彁彁彁彁

魚市場

彁彁彁彁


苦情の電話があったのは、まだ残暑の厳しい9月の事だった。

《○○区 ○○の○○さんのお宅なんだけど、なんとかしてくれない?》


私と先輩である山岸さんと二人で、さっそく問題の屋敷を訪ねる事にした。これも区役所職員の大事な仕事だ。

私達が到着すると、その家は陰惨たる状況だった。


「これはまた・・」

山岸さんが絶句した。私も言葉が出てこない。家の周りから鼻をつく臭いが漂ってくる。なんだこの臭いは…。生ごみと汗の混じった様な酸っぱい臭気。そして何より目をひくのは敷地いっぱいに敷き詰められた大量の本。一番多いのは文庫本だろうか。作者や出版社にこだわりは無いようだ。あらゆる小説が乱雑に積み上げられ人の高さ程になっている。そして次に多いのは週刊誌と新聞紙。これらにも統一性はなく、ほとんどの雑誌が風雨にさらされボロ雑巾のようになっている。それだけにとどまらずレシートや電化製品の説明書、ありとあらゆる“紙”が道路まで溢れかえっている。まるで活字の墓場だ。私は建物の方に目をやる。本の隙間からわずかに平家のガラス窓が見える。そこには『彁』と書かれた貼り紙がびっしりと貼られていた。

「これ、全部ごみなんですか?」

私はその異様な光景に思わず尋ねた。

「そうなんだ。最初は庭の隅に積まれていただけだったらしいが、数年足らずであっという間にこの有様だ」

山岸さんが答える。

「この文庫本とか雑誌は一体・・・?」

「○○さんが、公園に落ちている雑誌やコンビニのゴミ箱に捨てられているレシート、とにかくあらゆる紙を拾ってきてしまうらしい」

「ゴミを漁ってるんですか?」

「ああ、最近ではゴミ捨て場にある家庭ゴミまで持ち帰っているらしい。ご近所の皆さんから苦情が来るのも当然だよ」

「信じられないですね」

私はごみ屋敷の住人に同情した。誰からも相手にされず、世間の常識から外れて、一人寂しく暮らしているのだろう。そんな私の気持ちを察してか、山岸さんが続ける。

「でだ、ここからが重要な話なんだが・・・彼はゴミを漁るだけでなく、どうやらこの本や雑誌を読んでいるらしい」

「え?全部読んでるんですか?」

「ああ、噂だが○○さんは字に取り憑かれているらしい」

「えーと、その活字中毒ってやつですか?」

「違う、違う。本当に取り憑かれてしまったらしいんだよ。文字の幽霊に」

「文字の幽霊?」

「ああ、幽霊文字って知ってるか?」

私は首を振った。

「パソコンとかで普通に表示されるのに、漢字辞典には載っていない典拠が不明の文字だ」

「もしかしてあの漢字の張り紙って?」

「そうだ。幽霊文字だよ」

「でも幽霊文字って、言ってしまえば登録時のミスというか、そういうのじゃないんですか? それにとり憑かれるっていうのは、一体…?」

「その通りだ。幽霊文字ってネーミングは只の言葉遊びだ。だがな、考えてみろ。俺は幽霊とかは信じてないが、夜に柳の木を見ると何故か身震いする時がある」

「柳の木には幽霊がいるっていうやつですか?」

「夜の病院、トンネル、学校。現代だったらこういった場所が恐怖の対象かもな。映画やドラマの影響で、そういう場所は『幽霊がいるかも』という想像を掻き立てる。現実にはいないとわかっていても、子供の時観たホラー映画の怖いシーンとかを無意識に思い出して何となく怖くなる。そんな経験あるだろ?『幽霊文字』という言葉が一人歩きして恐怖の対象になってもおかしくはない」

「つまり、○○さんにとって、あの漢字は柳の下の幽霊と同じように、恐怖の対象になっていると?」

「あくまで俺の仮説だがな。そして、これは噂なんだが、○○さんの奥さんは気がふれてどこかの施設に入院しているらしい。どうやら最初は、奥さんの方があの漢字に取り憑かれちまったらしいんだ。奥さんは○○さんに『どこかであの漢字を見た』と仕切りに言ってきたらしいんだ。○○さんは何の話か分からずまともに取り合わなかったそうだが、日に日に奥さんはおかしくなってきてな」

私は唾を飲む。

「ある日、○○さんが帰宅すると壁にびっしりとあの漢字が書かれていたらしい。それ以来○○さんもおかしくなってしまったらしい」

私はその光景を想像して思わず背筋が震えた。

「幽霊ってのは、もしかしたら媒介を通じて感染してしまう伝染病みたいなものなのかもしれないな」

なるほど。○○さんは『彁』を媒介とした病を奥さんからもらってしまったのか。

「まぁあくまで噂だよ、う・わ・さ」

山岸さんは笑いながら言った。私は再び屋敷に目を配る。誰もいない家の中で一人、血走った両目をぎょろぎょろさせながら文庫本の中にある『彁』を探す○○さんの姿を想像した。文章の意味など関係ない。ただひたすら『彁』があるかどうか探す。無いとわかったらゴミを漁り、再び『彁』を探す。来る日も来る日も。ただひたすら『彁』を探す。


「あれ?不在だな。しょうがないな。また出直そう」

山岸さんの言葉にハッと我に返る。インターホンを押したが家主はいないようだ。いつのまにか陽は西に傾き、紙だらけの屋敷に長い影を落としていた。

「ええ、帰りましょう」

私たちが歩き出すと涼風が吹き抜けた。私はふと振り返り屋敷を見た。風に煽られ『彁』の張り紙がパタパタと揺れていた。山岸さんはああ言ってたけど、家主は本当に不在だったのだろうか。もしかしたら居留守を使って、窓の張り紙の隙間からこちらをじっと見ていたのかも。考えすぎか。


「ああ、そうだ。ちょっと本屋に寄ってもいいか? あんなたくさんの本を見たら、急に何か読みたくなってな」

山岸さんが言った。

「いいですね。あ、僕も欲しい本があった気がする」

どこかでヒグラシが鳴いている。いよいよ夏も終わりだ。

そういえば、あの漢字はなんと読むのだろうか。気になって仕方がない。

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