○○にとって大切なたった一つのこと
@aqualord
第1話
○○には三分以内にやらなければならないことがあった。
ちなみに○○というのは伏せ字のようだが、彼の本名である。
「ニノマル」と読む。
初対面の人から必ず「マルマルさん」と呼ばれてしまうことに昔は悩んだこともあったが、社会に出てからは取引先に強烈な印象を与えて名前を覚えていてもらいやすいことがわかり、吹っ切れた。
だがそんな些細なことはこの際どうでも良い。
○○には三分以内にやらなければならないことがあったのだ。
○○は壁に掛けられた無個性な時計で正確な残り時間を確認した。
あと二分四十七秒。
「いや待て。」
○○の頭に警告がよぎった。
あの時計、この前、先代の時計が故障したときに、総務が安物を注文したせいですぐに時間が狂うと誰かが言っていたはずだ。
その誰かは、総務の橘さんが新しい時計を持ってきたときにも、「時間を間違えてはいけない仕事もあるから電波時計を買ってくれればいいのに。」とも言っていたが、「正確な時間が知りたければスマホで確認すればいい、だから安物で良いんだよ。」と橘さんに言い返されてそれっきりになっていた。
橘さんにはそういう所があった。
鮮やかに論破したように見えて、実は必ずしも言ってることが正しくないということが。
時計だってそうだ。秒単位の正確な時間を知りたいのに、スマホは分単位の表示しかしていない。
○○は少し考えてパソコンの時計なら秒数まで表示するはずだと思いついた。
危ないところであった。
残りの正確な時間は二分七秒だった。
やっぱり、橘さんの話は鵜呑みにしてはいけない。
だがそんな些細なことはこの際どうでも良い。
○○には二分七秒以内にやらなければならないことがあったのだ。
○○が、急いで、やるべきことに取りかかろうとしたその時だった。
○○のスマホが軽快なアラームを響かせ新着メッセージが届いたことを知らせた。
「急いでいるのに。」
○○はその言葉を口に出して言うことで苛立ちを紛らわせ、応答を後回しにしようとしたが、メッセージの送り主が嫌味を言うことで有名な片岡次長からの直々のメッセージだということに気付いてしまった。
片岡次長の嫌味は一言で済むタイプのものではなく、ねちねちねちねちねちねちねちねちと繰り返し、ちくちくちくちくちくちくちくちくと、どうでも良いようなことをつつくタイプのものだった。
それは「コンプラ上問題あるよ。」と法務部の髙瀬部長から警告を受けるくらいの恐怖をもたらすものだった。
以前○○も片岡次長から目をつけられ、嫌味攻撃の標的になりかけたが、その原因が片岡次長の勘違いだったことが直ぐに判明し、片岡次長は潔く誤解を詫びた。
それで済めば良かったのだが、嫌味攻撃のせいで人から避けられたり適当に扱われたりする様になっていた片岡次長が、誤解を解くために正面から対応してしまった○○を変に高く評価してしまい、何かと目をかけてくれやがるようになってしまったのだ。
だから片岡次長のメッセージを後回しにするなどあってはならない。
○○は急いでメッセージを確認しようとして、スマホが指紋認証に応答しないことに気づいた。安全のために定期的にPINをうち込まなければならないタイミングのようだ。
○○は、苛つきながらスマホのロックを解除した。
「三時に例の件を役員室に説明に行くことになったからその十分前に来てくれ。」
というわりと重要なメッセージで、しかも了解の返事をしておかなければならないメッセージだった。
○○は直ぐに「承知いたしました。」と送信した。
片岡次長からは折り返しも嫌味も無かった。
だがそんな些細なことはこの際どうでも良い。
この時点で、パソコンの時計表示によれば、さっき○○が時間を確認してから早くも五十六秒が経過していた。
つまり、○○には一分十一秒以内にやらなければならないことがあったのだ。
○○はやるべきことに必要なものを手に取ろうとした。
しかも、不意のメッセージのせいで生じた遅れを取り戻せるくらいに素早く。
その焦りが○○の指先を狂わせた。
まるでいやいやをするかのように、それは○○の指先から逃れる。
手を伸ばして受け止めようとする○○。
だが無情にも、伸ばそうとした腕がデスクに積み上げてあったファイルに当たってタイミングがずれた。
積み上げられたファイルは、○○の直接の上司にあたる三枝課長が運んできたものだった。
○○の会社では今では顧客管理は全てデータ化されていたのだが、新しく契約を取れそうな相手先の担当者が、かなり昔に○○の会社と取引があった会社で働いていた人物だったことがわかり、その時に適用していた条件を新しい契約でも適用して欲しいと申し入れてきた。
「そんな昔の話しを引っ張り出されても。」と○○は思ったのだが、三枝課長には何か思い当たることがあったらしく、「こっちにも有利な条件があったはずだ。調べてみろ。」と、わざわざ倉庫から古いファイルを引っ張り出してきて○○の机に放置していったのだ。
そのファイルが○○の時間を奪う。
無情にも、やるべきことに必要なものは床のタイルカーペットの上で景気よくバウンドし、デスクの下に入り込んだ。
「なんだよ、もう。」
焦りが口から漏れる。
だが○○は躊躇無くデスクの下に潜り込んだ。
「あった。」
幸いにも探し物は直ぐ手の届くところにあった。
○○はそれを手に取ると慌ててデスクの下から抜け出そうとした。
だが○○は急いだあまり邪魔者がいることを忘れていた。
三枝課長が持ってきたファイルは、無機物であるにもかかわらず、まるで確固たる意思で○○を邪魔しようとしているかのように、ベストの位置で○○を待ち受けていた。
「うわあ!」
微かに手がかすった程度なのに、さっき腕が当たってバランスを崩していたファイルの群れが○○を襲い、やるべきことに必要なものを巻き込みながらばらばらと床面に落ちて散らばり、やるべきことに必要なもののステータスを再び「探し物」に変える。
さいわいやるべきことに必要なものはそれなりの大きさだったのでファイルの間から顔を出していてくれた。
○○はそれを取り上げようとして、その上に載ったファイルの開いてしまったページに、なんと、三枝課長の言っていた「こっちにも有利な条件」の詳細が書かれていることに気がついた。
仕事が一気に片付くなんというラッキー。
人間万事塞翁が馬。
という言葉が○○の脳裏に浮かんだ。
だがそんな些細なことはこの際どうでも良い。
○○が横目で睨んだパソコンは、さっき残り時間を確認をしたときから、さらに三十五秒が経過したことを示していた。
つまり、○○には三十六秒以内にやらなければならないことがあったのだ。
○○はまた落としてしまわないように、デスクの上にそっとやるべきことに必要なものを置いた。
残り三十一秒。
改めて○○はスマホを手に取り、やるべきことに必要なものを撮影する。やるべきことに必要なものに添えられているメッセージカードの文字が読み取れるか、撮影された画像を確認。
大丈夫だった。
急いでSNSアプリを立ち上げて、大事なメッセージを入力する。
残り六秒。
時計を睨み、秒数を数える。
四。
三。
二。
一。
ゼロとともに、○○は送信ボタンをタップした。
続けて撮影した画像も送信。
何とか間に合った。
○○はこみ上げてくる笑みを押さえることも無くスマホの画面を眺めた。
そこには、彼が送信した「お誕生日おめでとう 愛してる」の文字と、彼女が好きだと言っていたかすみ草の花束の画像。
○○は、やり遂げた。
友人たち誰もが知っている彼女の誕生日の、○○だけが教えてもらった、彼女がこの世に産まれたまさにその時刻、彼女にメッセージを送るという何より大事なことを。
○○にとって大切なたった一つのこと @aqualord
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