第76話 魔獣の逃走

『海の神殿』がある島。

魔獣と人間たちの戦いは、完全に潮目が変わった。レイヴンたちの反撃にスキュラが対応できなくなっているのである。


六つあった首の内、その半分を失ったことにより、いよいよ本気を出したモンスターは、『神格化アポテオーシス』で、その能力を数倍にまではね上げた。


それでも、今、予想に反した苦戦を強いられている。

魔獣スキュラは、その頭の中で、何度もこの不可解な現状を分析した。


鋼より硬い体毛は、いかなる攻撃をもはね返し、その咆哮は対する者の心胆を凍らせる。

力強い前足の爪と鋭い牙、強靭な顎の力で、粉砕できないものはこの世にないはずなのだ。


我は最強無敵の生物の一つ。


『それが、一体、どうして、こうなった・・・』


スキュラの迷いは、更に自身が巻き返す機会を逸する。思考の停止は、魔獣の動き自体も鈍くしていたのだ。

動かぬ的となったスキュラに対し、覇気を纏ったように気合十分な剣士と槍使いの攻撃は、確実にダメージを与えている。


この二人には見覚えがあり、かつて余裕で撃退した海の戦士で間違いなかった。あの頃は、我の武威に怯え、最後は逃げ惑うことしかできなかったはず。


あれから、一年と経っていないのに、この変わりようは・・・

だが、一番の問題はこの二人ではない。


その奥に陣取り、生意気にもふんぞり返っている黒髪緋眼くろかみひのめの男。


『そうだ、こいつが、全ての元凶だ』


魔獣スキュラは、その目に怒りの炎を宿してレイヴンを睨みつけるのだった。



一方、当のレイヴンは、涼しい顔で、次はどんな手でかく乱してやろうかと考えていた。


劇薬とも言える香辛料を喰らわせた後、この男は魔獣の足元に大量の油をまく。

踏ん張ることができなくなったスキュラに対して、モアナとライ、後衛のカーリィとメラも含めて、五人で一斉に飛びかかった。


当然、自分たちが攻撃する時には、油を『金庫セーフ』の中にしまい込んで、強い踏み込みを可能とする。

堪らず反攻に出る気配を感じ取れば、すかさず高い壁でスキュラを囲い込み、相手が戸惑った隙をついて、攻めたてるのだ。


そして、極めつけは、怒りに身を任せて大きな口を開けた時に、再びあの香辛料を口の中にぶち込む。

相手が嫌がることを、事も無げにこれだけ繰り返せば、スキュラに同情するというモアナの発言も十分、頷けた。


後日、性格が悪いとも仲間から言われたが、それはレイヴンにとって心外である。

ここまでするのは、相手の強さに敬意を払っている証拠なのだ。


その敬うべき魔獣は、レイヴンに鋭い視線を送るが、あの香辛料が入った樽をちらつかせると、すぐに顔を伏せる。

よほど、お気に召さなかったのだろうと考えると、本当に料理に使用できる調味料なのか疑問に感じるのだった。


但し、この香辛料さまさまで、魔獣の最大の攻撃の一つを封じることができ、前足を振り回そうものなら、油をまく。

スキュラの武器封じは、これで完成するのだ。


ただただ、体力だけが奪われていく、この状況に魔獣は心が折れたのかもしれない。


「・・・ぐぅぅぅ」


じり貧となったスキュラは、情けない唸り声を上げた。それでも人間たちの情け容赦のない攻撃が続くと、今まで海の民に恐れられていた魔獣が驚くべき行動をとる。

何と、その場から、尻尾を巻いて逃げ去ろうとした。


この動作には、さしものレイヴンも驚く。体力お化けのモンスターに、どう止めを刺そうか思案しているところ、予想外の行動に出られたのだ。


頭の中で整理が追い付かず、一瞬、勝利条件に迷いが生じる。

レイヴンとしては、『海の神殿』の中に入られればよく、スキュラがこの場からいなくなるだけで目的を達成することができる。


しかし、モアナやライの立場に立てば、魔獣を倒す事は、果たさなければならない悲願だった。

判断を誤るとパーティー、そのものが瓦解しかねない。


『・・・深追いする必要はないが・・・いや!』


ここで下したレイヴンの判断は、スキュラを追いかけるだった。

折角、追い詰めた魔獣を、みすみす逃す手はない。


「反撃に注意しながら、追いかけるぞ」


辛抱強くリーダーの判断を待っていたモアナとライは、その言葉を聞いて嬉々として走り出した。

二人を孤立させないためにも、残った三人はすぐに追いかける。


逃げる魔獣と追う人間。少し前では考えられない構図が、今、『海の神殿』がある島で描かれていた。


スキュラの逃走劇だが、そう長くは続かない。

それは、意外な人物が魔獣の前に立ちふさがったためだ。


その人物は、両手を腰にあてて立っている。最強を自負していたスキュラに対して、見下した視線を向けていた。


「お待ちなさい。あの魔獣スキュラともあろうモンスターが、情けない姿を見せないで下さい」


その声は、仲間の誰のものでもない。レイヴンの記憶では、初めて聞く声色だった。

辺りを見回すが、それらしき人物は見当たらない。


「あそこに、誰かいるわ」


目ざとくカーリィが見つけて指さしたのは、丁度、レイヴンから見て魔獣の影になっている場所だ。

ポジションを変えて、覗き見るとそこには、碧い長髪を後ろで結っている女性が立っている。


その表情は至って冷たく、独特な知的と言っていい雰囲気を醸し出していた。

だが、誰だかは、まったく分からない。


「ディアンさん!」


先行していたライが、女性の名を叫んだ。どうやら、彼女の事を知っているようである。

その名を聞いても、誰だか思い浮かばないレイヴンは、ただ、この場の推移を見守っていた。

そこに、追いつかれたモアナが補足する。


「ほら、例のウィーブ家の令嬢だよ」


そう言われて、やっと素性を理解した。確か、レイヴンの事を『アウル』のメンバーだと、モンクス・アバンダに吹き込んだ女性である。


『その彼女が、なぜ、ここにいるんだ?』


この場にいる人間、全員の疑問を乗せて、ディアンに視線が集まった。

すると、ディアンは令嬢らしく、口を手で隠しながら高笑いを始める。


「魔獣スキュラには叱りつけましたが、あなた方には、これ以上のない感謝の気持ちで一杯ですわ」


感謝される身に覚えのないレイヴンを含めたメンバーが、返答に苦慮していると、ディアンは、ある呪文を唱えた。


手懐けるテイム


スキュラの巨体が碧い光に包まれる。一瞬、抗うような苦悶の唸り声を上げた後、魔獣はゆっくりと振り返った。


そこには、先ほどの戦いでは、見せなかった顔がある。

まるで、意思を奪われたような暗い瞳と、無機質な三つの表情があるのだった。

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