前夜屋

和來 花果(かずき かのか)

第1話

 目の前の男には三分以内にやらなければならないことがあった。すなわち、風船を三個ふくらませることだ。そんなの簡単だと思うかもしれない。そうだな、最初の十分くらいは余裕かもしれない。

 でもそれが、一時間も、二時間も、はたまた命が尽きるまで永遠に続くとしたら?


 ピピピピ、ピピピピとタイマーがなる。僕はタイマーをいったん止めて、またセットした。


 目の前の男が、ケホッと乾いた咳をした。咳まで遠慮がちに聞こえて、申し訳ないような気持になる。

 咳が出るのは仕方がない。かび臭い、じめっとした陰鬱な空気が、よどんでいるのだから。この地下室には窓も空調もないから、空気が動かないのだ。


「おい、休まず膨らませろ」と僕のボスは情け容赦なく、男に言い放った。そればかりではなく、手に握っている銃を振って、早くしろと促す。男はおびえた顔で、ふたたび風船をくわえた。


「あの、喉が渇いたんじゃないですか? 水でも」


 たまらず、ぼくはタイマーを止め、床にだらしなく転がっているビニール袋の中から、水のペットボトルを取り出した。


「ははっ! 末期の水、ってやつだな。いいよ。喉をいためたら、風船を膨らませるのにも都合が悪いしな」とボスは言って、自分はビニール袋の中からビールの缶を取り出してプシュッと景気のいい音を立てた。


「ほら。今のうちに」と僕は男にささやいた。「こんなことしかできなくて、すみません」


 男はホッとしたような顔で、僕を見た。「いいんですよ」というように首を振ると、震える手でペットボトルを受け取った。


 力なく水を口に含む男とは対照的に、ボスは缶ビールに口を付けて、ゴッ、ゴッ、と景気よく喉を鳴らした。プハッと息を吐くと、手の甲で口を拭い、ビニール袋に手を伸ばした。


「ビールを飲んだら、腹が減ったな。今、何時だ?」

「ええと、七時半です」


「うしっ」と、ボスは掛け声をかけて「じゃあ夕飯にするか」と、ビニールからお弁当やおにぎり、サンドイッチなどを取り出して、床に並べた。


「お前も食え」と男に促す。「その膨らませている途中の風船は、目玉クリップで空気がもれないように留めておけよ」と指示をする。


「はい……」と、男は素直にうなずいて、言われたとおりにΩ《オメガ》の形の大きなクリップで風船を留める。そして、お尻で床をこするようにして、ズルズルと移動してきて、おにぎりを手に取った。


「おい、なにも一番安い梅干しを選ぶことないんだぞ。好きなのを食べろよ。最後の晩餐なんだから」


「食欲がなくて」と、男はボソボソと返事をする。返事もしたくない気分だろうが、しなければ何をされるかわからないと怯えているのだろう。


「無理もないよなあ。お前の命は明日までなんだから」


 男はさすがに返事はせず、ただ黙ってうつむいた。


「あのう。でもこんなもの、需要なんか、あるんでしょうか……?」と男はちらりと部屋の隅に目をやった。


 天井のコンクリートに埋め込まれているLEDライトが、スポットライトのように無数の風船を照らしている。すべて男が膨らませたものだ。

 風船にはひとつひとつ、ラベルが貼ってある。ラベルには、十六時間前、十五時間前、十四時間前と書いてある。そして男が先ほど膨らませていた風船には、 十三時間前というラベルが付いている。


「需要は大ありだ。安心しろ、安値じゃ売らねえ。うんと高値をつけてやるから」と機嫌よく言う。


「私はべつに……」と男が力なくつぶやく。それはそうだろう。むしろ自分の死を代償に、他人が儲けるなんてイヤなはずだ。


「お前が前夜缶を知らないのも無理はない。確かに庶民には手が出ない代物だからな。金持ち市場にしか出回っていないんだよ。

お前が自分の死が無駄になるんじゃないかと心配するのも無理はねえよな。

よし! じゃあ、大サービスだ。お前が死ぬ前に、なんでもひとつだけ、前夜缶を味わわせてやる」


「え、本当ですか?」と男が顔をあげた。目にわずかながら期待の光が灯る。

「男に二言はねえ。さあ、どんな『前夜の気分』が味わいたいんだ?」


「ねえ、ボス。以前から思っていたんですが、なぜ前夜の気分なんですか? 当日の気分の方がいいじゃないですか」と、僕は口を挟んだ。


「あのなあ。思い出してみろよ。遠足の前の日、楽しみで眠れなかったりしなかったか? 運動会の前の日、デートの前の日の夜。ワクワクドキドキがピークなのは、なんてったってイベントの前夜なんだよ」


 男は顔を輝かせて、おにぎりにかぶりついた。これから味わう前夜缶を思い浮かべたのだろう。


「当日も楽しかったですよ、僕は」

「わかってねえなあ。考えてみろよ。楽しい遠足の真っ最中に、風船を膨らませなきゃならない。どういう気持ちになる?」


「楽しさがふっとんで、イライラだけになりますね」

「そうだろう? そんな気持ち、誰も欲しくないんだよ。日頃から自前で似たような気持を味わっているんだから」

「なるほど……」


「でも誘拐されて、明日殺される……、そんな気分も誰も味わいたくないんじゃないですか……?」と男が期待を込めて、おずおずと言う。もしかしたら、誰も欲しがらない気分だと、この男を説得できれば、命が助かるかもしれない、と思っているのだろう。


「そこが素人の考えよ」とボスは優しく言った。「サスペンス、ホラー映画、ジェットコースター。人間はスリルが大好きなんだよ。安全が保障されていればの話だけどな」


「誘拐されて銃を突きつけられ、『明日の朝、お前を殺す』そんな予告をされた奴の気分を、自分の家で、安全に味わえる……。さらに、だ。人間はどんな時でも、ほんのわずかな希望を持っているもんだ。お前もそうだろ? 誰かが気が付いて助けてくれるかもしれない。チョッピリやさしいコイツが」とボスは僕の肩を抱き寄せて言う。


「もしかしたら逃がしてくれるかも、とか。はたまた。俺が欲しがっているのは、前夜の気分だ。なにも本当に殺す必要はないんだから、明日になったら解放してもらえるかも、なんてな?」


 ボスはからかうように言ってから、男の目の前で手をひらひらと振ってみせる。


「ないから、そんなこと」


 気の毒な男の手が、胡坐をかいた太ももの上にパタッと落ち、おにぎりが床に転がった。男の目から涙がこぼれた。


「泣くな。泣くと、風船を膨らませられないだろう?」


 男は突然、涙に濡れた瞳でボスをにらみつけた。そして立ち上がったかと思うと、猛然と風船に向かって突進し、手近な風船をバンッと割った。


「あっ、もったいない! お前、なにやってるんだよ!」とボスは叫んで、男をあっという間に捕まえて、手足を結束バンドで縛った。


「『前夜の気分缶詰』を作るのに、いくつ風船が必要だと思ってるんだ」とブツブツ言っている。


「いくつ必要なんですか?」


「一時間で膨らませた風船で、せいぜい三つか四つ、缶詰が出来るくらいだ」


 チンッと電子レンジのような音がして、沢山の風船の間から、コロンとジュースの缶詰のようなものが転がり出て来た。


「お、一個目が出来たな!」とボスは嬉々として缶詰を拾い上げた。


 ボスが缶詰を拾い上げたはずみに、部屋の一角を埋め尽くしていた風船がふわふわと動き、その下に隠れていた機械が顔を出した。冷蔵庫を横に倒したくらいの大きさだ。


 この機械に、イベント前夜の気分を吹き込んだ風船を仕込むと、空気に含まれた気分の成分が抽出、凝縮されて、缶詰に充填される。そして出来上がった缶詰をあければ、いつでもどこでも詰め込まれた気分を味わうことができるのだ。


「誘拐殺害前夜缶、いくらで売ろうかなあ」

「ボス、今の気分を風船に吹き込んだらどうでしょう? 億万長者になる前夜の気持ちが採取できますよ」

「いいこと言うな! じゃあ、弁当食べたら吹き込むか!」


 ボスはニンニクの芽がたっぷりと乗った焼肉弁当をかき込んだ。


「缶詰が臭くなりませんか?」

「大丈夫だ。脱臭装置は万全だからな」


 男は泣き止む気も失せたようで、グズグズと鼻を鳴らしている。


「おい、泣くなよ。お前が死ぬ前に、どんな気分だって味わわせてやるから」

「じゃあ……、結婚式の前の日でお願いします」と男は言った。


「おとなしく風船を膨らませるなら、結束バンドをほどいてやるぞ。風船を膨らませるのに、風船を支える手伝いをするのも面倒だし」


 男はコクリとうなずいた。どうせ逃げられはしないのだ。死ぬなら楽しい気分で死にたいと思ったのだろう。


「風船、ふくらませておけよ!」と言い置いて、ボスは結婚式前夜の気分の缶詰を取りに、地下室を出て行った。


 ボスが虹色のラベルの缶詰を手に持って戻ってきた時、男は顔を真っ赤にしながら、風船を膨らませていた。


「お、がんばってるな」と、ボスは満足げにうなずいた。

「この缶詰の気分を味わいながら、死ねるぞ」と缶詰を見せびらかす。

「あっ! その缶詰は」と僕が言いかけると、ボスは無言で僕の背中を、ゴツッとげんこつで殴って黙らせた。


 この虹色のラベルの缶詰は、結婚式前夜の缶詰であることに間違いはないが、リコール品なのだ。

 缶詰の元になる息を吹き込んだのは、結婚詐欺師だった。


 詐欺師は財産目当てで結婚を決めた。豪勢な新婚生活を満喫しつつ財産を乗っ取り、さらに慰謝料もたんまりとせしめて離婚する計画だったのだ。しかしフタをあけてみれば、結婚相手には、財産がなかった。


 そして三十四歳だと話していた結婚相手は、実は六十二歳だった。なお、詐欺師は三十五歳。


 そんなバカな、と思うかもしれないが、莫大な財産がなくなった理由が、若さと美貌を手に入れる美容整形を繰り返したためだと聞けば納得がいく。


 結婚前夜に真実を知った詐欺師だったが、契約済みだった前夜缶の仕事はもちろんこなした。


 詐欺師は、自分が風船に吹き込むのは楽しい気分ではないと、当然、自覚していたが、結婚前夜の息であることには間違いない。詐欺師にとっては、むしろ詐欺でもなんでもない真っ当な仕事だったし、しかも高額報酬だったからだ。


 出来上がった結婚前夜缶は、当たり前だが不評だった。不思議に思ったボスが、詐欺師を問いつめたことから事情が判明し、初めてで唯一のリコールをしたという、いわく付きの前夜缶なのだ。


「これだって、結婚前夜缶で間違いないだろ?」とボスは得意気に言った。


(死ぬその瞬間に絶望的な気持ちを味わわせようとするなんて、詐欺師よりひどい……)と、僕は思った。


 虹色の缶詰は、いかにも貴重なもののようにうやうやしく、前夜缶製造機の上に置かれた。


 男は缶詰を眺めてはせっせと風船をふくらませる。

 ボスも億万長者前夜缶を作ろうと、せっせと風船をふくらませている。


 二人の気持ちは真逆だが、どんな気持ちも鮮度が大事なので、僕は前夜缶製造機に休まず風船を放り込んでいく。


 結婚前夜の気分が味わえると思って、彼が期待をふくらませているに違いないと思うと、僕の胸は罪悪感で膨れ上がって、はち切れそうになるけれど。


 やがて、風船をふくらませるのに疲れて、ボスと男は眠ってしまったが、ボスは寝る前に、男と自分を手錠で繋いでいた。


鍵はボスの胸ポケットの中だ。いくらボスが無神経だといっても、胸ポケットを探られれば目を覚ますだろう。銃はズボンの後ろに挟んである。やはりボスを起こさずに引き抜くのは難しい。


 僕は眠り込んでいる二人を見ながら考えていた。

 前夜屋に就職したのは、悪事に手を染めるためではない。幸せな気持ちを多くの人に届けることができる……、そんな素晴らしい仕事だと思ったからだ。


(辞めよう)


 二人が寝ている間に、僕は逃げ出すことにした。

 男を残していくのは気がかりだったが、ボスは寝る前に、男と自分を手錠でつないでいた。手錠の鍵はボスの胸ポケットの中だ。いくらボスが無神経だといっても、胸ポケットを探られれば目を覚ますだろう。


 さらに銃はボスのズボンの後ろに挟んである。やはりボスを起こさずに引き抜くのは難しい。

 つまり、鍵も銃もボスを起こさずに奪うのは不可能だ。


(ごめんなさい……)


 僕は地下室の出口で振り返り、手を合わせた。





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