第19話

「……ありがとうございます、三波先生」

「いやいや、落ち着いたようで何よりです。ほんと、悪酔いすると大変ですよね」

「私、こんなこと初めてで、かなり取り乱してしまいました……」


 彼女の目元は赤くなって腫れている。

 可哀そうに、鼻も赤くなって……。

 

 何気なく彼女に手を伸ばし、指先で鼻頭を撫でる。

 原田先生の表情の変化は劇的だった。

 ただでさえ赤い顔が、燃え上がりそうなほどに赤面していく。


「なっ……なな!?」


 原田先生が目を白黒させる。

 私から逃げるように一歩足を引こうとして、彼女は体勢を崩した。


「おっと!」


 危うく、私のせいで転ばせてしまうところだ。咄嗟に彼女の腰に手を回して身体を支える。

 女性の私でも簡単に片手で抱き留めることができるほど、彼女の身体は軽かった。少し心配になる軽さだ。

 腕の中から解放すると原田先生はフラフラとしていた。

 まだ少し足元も覚束ない様子。きっと体調が良くないのだろう。

 

「すみません! 鼻が赤かったので、思わず……。とりあえず、冷えたお茶でも飲んで涼みましょうか」

 

 今は夏の暮れと言えど、それなりの暑さだ。

 水分補給は重要…………あれ?


「もしや、原田先生、今日は飲み物をあまり飲んでいないのでは?」

「え……職員室でコーヒーは飲んでましたけど……」


 コーヒーは利尿作用があるから、むしろ水分が抜けていく。

 夏場にカフェインを含む飲み物は、油断していると脱水症状にもなりかねないのだ。


「コーヒーは水分補給にはなりません。むしろ、逆効果です。もしかして、コーヒーばかり飲んでましたか?」

「えっ……集中したいときは、コーヒーばっかり飲んでました。今日は、特に……」

 

 なるほど、疲れている上に、カラカラになった体へアルコールを注ぎ込んだわけだ。

 そりゃあ、悪い酔い方をする。


「原田先生、脱水症状ですよ。夏場はもっと気を付けなきゃ」

「う……すみません…………」


 反省する姿がどうにも可愛い。

 ダメだ、原田先生を完全に子ども扱いしてしまう。

 いや、今はそんなことよりも飲み物だ。このままだと更に酷いことになりかねない。


「今はお茶よりも塩水がいいですね。少し座って待って居てください」

「い、いや、流石に私が……」

「良いから動かない!」


 少しキツく言うと、彼女はしょぼくれた顔で座った。


「まだ体調は良くないでしょう? 座ってるのも辛かったらベッドで横になってください。シーツは代えてありますから」

「……はい……ありがとうございます」


 やっぱり、まだ体調が優れないらしい。おそらく、今も脱水状態だ。

 これ以上酷くなる前に気づくことができて本当に良かった。下手したら病院に行く必要もあった。


「今日は、このまま家に泊って行ってください。?」

「……はい」


 少し語気を強めて言うと、彼女は素直に頷いた。


「じゃあ、これ、塩水です。常温ですが、胃に負担をかけないように我慢して飲んでください。念のため、冷却シートも貼っておきましょう」


 棚の奥から引っ張り出してきた冷却シートを、彼女のおでこに張り付ける。

 

「すみません、何から何まで……」

「いいんですよ。困ったときはお互い様です」


 大して考えることもなく、決まり文句を口にする。

 けれど、彼女の表情はまた曇ってしまった。


「三波先生の手助けになることなんて……私にあるんでしょうか?」

「私は大した人間ではないので、至らないことだらけです。何かと手を貸していただく機会はあると思いますよ」


 私は、毎日ご飯を作ることすらできない。女子高生の家に上がり込んで、手料理を振る舞ってもらうダメな大人だ。

 

「三波先生は、何でも一人でできるじゃないですか。困っている姿なんて見たいことないです」


 今さっき、困りまくっていましたけどね?


 でも、そういうことではないだろう。

 たしかに、私は学校に居るとき、明らかに慌てた様子を表に出すことは少ないかもしれない。

 それは、意図的にそうしているから。

 学校の私は、生徒たちのなのだ。あたふたした姿を見せて、頼りないと思われないために必死で取り繕っている。

 実際のところは、それなりに困ることも多いし、内心では冷汗が止まらない場面もある。


「仕事をしているときは、理想のペルソナを演じていますからね。本当の私とは違います」

「ペルソナ……?」

「教師というになりきっているんですよ。生徒たちに慕われたいが為に、カッコつけることに必死なんです」

「……でも…………」


 原田先生は一度沈み込むと、いつまでもネガティブなタイプなのかもしれない。

 明るい性格だと思っていただけに意外だ。

 でも、似たような人を知っている。いじけたリホさんがこんな感じだ。

 

 リホさん相手なら、遠慮なく抱きしめて撫でまわすのだけれど……。

 なんでだろう、原田先生にそんなことをしたら、私の命に関わる危険がある気がする。

 気のせいだよね?


 気のせいだと思うけど、原田先生が嫌がると思うから、ボディタッチはやめよう。

 うん、そうしよう……。

 

「じゃあ、新人時代の恥ずかしい話でもしましょうかね」

「え?」


 原田先生が戸惑ったような声を出すけれど、気にせず話を始める。

 

「私が教師になってから初めてのテスト期間の話です。生徒たちから預かった回答用紙 1クラス分を丸っと無くしてしまいましてね。もちろん、解き終わったやつを」

「ええっ!?」

「いやー、あわや生徒たちに問題を解き直してもらう大惨事でした」

「どうしたんですか、それ?」

「隣の席の引き出しから出てきました。自分の席に仕舞ったつもりが、席を間違えていたんですよ。職員室って、席がゴチャゴチャしてるじゃないですか。どうにもアレが慣れなくて」

「よ、よかったですね」

「いや、本当に。でも、無くしたと思ったその日は、生きた心地がしなかったですよ。他の先生たちにも探してもらって……。教師生活の最初で最大のミスです」

「本当の話ですか……?」

「今度聞いてみるといいですよ。きっと、皆さん覚えています。ああ、恥ずかしいので、私がいないときにお願いしますね」

「……はい」


 たぶん、この失敗があったからこそ、新人の私は職場に馴染むことができた。

 今となっては、私が気を張りすぎて若干浮き始めていたらしいけど……。

 

「そんなわけで、今のところ大した失敗もしていない原田先生は、私なんかよりも、よっぽどしっかりしてます」

「そう……なんでしょうか」

「そうですよ。新人で大きな失敗をしないっていうのは凄いことです。皆さん、聞けば何かしらの失敗談を持ってますよ」

「なら……私もそのうち……」


 表情が冴えない原田先生に、私は可能な限り明るい表情で笑いかける。

 ――リホさんのヒマワリのような笑顔を思い出しながら。


「大丈夫ですよ! 原田先生が失敗したら、私が全力で助けてあげますから!」


 目を見開いて驚いた顔をしたあと、結局、原田先生は泣いてしまった。

 

「よ、よろしく……おねがい、します……」


 なんとか励ますことができただろうか。

 リホさんは傍に居なくても、私を助けてくれるらしい。

 次に話すときは、ちゃんとお礼を言わないといけない。

 それに、もっと大事な話も……。


 原田先生は、泣き疲れると泥のように眠りについた。

 

 もちろん、ベッドはお譲りしたので、私の寝床は床になりましたとさ。

 ――めでたし、めでたし?

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