1-02『樹宮名月は人をダメにする』
1
五月も二週目に入った、木曜日の朝。
これまでの高校生活を脳内で振り返りながら、俺は駅からの通学路を歩いていた。
「今のところは……上手く行ってる、と思うんだけどな……」
――かつて俺は、周囲から《いい奴》と称されることが多い人間だった。
事実、そう思われるように自分から振る舞っていたことは否定できないだろう。
別に《いい奴》だと思われたかったという話ではない。
ただ当時の俺は無暗に潔癖で、平均より愚かで、他者との関係において利害を計算することをこの上なく嫌悪していた。
ほかの誰がそうしていようと、自分だけは絶対にしないと強く強く決意していた。
正義感ではなかったと思う。
善人を気取ったつもりもない。
だから他人の選択には口を挟む気がなく、弱者を守ろうとか和を保とうとか、そういうことも考えてはいなかった。
ただ自分はしないと、その一点だけを愚直に貫いていた。
単に俺自身が、人間関係の中に計算を持ち込むことが酷く苦手だったから。
あいつは人気者だから取り入っておこうとか、こいつはノリが悪いから仲間外れにしておこうとか、そういうどこにでも転がっていそうな打算を働かせるのが心底嫌いだった。
――中学生の頃は。
わかっている。今になって振り返れば、そんな野郎はいい奴でもなんでもなくただ何も考えていないだけの輩に過ぎない。
やりたくないことをやらなかっただけの、程度の低い思考放棄だ。
もう少し正義感でもあったほうが、まだしも救いがあったと今は思う。
誰だって打算や計算を働かせて他者と付き合っているのに。
それは自己を守るために必要不可欠で、決して糾弾されるべき悪徳ではなかったのに。
俺は幼稚な潔癖で、現実には何も生み出さない空虚な綺麗ごとを振り翳していただけのガキだったというわけだ。
周囲にいる人間たちは、さぞや迷惑していたことだろう。
かくして当たり前の挫折を味わった俺は、それまでの生き方を猛省した。
高校ではせめて、もう少し真っ当にならなければならないと成長を決意した。
……まあ、そんなものは気取った表現に過ぎなくて。
現実的なことを言えば、要するに俺は《高校デビュー》を目論んだという話なわけだ。
――ともあれ、そんな理由で。
高校一年の
「…………」
気にかかるのは、この高校で出会ったふたりの
どちらも違ったベクトルで、ある種の《理想》を俺に見せつけてきたふたりの女子。
幼少期のトラウマを克服した今になって再び、かつて俺にトラウマを植えつけた少女と同じ名前の人間と出会う――それも立て続けにふたり。
運命と呼ぶには皮肉すぎると嘆くべきか、そんな珍しくもない名前とこれまで出会ってこなかったことが不思議なのか。
いずれにせよ、俺以外には笑い話だろう。
まあ同じクラスの樹宮はともかく、不知火のほうとは入学してから一度も顔を合わせていない。なんなら見かけたことすらない。
とはいえ、いくら敷地が広く生徒数の多い
そのときを楽しみにして、俺は不知火を探すまではしていない。
あの天才的な変わり身は、ぜひとも参考にしたいところだし。
――現在、時刻は午前七時半。
ゴールデンウィークも終わった朝の天気は、来たる夏の暑さを予感させる快晴だった。
道が空いていて楽でいい。
朝はいつも早めに登校する俺だったが、ここまで早く来ることは少ない。
こんなに快適なら、明日からもこの時間に来ようかな――なんて考えるうちに、学校へと到着した。
「ふむ……どうするかな」
昇降口で上履きに履き替えながら、俺はHRまでの時間の使い方を思案する。
せっかく早く来たのだ。
あと一時間も空いているのだから、できれば有意義に活用していきたいところだが、特にこれといってやれることも思いつかない。
いつものように何か《仕事》があれば楽なのだが、仕方ない。
素直に教室へ向かおう。
「おや
「うおっ」
唐突に背後から聞こえた声に、少し驚きながら振り返る。
するといつの間にか、すぐ真後ろにひとりの女子生徒が立っていた。
「び、びっくりした……いたのか、樹宮。おはよう」
「はい。おはようございます、想さん」
綺麗で真新しい制服に身を包んだ、俺よりも頭ひとつくらい背の低い女子生徒。
黒一色で、けれど活動的な短髪が印象的なクラスメイト――樹宮名月が、笑顔で小首を傾げながら俺を見上げていた。
「すみません、驚かせるつもりはなかったのですが。考えごとでしたか?」
「ん、いや……ちょっと早く来すぎたから、どうやって時間を潰そうかと思って。悪い、下駄箱の前で突っ立ってたら邪魔だよな」
「いえいえ。朝から想さんとお会いできて嬉しかったですよ? 早起きは得ですねっ」
自分の上履きを取り出しながら、自然な流れで照れるようなことを樹宮は言う。
彼女と知り合ったのはこの学校に入学してからなのだが、初対面からやたらと好意的な態度だから、ときどき勘違いしそうになる。
樹宮が優しいのは誰に対しても同じだから、今のところなんとか火傷はしないで済んでいるのだが……正直ちょっと心臓に悪い。
「樹宮も早いけど、どっかの部活の朝練か?」
照れを誤魔化すように俺は訊ねる。
彼女の運動能力の高さは中学時代から有名だったらしく、四月の間は多くの運動部から勧誘されていた。
家庭の都合か、あるいは個人の信条か、特定の部活には所属しなかった樹宮だが、それでもいくつかの運動部には持ち前の運動能力を貸している。
だからてっきり助っ人で早く来ているのかと思ったのだが、彼女は首を横に振って。
「いえ、そういうわけでは。というか、朝練にまで参加してほしいとは言われませんよ」
「あ、そうなんだ? ……まあ、そりゃそうか」
実際この学校の運動部は、そこまでレベルが高くない。
ときおり急に現れた天才が、個人競技で抜きん出た成績を出す、みたいなことなら過去なくもなかったらしいが、団体競技では例年だいたい地区止まりと聞いている。
反面、文化系の部活には、世間に名を轟かせている部も多いのだとか。
「まあ樹宮はいつも早いもんな……いつもこの時間だったのか」
俺も来るのは相当早いほうだが、それでも樹宮より先に登校したことはなかった。
だいたい最初が樹宮で、二番が俺。
その流れから、誰もいない朝の教室で話をすることは珍しくない。
「そんなに早起きして大変じゃないか?」
「三文ほど得をできると考えれば大した手間じゃないですよ。今日も得しましたし」
「へえ、そうなんだ。何かいいことあったの?」
「ありましたよ。――こうして、朝から想さんと話せましたので」
にっこりと可憐な笑みでそんなことを言う樹宮。
誰に対しても優しい奴だが、にしたって俺に対しては怖いほど好意的だ。
健全な男子を勘違いさせるようなことは、あまりしないでほしい。
「では、たまには教室までご一緒しましょうか。誰もいない教室は新鮮ですよ」
思わず黙り込んだ俺に肩を揺らす樹宮と連れ立って、ふたりで校舎へと入っていく。
まず向かったのは職員室だ。
最初に登校する生徒は鍵を貰ってくる必要がある。
階段を上り、廊下を進んで職員室に向かう。
と、ちょうど入口に立っていたひとりの教師が、実に僥倖とばかりに笑みを浮かべた。
「これはちょうどいいところに。愛すべき私のクラスの生徒たちじゃないですか」
「……おはようございます、
嫌な予感しかしない担任の言葉に、知らず表情が引き攣る。
だからって無視するわけにもいかない以上、素直に近づいて行くしかなかった。
「何か用事ですか、桧山先生?」
「そうですね……樹宮くんと景行くん。どちらか、少し頼まれてくれませんか?」
こう言われて『じゃあ樹宮よろしく』と言える男子はいないだろう。
俺は片手を挙げて、
「何をすればいいですか?」
「そうですね。――ちょっとこちらへ」
桧山に引き連れられ、職員室の隅まで移動した。
担任である
常に白衣で身を包んだ優男然とした眼鏡顔が特徴で、この学校のOBでもあるらしい。そのせいか、若手の割にはいろんなところに顔が広いと自分で言っていた。
なかなか適当な性格だが、それは言い換えれば、厳しいことを言わず融通が利くということでもある。
そういう意味では、付き合いやすいタイプの教師だろう。
このひと月で見慣れた笑みを浮かべ、桧山は言う。
「できれば樹宮くんのほうにお願いしたかったんですが、まあ女子の前で格好をつけたいという男子の意気は汲んでおくべきでしょう。私は理解のある教師ですからね」
「本当に理解のある教師は、そういうことわざわざ口にしないと思いますけど……」
これから頼みごとをするって態度じゃなさすぎる気がするのだが。
まあ、それも桧山という教師の味ではあるだろう。
壁がないのはいいことだ。
無意味に胡散臭い笑みを深め、桧山は続ける。
「いえ、単に景行くんはまだ地理に明るくないだろう、と思いましてね。そういう意味で慣れている樹宮くんがいいと思ったのですが、まあ、景行くんにはいい機会でしょう」
「地理……? なんの話ですか?」
「学校の北東側の端。だいたい第二部室棟の辺りなんですが、わかりますか?」
いきなりの場所の説明に、首を傾げつつ答える。
「……だいぶ遠そうだということなら」
「充分な理解です。実はそこに古い寄宿小屋があるのですが、ちょっとそこまでお使いを頼まれていただきたくて。鍵はこれです。済んだらここへ戻って鍵を返してください」
手渡された古い鍵を受け取りながら、さらに俺は首を傾げた。
「はあ……まあ構いませんけど、何をしてくれば?」
「見てくるだけですよ。その寄宿小屋に使われている形跡があるかどうかを」
「……どういう意味ですか、それ?」
「そうですね。今はひとまず何も訊かないでおいていただければ」
「なんですかそれ、こわっ……」
当然のはずの質問を、桧山ははぐらかす。
この担任はいつもそうだ。一見して実にモテそうな、甘いマスクに騙される女子がこの学校にいないのは、桧山がなぜかやたらと胡散臭く見えるせいだろう。
そのせいで無駄に不安に思いながら、俺は桧山に確認を取る。
「まさか、部外者が住み着いてるかもしれない、とか言い出さないですよね?」
「それなら生徒ではなく警察を呼んでますよ。そう思いませんか?」
「ですよね……。わかりました、それだけでいいなら」
「ありがとうございます。いやあ、景行くんならきっと引き受けてくれると思いました」
「いや、そういうのいいんで」
「おや悲しい。生徒には好かれる教師でありたいと思うのですが」
「…………」
「そんな細い目で見ないでください? 悲しくなって泣いてしまいますよ」
普通のことしか言っていないはずなのに、どうしてこんなに胡散臭く見えるのやら。
俺は首を振って話を戻す。
「まあ、桧山先生には《仕事》を見逃してもらってますからね。これくらいは」
するとそこで、桧山は一段、声を低くして言った。
「なんと言いますか……君もなかなか変わった生徒ですね、景行くん」
「……いや、なんですか急に」
「もともとウチは一貫校ですから、ただでさえ高校からの生徒は珍しいのですが。中でも君のようなことをやり始めた子を見るのは初めてです。面白いことを考えましたね?」
そりゃ、同じ学校の生徒から報酬取って働くような奴、そうそういないだろうが。
俺は首を振る。
「発案は樹宮ですよ。別に俺のアイディアじゃないです」
「それもそれで不思議なんですよ。どんな手管であのお嬢様に気に入られたんです?」
お嬢様――と、桧山は受け持つ生徒を呼んだ。
俺は肩を揺らしてこう答える。
「樹宮は誰に対してもあんな感じでしょう。特に何もしてません」
「……なるほど。まあ、そういうことにしておきましょう。私の領分ではなさそうです」
なんだか含みがある態度をされた。
からかわれているだけならわかりやすいが、どうもそういう雰囲気ではない。
何か俺の知らない話が前提になっている様子だ。
新入りである以上、こういうことは割とある。
気にもしていられないので俺は流した。
桧山といっしょに樹宮の元まで戻って、頼みごとを引き受けたことを報告する。
「悪い、樹宮。これから少し働かされることになった」
「みたいですね。仕方がないので、いちばん乗りは今日も私が頂いておきます」
「そっちはまた次の機会かな。俺はちょっと、校舎の端まで歩かされてくる」
「それでしたら想さん、鞄は私がお預かりして、教室まで持っていきましょうか?」
「ああ……じゃあお願いしとこうかな」
「任されましたっ」
嬉しそうに樹宮は笑った。これで嬉しそうなのが樹宮のすごいところだろう。
笑顔で両手を出す樹宮に鞄を預ける。彼女はそれを受け取ると、
「校内の地図、スマホで送っておきましょうか?」
「……いや、そこまでは大丈夫。ありがとう」
「わかりました。それでは想さん、またのちほどです」
気が回る上に献身的で参ってしまう。
これに慣れると、ダメ人間になりそうだ。
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