嗚呼、素晴らしき我が同人道

にわかの底力

序章 全ての元凶、始まりの事

【同人(どうじん)】

 それは、ある特定の趣味を持つ者同士の集まりの事である。


 そこには国籍、性別、宗教、その他諸々の垣根は存在しない。同人が同人たりうるには、同じ趣味を有している唯それだけでよいのである。


 しかしながら、趣味人が一箇所に集うとこれがまた厄介、目指すところ同じにして、そう一筋縄ではいかないのが我々の珍妙不可思議な所であり、世間一般に我々のような人種をオタクと称することを許してしまう要因となるところがある。

 趣味と理想を追求するあまり、周囲を見失い、あわや自分まで失念するほどに固定的な観念を生み出してしまう生産性の高さは、彼ら同人の専売特許であり、時たまそれが原因で、同人同士で厄介な衝突を引き起こすのは、同人の然らしむところである。

 そのため、同人の中では様々な暗黙の了解、或いは慣習が存在し、しばしばそれは傍から見て怪しい宗教の胡散らしき神を盲目的に信仰する盲信者のように映ることがある。

 そのような世界に自ら進んで飛び込むような者たちが、普通の人生を歩めてきた訳がないという詭弁に関しては、世間が抱いている普通の概念、普遍性が覆されぬ限り、反論の余地はない。

 しかし、世間様の仰る『普通の人生』を歩んで来なかった者たちにとって、特に創作活動を通して己の作品をより多くの人に認めてもらうことで己の存在を誇示している者たちにとっては、この世界は唯一の救済となり、そうでなくとも、同人には多大な金と時間と労力を費やしてまで、続けるだけの価値があるのだと主張する輩がいるのだから、理解に難いからといって、容易く無碍にしてはならない文化である。

 ともに語らい、ともに罵り合い、時に賞賛され、時に炎上する。浮世から離れて厳しい束縛の下暮らす同人たちは、その理解され難い己の生き様を、自嘲の意も込めて、同人たちの生きながらえる道 ──同人道と呼ぶのだった。




 私、原当麻 里美はらたいま さとみは、熊本出身の外資系会社員男性と、同じ会社に勤めていた現システムエンジニアの女性の間に生まれた一人娘である。

 私が二歳の時に福島に引っ越してきたらしく、熊本での記憶は一切ない。

 家が周りと比べて少しばかり裕福であったこともあり、幼稚園は小学校と付属した私立のところに通っていた。

 私の人見知りの性格は、この頃から既に形成されていたのであろう。

 まだ、異性間になんとも言い難い敷居がほぼ共通認識として設けられる以前の成長過程にて、男女混合の集団をつくりながら、最早集団の境界線も曖昧になるほどに児童が入り乱れたグラウンドを、テラスのフェンスの隙間から名前も顔も思い出せない誰かと一緒に眺めていた。

 歳相応にはしゃぎ合う友人が欲しかったには欲しかったのだが、あの集団に入るにはどうすればよいのか、幼い頃の私には分からなかった。


 小学校に上ると友達が百人できると本気で信じていた。

 実際は、見知った顔が勢ぞろいしただけであった。

 近所の子供たちと遊べる機会は放課後くらい。

 学校と放課後、休日とで、ともに遊ぶ友人が異なるという、やや特殊な環境に置かれ、当時は気にも留めていなかったが、どこか疎外感を感じていたのだろうと今更ながら思う。

 それは私だけ「ちゃん」を付けられて呼ばれるだとか、その程度の些細なことではあったのだが、それでも、友達同士で距離の違いを感じるには十分な要素があったように思える。

 特別孤独を感じていたわけではないのだが、居場所というか、自分の居るべき場所というのが果たしてどこにあるのか、あらゆる社会的集団に属していながら、どこにいても中途半端な立ち位置であることに、もどかしさを感じていた。

 そんな私が、後に私の人生を大いに狂わせた存在に初めて出会ったのは、小学校三年生の頃であっただろうか。

 私は近所の子供の家に招かれた。

 無論、私一人ではなく、その他四、五人に付属するような形で。

 その同級生の家は、父親がとある中小企業の社長であったこともあり、玄関先にエントランスまで備えてあるなかなかの豪邸であった。

 給仕服を身に纏ったお手伝いさんに案内され、向かった場所はリビング。

 赤い絨毯の上に大理石のテーブル、更にはソファまでもが置かれていた。

 壁には当時はまだ珍しかった4Kテレビが掛けてあり、招かれた同級生らは片手に持ったDSを放り投げて、家主を前にテレビのリモコンの争奪戦を始めた。

 当然ながら、家主の同級生にリモコンは取り上げられ、全ては家主の言いなりになった。

 テレビが点いたとたん流れた映像は、放送中の『徹子の部屋』であった。

 女優さんの毛穴まで見えてしまいそうなほどの高画質な画面に、友人たちは歓喜の声を上げた。

 そんな同級生らを尻目に、家主はチャンネルを切り替えた。

 いきなり黒い画面に切り替わり、同級生たちはテンションを落とす。

 家主はお構いなしに、テレビのリモコンを操作すると、『You Tube』という白黒の文字が浮かび上がり、テレビは検索画面に切り替わった。家主はそこに、『ニコニコ動画』と入力。

 「ニコニコ、なんて読むんだ?」「ドウガだろ」

 同級生は聞き覚えのない単語に首をかしげる。

 画面が切り替わると同時、表示されたのは、投稿された数々の動画のサムネイル。

 特に現在表示されているサムネイルには決まって特徴があった。

 それは、サムネイル画面を隠すかのように、色とりどりの文字が画面全体を覆っているという、なんとも奇妙なものだった。

 リモコン保持者は躊躇うことなく上から三番目くらいに表示された動画を選択した。

 この動画が、私が初めて触れたインターネット文化となった。

 読み込みの画面から切り替わると、4Kテレビにはもったいない程低画質な動画が再生された。

 動画の内容は、まったくもって理解できるものではなかった。

 海外の少年が、PCの画面に向かって叫びながら、キーボードを机にたたきつける、ただそれだけの動画だった。

 ただ、この動画には面白い特徴があった。

 画面の右から左にかけて、白い文字が流れるのだ。

 そこには、この少年が発している言葉の空耳であろう単語が紛れていたのだ。

 友人はそれを見て、皆げらげら笑っていた。

 この動画は『ニコニコ動画』なるサイトから転載されたものだという。

 投稿された動画に対して、その動画の視聴者が打ったコメントが、動画内を右から左に流れるのが、『ニコニコ動画』なる動画サイトの大きな特徴らしい。

 動画の内容は、正直一発屋芸人にも満たぬ面白さであったが、流れてくる文字によって幾様の楽しみ方を得られる。

 情報は提供者から消費者へ一方向に流れるものとばかり思っていたが、これが世に聞く『そうしゃるねっとわーく』の双方向的な繋がりというものかと、そんなことを思った。


 小学生でありながら、貴重な放課後をお勉強に費やされるのは、とても面白くなかった。—― 訂正、そのころには既に近所の友人らと公園へ出かけたりすることもなく、かといって家にいたところで特別なにかをするわけでも無く、別に貴重な時間でもなんでもなかったのだが、やはり面白くないものは面白くない。

 それでも、両親は勉強こそ将来自分を輝かせてくれる、そう言い聞かせるように、両親は塾がない日でも、私を勉強机に優しく、丁寧に向かわせ、勉強させられる。

 勉強させられるとは、少々語弊があったかもしれない。

 少なくとも両親は、私に勉強しろとはただの一度も言っていない。

 家に帰ると、部屋が冷房で冷やされ、机の上には紅茶と菓子が置かれている。

 これは母親が置いたものだ。

 時々海外へ出張に行って数か月帰ってこない父親とは違い、システムエンジニアの母親は家にいることが多かった。

 そのため、私の面倒は母が見てくれた。

 私はこの勉強机に置かれたささやかな差し入れを、「あなたは家に帰ったらお勉強をいたす立派な子」というレッテルを貼られたものと思い込み、その期待に応えるべく、嫌なお勉強をこなしていった。

 お陰様で、学校の勉強に遅れをとるようなことは、現在に至るまで経験していない。


 小学三年生の春休み、六年生たちは学校で、翌日控える卒業式の予行演習をしていたと思う。

 私はというと、塾へ行く途中の商店街にいた。

 この日の出来事は、四年経ったいまでも、はっきりと覚えている。

 むしろ、忘れる方が難しいだろう。

 どんと地面が突きあがる感覚、私は一瞬平衡感覚を失い、よろけそうになるも踏みとどまる。

 この間コンマゼロゼロ、ほとんど無に等しい時間に感じたこの感覚を、生涯忘れることはできない。

 ほとんど同時、商店街を行く人々の携帯電話の警報が、一斉に鳴り出す。

「地震です──地震です──」

 通行人が足を留め、魚屋の旦那が何事かといった表情で店の外に出、その瞬間、商店街のシャッターや窓ガラスが大きな音をたてた。

 悲鳴が上がる。

 看板か何かがタイルの地面に強く打ち付けられ、プラスチック片が砕け散る音がどこからともなく聞こえる。

 木造の建築物が大きくしなる度、木が軋む音が、揺れの周期にきちんと合わせて聞こえてくる。

 長い、長い揺れが続く。

 一度治まったかと思えば、更に激しく、唸るような縦揺れが襲う。

 春休み、親子連れの買い物客でにぎわう地元の商店街の、ありきたりな日常風景は、ことごとく破壊された。

 地面が波打ち、真っ二つに裂け、それぞれ別の挙動を見せる。

 その上に立つ商店も、地面からの膨大な力によって引き裂かれ、倒壊。

 頭上からは、商店街を覆うアーチ状のガラス張りの屋根から割れたガラス片が、雨のように降り注ぐ。

 水道管が破裂したのだろうか、地面から噴水のように水が噴き出し、水浸しに。

 各商店の中は、棚から落ちた商品によって洪水が起きていた。


 その日、東北を、マグニチュード九・〇の揺れが襲った。

 そして、この震災は、さらにとんでもないものを破壊していったのだ。


 泣きながら、家に戻った。

 道路に溢れ出た泥水で靴を汚し、また壊れた道路に足をとられて転び、全身どろだらけになって帰ってきた私に、母は玄関まで飛んできて抱き着いた。

 いろいろなことが同時に起こりすぎて、放心状態だった私は、この時ようやく、自分が生きているのだと実感できた。

 風呂は水道管がやられた為水がでなかったので、とりあえずタオルで全身をぬぐった。

 家の中はひどい有様だった。

 キッチンは食器棚が倒れて皿の破片が散乱し、ドアは歪み閉まらなくなり、箪笥は倒れて、中に収納されていた衣類が床を埋め尽くしていた。

 家のテレビは、この時間放送されていたはずの水戸黄門ではなく、情報量が多いニュースの映像が映し出されていた。

 頭にヘルメットを被った男女のニュースキャスターが、手元の原稿を繰り返し読み上げている。その時、母の携帯電話が鳴りだして、テレビから気味が悪い音楽が流れたかと思うと、地面が再び揺れ始めた。

 母は私を抱え、部屋の中央にうずくまった。

 わずかな隙間から、テレビの画面の向こうで、ニュースキャスターが机を押さえながら左右に揺れているのが確認できた。

 学校の休み時間を図書館で過ごした私は、当時三年生ながらにして、この現象についての知識が備わっていた。

 余震─── 一度大きな地震が発生した後、小規模な地震が引き続き発生する現象。

 余震はその後も立て続けに襲ってきた。

 母は、おそらく海外にいる父親と、およそ一時間に渡り話していたが、その間にも余震が襲い、実際には余震と余震の合間に受話器に向かっているような形だった。

 夜になり、割と部屋も片付いてきた。

 外では、救急車、消防車のサイレンが絶え間なく鳴り響いている。

 外の緊迫した空気とは反対に、我が家は落ち着きを取り戻していた。

 まだキッチンが使えないらしく、母は非常食に蓄えてあった乾パンを開けた。

 あまり好みの味ではなかったが、そうもいっていられない状況だということがわかっていたので、我慢した。

 しかし、これが三日続くと、流石に耐えがたい。

 母は、そんな私の内心を察してか、「明日は肉じゃがにしましょう」と私に約束した。


 翌朝、ベッドから起き上がると、母は慌てた様子だった。

「里美、ゆーくんところの学校に行くよ!」

 母はリュックを背負い、キャリーケースを引きずりながら、私の手を引き、外に出た。

 まだ早朝であるにも関わらず、表は近所の年配がたで溢れていた。

「この地域では、現在、避難指示が発令されています。住民の皆様は、指示に従い、速やかに避難を───」

 私たちの横を、スピーカーから大音量の音声を流しながら、一台の軽トラックが走り抜けていった。


 私がはっきりと覚えているのはここまでである。

 この地震により、福島第一原子力発電所の1・2・3号機で炉心融解メルトダウンが発生、その影響で1・3・4号機が水素爆発を起こし、九十京ベクトルもの放射性物質が漏洩、私たちの町を含む、半径20km圏内が警戒区域に指定された。

 私の育った故郷は、近づくことさえ許されなくなった。


 その後、避難所についてからは、ブルーシートの上で生活し、数日経過したところで、自衛隊の方々がいらした。


「いい?聞いて頂戴。これからお引越しをします」

 母にそう告げられたのは、震災から一か月が経とうとしていたころだった。

 千葉へ引っ越すようだ。

 私はあれから家に戻っていない。

 家には、本やら文房具やらが置き去りで、それをとりに行きたいと母にせがるが、母が首を縦に振ることは無かった。


 親しくしてくれたかつての友人たちに別れの挨拶をする間もなく、私たち一家は福島を去った。

 私は四月から、千葉県木更津市の公立小学校で新学期を迎えることとなった。

 生徒の人数は、私が今まで通っていた小学校の二、三倍多い。

 これまで四年間を共に過ごしてきた集団の中に、私が入り込める隙はほとんど無かった。


 公立小学校には、学級文庫なるものが存在していた。

 読書の心得があった私は、休み時間を読書に費やした。

 学級文庫にある本は、小学高学年生から中学生を対象とした、エッセイ本、簡単な哲学の本、推理小説、恋愛小説、図鑑などなど。

 その本たちも、一か月すれば全て読破してしまい、結局、自宅から幾冊か本を持ってくることとなってしまった。

 あくる日、例になぞって本を読んでいたところに、何やら近づいてくる人影が一つ。

「ええ、ええ、わかります。まだ年端もいかぬ少女が、あろうことかドストエフスキーの『罪と罰』など。怪しい、実に怪しい。」

 彼女が動いているところを、私は初めて見た。

 私の二つ隣に席を持つ彼女は、授業中はもちろんのこと、休み時間でさえ、彼女は岩のように微動だにしない。

 かと思えば、学校が終わると突然いなくなっている。

 彼女の生態を明らかにするには、さらなる観察が必要である。

「私なんかに、何の用?」

「そうですねぇ、あなた、連日観察してみますと、お読みになられている本に規則性がありませんね。差し詰め、乱読家、といったところでしょうか」

 まさか、観察されていたのは私の方であった。

 『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』とはニーチェの言葉である。

 妙な話し言葉で語りかけてきたクラスの少女に、私は首をかしげる。

「乱読家だから、なんだとおっしゃるのでしょうか」

「いえいえ、不平不満慨嘆を述べに来たわけではありませんよ。だから、そのような触手の生えたタコを見るような目で私の目を見るのはおやめになってください」

 彼女を見る私の目が不快に感じたのなら謝罪しよう、ただ、触手の生えたタコは唯のタコだ。

 まず彼女は触手の生えたタコを見る目を改める必要がある。

「ただ一つ、貴方に問いたいのは、なぜ故貴方は本を読まれるのかということです。その答えは貴方の口から発せられなくとも、私の脳内推理によって、ある程度は導き出せていますよ。恐ろしく端的に言えば、知識欲。偉大なるアリストテレスは『形而上学』で、「すべての人間は、生まれながらに知ることを欲っする。」と述べていますし、知識を欲することは、人間である以上、もはや必然であるのです」

「なぜ、私がそうだと?」

「簡単なことです。貴方は読書の目的を、知識を会得するための手段として捉えているのですよ。知的な刺激を本に求めるのは、間違ったことではありません。無機質な活字には、その組み合わせにより膨大な情報量を保管するすんばらしい機能があります。活字に目を通すことで、血中知識濃度が増加することにより心拍数の上昇、更に知識欲神経が刺激されることでドーパミンがドパドパ放出され、ああ、貴方はその快楽によって幸福を実感していることでしょう。

 そういう人間は、決まって本を汚しながら読む。ほら、貴方の本、こんなにマーカーが引かれている。一度頭に入れた内容は、いくら読んでも、新たな知識にはならない。つまり、その本が目的遂行のための手段から脱したことを意味している。人の幸福に茶々入れることはどこの業界でも御法度です。しかし、手段としての読書は、読書の本質から大きく外れている。

 読書というのは、本来、そのものが目的なのです。著者の考えるストーリーに沿って物語が展開されていく。貴方のような読み方では、他の著書との比較が入る。異物混入。世界観と、世界観がぶつかり合う。渾然一体」


 これが、私と世にも奇妙な彼女───小野香澄おのかすみとの出会いだった。


「本は、著者と読者の一対一の対話を楽しむもの。貴方のように双方向的なやり取りを好む方は、現代に生きる私たちには、別の手段がありまして」

 インターネット───世界中の不特定多数の人々と、情報を瞬時に交換できる、二流SF作品に登場しそうな、恐ろしく汎用性の高い量子力学の副産物。

 小野香澄のよると、「これらのテクノロジーがあなたの内に秘められた膨大な可能性を存分に引き出してくれるでしょう」とのこと。

 生まれた年も同じ彼女が、一体私の中の何を覗いたというのだろうか。

 などと思いつつも、家に帰ると私は早速、父親のデスクを拝借する。

 パスワードは、お粗末にも机に書かれていた。

 青い画面に、『ようこそ』と白い文字が表示されると、どうしてか少し大人になった気分を味わった。

「こんなところで何をしているの?」

 音もなく部屋に近づいた母に、その日のうちに見つかってしまった。

 始めたばかりのインターネットライフが早々に終わった、今この文章を読んでいる諸君はそう感じたかもしれない。

 しかし、私の辿る人生において、母親が私のやることすることに対して横から槍を突き刺すようなことは、特に千葉へ引っ越してからは滅多になかった。

 母は私に、インターネットの使い方を丁寧に教えてくれた。

 検索の仕方、ブログの使い方、画像の保存の仕方などなど。

 その後も私は、インターネットを通じて、ニュース、日本のサブカルチャー、政治やライトノベルに至る様々な事柄に興味を抱くようになり、知識の輪の広がりは、最早留まることを知らなかった。

 思えばこの時が、母親と一番会話をしていた時期だった。


 小学校最後の学年、これまでの授業科目に加え、新たにPCという授業が組み込まれた。

 学校が用意したPCを使って、カメラの画像を保存したり、検索方法を学んだり、インターネットの特性や、危険性を学ぶための授業だ。

 コンピュータ室にて、偶然にも香澄と隣の席になれた。

 私は彼女に、母直伝のインターネットサーフィンを伝授しようと構えていたが、彼女はネットの海の遥か沖合にいることに気が付いた。

 授業が始まる前の彼女のPC画面には、なんとも殺風景な景色が表示されていた。

 灰色の背景に、黒い文字が途切れ途切れに並んでいる、そんないかにも怪しげな空間を、彼女はただぼんやりと眺めていた。

 私は彼女から、そのいかにも怪しげな空間までの行き方を、懇切丁寧に教えて頂いた。

「貴方の技術スキルがあれば簡単です。2とcとhの順番でキーを叩き、エンターをカツーンと力強く鳴らした初歩に表示された識別記号を、手元のネズミさんで選んで差し上げるだけですわ。ええ、我らのヤフー先輩から、そうですc、h、Enterからのその一番上のそう、そのURLを左クリックしまして──Welcome to underground.」

 彼女はもっともらしい発音で、私の耳元で不可思議な言葉を囁くと同時に、授業のベルが校内に鳴り響いた。


 約一年、昼休憩後のPCの授業開始20分前には、私たち二人は早くコンピュータ室の席につき、もっとも伸びのいい板を覗いては、世の中のどうこう、いろいろ語り合った。

 掲示板閲覧が板についた私が、再びあのサイトと出会うには、大して時間はかからなかった。


「かつてこの場所には、AdobeFlashなる規格がありました。様々なクリエイターが築き上げた礎を、私たちは受け継いでいるに過ぎません」

 ニコニコ動画は、この頃の私には、非常に魅力的に映った。

 SNSの在り方の一つだと思っていたものが実は、今まで触れてきたサブカルチャー、インターネット文化、その重要文化財といえる数々の作品の倉庫だったのだ。

「SNSもといインターネットの利便性は情報の伝達速度にあります。しかしながら、これを見て気が付いたでしょう。インターネットは、時代も世代も飛び越えて、あらゆる座標点に住まう住民と会話ができる、そんな画期的なツールであるということに」

 この出会いをきっかけに、私は中学に進学すると同時、ただ恩恵を享受するばかりではなく、生産する側、あわよくば、創造する側になりたいと、そう心から願うようになった。


 これは、中学生となった私が、一人前の同人作家となるまで、如何にして今後同人としての道を歩むか、その試行錯誤を徒然書き留めていく、ただそれだけの物語である。

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