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暁明夕

セカイ

セカイとはなんだろう。

誰もが人生で一度は辿り着きそうな疑問。

その定義から述べれば自分が生命活動を維持している連続的な空間のことを言うのだろう。

ただしこのセカイには言語があり、それを用いた文学という考え方が存在する。その考え方、所謂文学的に言えば【人生の相当の割合を割いて行ける範囲】であると考える。

つまり、個人差がある物なのだ。大凡日本の中、或いは外国という人間もいるかもしれない。宇宙飛行士だとかいう人間にとってのセカイは宇宙空間にまで広がるのだ。月まで行くのならば世界の範囲は三十八万キロメートル以上に及ぶ。

ただ所詮我らは人間であり、宇宙人などではないのだから、UFOだとかいう高性能なのかもしれない宇宙船に乗って太陽系の外までビューンと行くことはできない。

【世界は広い】とか言う人もいるが、それは人間の一生に於いてなのだ。気が滅入るほど長い宇宙の歴史から見ればそんなセカイなんてちっぽけな物だ。

でも不思議な話だが、そんなセカイの価値はほぼほぼ一緒のように思えてくる。生き様なんて自分のやりたいことをできれば満点が貰える。誰から貰えるかは知らないけれど。

目標を叶えた人間にとってのセカイは美しい物なのだろう。御伽の話のシンデレラだって、カボチャの馬車に乗ってガラスの靴を履いて立派なドレスを着て、舞踏会で王子様と出会って、途中で邪魔が入るが、最終的には結ばれる。そんなシンデレラにとってセカイは煌びやかに見えたはずだ。少なくとも私が今居るこの空間よりは。

私はこの本が立ち並ぶ景色が好きだ。図書室に広がるなんとも言えないあの匂いも。

本とは人に様々なものを与えてくれる。知識、感動、感受性だとか。ページを開くという行為に趣があり、その度に好奇心が湧き、知識を得る。

そんな本が、私は好きだ。

私のセカイが広がるような気がするから。

どんなに長いお話でもその本のセカイは人生と比べてとても短い時間で見て、知って、感じて、考えることができる。

だから私はいつも、本を読むことは得をすることだと考えていた。

そんな訳で私はいつも本を読んだ。雨の日も、晴れの日も、雪の日も。高校生になってからいつも読んでいた。いつもというのは毎日だということだ。

毎日本を読む。すると私は次第に人より文字を目で追うのに慣れていく。それは一年という期間で図書室内の膨大な量の本を全て読むことができるほどまでに。

今のこの一瞬も一冊一冊のストーリーが頭から溢れてしまいそうだ。でもどうやら私はそこに浸っているのが好きらしい。今日もまた一冊手に取れるのだから。

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