平成グッドボウイ

文園そら

平成グッドボウイ

【堕落】

1.まともな道が歩めなくなって悪の道に落ちること。2.物事がその本来あるべき正しい姿や価値を失うこと。3.世の文明人たちが他人をコケにするために作った言葉。


**

 平成が終わる頃、僕の夢も同時に終わった。だからその春、東京から出るフェリーに乗って、地元四国に向かっていた。これからする話は、そのフェリーの中の、18時間のうちにあった出来事だ。

 夕方に船が出発すると、僕は客室を一旦確認して小さいキャリーを置き(持ち物は少ない方だから、東京で二年暮らしていてもキャリーひとつで引っ越しができる)、屋外に出た。展望デッキといえば伝わるだろうか。そこで椅子に腰掛けて、トートバッグからスケッチブックを取り出す。風景を描くのだ。僕は普段絵を描く人間で、文章は久しぶりだから、みんなには拙いところを見せているかも知れない。

 日が落ちてくるころ、東京ゲートブリッジの下を通過した。

 ところでさっきから、近くでタバコを吸っている女性がいる。僕と同じで、一人で乗船しているのかもしれない。

 しばらく絵を描いて目が疲れたからか、乾燥して瞬きが多くなってきた。遠くの星でも見て目を休めようかなと考えていると、さっきの女性が視界に入って、その様子に驚いた。

 女性はグラスに入ったお酒を飲み干したかと思うと、その後タバコを吸って、思い切り吐いた。何かに吹き付けるようだったのだが、よく見えない。そして、酒が入っていたグラスを逆さにして、吐いた煙を閉じ込めた。グラスの中に何かがいるのか?

 気になってスケッチブックをしまい、彼女に近づく。テーブルを見ると、グラスの中に閉じ込められていたのはクモだった。タバコの煙にやられて外に出ようと走り回っている。

「なんて酷いことするんだ。ニコチン中毒で死んじゃいそうだ」

「私が? それともこのクモ?」

「クモが先。そのグラスを除けよう」

「嫌だわ」

 僕がどうやって説得しようか考えていると、おかしかったのか、楽しくなってきたのか、女性が口を開いた。

「力ずくでやる?」

 僕は財布にいつも入れてある、外国土産のコインを出して、見せた。

「いやこうしよう。今から俺がコインを投げる。こっちの自由の女神が描いてある方が表だ。表ならクモを逃す。裏なら僕は、何も見なかったことにする」

「私にメリットがないじゃない」

「じゃあ裏が出たらどうして欲しい?」

 早くしないとグラスの中のクモがくたばるから、早口で言った。

「そうね、下の売店まで行って、タバコとビール買ってきなさい」

「良し」

 慌てていたから、僕は返事と同時にコインを投げた。そこで、コインが宙に舞う間にくだらない質問をした。

「その場合、タバコ代は貰えるんだよね?」

「バカ言わないで、あなたの財布で買って。賭けってそういうもんでしょ」

「あー、もうどうにでもなれ」

 僕はコインを手の甲でキャッチして押さえた。

「よし、表だ」

「運はあるのね、私と違って」

 女性はにっこり笑って(不思議と嫌味ではない)、グラスをのけた。クモは無事らしく、テーブルからジャンプして、床を歩いていった。女性の顔をどこかで見たような気がするが、何者か全然思い当たらない。

「ほら、どこにでも行きなさい。ところでどうしてあのクモを助けたの?」

「だって、可哀想だろう」

「ふうん。あなた死んだあとで、仏様に蜘蛛の糸を垂らしてもらえるかもね。知ってる? 芥川龍之介」

「なんで地獄に堕ちる前提なんだよ」

 女性が席を立った。

「ビール買いに行こうっと。ゲーム面白かった。じゃあね、グッドボウイ」

「ボウイって年齢じゃない」

 僕はもうボウイって年齢じゃないし、時代は平成から令和になろうとしていた。


**

 母さんはよく、僕に「ビーグッドボウイ(良き少年であれ)」と言った。小学生になった頃、グッドボウイの掟を3つもらった。さっきグッドボウイなんて言われて、懐かしくなった。

 グッドボウイの掟1、芸術を楽しんでください。掟2、女性に優しくあってください。掟3、生き抜いてください。


**

 3月末の夜、太平洋は遮るものが何もなくて、強い風が吹いて海には高い波が立つ。なんとなく、外の景色を見たくて外に出た。びゅうと吹く風が、僕の髪を2秒でボサボサにした。デッキチェアに座る女性(夕方クモをいじめていた女性だ)が、手招きで僕を呼んだ。彼女の長い黒髪も、同様に風に吹かれているわけだが、なぜだが彼女は様になっている。

 僕は彼女の横に座った。デッキの光が、彼女の頬の、乾きかけた涙を照らした。

 女性は、ビールの缶をぐいっと飲んだ。

「ねえ、世の中が壊れて欲しいって思うこと、ない? なんていうか、いてもたってもいられなくなるの。伝わってるかな」彼女は、酒が戻りかけたのか、それとも言葉を選んでいたのか、「うっく」と喉を鳴らしたあとで続けた。「私、人間も、人間が作る社会も大嫌い。今にも全部壊すべき。辛いことばっかりだし、最後はみんな死ぬ」

 そのとき、強い風がまた吹いて、女性は身震いした。僕は立ち上がって、彼女の肩に上着をかけた。

「ありがとう」

「思想が尖ってるね。言いたいことは分かるよ。俺だって社会は嫌いだ。嘘とか、見栄とかが溢れているし、人間は弱いくせに強がってるし、所詮飯食ってクソ垂れ流す動物なのに、スーツなんか着て他の野生動物とは一線を画してますってツラしてるのが気に食わない。

 でも、壊したいとは考えてない」

「壊したくないの? なんで?」

「俺が消えた方が、手っ取り早いだろ」

「あなたって優しいのね」

 女性が微笑んだ。僕はその微笑みを見て、思い出した。ただ、似ていると思っただけだが。

「思い出したぞ。君のことを、誰かに似ていると思っていたんだ。僕がガキの頃見てた仮面ライダーのヒーローだ。女性のライダーで、変身して戦うんだ。その女優さんに、凄く似ている」

 その女優は朝の特撮で人気を得て、番組が終わった後も朝ドラの主演になったり各種バラエティ番組に出たり、順調に芸能界を進んでいったイメージがあるが、今となっては全く見ない。ある時期からぱったり見なくなった気がする。

「あなたの優しさに応えて、教えてあげる。私がその女優本人よ」

 僕は一瞬戸惑った。八割は感動、二割は疑惑だ。冗談かもしれない。確かに、相当似ているし、番組当時から計算して年齢は今30代前半、見た目的にも妥当ではある。正確には、三十路を越えているにしては若く見えるが。

「嘘だと思うなら、その女優のプロフィール全部言ってあげるわ。誕生日とか血液型とかスリーサイズとかね」

「いや、いい。信じるよ。そういえば、彼女の出身は愛媛県だった気がする。地元に帰るんだね、この船で」

「正解」

「サインもらっていいかな。くそ、色紙とか持っておくべきだった。仮面ライダー好きなんだよ」

「サイン? 今の私にサインを求める子がいるなんて。知らないのね、どうやって私が芸能界を干されたか。私って前科持ちなのよ」

 彼女から聞いたのは、とても悲しい話だった。

「聞いて、これはある喜劇よ。

 何年も前。私はその日、何人かの役者友達や芸能業界の人とクラブに行ってたわ。人がいっぱいで、友達を見失うほどひしめいて、皆酔ってた。そこで友達がドラッグを勧めてきたの。周りの客は当然のように飲んだり、吸ったりしてた。私は正直引いた。けれど、そのクラブでは当然の出来事らしかった。友達が言ったわ、『大丈夫よ、みんなやってる』って。

 恐ろしいわね、狭い空間って、常識や普通って感覚を捻じ曲げるの。私はドラッグを飲んで、踊ったわ。周りも滅茶苦茶だった。ある人は服を脱いで踊ったり、理由は分からないけどケンカして殴り合う男たちもいた。私は途中から記憶がないけれど、体の大きい女に胸を舐められてたところまでは覚えてるわ。

 次に聞いたのはパトカーの音。警察が何人も入ってきて、次々に検挙された。『逃げるぞ!』って役者友達が行って、手を引かれた。私とその友人たちは、裏口からなんとか逃げたわ。はだけた服を着直して、何事もなかったかのように路地を歩いて行った。

 その翌日、私は事務所の社長に呼び出された。厳しい表情だったわ。『昨日の夜はどこへ行ってた』って。次に、ある写真を出された。クラブの裏口から出てくる私たちだった。ドラッグパーティーに行っていたのが、どこかの週刊誌に撮られたのよ。

『ドラッグパーティーに行っていたね。昨日、何人も検挙されたクラブだ』

『で、でも、そこにいたからと言って、ドラッグを吸ったかどうかは……他の皆も、私は吸ってないって言ってくれるはず』

『他? 行っていたのは君だけだ。いいね?』

 私は最初、何が何だか分からなかった。けれど、みんな私を生贄にしたのよ。写真に一番顔がはっきり写っていたのは、街灯に偶然照らされた私だった。クラブに行っていたのは私だけ、という話にされたの。他の誰も庇ってはくれなかったし、カカシみたいに口をつぐんでいた。そうすれば、週刊誌にもニュースにも、取り上げられるのは私だけで済む。逮捕されるのもね。

 数年経て刑期を終えた後も、当然仕事は来なかったし、私は悪者になった。実際、ドラッグをキメたのは事実よ。以前のようにサインを求められることもない。知らない男に、道の反対側から、『おーい、ヤク売ってくれよ』なんて言われたこともあるわ。泣きながら早足で帰った。

 私は地元に帰ることに決めた。ママとゆっくり暮らすわ。人知れずね。幸い、お金は残ってる」

 僕は唾を飲んだ。なんと声をかければ良いのか。

「辛かったね。それ、悲劇じゃないか」

「当人からすればね。でも他人からすればサムい喜劇よ。人はいつか堕ちる。幸せや成功の絶頂にいても、必ず堕ちるものなの。永遠なんてない。友達もいない。一緒に写真撮ってブログ更新したり、クランクアップで大きな花束を渡し合った人たちも、誰も庇ってくれなかった。それが人の本性なの。だから今は……」彼女は、ビールの缶を逆さにして、飲み干した。「酒とタバコだけが友達。話したらちょっとスッキリした。あなたのこと教えて。例えば夕方描いていた絵とか」

 目ざといなと思いつつ、僕はスケッチブックを出した。彼女はじっくりと見て、深く息を吐いた。

「凄い。絵師さんなのね」

「他人よりちょっと絵が描ける無職さ。だから東京でうまくいかなかった」

「そのうち時代が追い付くわ。見せてくれてありがとう。部屋で酒飲んで寝る」

 彼女は立ち上がり、僕が貸していた上着を返した。

「まだ飲むの?」


**

 生き抜いてください。母さんからの掟だ。初めてこう言われたとき、小学生の僕は、はてなと感じた。だって、「事故とか病気じゃなけりゃ、死ぬまで生きるに決まってるじゃないか」って。でも、今なら分かる。

 この日本のどこかで、毎日誰かが線路に飛び込んだり、ビルからわざと落ちたりしている。世の中は不平等だし理不尽だし、善人が精神科に通院しているし、健常者はイカれてる。猫っていう可愛い生き物がいるのは数少ない救済だけれど、あっという間に死ぬ。もし神がいるなら意地悪だ。

 つまり僕が言いたいのは、みんなよくやっているじゃないかってことだ。みんな(そう、生まれたくもないのに生まれてきて、必死こいて生きているみんな)、この憎むべき世の中と、なんとか折り合いつけて、よく頑張ってるじゃないか。


**

 翌日昼。乗客たちは列になって、船を降りていった。恋人や家族が、降りた先で待っている者もいる。僕はこれからまだ、特急電車に乗らなければならない。スーツケースを引く彼女が、隣を歩いてきた。話を聞くと、母さんに迎えにきてもらうらしい。

「そうだよ、君にはまだ、母さんがいるじゃないか。ここまで車を出してくれる優しい母さん」

「そうね。じゃあ、私は乗船場の待合室で待つわ」

 僕たちは乗船場入り口で立ち止まった。

「ねえ、未来の絵師さん。クモを助けたコイン、何かトリックがあるんでしょ?」

「バレたか」

「ダテに芸能界やってないわよ。どういうタネがあるの?」

「知らない方が楽しいのにな」

 そう言って、僕はコインを取り出して、昨夜やったように親指で宙に飛ばした。彼女は両手でそれをキャッチして、裏と表を見て笑った。

「なに、両方表? イカサマね」

「運を自分で引き寄せるんだ。そのコイン、預かってくれよ」

「いつまで?」

「また逢うまで」

 僕たちは、別々の方向へ向かって歩き始めた。きっと、光ある道へ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

平成グッドボウイ 文園そら @fumizonosora

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ