第75話・JUDGEMENT⑤
四月に予定されていた日本国有鉄道発足は、鉄道総局の準備が遅れたため、六月に延期されていた。
そうして迎えた国鉄発足直前の、五月三十一日。下山は青ざめて、歯が鳴るほどに震えていた。
国鉄総裁と噂された村上、小林の両名は戦時中に制定された陸上交通事業統制法のもと、束ねられた私鉄を解放するため、その任には就けないという。
空席に立った白羽の矢が、下山だった。
国鉄の権限は、議会がすべて掌握している。その国鉄は独立採算制を導入し、効率的な運営をすると
そして何も出来ない総裁は、経営を知らない議員に翻弄されて、責任をすべて負わされる。議会では議員に代わって頭を下げて、議員に代わって議員に弁明をする。雲上にあるGHQ、陸海交通を統べるCTSも国鉄総裁に命令を下し、責任を問う。名前は立派な役職だが、
救いは、ふたつ。ひとつは渉外室、改め渉外部が総裁室に属している。蓮城、仁科の両名は渉外部に残れる見込みだ。頼れる男たちが近くにいるのは、心強い。
もうひとつは、職員の非公務員化を避けられた。労働組合は団体交渉権や争議権を奪われたままだ、組合との交渉に頭を悩ませることはない。
いいや、黙っているはずがない。GHQの命令により、吉田茂首相が国会を通過させている法案が、国家公務員を激昂させる。国鉄総裁として、責務を問われるのは明らかだ。
行政機関職員定員法。その名のとおり、公務員の定員を定める法律。国鉄職員も、公務員なのだから対象となる。CTSの命令により作成されて、蓮城と仁科に見直してもらった名簿が生かされ、三万人の首を切る。その刃を振り下ろすのは、国鉄総裁の下山定則。
私は命令に従ったまで。それでも、出来る限りのことはやった。CTSに見直され、新たな解雇者を生んでしまったが、傀儡でも案山子でもない、人間としての仕事をした。そう自己弁護をしなければ、心の安定が保たれない。
せめて三万人の巣立ちが無事であるよう、下山は祈るばかりである。
下山はハッとして、抱えていた頭をもたげた。
労働組合は、事前に掴んでいないのか?
自宅前で、車に身体を押し込んで大量解雇を問い質した、あの男。背格好や特徴から調べさせると、呉羽だとわかった。
自宅近くで待ち伏せし、鉄道次官に突撃して話を聞き出すなど、常軌を逸しているとしか思えない。
組合幹事の指示なのか、呉羽ひとりの暴走なのかは、わからない。前者であれば組合は存亡の危機に陥る。後者であるなら勝手な行動を咎められ、職場の居場所を失ってしまう。国鉄とつながる会社は、決して採用しないだろう。
運転手は通報しようとしていたが、それを下山は止めていた。どんな理由かは不明だが、シャグノンが首をつなげていたからだ。
何故シャグノンは、呉羽を国鉄に残すのだろう。シベリア帰りで組合活動に熱心とあれば、ソビエトに染まっているのは明白だ。
GHQは対岸の朝鮮、中国に意識が移っている。日本にいながら、日本を見なくなる日も近い。その状況でありながら、どうして呉羽を残すのか。
GHQは朝令暮改で、わからないことばかりだ。
せめて明るい話題を探そうと、国鉄の予算に目を通す。事前にわかっていたが、もう発足前日なのだから、もういいだろうと電話を手にした。
ダイヤルを回した先は鉄道総局工作局、椎名局長の机だった。
「下山だ。忙しい中、他愛もない話で申し訳ない、朗報だから聞いてくれ。国鉄予算でマイネ40を購入する。待たせて悪かったと製造会社に伝えてくれ」
『知らせてくれて、ありがとう。特急客車は、どうなんだ?』
「新製は厳しいな。引き続き交渉するから、待ってくれ。まぁ、それもマイネ40の実績次第だろう」
寂しさと悔しさを噛み殺し、椎名は「そうか」とだけつぶやいた。それがたまらなくなった下山は、身を乗り出して電話の向こうの袖を掴んだ。
「特急つばめは、走らせる。これからの日本に必要な列車だ、何があろうと走らせてみせる」
椎名は思わず苦笑した。国鉄総裁になろうとも、鉄道とあだ名されるままの下山に、安心していた。
そしてそれは、下山自身の願いでもあった。鉄道のために働きたい、鉄道のために働く人々に尽くしたい、鉄道を利用する人々を喜ばせたい。鉄道は、人を救うためのものだから。
『あまり根詰めるな。ひとりで列車を走らせるわけでは、あるまいし。忙しくなるだろうが、いつでも連絡をしてくれ。国鉄総裁の電話とあれば、どんな話題だろうと最優先する』
「ありがとう。何かあれば、また連絡をする。お前も忙しくなるだろうから、身体に気をつけてくれ」
もう若くないのだからと互いを労い、つかの間の歓談を終わらせた。
椎名、蓮城、仁科……。国鉄には頼りになる仲間はいるが、総裁は国鉄本社で働かない。議員の質疑に答えるため、国会に縛られる。
明日からの下山は、頼りにしたい仲間たちを頼れない場所に詰めるのだ。
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