神風は吹かず、回天はならず

平山文人

第1話 子犬のビス子

             プロローグ


 

 ルソン島の乾いたような暑さだけが理由でもないだろう。大西瀧治郎海軍中将は寝床でしきりに寝返りを打ち、眠られぬ夜を過ごしていた。頭の中では様々な情報と感情が入り乱れていたが、中でも伝え聞いた昭和天皇のお言葉が何度もリフレインされる。━━そこまでせねばならなかったか、しかしよくやった。立派な戦果を治めた━━ 

 ……後どの程度特攻がなされれば英断を下してくださるだろうか……。どこからか微かに海鳴りのような音が聞こえる。真夜中の暗闇の中、見えるものは何もない。大西は特攻作戦を熱心に推奨していたが、その一方で、これを「統率の外道」とみなしてもいた。若者たちが捨て身の自殺攻撃を繰り返していれば、思慮深い昭和天皇は停戦を指示するのではないか。大西の隠された本音はこれであった。これ以上考えても何にもならない。彼は無理やり思考を停止して、無となって横たわっていた。


 

                1


 

 暮れゆく空は次第に橙色に染まり、雲は青と橙の間にたおやかに佇んでいる。ビルを建て壊した後の広い空き地では数人の坊ちゃん刈りやいがぐり頭の小学生がかくれんぼをしていたが、烏の鳴く声に導かれるように絣の着物の裾を揺らして各々家路へとつく。

「あれぇ、あの子は幸子ちゃんじゃないか。なにしてるんだろ」

 青々とした丸刈りの、四角な顔をしたわんぱくそうな少年が、少し先の電柱の側に座り込んでいる同年代ぐらいの少女に気づいて声をあげた。

「勇、ちょっと行ってみよう」

 マッシュルーム型の髪形をやや細面の顔の上に載せている少年もうなずいて、二人は急ぎ足で少女のところへ向かった。

「あっ、勇くん、大助くん」

 振り仰いだ幸子は少し顔をほころばせた。彼らは同じ尋常小学校のクラスメイトだ。しゃがんだ彼女のひざ元には小さな段ボールがあり、その中に一匹の白い子犬がいた。クゥンクゥンともの悲しげな表情で鳴いている。

「捨て犬なの。きっと、お腹が空いているから鳴いてるんだわ」

 太陽は地平線に今にも隠れようとしていて、辺りが次第に薄暗くなっていく。幸子の体が光を遮っているので、子犬の姿が闇に溶けていくように見える。

「どうしよう、誰か家に連れて帰れないかな」

 勇もしゃがみ込んで、子犬の頭を撫でてみる。抵抗はしない。

「うちは無理だ、親父が動物大嫌いだから」

 大助がごま塩頭をかきながら残念そうに呟く。勇も揃っている前髪をぐしゃぐしゃしながら、俺んちは猫飼ってるからなぁ……と申し訳なさそうにうなだれる。それらを聞いた幸子は、意を決して段ボール箱を抱え上げた。おかっぱの髪が一瞬逆立った。

「決めた。私が連れて帰る」

勇と大助は驚いたが、それがいいよ、と同意した。

「そうだ、俺ビスケット持ってた」

 大助が手提げかばんからしわくちゃになった箱を取り出して、一枚ビスケットをつまんで子犬の口元に持って行った。すると子犬は瞬く間に食べてしまう。

「ありがとう。すごく喜んで食べた!」

 幸子が大きな瞳を輝かせた後、にっこりとほほ笑んだ。勇も実は絣のお腹のところに素昆布が入っていたが、犬が食べるとは思えなかったのでためらっていたが、大助の後に続けと子犬の顔の前に差し出してみた。すると勢いよくかみ砕きはじめた。

「わあ、犬でも素昆布を食べるのか」

 あげた張本人が驚きの声をあげた。つられて幸子と大助が笑った。そして、三人は幸子の家に辿り着いた。彼女はまなじりを決し、これからがんばってお父さんとお母さんを説得します、と門の前で足元に小さな子犬の入った段ボールを置いたあと、片手を額に掲げ、敬礼して見せた。

「武運長久を祈ります!」

 と、勇と大助も敬礼を返した。そして軍隊調に踵を返し、草履を鳴らしてもはや真っ暗になった中、家路へとついたのだった。


 翌日の朝、三人の通う尋常小学校の教室で勇と大助は幸子からの報告を受けた。無事、白の柴犬は我が家で飼う事になったということと、メスだったので名前はビス子にしたとのこと。

「びすこ?」

「昨日ビスケットと素昆布をおいしそうに食べたから二つあわせてビス子にしたの。可愛いでしょう。二人ともうちに遊びに来てビス子に会いに来てね」

 と、微笑みながら言われて断る男子がこの世にいようか、と大助は思い、すぐに縦に三回ぐらい首を振った。勇はばあちゃんに言ってお小遣いもらって駄菓子屋に行ってまた何かお菓子を買わねば、と素早く計算していた。

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