彁彁彁彁

魚市場

彁彁彁彁


例の家について苦情の電話があったのは、まだ残暑の厳しい九月の終わりのことだった。


《○○区 ○○の○○さんのお宅なんだけど、なんとかしてくれない?》


区役所職員である私と、先輩の山岸さんはさっそく問題の屋敷を訪れることになった。
もやっとした熱気の中で私たちはその住所を辿っていったが、着いた先にはどこか空気が淀み、ただならぬ雰囲気が漂っていた。


蒸し暑さとは違う、まるで湿った影のような暗さがそこに染み付いているかのようだった。


「これはまた…」


山岸さんが絶句し、私も息を飲んで黙り込んだ。


目の前には、表現のしようがない異様な光景が広がっていた。



家の周りには、どこからか漂ってくる臭気が立ち込め、鼻の奥を突き刺すような不快感が広がる。まるで腐敗した生ごみと、汗のような酸っぱい匂いが混ざり合い、喉の奥までその匂いが染み込んでくるかのようだった。



そして何より、目を引いたのは敷地いっぱいに敷き詰められた本の山。
文庫本、雑誌、小説、新聞紙…
ありとあらゆる種類の紙類が乱雑に積まれていて、人の高さを超える塔のように積み上げられていた。それらの表面には、かすかにカビが生えて湿っており、触れると崩れそうな気配さえあった。


私はふと、これらが単なる紙の山ではない気がして、身震いした。埃や湿気にまみれ、時間に埋もれて忘れ去られた活字たちの“怨念”がそこに染み付いているかのような、得体の知れない重みがあったのだ。


「これ、全部ごみなんですか?」

異様な臭気に圧倒されながらも、思わず声を出して尋ねた。


「そうなんだ。最初は庭の隅に積まれていただけだったらしいが、数年も経たないうちにこの有様だ」


山岸さんがやや疲れた口調で答えたが、その表情には、あきらめとも、そしてどこか恐れが混ざったような影が見えた。


「でも、どうやってこれだけのものを…」



「○○さんはね、どうやら街中の公園やコンビニのゴミ箱、
なんであれ“紙”を見ると手当たり次第に拾って持ち帰ってくるらしいんだ」



「ゴミ捨て場を漁ってるってことですか?」



「そうらしい。最近では家庭ゴミまで持ち帰っているって話だ。
近隣住民が怯えて苦情を出すのも無理はない」



「信じられないですね…」


私は一瞬、○○さんという家主に対して同情の念を抱いたが、すぐにそれも薄れていった。家主の孤独が、何か“別のもの”に侵されているかのように見えたのだ。


家の窓をふと見ると、ガラス一面に貼り付けられた異様な『彁』という漢字がぎっしりと目に飛び込んでくる。


視線を移すとその文字がまるでこちらをじっと見ているかのように、どこか禍々しさを漂わせている。私はこの家と、そして『彁』という文字自体に、得体の知れない恐ろしさを感じずにはいられなかった。


「でだ、実はここからがちょっと厄介なんだが…どうやら○○さんはただゴミを集めているだけじゃないらしい」
山岸さんの言葉に、私は一瞬耳を疑った。



「…どういう意味ですか?」



「○○さんは、あの集めた紙類を“読んで”いるらしい」
「全部読んでいる…?それって、普通じゃないですか?」
「違うんだ。ただの活字中毒とはわけが違う。○○さんは“文字の幽霊”に取り憑かれているらしいんだ」



「文字の幽霊…ですか?」



「ああ。幽霊文字っていう言葉、聞いたことがあるか?」



私は戸惑いながら首を振った。そんな言葉、聞いたことがない。



「幽霊文字ってのは、辞書にも辞典にも載っていないのに、コンピュータで突然表示されたりする漢字のことだ。典拠も意味もなく、まるでこの世に存在しないはずの“異質な文字”が現れることがある。まぁ、ただのエラーやデータのミスなんだがな」



山岸さんは、言葉を続けながら窓を指差した。



「…あの『彁』って字もそうだ。どういう意味なのかは、どんな辞書にも載っていない幽霊文字の一つらしい」



「じゃあ、幽霊文字っていうのは…」



「単なるバグさ。しかし、考えてみろ。夜の病院、薄暗いトンネル、無人の学校。こういう場所に恐怖を感じるだろう?それと同じで、人によっては幽霊文字も、恐怖の対象になるんだ。○○さんはきっと、あの幽霊文字に取り憑かれてしまったのかもしれない」



その瞬間、言いようのない寒気が背筋を走った。



「だが、これはただの噂にすぎないがな…○○さんの奥さんは、あの文字を見てからおかしくなってしまい、今ではどこかの施設に入院しているらしいんだ。奥さんは、最初は『どこかであの漢字を見た』と○○さんに繰り返し訴えていたらしい。しかし、○○さんには何のことか分からなかったようで、まともに取り合わなかったらしい」



私は息を飲み、喉がかすかに引きつるのを感じた。



「ある日、○○さんが帰宅すると、家中の壁にあの『彁』という文字がびっしりと書かれていたらしい。誰が書いたのかは分からないが…それ以来、○○さんも、あの文字を追い求めるようになってしまった」



私はその光景を思い描いてしまい、背筋がぞっとした。あの家主が今もなお、家の中で異様に血走った目をして、ひたすらに“彁”という文字を探し続ける姿が浮かんでくる。その行為に意味など関係ない。


ただ探し出すまで、どれだけの紙があろうと、見つかるまで繰り返すだけだ。

毎日毎日、夜通し…。


思わず汗が額を伝ったが、妙に冷やりとした感覚が残った。



「…おかしいな、不在みたいだな。また改めて出直すしかないか」
山岸さんの声で我に返ると、インターホンを何度押しても家の中はしんと静まり返ったままだった。


いつの間にか陽は西に傾き、夕闇がじわりと忍び寄っている。



「ええ、帰りましょうか」



歩き出して数歩進んだところで、私はふと屋敷の方に振り返った。風に揺れる無数の『彁』の張り紙がぱたぱたと音を立て、まるで静かにこちらを見ているかのように思えた。


私は視線を落とし、足元に目をやりながら歩いていたが、不意に山岸さんの足がぴたりと止まったことに気づいた。


「どうしたんですか?」

山岸さんは無言で、背後をじっと見つめている。


振り返ると、彼の視線の先には先ほどの屋敷が見えた。すっかり影に覆われたその家の、かすかな窓の隙間から何かがこちらを覗いているかのようだった。私は全身がぞわりと震え、足がその場に縫い止められてしまったように動けなくなった。


「なあ…見えるか?」

山岸さんの低い声が聞こえた。


その言葉に何を答えたらいいのかわからず、ただそのまま無言で立ち尽くした。


屋敷の窓の向こうに見えるはずのない影…人影か、それとも…。


私たちはいつまでも黙ってその屋敷を見つめ続けた。風が止んだその瞬間、私は背中に冷たい汗がじわりと広がっていくのを感じた。


その張り紙に書かれた『彁』が、こちらに向かって微かに嗤っているかのように見えたのだ。私の脳裏にはふと、あの家主が、そしてその奥さんが、いまもどこかで『彁』という文字に取り憑かれ、深い闇の中を彷徨い続けている光景が浮かんでくる。


もはや、あの文字から逃れることはできないのかもしれない。まるで永遠に続く呪いのように、その文字は人の心に根を下ろし、そしてじわじわと蝕んでいく…。


「………行くか」

私は山岸さんの言葉でハッと我にかえった。



真っ赤な西陽の中、私たちは商店街を歩き続けたが、ふと私は、あの漢字は何と読むのだろう?と気になり始めていた。


というか山岸さんは、《《あの文字をなんと言っていたかな》》


文字に引き込まれる感覚が、どこか奇妙だった。

脳裏に刻まれた『彁』という文字が、まるで頭の奥で蠢きながらじわりじわりと私の意識に入り込んでくるような不快な気持ちだった。


「…ああ、そうだ。ちょっと本屋に寄ってもいいか?あんなにたくさんの本を見たら、なんだか無性に読みたくなってきたよ」



山岸さんが軽く笑いながら言った。


「いいですね。実は僕も、何か読みたい気分です。なぜだろう」


ヒグラシの鳴き声がどこからか聞こえ始め、

いよいよ夏の終わりが迫っていることを告げていた。


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