第17話



 「そんなに素直だと、ちょっとびっくりだな」


 だから、それは野球のせいだよ。


「……」


 足も肩も痛い、クタクタに疲れているのに、気持ちはすごく穏やかで落ちついて満足している。

 素直な気持ちになる。


 「でも、これじゃあ、明後日の応援はいけないな」

 「大丈夫、勝つから、今年は夏にも甲子園、来年もな」

 「……うん」

 「なんだよ、元気ねーな、やっぱ疲れたか? 足、痛いか?」

 「違うよ」


 ヒデは変わらない。こうしてると昔の頃みたいで。

 あたしの気持ちはあたしの初恋は引越しした時に終ってて、もう、ヒデに会ってもそんな気持ちにはならないって思っていたのに。


 あたしは―――――やっぱりヒデが好きなんだ。


 離れて、気持ちが醒めたなって思ったのにな。

 ドキドキするし、胸が締め付けられるように切ない。


 「キャプテンがさー、トーキチを野球部にひっぱってこいって」

 「はあ?」


 なによそれ。


 「マネージャーで、その植田さんがやってるようなタイプのマネじゃなくてさ、もっとこう専門的っていうか」

 「打撃投手みたいな?」

 「そう」

 「そんなに気に入ったんだあの。カーブ」

 「かなり」

 「いいよ」


 ヒデはまた立ち止まってあたしを見る。


 「いいの!?」

 「うん、いいよ、もう。やっぱり野球やってた方があたしらしいじゃん。親が煩いけど、もう、好きにやるよ」


 野球がやれればどんな形でもきっと楽しい。

 いい年して野球やってって、親に嫌味言われるかもだけど、今までみたいに隠れて合コンするより何倍も健全だって云い返してやれば文句もないだろうし。

 ……ヒデ、あんたほんっとに嬉しそうね。


 「じゃあさ、じゃあ、また俺と野球してくれるの?」


 何云ってんの。あんたはもう特別じゃないの。


 「トーキチがオレより最初にリトルに入ったじゃん」

 「うん」

 「すげえいいなあと思ってたんだ」


 ……なんだ、それは。


 「同い年の女の子なのにな。かっこよくて、マウンドに立つとさらにかっこ良さが倍増」


 今のヒデの方が何倍も実力あるし、かっこいいだろう。


 「オレの憧れだった」


 何をいきなり言い出すやら。今ちょとウルっときちゃったぞ。

 誰も信じないよ、あんたの憧れるピッチャーがあたしだなんて。まずあたし自身が信じられない。


 「トーキチが傍にいるなら、オレは甲子園だって、どこだって挑戦できる気がする」

 「あたしがいなくても、挑め、男だろ」


 こっち見るな。わかってるよ、思わず泣き出してる自分がみっともないってことは。


 「トーキチらしいなあ」

 「……」

 「オレは、そーゆートーキチも、大好きだけどな」


 あたしも、あたしもヒデが大好きだよ。


 わかったんだ。ずっと好きだった。

 コレから先の未来が、あたし達の距離を離すものだってわかってる。

 5年間離れていたように、あたしの気持ちは褪せてしまうかもしれないけれど、でも、好きだよ。


 「夏大会出場、約束してよ」


 ヒデはあたしに右の小指を差し出す。


 「いいぜ、指きりげんまんな」




 ――――リトルに絶対に入って、キャッチャーやるから、それまで待ってろ、




 何年も前にした約束。

 その時にしたゆびきり。ヒデはいつだって約束したら守ってくれた。


 ――――ゆーびきりげんまんうーそついたら、針千本のーます。ゆーびきった。


 この日のことは、ものすごく綺麗な思い出になった。

 切なくて、嬉しくて、照れくさくて幸せな日だった。




 1年後の秋――――10月。

 ヒデは約束通り、甲子園連続出場を果たし、プロ野球ドラフトの1位指名を何球団かから受け、抽選の結果。

 北九州オーシャンズの入団を果たした。

 契約金は1億。今期高校生での注目株だ。


 「マスコミ、うるさい」


 弁当を食べているとき、そうポツリと洩らしたけれど、それは仕方ないだろうといってやると、口をとがらせる。


 「九州か」

 「関東圏の球団が希望だったんだけどな、監督は憧れの監督だし、ギャラもいいし」

 「……」

 「でもって、これで親孝行は少しできるかな? 公団から引っ越してさ」

 「引っ越すの?」

 「近くだけどね、朝晴は引越して小学校変わるの可哀相だし、土地買って家建てようって云ったら、お袋泣いてるの、なんで?」


 そりゃ泣くだろう。おばさんの気持ちわかるよ。

 だって男の子ばっかり5人で狭い公団で暮しててさ。

 ヒデが楽しく野球してればいいやって、単純に思ってたんだろうな。

 まさかそのヒデがミリオンダラー・ベイビーになるなんて思いもしなかったに違いない。


 「トーキチ」

 「うん?」

 「トーキチの携帯番号教えて、メアドも」


 あたしはヒデの掌にちっちゃく油性マジックでメアドと携帯番号を書いた。


 「ケータイ持ったら、真っ先にかけるよ」

 「うん……いつ、球団に入寮するの?」

 「年明けたらすぐかな。卒業式には1度もどるけど」

 「……そうか」

 「受験ガンバレよ」

 「野球にひっぱっておいて、そういうこというか? 落ちたらヒデのせいだ」


 ヒデはニヤニヤ笑う。


 「全部落ちて、浪人許さんとか親に言われたら、オレんとこにきなさい」

 「はい?」

 「責任とって、大事にするから」


 あたしはヒデの座ってる椅子を蹴り上げると、みんなが「ケンカか?」「ああ、またやってるよ、あの2人」とか呟いていた。


 「ひどいなー、蹴るかよ」

 「そこは、落ちないガンバレ! いうところでしょ? このばかもんが!」


 あたしがそう云うと、ヒデはそうだなと呟いた。





 年明け、1月からヒデは学校にこなくなった。

 プロ野球ニュースはキャンプインの情報を流し、ほんの瞬間、ヒデを見ることができた。

 それは受験のラストスパートの励みにはなったけど、どこかやっぱり寂しさもあった。

 そして2月下旬。

 ヒデは卒業式に顔を出した。野球部のメンバーに囲まれて嬉しそうだった。

 監督や先生に挨拶したあと、あたしに声をかける。


 「トーキチ! 受かったか?」

 「受かったよ」

 「よくやった! 御褒美だ」


 ヒデはあたしに何か小さなものを投げてよこした。

 制服のボタンだった。

 小学校の時の卒業式の時、ヒデのボタンをはずしたことを思い出した。

 ヒデも憶えていたんだろうか? 

 その意味がわかってるんだろうか?


 「ヒデ!」

 「わりい、もう時間なんだ! またな! トーキチ!」


 みんなとの再会もそこそこに、慌てるように学校を出ていく。

 卒業式なのに、ヒデらしい。

 あたしはその後姿を見えなくなるまで見送った。

 そして、帰りの電車で、ヒデが投げて寄越した制服のボタンを握り締めて、らしくもなく泣き出していた。

 それはヒデの「またな! トーキチ!」って叫んでいた言葉が耳に残っていたせいだ。

 ヒデはああ云ったけれど。なんとなく、もう2度と会えない。

 そんな予感がしていたから。


 ユニホームを着て、白いボールを投げるヒデの姿を、閉じた瞼の奥で思い出される。




 涙が、止まらなかった……。




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