ヒットアンドアウェイ
水瀬 由良
ヒットアンドアウェイ
マサキには三分以内にやらなければならないことがあった。
おおよそ5.5mの正方形のリングの上で対峙する人間を己の拳の力だけで10秒間、倒れてもらわなければならない。
マサキの息は荒かった。
「いいか、相手に負けてないぞ。お前の戦いは通用している。最後のラウンドだ。このラウンドで終わりだ。どうせなら、かっこよくK.O.で終わらせてこい。そしたら、お前がナンバーワンだ」
嘘もここまで来ると、ありがたいとマサキは感じていた。ジム初の日本チャンピオンの夢を一番信頼できるトレーナーはマサキに託していた。トレーナーだけではない、会長や先輩、後輩も応援してくれている。
だが、現実はいつだって思い通りにはならない。
マサキ自身、とったラウンドはほぼないと感じていたし、ダウンも1回している。負けているのは明らかだった。それが最終ラウンドまで試合が続いているのは、マサキもチャンピオンもアウトボクサーであり、基本的には強い打撃で相手を倒すようなスタイルのボクサーではなかったからだ。
フットワークを使い、相手に一撃を加え、離脱する。マサキのパンチの軽さは致命的だった。だからこそ、当てられないようにし、当ててポイントを稼ぐ。ヒットアンドアウェイ。それがマサキのスタイルであった。問題は、そのスタイルがまるで通用しなかったことだ。技術の一つ一つがチャンピオンの方が上だった。
11ラウンド、それでも相手が動いてくるのを待ったり、いつもは右から入るところをフェイントをかけて、真正面から入ったりとマサキだって工夫はしてみた。しかし、マサキが自分の引き出しという引き出しを空っぽにしても、その引き出しの中身は知っているとばかりに上をいかれた。当てるはずの拳は空をきり、避けるはずの拳はことごとく体に衝突した。
マサキは天井を見上げる。
まぶしかった。強烈なライトがリングを照らしていた。マサキはそのまぶしさに試合前のフラッシュを思い出した。世界戦に及ぶべくもないが、それでもマサキはまぶしく感じたのだ。
(試合前はなんて言ってたっけ……)
とりあえず、強気の発言なんて似合わないと思った。
「せっかくのチャンスなんで、出し尽くします」
こんなコメントだった。
ふと、マサキは思ったのだ。右手をマサキは突き出した。思ったよりもずっと早かった。
(全然じゃねぇか)
そして、マサキは笑った。
「おっちゃん。俺にK.O.は似合わないか?」
おっちゃんとマサキはトレーナーを呼んだ。ジムに入りたての頃、マサキはトレーナーをそう呼んでいた。ただ、クレバーなイメージでキャラを作っていこうとなった時、そう呼ぶのは止めたのだ。
ところが、今はそう呼んだ。
ジムに入った時に憧れたのはやはりK.O.量産のスタイルだ。拳の軽さから諦めたスタイル。しかし、今はジムに入った頃に戻った気分だった。
トレーナーの答えとゴングが重なった。そして、観客の歓声があがる。
最後の3分間。
数千回、数万回、数十万回と振ってきた拳の全てをかけて、マサキは敵陣へと猛然と走り出した。
トレーナーの声は観客の声にかき消されたかに思えた。
しかし、マサキはその言葉を確かに聞いた。
「ボクサーにK.O.が似合わないやつはいないさ」
ヒットアンドアウェイ 水瀬 由良 @styraco
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