1-01『樹宮名月は打算の女王』

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 ――人間関係とはすべからく《取引的》であるべきだ。


 それを信条として高校へと進学した景行かげゆきそうというひとりの男――つまり俺も、入学からおよそひと月が経った今、まさかこんなことになるとは予想していなかったのが本音だ。

 全ては入学の直後に出会ったに起因するのだが、ともあれ結果だけを言えば、俺は彼女のお陰で、こうして新しい生活での立ち位置を確保できている。


 たとえば放課後、


「あちゃー! 今日わたし日直じゃん!? ぬかったー……!」


 なんて声が教室に響いてきたとすれば、それは聞き逃がすことの許されないビジネスのチャンスである。

 幸運の女神の前髪は、本日も美しく艶めいていらっしゃる。


 すっと顔を上げる俺。

 視線の先では騒がしい教室の片隅で、さきほど声を上げたクラスメイトの女子が困ったように頭を抱えていた。

 その隣にはもうひとりのクラスメイトの女子生徒。


「……もしかして忘れてたんですか、犬塚いぬづかさん?」


 その友人に問われて、犬塚は困ったような表情のまま大きく首を振った。


「いや、忘れてたわけじゃないんだけどね!? ただちょっとぉ……」

「……ちょっと?」

「ちょっと部活の先輩に頼みごとされて、……つい時間あるって言っちゃっててぇ……」

「早めに行かなければならない、と」

「……あうー。どうしよ、教室の掃除やってたら絶対間に合わないよね……!?」


 雨に濡れた仔犬のように、弱った声音の犬塚。

 いつも元気がよく、取っつきやすい明るい性格の奴だ。見た目も振る舞いも、いかにも小動物系な愛されるキャラクターで、その名前通り小さな仔犬を思わせる。

 新入りの俺にも真っ先に声をかけてくれた、愛すべきクラスメイトのひとりだった。


「むむ、こうなったら急いで片づけちゃいたいけど……!」


 日直は教室の清掃に加えて日誌の記入まで行わなければならず、割と時間を喰われる。

 基本はふたりで担当するため、手分けすればそこまででもないのだが、本来は犬塚とのペアだった遠藤えんどうという男子が、今日は家の都合で早退していたことを俺は思い出す。


 手を抜かない、というか抜けない性格の犬塚だ。

 放課後も教室に残り、雑談を楽しんでいるクラスメイトたちを待っていたら、掃除は長くかかるだろう。


 さて、ここで単純なクエスチョン。

 友達を作るには、あるいは友達ともっと仲よくなるには、どうすればいいか。

 答えは単純。


 己が有用であることを――友人に足る存在であることを示せばいい。


 売り込みの時間である。


「お疲れー、犬塚」


 なんの気なさを装いながら、席を立って声をかける。

 ぱっと花が開くように、犬塚は愛らしい笑みを浮かべた。

 素の反応に思えるが、本当に名前の通り、なんというか仔犬みたいな奴だと思う。


「おっ、お疲れだよー、景行。うぃー」


 ひらひらと手を振ってくれる犬塚。

 こちらも「うぃー」と共鳴(?)した俺に、けらけらと笑いながら彼女は続ける。


「景行は、今日もどっかに顔出すの?」


 俺は頷きながら、


「小さい仕事はあるけど、今日は楽なもんだよ。むしろそれまで時間潰さないと」

「そっかあ。いやまったく働き者だよね、景行は。わざわざ自分から働きに行くんだから」

「そう?」

「そうでしょ。ついでに日直も手伝ってくれない?」


 ――性格設定キャラクターが浸透しているというのは楽なものだと思う。

 自分から言い出さなくても、相手のほうからこうやって頼んできてくれる。

 そういった意味でも、こうして《仕事》を始めたのは大正解だった。

 周囲全員が知り合い同士で俺だけが新入りという状況の中、景行想は《頼めば手伝ってくれる奴だ》という認識が広まっていると、それだけで俺は動きやすかった。


 とはいえ、いきなりは飛びつかない。

 無償で使われているだけでは、中学時代から何も進歩していないままだ。

 ――関係けいやくを結ぶ以上は、対価をしっかりと取る必要がある。


 そういえば、という体を装って俺は言う。


「ああ。そっか、今日は遠藤が早退したんだっけ」

「そうなんだよー! だから日直ひとりでやんなきゃでさー。もう大変だよ」

「オッケー。それなら掃除のほうは俺がやるよ」

「えっ!?」


 俺の言葉に、犬塚が驚いて目を丸くする。俺は少しだけ笑った。


「そっちから頼んだのに驚きすぎだろ」

「や、それはそうだけど……本当にいいの?」

「日誌はさすがにやってもらうけど、掃除だけならね。ちょうどいい時間潰しになる」

「まじ!? それだと助かる! わたしこれからちょっと部活の用事あってさ。日誌なら帰るまでに出せばいいから後回しにできるんだけど……でも、ホントにいいの?」


 少し申し訳なさそうに、上目遣いで問うてくる犬塚。

 別に、掃除が嫌いということはない。

 だからって好きでもないが、無心で手を動かしていればいいだけの時間は気楽だ。

 俺は悪戯っぽく笑ってみせる。


「もちろんタダじゃない。対価はきっちり貰ってくけど、それでもいいなら」

「う。なるほど、仕事の売り込みってワケかー。……いくらすんの?」

「ま、缶ジュース一本とかかな」

「ありゃ。なんだ、そんなんでいいんだ?」

「日誌まで代筆する場合は、喫茶店のコーヒーくらいは奢ってもらうけどね」

「あっはは! それ、遠回しに遊びに誘ってる?」

「いや、ぜんぜん普通に仕事の報酬として言ってる。女子っぽい筆跡で日誌書くのは結構大変そうだからね。遠藤が早退したのに男の筆跡じゃ不自然になる」

「日誌の場合はそこまでするんだ……まあ、ジュースくらいならぜんぜんいいけど」

「じゃあ、交渉成立ってことで」


 言いながら俺は、そのまま教室の後ろにある掃除機を取りに行く。


「ごめん、ありがと景行! わたし、急いでるからもう行くけど――」

「問題ない。報酬のほうは、まあ思い出したら払ってくれ」

「忘れないよ! ちゃんと奢るって! また明日!」


 手を振って去っていく犬塚を傍目に見送り、俺は掃除機を手に取った。

 と、やり取りを見ていたクラスメイトの男子が、教室を出ようとしながら俺に言う。


「おう景行。明日は俺が日直なんだけど代わってくんね?」

「いいよ。学食一食で手を打とう」

「おーい! さっきと値段違うけど!? 女子だけ贔屓か?」

「動機が違うからだろ。掃除サボりたいだけの奴からは高めに取らせてもらう」

「んはは、ちゃっかりしてる。んじゃなー、景行!」

「ん、また明日な。――つーわけでほかの連中も、掃除始めるから場所空けてくれー」


 三々五々、去っていくクラスメイトを見送りながら、掃除機のスイッチをオンにする。

 そこからは、ただ無言で仕事に没頭した。


 入学からおよそひと月。このところは、だいぶクラスメイトたちとも打ち解けてきたと思う。

 入学前に想像していたより、ずっと簡単に溶け込むことができたのは幸運だった。


 なにせ俺以外は全員が中等部時代からの知り合いだ。

 その輪の中に、学年で唯一の外部受験生として入り込むハードルを越えられた理由は、今のように、仕事を自ら買って出るキャラクターが浸透したお陰だろう。

 いや、正確には売って出るとでも言うべきか。


 元より中学生の頃から、誰かの仕事を肩代わりすることは多かった。

 明確に違いがあるとすれば、それは意図して対価を取るようになったこと。

 もっと言えば、それを明確に《仕事》と表現して、売り込むようになったことだ。


 それというのも――。


「――お疲れ様です、そうさん。またお仕事を任されることになりましたね」


 掃除を続ける俺にかけられる、穏やかで非常に丁寧な声。

 クラスメイトたちが去っていった教室に残る、ひとりの少女が傍まで歩いてきていた。


「ん、お疲れ。……もしかして最初からコレ狙ってた?」


 さきほど犬塚と話していた少女に、俺は訊ねる。

 彼女は微笑み、いつも通りの嫋やかで落ち着いた態度のまま上品に答えた。


「たまたまですよ。犬塚さんが忙しそうだったので、わけを訊いてみただけです」

「そうか? もともと樹宮きみやに言われて始めた《仕事》だし、たまに未来を読んでるんじゃないかという気にすらなってくるけど」

「それは買い被りですね。想さんにお褒めいただけるのは嬉しいことですけど――」


 少しの間。

 同じクラスの少女は、その笑みを少しだけ悪戯っぽいものに変えて。


「ただ、少しばかり幸運に頼りすぎでしたね。ほとんど犬塚さんから言い出してました」


 それがさきほどの《売り込み》に対する彼女の評価らしい。


「厳しいな……まあ確かに否定はできないけど」

「遠藤くんが早退したことを、さも覚えていなかったふうに装っていましたけど、あれは要らなかったですね。想さんのキャラクターはもう浸透していますから、初めからそれを前に出して売り込んでもよかったと思います。少し怯えすぎ、と言ったところですか」

「……次から気をつけるよ、樹宮。ありがとう」


 教室での立ち回りに対するダメ出し。

 この会話が普通の高校生らしいかどうかは、だいぶ議論の余地があるだろう。


 ――彼女はフルネームを樹宮きみや名月なつきという。

 恐ろしいほど金持ちで、恐ろしいほど頭が切れ、恐ろしいほど運動のできる――およそ弱点と呼べるところを持ち合わせていない、恐ろしいほどに完璧な美少女。

 俺にとって、征心館せいしんかんで最初に話した相手は不知火しらぬい夏生なつきだが、最初に親しくなった相手はこの樹宮名月であった。

 そのことが、今の俺の立場を決定づけたと言っていいだろう。


「それにしても」


 と、その樹宮は少しだけ視線を落として静かに言った。

 囁くような小声で、まるで耳元で秘密を明かすかのような口調で。


「まだ私を、名前では呼んでくれないんですね?」

「…………」

「試しに呼んでみてもいいんですよ? 下の名前で、なつき――って」

「……恥ずかしいから遠慮しとくよ」


 少し考えて俺は言う。


 初対面から、下の名前で呼んでほしいと要求する樹宮だったが、俺はそれをのらくらと躱し続けていた――その名前を呼ぶのは抵抗がある、なんて正直には言えなかった。

 果たして樹宮は、少しだけ肩を落としたような素振りを見せながら。


「――残念。それでは、また今度にしてあげます」


 と、変わらぬ笑顔のままで言った。

 俺としてはもう言葉もない。


 人間関係をビジネスライクに――取引的に。

 それが目下のところ、俺が高校生活に掲げる大きな方針である。


 打算で。

 計算で。

 あくまでも相互契約に基づいて、自己利益のために他者と関わる。

 それが他者と関わって生きる中で、最も高潔で真摯な在り方だと信じている。



 そして樹宮名月は、まさにその生き方を体現している少女と言えた。

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