第119話・RAIL①
昭和二十六年九月八日、サンフランシスコ。
吉田茂首相は、連合国との平和条約に調印した。これにより日本の主権が回復したが、アメリカとの安全保障条約も、同時に結んだ。
海を隔ててそばにいる、共産主義勢力を牽制する条約だった。対外的な武力を失った日本に代わり、アメリカが睨みを利かせ続ける。ゆえに、駐留している日本の基地をアメリカ軍が引き続き使用する。
アメリカは望む数の兵力を、望む場所に望む期間だけ、日本に駐留する権利を確保した。
吉田茂は、たったひとりで署名した。世論の反発は織り込み済みで、責めるなら俺だけを責めろと、生命を狙われる覚悟で結んだ条約だった。
案の定、反発は凄まじかった。アメリカ一国だけが日本に駐留するのか、日本は独立するのではないのか、主権を取り戻す日本にアメリカはまだ居座るのか、日本を守る義務がないアメリカに日本の土地を渡すのか。
囚われの呉羽も、それをガラス越しの岩崎に訴えていた。
「日本は戦争を放棄しました。アメリカに居座られては、世界中から火の粉が飛んできます。抗う術のない日本は、また焼き尽くされるのですか?」
「海上保安庁、警察予備隊を強化して、対外防衛力を備えるようです」
岩崎は淡々と答えたが、口の端から炎が漏れた。呉羽はそれを一瞬で解し、握った手の中で爪を食い込ませていた。
「警察予備隊は治安維持、労働争議を鎮圧するため創設された組織ではないですか。対外防衛力の名目で配備した武器弾薬が、労働者に向けられる可能性はありませんか」
岩崎も、それを懸念していた。さすがに市民には銃口を向けないだろうが、治安維持という大義名分のもと、今よりも強力な武器を用いるだろう。そのときは、罪なき死者が出るかも知れない。
悩んだ末に岩崎は、党を離れた意見を述べた。
「先ほどおっしゃられたとおり、日本は戦争を放棄しました。非戦非暴力を
盾であればいいのだが、と呉羽は眉間にしわ寄せ腕組みをした。日本に居座りながら外を向いたアメリカ軍、その代わりを警察予備隊が担うのか。映画制作会社の労働争議を思い返せば、そうやすやすとは信用できない。
岩崎は、続く言葉に違和感を覚えてうつむいた。右に左に視線を揺らし、言うべき言葉をついに見つけて、呉羽に伝えなければと顔を上げた。
「信州の義父母に預けた子供を、ようやく迎えられました。以前お話したとおり、互いの両親と一緒に暮らすつもりです」
呉羽は首を傾げて、ひそめた眉を歪めた。岩崎はそれに構うことなく、自分自身の話を続けた。
「子供をそばに置いて、改めて気づかされました。戦争であろうと革命であろうと、この子を暴力の場に送りたくないと」
芯から絞り出した声は、悲痛な願いだった。呉羽は突き動かされて、揺れていた。
「この場でしか言えませんが、暴力革命は間違っている。暴力に対して暴力で抗ってしまっては、代償があまりに大きすぎる」
岩崎のまっすぐな視線は、呉羽の瞳を貫いて心の深淵を覗き込んだ。問うている、暴力に打って出たのかと問うている。脱線事故を起こしていないか、言葉もなく尋問している。
呉羽は、岩崎を見つめ返した。国鉄職員として、保線員の誇りをかけて、やっていないと無言で断言していた。
岩崎は浅くうなずき、再び呉羽の目を見つめた。ここから救い出したのち、暴力革命を行わないか、一切の暴力を放棄するか、問いかける。
保線という仕事を通じて、決して人を
暴力に出るのは間違っている。労働組合は対話をするためにある。暴力は最終手段ではなく、悲劇のはじまりでしかない。
そう考えを固めた呉羽は、蚊の鳴くような小声で凄惨な過去を振り返った。
「戦場は、汚いことばかりでした。殺す殺される、だけではない。上官に見捨てられ、収容所では将校に顎で使われた。敵は前線の向こうだけではない、我々の背後にも確かにいたんだ」
今度は呉羽が、岩崎の瞳を覗き込む。岩崎の視線は、微塵も揺れていなかった。
「岩崎さんは、私の味方でいてくれますか?」
岩崎は姿勢を正して、力強くうなずいた。呉羽を信用する、だから私を信頼してくれ。必ずここから救い出すから、と。
「今を救うだけが、私たちの仕事ではありません。未来ある呉羽さんを、呉羽さんの未来をも救い出します」
「私の歳で未来だなんて、なんだか小っ恥ずかしいですよ」
買いかぶりだ、と照れ笑いをする呉羽だが、岩崎は真剣そのものだった。
「経験を積んでこそ、叶えるべき未来があります。日本国憲法に
非暴力の誓いを交わして、岩崎は拘置所をあとにした。門を出てから振り返り、色がない司法の要塞を硬い表情のまま見上げた。
夏の名残が影を差す。その漆黒に気配を感じて、岩崎は知らぬ誰かに声をかけた。
「弁護士事務所に帰ります、それだけです」
影の中で人影が痙攣するように鞭を打つ。岩崎は冷たく嘲笑って、塀を背にして歩いていった。
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