息子の尊厳

おひとりキャラバン隊

息子の尊厳

 今年の春に高校3年生になった俺には、3分以内にやらなければならない事があった。


健治けんじ? お母さんだけど、今日の婦人会が雨で中止になったから、買い物済ませて今帰ってるとこなんだけど、買い物袋で両手がふさがってるから、玄関扉を開けておいてくれない?」


 そんな母からの電話があったのが10秒前の事だ。


 母は、

「あと3分以内には着くから」

 とだけ言って電話を切ってしまった。


 ・・・ヤバい。


 何がヤバいって、母親が婦人会に出かけたと思っていたから、思春期真っ盛りの俺は、両親に内緒でクラスの悪友とお金を出し合って購入した「ダッチワイフ」なる魅惑の人形に空気を入れて、俺の好奇心と股間の様に、パンパンに膨らませたところだったからだ。


 母親からの電話のせいで、俺の股間は瞬時にしゅんとしてしまったが、目の前ではちきれんばかりの肢体を晒す「ダッチワイフ」は、今も俺を誘っているかの様にパンパンのボディを見せつけている。


 いやいや、こんなものが見つかったらタダでは済まない!


 今は6月。


 梅雨でジメジメとした季節らしく、窓の外は大雨だ。


 だから今俺がTシャツ一枚で下半身剥き出しである事は百歩譲って言い訳ができるとしても、このダッチワイフなる魅惑の人形が、ここにある事を母親に問いただされた日には、俺には返す言葉など何も見つからない。


 俺がアタフタしている内に、もう20秒は経過している。


 駄目だ!


 とにかく、このダッチワイフを何とかしなければ!


 この家は5階建てのマンションの2階で3LDKの間取りだ。


 3つの部屋とは両親の寝室と俺の部屋と中3になる妹の部屋だ。


 両親の寝室は10畳間の洋室で廊下の先にある。


 俺の部屋と妹の部屋は隣り合っていて、引き違いの扉で隔てられているだけで行き来ができる間取りだ。


 妹の部屋にはクロゼットがあるが、俺の部屋には幅1メートルに満たない押し入れがあるだけで、中身は色んなガラクタでギッシリだし、ここまでパンパンに膨らんだダッチワイフを入れる隙など在りはしない。


 父親は出張中で留守。


 妹は今日は部活で不在。


 そして母親は婦人会で夜まで戻らない・・・筈だったのに、もうあと2分少々で帰って来てしまう!


 とにかくダッチワイフの空気を抜かなければならない!


 空気吹き込み口のキャップを外す手が震えているが、これは焦りのせいだろう。


「落ち着け~、落ち着けよ俺!」


 何とかキャップを開けてみたものの、なかなか空気が抜けてくれない。


「なんでだ!? 早く空気を抜かないと・・・」

 と言いながらベッドの上に置かれた説明書には、デカデカとした文字で「空気が漏れにくい新技術!」などと書かれている!


 だぁー!


 今は瞬時に空気が抜けて欲しいんだ!


 早くしないと、これまで俺が築いてきた「品行方正で勉強も出来る自慢の息子」という、両親が持っている俺のイメージが瓦解してしまうじゃないか!


 くっそぅ!


 友人達には後で謝るとして、この際カッターナイフで切って空気を抜くか!?


 時計を見れば、もうあと90秒くらいしか残っていない。


 迷っている暇はない!


 俺は勉強机の引き出しからカッターナイフを取り出し、カチカチカチと2センチほど刃を出して、まるで想い人を殺める境地でその刃を振り下ろした。


 しかし!


 ダッチワイフのボディはボヨンとたわんでカッターの刃を跳ね返す!


「何故だ!!」


 俺がもう一度説明書を見ると、二つ折になった説明書の裏面に「ボディは傷つきにくく破れにくい新素材!」と書かれていた。


 ちくしょー!


 何て高性能なんだ!


 ここまで高性能なものを作ってくれたダッチワイフ職人さんには感謝しかねーよ!


 心の奥底からの尊敬を込めた感謝だよ!


 だけどその高性能が欲しいのは今じゃないんだよ!


 時計を見れば、もう残り1分を過ぎている!


「何か・・・、何か無いのか!?」


 俺は部屋の中をキョロキョロと見回し、この事態を何とかする方法を探した。


 ベッドの下は収納になっていて隙間は無い。


 ベッドの掛布団は夏用のタオルケットでダッチワイフを隠せる訳が無い。


「ピンポーン」


 その時、玄関のチャイムの音がした。


「な、何!? 早すぎるだろ!」


 時計を見れば、まだ30秒は残っている筈だ。


 しかし、玄関のチャイムは鳴っている。


「健治~! 早く開けて頂戴! 荷物が重いから、早く早く!」


 マンションの他の住人から苦情が来てもおかしくない声量で俺を呼ぶ母親の声。


「くぅ! 万事休すか・・・」


 と俺は呟きながら俯き、自分の下半身が剥き出しになっている事を再認識した。


 窓の外では雷が鳴っている。


 そしてひと際大きな落雷の音が聞こえた時、まるで俺の頭が稲妻に打たれたかの様に閃いた。


 そうか!

 その手があった!


 思いついたら即行動だ。


 俺はダッチワイフを小脇に抱えて部屋を出ると、リビングを抜けて玄関に続く廊下に向かった。


「今開けるよ~」

 と俺は玄関の外にいる母親に声をかけ、急いで浴室の方に向かい、シャワーを出しっぱなしにした。


 そしてダッチワイフを空の浴槽の中に入れ、Tシャツを脱いで洗面所から持ち出したバスタオルを腰に巻いた姿で玄関扉の鍵を開けた。


 ガチャリと扉を開けると、


「あ~、もう! 雨はすごいし雷は鳴ってるし!」

 と言いながら玄関に入って来た母親は、俺の姿を見て「何? その恰好」

 と訊いてきた。


「ああ、シャワーを浴びようとしてたところに電話がかかって来たから・・・」

 と言いながら洗面所の方を指さし、「シャワー出しっぱなしで出てきちゃったから、風呂に戻るよ」

 と言って、何食わぬ顔で洗面所に入って扉を閉め、何とか浴室に逃げ込む事に成功した。


 あああああ! 助かった!


 これで空気を抜く為の時間を稼いだぞ!


 俺は浴槽に放り込んだダッチワイフの空気穴をゆっくりと圧迫し、なかなか抜けない空気を懸命に絞り出す様にして抜いていった。


 空気の漏れる音はシャワーでかき消され、徐々に張りを無くしていくダッチワイフのボディは、やがて油揚げの様に薄くなる。


 それをくるくると巻き取る様にして更に空気を絞り出し、やがて太さ15センチ、長さ30センチくらいの筒状にまで絞り込む事が出来た。


 よし!


 これなら着替えやタオルで隠せるサイズだ!


 いつの間にか汗だくになっていた俺は、ついでにゴシゴシと全身を洗い、サッパリとした身体で浴室を出たのだった。


 勿論、筒状になったダッチワイフをバスタオルと着替えで包み込んで・・・


 キッチンで野菜を切っているらしい母親の姿を横目に、俺はそそくさと自分の部屋に入る。


 部屋の扉を閉める時に、チラリと母親の様子を伺ってみたが、特に違和感は無さそうだ。


「ふう・・・」


 何とか事無きを得て、息子としての「尊厳」を守る事が出来た俺だったが、同じ手が何度も通用するとは思わない。


 結局俺は翌日、ダッチワイフを悪友に譲る事にした。


 悪友は「ちゃんと洗ったか?」と訊いてきたので、「もちろんだ」と答えた。


 嘘はついていない。ちゃんとシャワーで洗ったのだから。


 むしろ未使用品だと言ってもいい。


 だけど、「勿体ない」とはこれっぽっちも思わない。


 むしろ、俺の尊厳を失う方が勿体ない事に気付けた事は、大きな学びとなった。


 一時の欲望で身を焦がす事は、「大きなものを失う事になるかも知れない」という学びは、きっと俺を一歩大人に近づけた事だろう。


 そうか、ある意味俺は、ダッチワイフに「大人にしてもらった」のかも知れないな。


 そう思った俺は、悪友にこう付け加えた。


「お前もコレで、大人になれるといいな」


 それを聞いた悪友は、鼻の孔を大きく膨らませながら何度も頷き、


「そんなにスゲーのかコレ!? 俺も早く大人になりてー!」

 そう言うと悪友は、筒状に包まれたダッチワイフを小脇に抱え、スキップしそうな勢いで「じゃあな! サンキュー!」

 と投げキッスをして走り去った。


 俺はその後ろ姿を見つめながら、静かに目を瞑り、両手を合わせたのだった・・・

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