小説・本能寺

永嶋良一

第1話 本能寺

 信長には三分以内にやらなければならないことがあった。


 すでに山門は破られ、明智の手勢は本能寺の金堂に迫っていた。


 天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、織田信長は京都の本能寺で家臣・明智日向守ひゅうがのかみ光秀の軍勢1万3,000の急襲を受けた。


 この年、3月11日、 信長は武田勝頼と信勝親子を天目山に追い詰めて自害させ、4月10日には、嫡男・信忠に家督と天下を譲る宣言を行った。宿敵、武田氏を滅ぼし、後継者も決めたことで、信長の内外の大きな課題が一掃された。このことは、信長の天下統一が間近に迫ったことを意味していた。本能寺での光秀の急襲はそんな矢先の出来事だった。


 信長は小姓の森成利もりなりとしを連れて、金堂の奥に退いた。本尊のちょうど裏側に当たる部分に隠れ部屋のような小部屋がある。信長は廊下に成利を残して、一人でその小部屋に入った。


 信長はフーと荒い息を吐いた。肩と背と腰に大きな刀傷を負い、着物は血に染まっていた。小部屋の隅にあった灯明に火を灯し、ふすまを閉めると、明智の軍勢が挙げる声や、敵味方の刀が打ち合う音が急に小さくなった。


 ふすまの中から、信長は部屋の外にいる成利に声を掛けた。信長は彼を『お乱』と呼んでいた。その『乱』の字から、森成利は、後世の軍記物で『森蘭丸』として語られるようになる。


 「お乱。この部屋に明智の雑兵、一人たりとも通すな。わしの首を光秀に渡すでないぞ」

  

 ふすまの向こうから、成利の声が聞こえた。


 「心得て候」


 信長は、部屋の中ほどに胡坐をかいて座った。着物をめくって、腹を出した。持っていた太刀を握りしめると、苦々しげに呟いた。


 「光秀め。わしを裏切りおって・・・」


 そのとき、ふすまの外で声がした。刀のぶつかる音が聞こえた。誰かが激しくふすまにぶつかって、ふすまが大きく揺れた。すると、急にふすまが開いた。森成利が立っていた。刀から血が滴っている。成利が言った。

 

 「殿。お急ぎくだされ。明智の奴らが、ここまでやって来ましたぞ」


 信長の眼に、成利の後ろから誰かが成利に切りかかるのが見えた。成利が身体を半身に開いて、その太刀をかわすと、そのまま相手を袈裟懸けに斬って捨てた。絶叫が飛んで、重たいものが廊下に倒れる音がした。


 成利がもう一度言った。


 「殿。ささ、お急ぎくだされ」


 そう言うと、友成が後ろ手にふすまを閉めた。廊下で再び太刀がぶつかる音がして、もう一度、重たいものが廊下に倒れる音が響いた。


 信長は黙って太刀を抜いた。太刀が小部屋の灯明を反射して、三日月形の光を放った。


 そのときだ。信長は小部屋の隅に異形の者を見た。


 その者は信長が見たこともない『鎧』を着ていた。全身が、白金しろがねで出来ているような、凹凸のない薄い金属で覆われていたのだ。太刀は帯びていなかった。頭には、やはり白金しろがね色の丸い兜をかぶり、顔を黒い球形の面当つらあてでふさいでいた。


 信長はその異形の者に声を掛けた。


 「明智の手の者か?」


 黒い面当ての中から声がした。若い男の声だった。


 「織田信長さんですね?」


 「いかにも、わしが信長じゃ」


 「あなたを、ここからお救いします」


 「何じゃと?」


 異形の者が懐から黒い棒のようなものを取り出した。縦1尺、幅1寸ほどの細長い筒だった。異形の者がそれの先端を左に三回まわした。そして、その棒を信長に渡すと、こう言った。


 「これを離さないでください。今、ちょうど三分後にタイムリープするようにセットしました。向こうに持っていくものがあれば、三分以内に準備してください」


 そう言うと、異形の者の姿がすっと消えた。 


 信長は混乱した。


 さんぷん・・・たいむりーぷ・・・持っていくもの・・・準備?


 『さんぷん』というのは、何か時間の単位のような気がした。『たいむりーぷ』は何のことかまるで分からなかった。でも、何かひどくかされているように感じられた。


 そのとき、再び、ふすまがバンと大きく鳴って・・・揺れた。廊下で太刀が打ち合う音が聞こえた。信長は咄嗟にふすまの外に向かって叫んだ。


 「お乱。『さんぷん』じゃ。『さんぷん』だけ、持ちこたえよ」


 その言葉が成利の耳に届いたかどうかは分からなかった。が、次の瞬間、成利が大声で「殿はこちらじゃ。殿はこちらにおわすぞ」と叫びながら、廊下を向こうへ駆けていく音が聞こえた。続いて、その音を追うように、何人もの武者の鎧の音と足音が、成利が駆けて行った方向に消えていった。遠くで誰かが「信長がいたぞ」と叫ぶ声が聞こえたが、すぐに絶叫に変わった。


 一瞬の静寂が信長を取り巻いた。


 『さんぷん』というのが、どのくらいの時間かは分からなかったが、短い時間であることには間違いなさそうだった。


 信長の頭にひらめいたことがあった。


 そうじゃ。わしには『さんぷん』以内にやらなければならないことがあった・・・


 信長は部屋の隅に膝でにじり寄った。部屋の隅には床の間があって、小さな箱が置いてあった。信長はその箱を開けて、中のものを取り出した。


 それは、以前、南蛮の宣教師からもらった鬢付びんつけ油が入った小びんだった。新しいものが大好きで、おしゃれの気質を多分に持った信長は、ほつれ毛や切れ毛を押えた整った髪にもこだわった。その南蛮の鬢付びんつけ油は透明で、髪につけても目立たず、それでいて髪をしっかりと押さえ付けてくれた。彼はその鬢付びんつけ油を愛用し、何をするときも肌身離さずに持っていた。信長は、その小びんを懐に入れた。


 そのとき、黒い棒から青白い閃光が飛び出して、信長の身体を包み込んだ。

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