第2話

キルシュは八百歳を優に超えているが、それ以上は数えることが面倒になったという理由で正確な年齢は分からない。


創造神同様に森を愛し慈しむ種族であるエルフたちは当然森の中で暮らすことを好むが、中には目的を見出して故郷の森を飛び出す者がいる。


キルシュもその一人だ。


彼がどのような目的をもって人の住む世界に済むようになったか、それは後で語ることにしよう。


俺はキルシュの部屋を出て居間から台所に向かった。


窯とオーブンに火を入れ、冷蔵箱からバターとチーズそれに牛乳と塊のハムを取り出した。


先日作ったグラタンの残りを使ってクロックムッシュにしよう。


冷蔵箱の上段を確認すると、氷はほとんど溶け切っていて受け皿に水が溜まっていた。


「またキルシュに氷を作ってもらわないといけないな」


冷蔵箱とは木製で造られた棚の中に亜鉛で覆われた壁で囲った食品貯蔵設備である。


都に住まう富裕な商人の家庭や、王侯貴族の館や城の台所で使われる高級な代物であり、上部の棚に金属製の皿が置かれ、そこに氷塊を置いて空気を冷やす。


空気は冷たくなると密度が濃くなり下に溜まるようになり、下部の冷気が循環した場所に食材を置くことで長期的に保管することができるのだ。


この設備は、一日に一回は受け皿の水を捨てて氷塊を補充しないといけないため、一般庶民では手の届かない奢侈品であるが、キルシュが新鮮な食材がどうしても食べたいと大枚をはたいて購入したのである。


勿論、氷塊の補充はキルシュが担当しており、その手段は彼の職業


冷蔵箱の扉を閉め、取り出したバターとホワイトソースをボウルにあけて湯煎の準備をする。


コンロにかけた薬缶のお湯が沸くまでまだ時間があるから、その間にパンをとりだし、四枚の厚切りサイズに切り分ける。


次にチーズとハムをまな板に乗せて切りかけていると、薬缶から蒸気が吹き出し湯が沸いたことを知らせる。


薬缶の湯を鍋に注ぎ、バターが入ったボールを中に入れる。


熱で柔らかくなったバターをヘラでかき混ぜ、ふるいにかけた薄力粉を入れてさらにかき混ぜる。


牛乳を少しずつ、二度三度とわけてダマにならないよう少しずつ混ぜていく。


とろみがでたら、最後に塩とナツメグの粉末を加えてホワイトソースの完成だ。


ヘラについたホワイトソースを指に取り、舐めて味見をする。


「よし、塩気は十分だな」


あとは切り分けた食材をパンに乗せ、オーブンの余熱で焼き上げれば完成だ。


クロックムッシュが焼きあがるまでの間、少し時間があるので俺は台所の戸を開けて裏口から外に出た。


裏口から外にでると、猫の額ほどの小さな土地に俺が作った菜園がある。


そこでは玉葱や人参などの野菜の他にちょっとしたハーブも育てている。


ペパーミントがいい具合に育っているので、葉を摘んでミントティーにする事にした。


ミントの葉を洗い、ポットに入れて薬缶の湯を注ぐ。


最後にオーブンを開けると、こんがりチーズに焼け目の付いたクロックムッシュの完成だ。


皿に乗せて居間に運んでいくと、腹を空かせたキルシュがすでに食卓についてた。


「うーん、チーズの焼けたいい匂いが食欲をそそるね。クロックムッシュなんて朝から洒落てるじゃない」


「うまく出来ているといいんですが」


「ザイが作ってくれる料理はいつもおいしいから心配いらないよ」


この人は俺の料理を気に入ってくれているようなので、そこはとても助かっている。


テーブルにクロックムッシュを乗せた皿を置くと、キルシュは早速カトラリーケースからナイフとフォークを掴んだ。


「キルシュ、手は洗いましたよね?」

「もう、ほんとに口うるさいな。顔を洗った後にちゃんと洗っておいたよ」


「なら結構です。どうぞ召し上がってください」


口を尖らせるキルシュを見て確かに我ながら口うるさいと思うが、この人は油断すると自分の顔を洗う事すら忘れてしまうほどのズボラなので、ついいちいち確認してしまう。


キルシュはいそいそとクロックムッシュを切り分け、嬉しそうにクロックムッシュを大きく開けた口の中に放り込んだ。


「カリっとしたパンと中のとろけるチーズの組み合わせが堪らないねぇ。あれ、ボクばっかり見てるけどどしたの?まさかうっかり口からこぼすんじゃないかと見張ってるわけじゃ……」

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