春が似合わない僕らの話

羽井つかさ

春が似合わない僕らの話

 ガシャン、という大きな音の後に、何かが盛大に倒れる音と、大勢の悲鳴が聞こえた。ホームルームの途中だった僕らは、突然隣の教室で始まった騒ぎに思わず身を固くしたが、すぐにまたかと目を交わし合った。話していた担任も口を閉ざし、張りつめた静寂が広がる。全員の視線が自然と廊下に集まった。


 思った通り、騒ぎのあった教室のほうから青髪の男子生徒が歩いてきていた。服の上からでも分かるほどの細さに対し、身長は異様に高い。一番廊下側の列に座る僕は、興味のない風を装ってひらいていた塾のテキストに目を落とし、それからガラスの窓越しにちらりと外を見やった。青髪はちょうど僕の横を通り過ぎるところだった。薄い眉毛の下の目と視線がぶつかる。誰もが恐れるその黒い瞳に一瞬だけ見つめられて、僕は身をこわばらせた。糸のような形をした目は一見笑っているようにも見えるが、蒼白い顔はなんの感情も表してはいない。足音が遠ざかっていく。


 彼の姿が完全に見えなくなってから、担任は思い出したように話を再開した。僕らはおとなしく聞いていたが、誰の意識も、もしかしたら担任本人のものも、すでにその場にはなかった。


 隣のクラスには、木谷麗という問題児がいる。聞くところによると入学早々、上級生の集団を殴ったらしい。学校には来たり来なかったりで、たまに来れば大概さっきみたいな騒動を起こす。どうやらずいぶん気性の荒いやつらしく、教師や生徒のささいな言動につっかかっては物や人に当たる。着崩した制服に大量のピアス、トレードマークの鮮やかな青い髪もあいまって、今では学校中の人々に敬遠されていた。


 大して中身のない担任の話を聞き流しながら、僕は眼鏡を押し上げて再度テキストを見つめた。こんなときでも自分の動作がわざとらしいことに、軽い吐き気を感じた。


***


 部室として使っている空き教室の扉を開けると、案の定、一人の男子が入り口前の机で寝ていた。やけにきれいな通学鞄が枕にされている。扉の音で目が覚めたのか、大きなあくびとともに、つっぷしていた上半身がのそりと起き上がった。頭にかぶさったパーカーのフードのあいだから、鮮やかな青い髪が覗く。


「久しぶりやな、平野くん」


 口をひらいた木谷の声音は、まだ眠気を含んでいた。


「来てたんや」

「目合ったやろ。とぼけんな」


 木谷の席から右に二つ、後ろに一つずれた机に荷物を置く。数学部である僕は、放課後、この教室で大会の過去問や何かを解くのを日課としている。


「また机蹴ったやろ」

「やっぱ気付いてたんやん」

「壊れるからやめたほうがええよ」

「ちゃんと加減はしてるって」

「じゃあええけど」

「ええんかい」


 お前って変わってるよな。木谷が呟くが、間違いなく校内一の変わり者であるこいつにだけは言われたくない。


 三年生が引退して以来、僕しか部員のいなかった数学部に木谷が入部してきたのは、夏休みが終わってすぐのことだった。あとから分かったことだが、隣のクラスの担任がどうにか木谷を更生させようと、部活に入ることを勧めたらしい。普段はろくに注意もできない教師がなぜそんなことをしようと思ったのか、なぜ木谷がそれに素直に従ったのか、そしてなぜわざわざ数学部を選んだのかは、いまだ不明だ。


 悪名高いことこの上ない新入部員に、もちろん初め僕は縮み上がったが、木谷は特に何もしてこなかった。何にでもすぐにキレて暴れるという噂を疑うほどに。最初は、ふらりとこの教室に現れてはさっきのように机につっぷして寝て帰るだけだったけれど、しばらくすると暇を持て余したのか、たまに僕に話しかけてくるようになり、殴られるのが怖くて僕もそれに答えるようになり、そうして僕らの間の距離は少しずつ縮まっていった。なぜかは分からないが、この人気のない四階の教室で会う木谷は、話に聞くよりも穏やかな空気をまとっているような気がした。僕がここを自分のフィールドのように感じているからかもしれない。


 そういうわけで、木谷は時々放課後をこの教室で過ごす。変なところで律儀というか、学校に来た日は毎回顔を出しているようだ。


「今日も真面目にお勉強ですか」


 鞄から参考書を取り出した僕を見て木谷が言う。鼻の上の眼鏡を押し上げて僕は答える。


「数学部やからな」

「でも部活やろ?ええんか、活動内容が毎日毎日机に向かうだけって」

「そういう部活や」

「おもんな」


 何を面白いと思うかは人それぞれだ。というか、そのおもんない弱小数学部に木谷のようなやつが所属していることのほうがおかしいのだ。


 ため息をついた木谷が前を向いたのを見て、僕は参考書の横に筆箱を置いた。その右下に問題集を広げて、一昨年の過去問に取りかかる。頭上の蛍光灯が切れかけて点滅していた。罰が悪くてチクリと痛んだ胸を、ごまかすように目の前の黒い文字の羅列を見つめた。


「もう春やなぁ」


 しんとした教室に木谷のしゃがれた声が響いた。


「別れと出会いの季節やなぁ」


 まるで現在進行形で季節の移ろいを感じているかのように、しみじみと語尾を伸ばす。僕は埃っぽい空気を吸って小さくため息をついた。


「それ言いたいだけやろ」

「なんでよ」

「いや、このクソ寒い部屋のどこに春感じてんねん」


 上のほうの階にあるからか、この教室には暖房が設置されていない。それどころか、老朽化できちんと閉まらなくなった窓から冷たい隙間風が入ってくる。春を感じる要素なんかどこにもない。


「こういうんは気の持ちようやで」

「…そうか?」

「もう三月なんやから、暦の上では春やんか。春、別れと出会いの季節やでぇ」

「分かったって。さっきからなんなん?ドラマの受け売り?」

「ちゃうわ」

「僕ら高一に、別れも出会いも大して無いやろ」

「現実的ですねえ」


 悪いか。そう思ったけど言わなかった。


***


 その後も僕らは各々「活動」を続け(僕は一人机に向かい、木谷はひたすら眠り続け、たまに目を覚ましてはスマホを見たり、僕に絡んだりして)部員二名の数学部は適当な時間に解散となった。最初の頃は木谷からできるだけ離れた席を選んで座っていたが、わざわざ入口から遠い席を使うのも面倒になり、今では木谷の席から斜め後ろ、プラス右に一つずれた微妙な場所が、僕の定位置になっている。若干座るところが近くなったからといって、お互いの過ごし方は変わらない。放課後以外は接点もないし、まれに日中、廊下ですれ違うことがあっても声はかけない。そもそも、僕と木谷ではあまりに生きる世界が違いすぎる。交わらないはずだった僕らの線に、何かの拍子で交点ができた。ただそれだけのことなのだ。だから今のこの微妙な距離が、僕らには一番適している。


 そう思っていたから、その数週間後、四階の教室に現れるなり木谷が言った言葉は、僕にとって完全に想定外ものだった。


「平野くん、アイス買いに行かへん?」

「……今日は遅かったな」


 突然扉が開いてびくりとしたのをごまかすように、問題集の上で腕を組んだ。授業を抜け出してここで寝ていることもある木谷が、この時間になってから来ることは珍しい。もう窓の外は暗くなりかけている。


「センセに呼ばれててん」

「またなんかしたんか」

「今回はちゃうで。むしろしてなくて呼ばれてた。なあアイス買いに行かへん?」

「今日はいい天気やな」

「めっちゃ曇ってるわ!謎のボケやめてえや!なあ平野くん、アイス買いに行こうや!!」

「…なんで?」


 ちなみに今日の気温は七度だ。暖房のないこの部屋で、僕は制服の上からコートを着込み、首にはマフラーを巻いている。


「俺今めっちゃアイスの気分やねん。なあ、一緒に買いに行こ?」

「寒くないん?」

「アイスに寒さとか関係ないねん。コンビニ入ったらあったかいやろ」

「一人で行けよ」

「だって寒いし」

「やっぱ寒いんやん。てか二人で行っても寒いのは変わらんわ」

「ちゃうねん、心の話やって」


 訳が分からない。


 正直、予想だにしなかった事態だ。どう動くのが最善だろうか。教室前方にある黒板を見つめながら、数秒間、頭をフル回転させる。外には行きたくない。腹も大して減ってはいない。しかし木谷が簡単に諦めてくれるとも思えないし、断って機嫌を損ねられても困る。ついでに、糖分には一日酷使して疲れた脳が惹かれている。……仕方がない。


「…ちょっと待ってて」

「よっしゃあ!」


***


「もう、真っ暗やんか」

「ごめんって。思ったより難しい問題で」


 数時間後、僕らはそれぞれアイスクリームを手にコンビニの駐車場に立っていた。時刻は午後八時。暦の上では春といっても、さすがに辺りは暗く、空気は冷たい。吐いた息で微かに眼鏡が曇った。隣で木谷がばりばりと袋をあけ、大きな口でかぶりつく。


「んー、冷たっ!」

「当たり前や」

「でもうまっ!」


 僕も同じアイスの包装をあけた。本当は、やっぱり寒いから肉まんか何かを買おうと思っていたのだが、これがうまいと何度も勧めてくる木谷に押し負け、結局同じものを買ってしまった。


 冷たいのを覚悟して、そろりと一口かじる。唇がひやりとして、口の中にバニラの甘さが広がった。


「うまいやろ?」

「うん」


 気温七度の三月に、他クラスの不良と並んで、同じアイスを食べている。改めて変な状況だと思った。店内からもれる白い光で、アスファルトに二人分の影がぼんやりと映し出されていた。


「あー、夕飯どうしようかな」

「今アイス食ってるやん」

「いや関係ないで。これはおやつやん。平野くんはどうする?」

「僕は塾で食べるから」


 そう口にしたとたん、口の中の物が急に重みを増した。冷たいクリームがねっとりと舌に絡み、すぐに唾液と混じって生ぬるくなる。あの白い無機質な部屋で、これからまた数時間過ごさなければならないことを考えると、冷えた腹がねじれるように少し痛んだ。


「……行きたくないん?」

「…え?」

「課題終わってないとか」

「…いや、終わってるけど」

「お前ならそうか」

「……」

「毎日ちゃんと進めてるもんな」

「…は?」

「放課後、部室で」


 顔が引きつるのが分かった。気付いていないと思っていた。僕が使う席は木谷が後ろを向かない限り見えない位置にあって、僕は木谷が座る左側に、いつも大きな数学の参考書と筆箱を置く。先輩たちが引退してから僕が放課後に解いているのは、数学の難問なんかじゃない。いつまでも終わらない塾の課題だ。木谷には、隠しているつもりだった。


「……」

「やめてもたら?」

「…無理や」

「…そうなん?」


 課題が多くて終わらないから、なんて、塾をやめる理由にはならない。学校の勉強と両立できない、なんていうのも、塾の講師の話し方が苦手だ、なんていうのも、白い部屋の圧迫感が苦しい、なんていうのも、やめる理由にはならない。それはきっと全部必要なことで、必要なら大変なことでも苦手なことでも、できるようにならないといけない。むしろ、できないからこそ行かなければならない。あそこはそういう場所だ。みんな分かっている。


「…なんかをやめるのってさ」

「……」

「続ければ続けるほど難しくなるやん。だから『やめられる』って、大人より短い時間しか生きてない子どもの、数少ない特権なんちゃうかなって、俺は思うけど」

「……」

「行使しといたほうが、お得?っていうか」

「…お前に言われたって、なんの説得力もない」


 思わず発した自分の声が思いのほか低くて、すぐにはっとした。やばい、完全に相手を忘れていた。仲良く並んでアイスなんか食べていたからだ。恐る恐る横を見る。木谷は僕を見ていなかった。目の前の、何もない暗闇を見つめていた。部室の外で見かけるときと同じ、感情のない顔だった。


 殴られるかも。


 反射的にそう思った。だけど体は動かなかったし、木谷も動かなかった。停まっていた車が一台、前を通って、白い光が足元を流れた。陰になった木谷の口元が小さく動いたような気がした。言葉は聞き取れなかった。


 誰かが店の中から出てきて、軽快な電子音が聞こえた。不意に木谷が残りのアイスを口に放り込んだ。一口で食べるのには多すぎて、口の端からはみ出した分を手で拭う。しっかり時間をかけて飲み込んでから、木谷は僕と目を合わせた。顔には薄っすらと笑みを浮かべていた。


「そらそやな。俺が言えた話やないわ」

「……」

「アイス、溶けてんで」

「…あっ!」


 溶けかけたアイスが指に垂れていた。急いで一口食べると、べたりと口の周りについた。拭おうとした手も汚れていて慌てる。そんな僕を見た木谷の笑い声が、静かな夜の駐車場に響いた。


***


 それから一週間ほどが経ち、僕らは修了式を迎えた。あれからも木谷は学校に来たり来なかったりだった。クラスは変わるが、周りの顔触れは進級後もさして変わらない。式は終わりと始まりの間の、穏やかで中途半端な雰囲気の中で行われた。天気予報によると平均気温は徐々に上がっているらしかったが、曇っているせいか体育館の空気は始終冷えていた。教室に戻ると通知表が返され、修了式にかこつけて担任がいつもより長々と話し、特に何が起こることもなく僕の高校生活一年目は終わった。


「今日は木谷おらんのか」


 斜め前の席の天パが振り向きながら言った。机の中身を鞄に移動させながら、ひそかに耳を傾ける。天パの後ろに座っていたロン毛が答えた。


「まあそやろ。修了式なんて単位も関係ないし」

「そっか。そういえばあいつって単位足りてるん?」

「え、普通に足りへんのちゃう?全然来てなかったやん」

「まじか。じゃあ何、留年?」

「そうちゃう?でもさ、こんだけ来おへんねやったら、そろそろ辞めてもおかしくないよな」

「何を?」


 心の中で思ったことと、天パの声が重なった。


「学校」


——『やめられる』って、大人より短い時間しか生きてない子どもの、数少ない特権なんちゃうかなって、俺は思うけど。


 あの日の木谷の言葉が、蘇った。


 何が特権だと思った。そんなのは社会の求める青年像を反面している、不良の言い訳だと。大人よりずっと不自由で、狭い世界に生きる子どもの選択には、いつもどこかしらに他人の意思が入り込む。それに逆らうことのない僕らは、それでも自分の生きる範囲内で精一杯の見栄を張るために嘘をつき、秘密をつくる。だけどきっと、木谷はそんなものに惑わされない。いや、見栄の張り方が違うんだ。あいつは「やめられる」。僕にはできない。そういう意味では、確かにあいつにとっては「特権」なのかもしれなかった。


 …いや、さすがに退学までは一人の意思じゃできないはずだ。親の同意が必要だし、それ相応の理由がなければ教師もある程度は引き留めるだろう。例えそれが学校一の問題児でも。たぶん。


 そう思うのに。


——今回はちゃうで。むしろしてなくて呼ばれてた。


 脳が、あのときの言葉と今の話をつなげようとする。あれは単位のことで呼び出されていたんじゃないのか。


——別れと出会いの季節やでぇ。


 無駄に感慨深そうな木谷のしゃがれ声が、頭の中に響く。僕らには無縁な、はずだった。


 今日は修了式だ。木谷は学校に来ていない。だからたぶん、部室にも来ない。


 ……もう、会わないのか?


 唐突にその可能性に気付いた。そんな日が来るのは、ずっと先のことだと思っていた。


 空き教室での僕の席は、後ろを向かない限り木谷からは見えない。それと同様に、僕の席からは木谷の右側しか見えない。同じ空間で放課後を過ごしていても、僕らはお互いに見えていない、見せていないことがあった。そういう距離だったし、その距離がそれなりに心地よかった。だから木谷が僕に何も言わなかったのもおかしなことではないし、僕が何も知らないままでいることもおかしくはない。分かっている。


 なのになぜか体が動いた。


 手にしていたテキストを押し込んで勢いよく鞄を肩にかけると、中身が椅子に当たって大きな音をたてた。周りの生徒たちが驚いたようにこちらを見たが、そんなことにはもはや構っていられなかった。木谷の髪の青が脳裏をちらつく。四階の部室を目指して、僕は教室を飛び出した。


***


 階段を上りきって、息を切らしながら勢いよく部室の扉を開けると、木谷は当たり前のようにいつもの席に座っていた。ただし、眠ってはいない。


「うわびっくりした」

「なんやねん……」


 疲労が限界に達して、入口の壁によりかかる。息が上がって声が出なかった。


「どしたんそんなに急いで」


 木谷の言葉を無視して教室の中に入る。右隣の机に荷物を置き、水筒を取り出して一気に水を飲んだ。眼鏡がずれて、視界がぼやける。


「あ、平野くん。あんな…」

「お前、退学するんか?」

「へ?」

「学校、辞めるんか?」


 自分の声が固いのが分かった。走って速度を上げた鼓動が、頭の奥でどくどくと鳴っていた。

 ゆっくりと、木谷が口をひらいた。


「退学は、せえへんよ」

「……退学『は』?」

「あんな、平野くん」


 細い目の奥の瞳が、僕を見つめた。


「俺、転校すんねん」

「……転、校?」

「おう」

「…どこに?」

「横浜」


 なんで、と聞きたかった。だけどそれを口にするには、僕らの距離は遠すぎた。


「横浜で、通信制の高校に通う」

「通信制…」

「そう。やっぱ、日頃の行いが悪すぎてな。近くの学校には拒否られた」

「……」

「あ、だからこの学校は辞める。退学やないけど、それは合うてる」


 あれ、学校辞めるのは全部退学なんか?首をひねる木谷から目をそらして、床を見つめた。


 何を言うべきなのだろうと思った。それ以前に、なぜ僕は走ったのだろうと思った。よく考えてみれば、今日ももともとここに来るつもりだったのだから、いつも通り普通に歩いて来ればよかったのだ。僕が走ったところで、木谷がいるのもいないのも変わらない。


 何か、言わなければならないことがあるのだと思った。だけどそれが何か分からなかった。


「…横浜でも、不良やるんか」


 結局、僕の口から出た言葉はそれだった。


「いや、改心する予定。真面目に生きようと思ってる」

「そんな簡単にできるもんなん?」

「さあ。でもまあとりあえず、チャレンジ」

「…その髪は?」

「黒に戻すわ。ピアスも外す」

「うん、そのほうがええ。お前、青髪似合わん」

「は、なんやそれ」


 いつもと同じ、特に内容のない会話。お互いについて、深くは聞かない。そういう、距離。


 言わなければならないことなんて、ないはずだ。僕らはそういう関係にある。だから僕は、自分がなぜ走ったのか分からない。でも僕は走った。木谷がいなくなるかもしれないと思って。居ても立ってもいられなかった。それは。


 顔を上げる。目の前には木谷が座っている。正面からこうして見るのは初めてかもしれないと思った。机には、やはりきれいな鞄が置いてある。少し色の抜けた青髪の根元は黒くなりかけていて、両耳には今日もたくさんのピアスが刺さっていた。木谷は真顔だった。怖いとは思わなかった。


 それで、気付いた。


 嘘だったのかもしれない、と。


 人を殴った。机を蹴り飛ばした。警察に補導された。煙草を吸っていた。そんな木谷を怖いと思った。だから、これ以上距離を縮めようとは思わなかった。陰口を聞いても、庇ったことは一度もなかった。廊下ですれ違っても声をかけなかった。コンビニに行こうと言われて、わざと人が少なくなる時間帯まで木谷を待たせた。話しかけるのはいつも木谷で、僕は木谷が怖いから、それに仕方なく答えているのだと。そう、思っていた。だけど、違ったんだ。きっと。


 言いたいことがあった。でもそれを口にするには、僕らの距離は遠すぎた。それに僕は、もうそれを言葉にする術を知らなかった。


 だから僕は、このまま終わろうと思う。嘘や秘密ばかりの、こんな、微妙な距離だけど。


 それが今日まで過ごした僕らにとって、ただひとつの真実だから。


「ていうかお前、学校来てたんかい」

「いや、なんか一応修了式やからと思って来たけど、やっぱセンセたちの無駄に長い話ばっかりやったから抜けてきた」

「改心する気ゼロやろ」

「来月から本気出すねん」

「やる気のないダイエットか」


 木谷が笑った。僕も笑った。


「…元気でな」

「おう。平野くんもな」

「うん」

「過労死すんなよ」

「お前はもうちょっと頑張れよ」

「分かってるって」


 きっとこれが斜め、プラス横に一つずれた席に座る僕らに、ふさわしい別れ方なのだ。でも少しくらい、テンプレートに従ってみたっていいだろう。それに、言うべきことは言わなければならない。


「木谷」


 木谷の目をじっと見つめる。学校一の問題児で、約七ヶ月間を同じ部室で過ごした、木谷麗の黒い瞳を。


「ありがとう」


 ぱちりと一回まばたきをした後、木谷はに、と口角を上げた。糸目の目尻がきゅっと下がった。


「こちらこそ、ありがとう」


***


 春休みはあっという間に過ぎ去った。新しい教室は二階にあるから、今までより部室に近い位置になる。座席表を見て、窓際の自分の机に塾のテキストの入った重い鞄を置く。やめられるのは子どもの特権だと木谷は言ったが、やっぱりそう簡単なものではない。だけどまあ、ああいうやつがいるなら、僕は僕で、こういうやつでいようと思うのだ。


 ほとんどの生徒が中庭で新しいクラスを確認しているから、教室にはまだ僕一人しかいない。どのクラスの名簿にもあの不良の名前がないことには、みんないつ気が付くだろうか。気付いたら、彼らは喜ぶのだろうか。安堵するのだろうか。なんにせよ、それは一時的に話題になり、すぐに忘れ去られてしまうのだろう。だから僕は覚えていようと思う。いつも四階の空き教室で寝ていた、青髪のあいつのことを。


 カーテンを引いて窓を開けた。花曇りの空を見上げる。かすかに桜の香りをはらんだ春風が、教室の中を吹き抜けていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

春が似合わない僕らの話 羽井つかさ @okra_ocl

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画