第2話

 勝負の日の朝というのは、不思議と早い時間に目が覚めるものだ。

 早朝に起きて、歯を15分もかけて磨いた。それから、家を出る予定の2時間前には準備を始めて……。とにかく、ずっとそわそわしていた。

 リホさんと会う約束をしてから、一週間だ。今日までの日々は、あっと言う間に感じた。

 今はもう、約束の場所に到着済み。予定では11時集合だったのだけれど、今は10時半。少し早すぎたかもしれない。


 「流石に、まだいないよね……」


 辺りを見渡すが、分かるわけもない。お互いに写真を送り合っても居ないのだ。

 私からは、とりあえず、ベージュのワンピースで行くとだけ伝えてある。

 リホさんからは見た目の情報が全く無い状態だ。着いたらメッセージを送るとだけ言われている。

 今か今かとメッセージを待ち、携帯の画面を凝視していると、突然に声を掛けられた。


 「えっ……! 三波先生?」


 教え子の松風さんだ。駅前の広場なんて誰でも来る場所だから、知り合いに出会っても可笑しくはない。でも、今は会いたくなかった。

 内心を悟られないように、いつも通りを心がけて返事をする。


 「あら……松風さん。こんにちは」

 「こ、こんにちは……。えと、彼氏さんとデートとか?」

 「あはは……。違いますよ。と待ち合わせです」

 「へー……。あの、実は、あたしも、ここで待ち合わせで……」

 

 最悪のパターンだ。もっと人が少ない場所で待ち合わせれば良かったと後悔した。

 しかし、どうも松風さんの方も誰かに見られるのは気まずいようで、らしからぬ程に動揺が顔に出ている。

 

 「なんか、ごめん。急に声かけちゃって。あたしは別のとこ行くから……」

 

 教師として、大人としては、自分の都合で子供を追いやるなんてあってはならない行動だ。

 しかし、脱兎の如く走り去る松風さんに声を掛けることも出来ず、私は取り残されてしまった……。

 

 ――少しすると、リホさんからメッセージが来た。


 『ごめんなさい。集合場所を変えても良いですか?』


 突然の提案だったけれど、私としても、先刻の出来事から早々に移動したい気持ちがあった。


 『いいですよ! どこにしますか?』

 『ありがとうございます。今、位置情報を送るので、そこまで来てもらえますか?』


 言葉通り、すぐに位置情報が送られてくる。見れば、今いる場所から歩いて三分ほどの、裏路地にあるカフェの前だ。


 『場所分かりました! すぐ向かいますね!』

 『急なお願いですみません。私はそこに居るので、来ていただければすぐに会えます』


 適当にスタンプを送って、私は新たな目的地を目指した。


 ――――嫌な偶然というのは重なるモノなのか……。


 そこには、松風さんが立っていた。


 「嘘……」

 「ぐ、偶然ですね……松風さん…………」


 まさか、またしても松風さんに遭遇してしまうとは思わなかった。

 

 ……いや、でも、裏通りの小さいカフェなだけあって、そこには彼女しかいない。

 確か、リホさんは現地に居ると言っていたような?

 

 私が狼狽えていると、松風さんから言葉が発せられる。


 「もしかして、ハルさん?」

 

 私は彼女に何を言われたのか、理解するまでに、たっぷりと時間を費やした。


 「リホさん……なの?」


 どうやら私は、出会い系サイトで教え子を釣ってしまったらしい。


━━━


 私とリホさん――松風さんは、待ち合わせ場所のカフェに入り、コーヒーとココアを頼んだ。

 店内は閑散としているが、お通夜のような空気感の私たちには丁度いい。

 何を言えばいいのか分からず、とりあえず熱いコーヒーを喉に流し込んでいると、ココアの入ったマグカップを両手で抱える松風さんが、言葉に詰まりながらも語り始める。


 「今まで、自分の事とか、……何も言えなくて、ごめんなさい。あたしがまだ学生だって知ったら、社会人のハルさんは、私の相手をしてくれなくなるんじゃないかと思って……。でも、今まで話したことは全部本当で……。だから、その…………」


 今までの事が、嘘になるわけじゃない。そう言いたいのだと思う。私も、そう思いたい。

 でも、目の前の松風里穂は、私の生徒だ。

 教師として、社会人として、彼女との交流は学校内に留めるべき。理性が、私にそう訴えている。


 ――でも、本能はリホさんを求めている。


 常識的な理屈と、一人の人間としての感情的な思いで、意見が食い違っている。

 筆舌に尽くしがたい胸の内の苦しみが、何かを吐き出させようと喉元までせり上がってくる。気が付くと、カップを包む掌に、ジワリと嫌な汗をかいていた。

 何かを言わなくてはならない、その気持ちだけで一言を発した。

 

 「私も、……嘘を吐いたことは無いですよ」


 これまでの事にという確認。

 咄嗟に出たのは、教師としての言葉ではなく、ただの三波千晴の言葉だった。

 まだ碌に話してもいないのに、私の口の中はカラカラに干上がっている。咄嗟に、コーヒーを飲もうと思ったけれど、カップの中はもう空だった。

 ふと視線をリホさんに送ってみれば、彼女は少しだけ安心した顔をしていた。


 「学校では、これまで通りにするよ……。でも、それ以外は、関係を続けられないかな?」


 教師と教え子という関係の話ではないだろう。これまで毎日のようにチャットツールで話し合ってきた二人の関係。

 でも、『関係』などという言葉を使われてみれば、果たして、私たちはどういう関係だっただろうか。

 人には言えない秘密を共有しあった同士。気兼ねなく話すことができる友人。出会い系アプリで知り合った、タイプの女性……?

 

 ――いや、違う。


 私たちは、新しい関係を築こうとしていたんだ。

 今の私たちに言葉で表せる関係なんてない。

 なら、まだ間に合う。ただの教師と生徒にもなれる。

 

 引き返すなら、今だ。


 「ごめんない。これからも私は、貴方の先生です」


 は、静かに涙を流していた。


 その後、私たちは会話もなく別れた。

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