くなら考えなければならない。

 とはいえ俺は、別に心理学やコミュニケーション学の専門家ではないのだ。

 友人や同じ学校の生徒という前提の上で、相手がこちらを受け入れる姿勢を持って、交流とは初めて成立するということ。

 この辺りの融通の利かなさは、俺にとっては今後の課題だろう。


 というわけで、あくまで理屈で話すことにする。


「その前に俺からも訊きたいんだけど、なんで鍵が開いてるんだ?」

「え……?」

「この小屋の鍵は、俺が持ってるはずなんだけど。開けっ放しになってたってことか?」


 まあ試したわけじゃないから、桧山から渡された鍵のほうが間違っていた可能性も別にゼロではないけれど。

 それよりは先に、もっと考慮すべき可能性がある。


「あ、ああ……職員室のほうの鍵ってコトか」


 納得したように、彼女は小さく呟いた。


「つまり、別の鍵もあるってわけだな」

「そうだけど……」


 見れば確かに、室内にある小さな卓袱台の上に鍵が置かれていた。

 それを確認してから、重ねるように俺は訊ねる。


「ここはお前が利用してるのか? 普段から?」

「お前って――」

「失礼。ええと……あれ、なんて名前だったっけ?」

「さっきまで覚えてたじゃん! もうっ、悪かったよ忘れて!!」


 顔を赤くして不知火は叫んだ。意地悪をするのはこのくらいしておこう。


 あの朝の、春のように柔らかな態度とも、烈火のように激しい態度とも異なる、本当の意味での素を見せた不知火。

 それが、今までで最も取っつきやすく思えるから不思議だ。


 小さく首を振る。

 それから俺はさきほどのことを説明した。


「いや、悪い。担任に、ここを確認してこいって頼まれたんだよ。それで来たんだ」

「はあ? 担任って――」

「A組の桧山だよ。数学の」

「……、なるほどね。なら事情は理解した」


 そう言って、ほっと肩を撫で下ろすように彼女は息をついた。

 表情に出やすいのか、顔が綻んでいるのがわかる。そんなに怖がらせたかな。


「驚かせたなら悪かった。でもまあ、こっちはそういう事情なんだ」

「なら桧山先生に言っといて。使ってるのがわたしだってわかれば納得するはずだから」

「ふぅん……?」


 いまいち繋がりがわからなかったが、どうやら何かしら共通の理解があるらしい。

 なら問題はないのだろう。そう判断した俺は、そこで話の筋を変える。


「で、そっちは思い出したか?」

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