天津飯の悪夢
櫻井桜子
第1話
私には三分以内にやらなければいけないことがあった。
そう、それは————
————天津飯を作ることである。
時間は数分前にさかのぼる。
希代のマッドサイエンティスト、通称・マット。
私は、サイエンス雑誌の編集者で、彼の新作の論文原稿をせっつき——否、進捗状況の確認に行ったのである。
ごくごく普通の住宅街の、ごくごく普通の住宅。
そこを、某遅筆マッドサ——否、世界的なマット先生は研究所にしているのだ。
正直、閑静な住宅街で物騒な研究をしないでくれと思わないでもあったが、その向かいの家では住人が踊り狂っているのが窓越しに見えたので、いろいろと諦めた。
そして私は、トタン板門を押し開け、ダンシングフラワーやパックンフラワーが丁寧に植えられた美しい庭を通り抜け、金属製の石畳を越えた。
玄関ドアに付属している、ドアノッカーをガシガシとドアに打ち付ける。
反応が無いのでドアを押したら、大きな音を立て内側に倒れたので、家の中に入った。
どうやらベニヤ板でできていたらしい。
床板の代わりに非可燃性マットを敷いていたため、転んでも痛くないだろう。
『どうやら一階にはいないみたいだよ』
私の編集者としての勘がそう告げた。
「いつもありがとうね、私の勘」
『そりゃどうも』
一階をぐるりと回ってみても、階段がどこにも見当たらないので、壁をコツコツ叩いた。
すると、とある場所で、コツコツではなくゴンゴン、といったようなくぐもった音を立てた。
そして、玄関ドアのように綺麗に倒れた。
向こう側には、ラッキーなことに階段があった。
それを登ると、二階も同じように全面マット展開がされており、ごちゃごちゃと実験器具や業務用冷蔵庫があった。
そして、部屋の壁際に一つの台が置いてあり、その上に4歳くらいの幼女が座っていた。
幼女は言った。
「おなかすいた。なんかつくって。」
彼女のガラス製の目がきらりと光った。
『私! 今すぐに天津飯を作りなさい! あいつは天津飯を3分以内に作らないと、この住宅街を爆破する! ……多分!』
なんてことだ。
というわけで、私は天津飯を作らねばならないのだ。
私は業務用冷蔵庫の扉を引き千切り、扉から宙を舞った卵を2つキャッチすると、Lサイズのシャーレにたたき割った。
床に転がっていたマットを踏みつぶしながら、冷蔵庫のチルド室を強引に開け、かにかまの袋を引き裂いた。
かにかまを卵に投げ入れ、アルコールランプの最大火力で熱する。
そして、冷凍ご飯を電子レンジに入れ、冷凍食品のボタンを押す。
片栗粉と調味料をフラスコに入れ、三脚を置いたガスバーナーで火にかける。
と、幼女がカウントダウンを始めた。
私はご飯をレンジから取り出し(30)、蒸発皿に盛って(28)、卵を上に乗せ(26)、餡をぶちまけた(24)。
「ってなんで二秒刻みやねん!(22)」
餡が跳ね、指に付いた(20)。
ヒリヒリとした刺激が指に走る(18)。まずい、火傷になってしまう(16)。
私は急いで蛇口に駆け寄り(14)、水を勢いよく出した(12)。
指を冷やしながら見ると、コンロとアルコールランプがつけっぱなしだった(10)。
まずい、この家には回収せねばならない文章群——もとい、貴重な研究資料がつまっているのに(10)!
私は、指の痛みを堪え、ガスバーナーのコックをひねり(8)、アルコールランプの蓋を斜め上から被せた(6)。
カウントダウンが5秒を切った(4)。
私は天津飯と机に転がっていた薬さじを引っ掴み(2)、薬さじで掬った天津飯を幼女の口へと投げた(0)。
カウントダウンが止まった。
「セーフか……?」
幼女の動きが止まった。
よく見ると、激しくバイブレートしている。
彼女が口を開いた。
「やくひんのあじがする。おいしくない。」
何を言っているのだろうか。当たり前だろう。
薬品まみれの物で作ったんだから。
『もしもし私』
「なんだい私の勘」
『もしかしてだけど、勘が外れたかも』
……所詮は勘だもの。しかたがないことよね!
と、ここで私は本来の目的を思い出した。
私は床に転がっていたマット博士を振り返った。
「今日が締め切りの資料ください。……って博士、誰かに踏まれました?」
私が何故そう聞いたか。
というより、私でなくともその場にいれば誰しもこう聞いたと思う。
なんとパンプスの足跡が彼の白衣にしっかりついていたのだ。
確か私が部屋に入ってきたときは踏まれてなかったから、少なくとも3分……、多く見積もっても5分以内の話だろう。
私もパンプスユーザーだが、自分の身の潔白は自分が一番分かっている。
つまり、私の気付かない間に、日本家屋に土足で侵入する不届き者が出たり入ったりしていたのだ。
なんとおそろしい。
これがジパングの民のやることなのか……!?
「誰かはわかってるさ」
と、ダメージか何かから回復したらしいマット博士がそうのたまった。
『のたまう』のような雰囲気のかっこいい日本語はついつい使いたくなる。
但し『言う』との違いがさっぱりわからない。
「犯人は、お前だよ編集者」
「やってませんよ?」
「やってるから。シャーレに卵割り入れた直後に。秒で返さないで。地の文挟んで。」
地の文とはなんのことだろうか。
それにしても、犯人が私だったとは。
叙述トリックのような事件だった。
「では、論文の進捗状況を教えてください」
「テーマは非生物の生物擬態。無機物を有機化したように見せることと、それを生物に見せかけることだ。君がさっきドタバタしてたあれが試験体なんだけど、あれに戦闘力を持たせてみたんだよね。まあ君が来たから死んだふりしてたら、電源を切るの忘れちゃっててさ、それはともかく今までの研究では不気味の谷を越えることができなかったんだけど、今回は越えられたこ思うよ。ただまだ動作が心もとなくて」
「そういうのいいんで原稿を寄越してください」
すると、博士はすっと目を逸らした。
「まだ書いてないんですね?」
反応を見る限り、YESだろう。
「では、上に報告しますので」
そうして、私は奇妙極まりないマット博士の家を後にしたのだった。
——————
————————————
「あ、起きた? おはよう」
「おはようございます」
起きたら会社だった。
そういえば、残業したのだったか。
そうか、さっきまでのは夢か。
よく考えてみれば、昭和で絶滅したダンシングフラワーが植わっているわけがない。
きっと、明日有名な某博士に論文の取り立て――ではなく、進捗状況確認をしにいくから、奇妙な夢を見たのだろう。
「そうだ、君、今日の仕事覚えてる?」
「覚えてますよ。論文の進捗確認でしょう?」
上司は、にこりと笑って手を打った。
「そうそう。奇人変人って言われるマット博士だけど、頑張ってね」
「はい」
そういえば、夢に出てきたのもマット博士だった。
白塗りで出てきたら嫌だ。
この後、私は今日の夢が正夢だったことを知った。
天津飯の悪夢 櫻井桜子 @AzaleaMagenta
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