無がない世界

天音 いのり

第1話

その朝も、いつもと変わらないように思えた。

耳の奥の方でギンギンと煩いアラームと、対照的に静まり返ったボロ屋の一室。エアコンから溢れ出すカビ臭さというか、一周回って安心感のある臭いというかそういったものが鼻をくすめる。

今日もまた、始まってしまったと憂鬱ながらにいそいそと布団から這い出し、カーテンをスライドさせる。目前の鏡に映る自分は、まるで廃人だった。


そう思った矢先、廃人の影の裏側に視線が移る。ベランダの向こう、狭い路地上に、鮮やかな何か、小さな…それが横たわっていることに気がついた。その時は、それが何であろうと勘ぐるのも面倒に思えて、見なかったことにした。自分には関係ない、と思うことぐらい誰にでもあるだろう。


朝飯もろくに食べず、そこらにあったTシャツを着て、家を出た。


大学に到着した後は、いつもの講義をただ座って聞いていただけだった。何一つ面白くないが、不愉快なこともない。僕の感情を言い表すのに無というのが、最適解だろう。

自分の欠伸の間抜けな音に、妙なものが混じった気がしたのも、きっと無、故のことだ。

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