アイノコトワリ

雨琴

第1話

 それは昔。というほど昔ではないけれど、あの『人魚姫』の人魚が泡になって空気に溶けてしまったあとのお話。

 あるところにアイリという本を読むことが好きな少女がいました。

 本を読むとき、アイリは息をするのも忘れるくらい夢中になりました。

 本を開くとき、アイリは大きく息を吸い込んで、ページの海に潜るのです。

 本に潜れば、アイリはその本の世界の住人になれます。人間だけではありません。

 動物や昆虫や植物や機械にだってなることができます。

 いろいろなものに変身しながら、アイリは大昔や遠い未来、地球の裏側の国や世界の果てにでも冒険します。

 夏休みにおじいちゃんの家に行ったことがあるけれど、それよりずっとずっと不思議で、だけど確かな旅路です。

 アイリが顔を上げて息を吸い込むと、ページの海から戻ってきました。

 別の本を読めば、また別の自分になれます。

 アイリは息を吸い込むと、今度は教科書を開きました。

 数字や記号の書かれた海は、なかなか潜るのが難しいです。

 それでもアイリは根気よく、ページの中を泳いでいきます。

 眼鏡をかけて集中したら、ひとつひとつの点と点を結んで星座を作るように、繊細だけど大胆に全体を捉えていきます。

 すると難しい問題も順番に答えが姿を表します。

 大晦日の夜に見たオリオン座のトライスター。

 その横にある立派な冬の大三角形。

 勉強することは、星を読むようなものなのだとアイリは気づきました。

 昔の人のように星座が読めたら、アイリも神話の女神様のように美しくなれるでしょうか。

 本から顔を離すたびに、魔法は解けます。

 毎日は同じことのくり返しのように思えても、時間は確実に流れて、季節は移ろっていきます。

 アイリが窓の外を覗くときれいな夕焼けが見えました。

 澄んだ空気の中に見えるお日様の光はとても美しくて、アイリは胸がいっぱいになりました。

 するとそこへ、一人の学生がうつむいて歩いているのが見えました。

 なにか落としたのでしょうか、探しものをしている様子です。

 アイリはきれいな夕焼けがあるのに、うつむかなくてはならない学生のことを思ってさみしくなりました。

 夕焼けがあんなにきれいなのに、あの人は気づいていない。

「もしも私が花のように散ったら、顔を上げて夕焼けを見るかもしれない」。

 良いアイデアだと思ったけれど、アイリは花ではありませんでした。

 アイリは本が好きでした。

 表紙に触れると、それ以上近づけないくらい物語に近づくことができました。

 本は知識も勇気も希望もくれました。けれどそれだけではアイリは幸せになれません。

 誰かに気づいてもらうことを待つような、しおらしいたたずまいでは足りないのです。

 解けてしまう魔法をくり返さなくても、自由にどこへだって行けるように。

 風に吹かれるしゃぼん玉が、どこまでもどこまでも飛んでいくように。

 怖い気もしたけれど、アイリはあの学生と話してみたくなりました。

 方法は簡単。自分の大好きな服を着ること。

 アイリは星座の描かれた夜明けのようなスカートに、あやめの花のようなブラウスを着て、お日様の光を反射して虹色に輝くしゃぼん玉のようなネイルを塗りました。

 大きく息を吸い込んで玄関のドアを開きます。

 一歩踏み出した足が痛んだ気がしたけれど、きっと吸い込んだ空気の中に、泡になった人魚姫が混じっていたのかもしれないと思うことにしました。

 踵を鳴らして胸を張ります。私は私。どこへでも、虹の彼方だって行ける。

 アイリは微笑みます。「こんにちは」。学生は顔を上げてくれました。

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アイノコトワリ 雨琴 @ukin66

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