君を「ナツキ」と呼ぶまでの物語

涼暮皐

第一巻

1-00『不知火夏生は猫を脱ぐ』

 そのとき。

 エレベーターホールの隅のほうに、あの子はいた。


 あの子の目の前には大人の姿。

 表情も髪の毛もなんだかとっても固そうで、まるで身の周りにある全てをつまらないものだと思っているみたいな――そんな男の人だった。


 その大人は言う。


『――


 低く、重く、厚く。それは世界の真理でも告げるみたいに威厳のある声音。

 離れた廊下の陰に身を隠しているこちらのことになんて、もちろん気がついているはずないのに、なぜだろう。

 どうしてか、自分に告げられている言葉のように聞こえた。


 たぶんその言葉が、自分について言っているのだと直感したから。

 何もかもがつまらない大人にとってさえ、その夜、最もつまらなかったものについての話なのだと――そんなふうに思ったからだと思う。


『お前は、それをしなければならない立場だよ』


 あの子は、そんな大人の言葉を、目の前に立って静かに大人しく聞いていた。


 彼女は友達だ。

 あるいは自分にとってもつまらなかった夜を、面白いものにできたのは彼女のお陰だった。

 まだ知り合ったばかりだった――たったひと晩だけの、俺の友達。


『いいね、――

『わかりました、父様』


 あの子は、静かにそう答えた。

 彼女はいい子で、いい子は大人の言うことを聞くものだ。


 だから仕方がない。

 彼女が悪いわけじゃない。


 俺という存在が付き合うに値しないものだったことは、どこまで行っても俺の責任でしかなく、何も裏切られたわけでは――。






「――――――――――――――――」


 窓の外から、小鳥のさえずる声が聞こえた。カーテンから朝日が漏れている。

 絵に描いたような典型的な覚醒。

 背筋が少し震えたのは、春の朝に残る寒さのせいか。


「……嫌な夢見たな」


 過去を夢で思い出すほど、夢のない話もないと思う。


 久し振りに、あの夜のことを夢に見た。

 とっくにに、まだ苛まれているようでは幸先が悪すぎる――しかもよりにもよって、今日この日ってのが最悪だ。


 スマホの画面を確認すれば、時刻は朝の五時を過ぎたところ。

 セットしたアラームよりも早い覚醒だったが、元より今日は早起きの予定だ。

 悪夢のお陰で遅刻だけはなくなったと、ここは前向きに捉えておくのがいいだろう。


 なにせ本日、四月八日は、記念すべき高校の入学式なのだから。


「よし。――いい朝だ」


 あえて口に出して、自分に言い聞かせるように俺は呟く。

 家族はまだ朝を迎えていないだろう。朝食は出がけにコンビニで済ませる予定で、俺は本日の活動を開始させるためベッドから降りた。


 約束の待ち合わせは七時半。

 時間的にはまだ余裕があるが、慣れない通学路に予想外があっては問題だ。

 動き出しが早いに越したことはない。

 寝間着を脱ぎ、俺は壁に掛けられている真新しい制服へ目をやった。


 ――私立征心館せいしんかん学園高等部。

 それが、これから三年間を過ごす学校の名前である。



     ※



 終わりよければ全てよし――という言葉があるが、それに倣えば、終わりが最悪だった俺の中学時代は、全てが悪かったことになる。

 心機一転、知り合いの誰もいない征心館を進学先に選んだ最大の理由は、これまでとはまったく違う環境に身を投じたかったから。

 もう少し言えば、過去と決別するためだ。


 もちろん終わりをよくするためには、結局のところ始まりが肝心だ。

 午前七時二十分。

 約束の時間の十分前には、俺は学園の校門前に到着した。


 周囲に生徒の姿は見当たらない。

 式は十時からで、生徒は九時半までに登校すればいいことになっているから、新学期の初日から二時間も前に登校してくる者などいないのだ。


 ただ、それは俺以外の、一般的な征心館生の話。

 というのも、征心館学園は基本的に中高一貫制の学校で、高校からの編入学は、枠こそあれど使う者はほとんどおらず、今年の一年では俺ただひとりであるらしい。

 つまりこの征心館で、景行想は新しく現れた異邦人ストレンジャーの立場になる。

 自分以外は全員が知り合い同士という環境に、新しく飛び込んでいく決断にはなかなか勇気を要したが、それでもこれは、俺にとって絶対に必要な選択だった。


 ――これまでの生き方を正反対に変える。

 打算的に、契約的に、損得勘定を前提に人間関係を構築する。

 それが俺の、高校生活における新しい信条だった。

 慣れないコトをする以上は、半端にならないよう徹底するべきだと考えたわけだ。


 

 

 ――そういう人間になると決めたのだ。


「少し待ちそうかな……」


 校門の脇に立ち、小さく俺は言葉を零した。

 周りがあまりに静かだから、もしかして忘れられているんじゃないか――なんてことを考え始めたそのときに、ちょうどひとりの女子生徒が校門を通り抜けてきた。


 ――こんな時間に登校してくる生徒もいるんだな。


 と、少し驚きながら見たせいだろう、現れた少女の視線が俺のほうに向けられる。


「――――」


 ほんの一瞬。なんだかヘビにでも睨まれたような気分になって、自分がカエルではないことを思わず確認してしまう。

 それくらい、なんだか圧力を感じたような気がしたのだ。


 そんなはずないのに。

 どこからどう見たって、彼女はただ立っているだけだ。


 いや、どころかその表情には、気づけば笑みが浮かべられていた。

 見るだけで気持ちが落ち着くような――それは柔らかく淑やかで、花の咲くような可憐な微笑み。

 まるで、他人から好かれたければこういう顔をすればいい、というお手本を見せられているかと思うほど理想的な表情。

 纏う空気の全てで、親しみやすさを演出する態度。


 かと思えば、少女はそのまま小走りで俺のほうへと駆け寄ってきて――。


「すみませんっ! もしかして、お待たせしてしまいましたか?」


 制服姿の少女が、少し慌てたように訊ねてきた。

 どこか高貴な印象があるのは、口調が丁寧だったからか、それともここが金持ち学校であるという先入観のせいか。

 いずれにせよ、初めに覚えた威圧感なんて微塵もない。


 思わず呆然と、俺はまじまじ彼女を見つめてしまった。

 何も言わなかったせいだろう。彼女は少し不安げな表情になって首を傾げる。


「……あの、あれ? 景行かげゆきそうさん……ですよね?」

「え。――あ、うん。はい、そうです。景行想です」


 いつまでも呆然と黙っている場合ではない。

 慌てて頷きを返す俺に、少女はぽんと両手を打って淡い笑みを見せた。


「よかった! ここで待ち合わせだと聞いてはいたので、そうだとは思ったんですが」

「――えっと、」

「話は伺ってますよね? 生徒会から、案内役を頼まれたので迎えに来ました」


 安心したように、ほっと胸を撫で下ろす女子生徒。

 今日、入学式の前に早めに登校した理由は、教科書類などの必要なものを朝のうちから受け取っておくためだ。編入学の形になった俺だけ時期がずれ込んでいた。


「なるほど……案内役、てっきり先生が来るものと思ってました」


 笑顔を作って、黙り込んでいた言い訳を俺は言う。

 実際、どうせなら生徒に案内してもらえるほうが幸運ではある。上手く行けば入学前に最初の友達ができるかもしれない。

 そういう意味では同性のほうがベターだったが、まあそこは微差だろう。これだけ取っつきやすい相手なら、最初としては気楽でいい。


「すみません、こんな早くから。今日はよろしくお願いします」


 気安さを演出しつつ、まずは丁寧に応対する。

 対する彼女も、どこか温かくなるような笑顔で答えた。


「敬語じゃなくて大丈夫ですよ。私も同じ一年です」

「あ、……そうなんだ? 案内役なら上級生かと思ったんだけど、今日は全部外すな」

「確かに普通はそう思うかもですね。でも私も中等部で三年間通ってますから、案内役は務まりますよ。あ、私の口調は普段からこういう感じなので、お気になさらずです」

「なるほど……なんか、いいところのお嬢様って感じするね」

「そうですか? でもそれは、たぶんこの学校に対する先入観だと思いますよ」


 くすくすと少女は肩を揺らして、おかしそうに笑みを噛み殺す。


 ――奇妙な既視感に襲われたのはその瞬間だ。


 なぜだろう。初対面であるはずの目の前の少女に、どこか見覚えを感じたのだ。

 ほんの微かな――遠い昔に、ただ一度だけすれ違ったことがあるという程度の、朧げな感覚。


 手の指の先が、少しだけ震えた気がした。


「あの、……何か?」


 しばらく押し黙ったまま、彼女の顔をまじまじ眺めてしまったせいだろう。

 少し怪訝そうに、彼女は小首を傾げてこちらに訊ねた。


「っと、ごめん」


 慌てて俺は頭を下げる。それから、


「なんか、どこかで会ったことがある気がして」

「……………………」


 今度は彼女のほうが押し黙ってしまう。


 失敗した気がする。

 思わず言ってしまったが、これではまるで下手くそなナンパだ。


「いや、ごめん。やっぱり気のせいだったかも――」

「――なんだ」


 短く、そして鋭く、言葉が空気を震わせた。

 それが目の前の少女から発せられた言葉であると、俺は咄嗟には気づけなかった。


「だったら猫なんて被らなきゃよかった」


 絶句する。

 すぐ目の前に立っていた人間が、一瞬で別人に入れ替わったのかと思った。

 そんな錯覚を本気で信じてしまいそうになるほど、目の前の少女は、ほんの一秒前とはまるで異なる空気を纏っている。


「新入りには優しくしてあげようかと思ったけど、やっぱ面倒臭いよね、こんなの。まず喋り方からして肩凝るし、あと胡散臭いし。――あんたもそう思ったでしょ?」


 俺には何も答えられなかった。

 もはや冗談みたいに態度を急変させた少女は、棘が刺さるような視線を俺に向ける。


 ――ものすごく整った顔立ちだな。


 と、そのとき初めて思った。あまりにも今さらな感想だったけれど。

 赤の交じった、肩ほどの長さのブラウンの髪。その下で、意志の強さを反映するような大きな瞳が、重い光を放って見える。


 明確に不機嫌な表情になったことで、それでもかわいらしさを感じる顔つきが逆に強調されたように感じられた。

 恐ろしいほどの美人であると、敵意を感じて初めて気がつく。


「で、どこであたしを見たって?」


 一人称すら微妙に変えて、彼女はつまらなそうに訊ねてくる。


 ――本当に、信じられないくらいの豹変だ。


 誰だって、時と場合に応じて仮面くらいは被るだろう。本当に完全な素の状態を、常に晒している奴のほうがきっと稀だ。

 だが、ここまで徹底して演技をしている人間を見たのはさすがに初めてだった。

 ここまで完璧だった演技を、あっさりやめてしまう人間を見るのも。


「……いや、悪い。たぶん単なる勘違いだ」


 少し間があってから俺は言った。


「ふぅん?」


 片目を見開いて、彼女は口をへの字にする。それから続けて、


「わたしが態度変えても、特に気にしないんだ? 演技は悪くなかったと思うんだけど」


 少しだけ態度が軟化した――ように思えた。

 俺は首を振って彼女に答える。


「いや、充分すぎるくらい驚いたけど」

「そうは見えないけど……まあ別にいいか。あんた、ちょっと変わってるね」

「……それは俺が言われる側の台詞なのか?」

「そういうところ。普通もうちょっと気を悪くとかするんじゃないの、知んないけど」


 少女は大きな溜息を零す。

 それから再び、こちらへ睨むような視線を向けて。


「言っておくけど、わたしのほうはあんたのことなんて――」

「…………」

「見た……ことないから。一度も。……たぶん」

「……なんでちょっと自信ない感じ?」

「う、――うるさいなあ!」


 ちょっとだけ頬を赤らめて彼女は叫んだ。

 俺は思わず息を呑む。気づけば視線が外せなくなっていた。

 こんなに棘のある態度なのに、そういう様子はかわいらしく見えるから不思議だ。


「まあ、とにかくそういうことだから」


 彼女は言った。どういうことかと視線で問う俺に、彼女はすっと目を細めて。


「少し考えればわかるでしょ。生徒会に入ってるわけでもないのに、新学期早々いきなり新入りの出迎えなんて仕事投げられて、無駄に早起きさせられて。喜んでると思う?」

「……そりゃ申し訳ない」

「いや、それは別にあんたの責任じゃないから。頼まれたのはわたしだし」


 意外と律儀なことを彼女は言う。

 そういえば、いつの間にか一人称がまた変わっている。


「でも好き好んでやってるわけじゃないから、言っとくけど。やらなくていいなら普通にやりたくなかった。その辺り、都合よく勘違いされても困るからね?」


 本心だろう。善意だけで七時半に登校というのは、確かに都合のいい話だ。

 俺が頼んだわけじゃない、という理屈はそれこそ彼女には関係のない話であり、たとえ嫌々でも付き合ってもらっている時点で、俺は感謝をすべきだった。


 それに。

 正直に言えば、俺は少しだけ感動していた。


 彼女が態度を変えるまで、俺はほんの少しも演技だとは疑えなかったからだ。

 ここまで見事に擬態されると、むしろ清々しいとすら思えてくる。

 なんなら、その見事な演技力を、今後の高校生活の参考にしたいと思うくらいだ。


「……すごいな」


 だからだろう。知らず、感嘆の言葉が零れていた。

 少女はそれを聞いてすっと目を細める。


「何それ?」

「いや、……まあ、単なる感想だけど」


 演技が上手い、と正直に言うのも妙な誤解をさせそうで憚られる。

 だが本心だ。

 思わず口をついて出るのも仕方ないと思うほど、本気で見事だと思った。


 なぜならだ。

 最初に見た明るく友好的な態度だけではなく、そのあとに見せた険のある態度も含めた両方が、優劣なく魅力的に思えたこと――それがすごいと思ったのだ。


 だって、それは矛盾だ。

 他者から好かれるための完璧な仮面を、外してなお可憐に思わせるなんて、そんなのはもう反則だろう。


「ねえ。黙ってないでなんとか言ったら?」


 言葉を探す俺を睨み、少女は強い口調で詰問を重ねる。

 俺は察した。この矛盾は、おそらくそのどちらも演技だったから生じたのだと。

 素を見せたのではなく、素を見せたという演技をした――そういうことだ。


「いや、大した演技力だな、と。本当に欠片も疑えなかったから」

「……馬鹿にしてる?」

「そう思われそうだから言いづらかったんだけど……本心だよ。割と本気で感動してる。なんならコツを聞きたいと思ったくらいだ」

「――――、それ本気で言ってる?」


 少しの間があってから、彼女は実に怪訝そうな視線を俺に向けた。

 これは、信じてもらえなかったということだろうか。

 参考にしたいと思ったのは嘘でもなんでもないのだ。俺は頷くしかない。


「かなり本気で言ってる」

「……変な奴」


 小さく彼女は呟いた。だとしてもお互い様な気はするが、それは言うまい。

 と、彼女はいきなり表情を元の笑顔に戻すと、弾むような声音で。



「――では、これから校舎まで案内しますので、しっかり着いてきてくださいね!」



 再びの変貌。ふと気づけば、目の前には明るく優しそうな女の子の姿。

 朗らかで柔らかな笑顔、跳ねるように甘い声色、少し小首を傾げた上目遣いの姿。

 その全てが、さきほどまでの不機嫌な少女と同一人物とはとても思えない。


 服も顔も同じままなのに、まるっきり別人に見える。

 演技をしているような不自然さがどこにも見られない。

 別の人格に切り替わったと言われたら信じてしまいそうだった。


「あれ、どうかしました?」


 硬直した俺に、彼女は不思議そうに訊ねてくる。


「どうかしたのは俺じゃないんだが……」

「え、っと……? すみません、意味がよく」

「…………」


 わからないわけがないのに、本当にわからないようにしか見えない。

 演技だとわかっていて、それでも演技に見えないのだから、――ああ、確かにこれはどうかしている。


「いや……なんでもない。急に戻ったから、切り替えに面食らっただけだ」

「せっかくお褒めいただきましたから。こっちのほうがお好きなんですよね?」

「ならわかってんじゃねえかよ……」


 いや、別にこちらが好きというわけでもないから、ある意味わかっていないけれど。

 それを説明はできないし、彼女もまた気にしたような様子はなく。


「? すみません、何か仰いましたか?」


 何を言われても知りませんよ、と態度だけで語った。

 降参だ。いや、むしろいいものを見せてもらったと思おう。


「……わかったよ。朝から案内ありがとう」

「いえいえ。こちらも仕事ですから、お気になさらず」

「どうぞよろしく」

「では、歩きながら建物を説明しますね。すぐに覚えるのは難しいかもですけど」


 俺は別に運命論者ではない。

 けれど入学の初日に、ここまで理想的な変貌を見せられたことには、さすがにちょっと思うところがあった。

 ――それでこそ、この学校を選んだ甲斐があるというもの。


 仕事だから仕方がなく、求められた通りに振る舞う。


 それは、言うなれば打算的な対応だ。

 自分が周囲からどう見られるかを計算して、最も当たり障りのない無難な自分を出力する。

 それは誰もが多かれ少なかれ、無意識でやっていることに過ぎないが、もし意識的に出力すれば、ここまでの変化を生むこともできる。

 俺にとって、それはまさしくお手本にするべき仮面の被り方だ。



 

 中学時代の反省を活かして新しく打ち立てた、それが俺――景行想の目標なのだから。



 かつて幼少期に起きた出来事から、打算を何よりも憎んで生きてきた中学時代の自分と決別し、人間関係を互助を前提とした損得勘定で構築することを徹底する。

 それこそが、誰もが自然と行っている、善良かつ本質的な人の在り方だと信じて。

 その昔、幼かった自分を《失格》と切り捨てた人間と同じことをする。

 そう決めている俺にとって、彼女の自己演出の巧みさは拍手喝采して称えたいレベルのものだ。

 まるで幼少期に俺を切り捨てた、一夜限りの友人と同じような――。


「ああ……そういえば、まだ名前を聞いてなかったよな。教えてもらってもいいか?」


 ふと気づいて、俺は彼女に名を訊ねる。

 少女はこちらに振り返る。その表情には完璧と称するほかにない可憐な笑顔。

 それを欠片たりとも崩すことなく、少女は俺にこう名乗った。


「――なんだって?」

不知火しらぬい夏生なつき。それが私の名前ですよ」


 かつて漏れ聞こえた言葉が、その瞬間――朝の悪夢のように脳内をリフレインした。



 ――



 かつての俺が、心の底から反発した思想。

 そして今の俺が、掌を返して正しかったのだと信じている言葉。


 表情が歪む。

 ただの偶然と切り捨てるには、それはあまりにも運命じみていて。


「別に、覚えていただかなくても大丈夫ですよ。よくある名前ですので」


 忘れられようはずがない。

 小学生だった俺にトラウマを刻み込んだ、一夜限りの友人と同じ響きをした名前。


 なつき。


 それをよりにもよって今日このときに聞くなんて、こんな皮肉は予想できない。

 ならやっぱり、これは運命なのかもしれない。

 考えてみれば単純な話。

 運命とは、――何もいいことだけを指して言う言葉じゃないのだから。



     ※



 それでもやっぱり、世界はそこまで劇的じゃない。

 自分の生き方を根本から捻じ曲げた少女との運命的な再会――なんて、そんなことがそうそう起こるはずもないのだから。

 そう。

 だから目の前の彼女が、あのときの少女だなんて単なる思い込み。

 このときの俺は、だって、ただ知らなかっただけなのだから。



 この学校には、ナツキという名前の女子生徒がという下らない偶然うんめいを。



 ――つまるところ。

 この物語は、景行想という青春の一切を諦めて打算で学校を選んだ男が、ただひとりの少女を名前で呼んでみるまでの――取るに足らない、なんでもない青春の物語である。

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