4.4.8 彼は誰
夜霧でも入り込んでいるのだろうか。
大教会の床付近は霞がかかったように薄ぼんやりとしていた。
その中にあって、月の光を浴び、柔らかい笑みをたたえるカルラ・アンジェロヴァは、どうしようもないほどに神々しい。或いは、人工の灯りがないことが尚更そう見せているのかも知れない。
「ようこそいらっしゃいました。こんな夜更けに礼拝にみえるなど、さぞかし信仰に篤いようですが、セルハン様が仰ぐべき神はここにはいないのでしょう?」
まただ。
慈愛の女神の如き優しい表情で、また、その名前を口に出す。
オオカミ型とヤギ型ばかりの多数のケモノは、彼女に従うように大人しく地に伏せ、目を合わせようともしていない。
その光景に、僕は何をしにここへ来たのだったかと疑問が浮かび、俺は復讐をしに来たのだと塗りつぶされた。
一つ息を吸って、吐いて、リボルバーをカルラ・アンジェロヴァに向ける。
彼女のヘーゼルの瞳と白金にも見えるブロンドの髪は、穏やかなままで揺るがない。
確実に当てるには遠い。一歩二歩と慎重に近づく。
手近なケモノが後ろ足で立ち上がるようにして、襲いかかってきた。
大きい。立ち上がったその高さは二メートルはあるだろうか。実に堂々とした体躯の、しかし、輪郭が判然としないオオカミだった。
「一つ」
自在法剣を少し伸ばして固定し、黒い残像を残して横に薙げば、それはあっさりと両断されて、空気に溶けるように消滅していく。
「二つ」
二体目はやや離れた距離から駆け寄ってきたところに、無限の銃弾を浴びせて仕留めた。
「三つ」
すでにそこにいたほとんどのケモノが立ち上がり、思い思いにこちらの隙を窺い始めている。こうなれば、このケモノがどのようなものであるのかなど、気にする必要もない。ただ、体に染みついた使命のままに、次々とケモノを滅するのみ。
四つ、五つと次々と襲い来るケモノを打ち倒すも、やはり多勢に無勢。いかにシクロの弾丸を放ち、自在法剣を縦横無尽に薙いでも向かってくる全てに対応することなどできず、少しずつだが、スーツは破れ、浅い傷が増えていく。
これだけ動いているにもかかわらず、聞こえてくるのは、自らの息と衣擦れの音のみ。
「射抜け、トゥマヴェ・オチ」
やがてカルラの声が二重に、玲瓏と通り抜けた。
それはシクロか、プライモーディアル・ブレッシングか。
視界の端で彼女の髪が黒く染まり、その手に乗せられた魔石からは、黒いインクでも垂れるように、オオカミ型のケモノがぼとりと生み出された。
その様子に総毛立ち、本能的に目を閉じれば、オイレン・アウゲンだけを頼みに周りのケモノを撃ち、斬る。遠くに見える頼りない白炎は、緊急で任務に駆り出されたグロリアに違いない。
「お前、何者だ」
ケモノと対峙しているときに心の揺らぎを大きくしてはいけない。努めて冷静に彼女に問う。一時的にここから撤退する選択肢もあるが、ここからケモノを出すわけにもいかず、また、ケモノを生み出す者を生かしておくわけにもいかない。もっともそれは、俺を殺した組織に対する復讐を正当化したいだけの、薄っぺらい使命感なのだが。
けれど、僕は思う。スヴァンテ・スヴァンベリを殺したのは誰なのかと。本当にヴィエチニィ・クリッドなのかと。
だからこその、問いだった。
「私はリヒト教の
ケモノを生み出し続ける彼女の声は、しかし、優しく、柔らかい。
「ヴィエチニィ・クリッドに俺の殺害を命じただろう」
彼女の声で俺は冷静になり、目を開いて問う。
ビスコプだというのに、随分と若く見えるものだ。
「そうですね。半分は正解で、半分はハズレというところでしょうか」
カルラ・アンジェロヴァはケモノを零れ落とすのを止め、ヘーゼルの瞳を俺に向ける。
彼女に向かってゆっくり歩きながら、もうほとんど残っていなかったケモノをリボルバーで撃ち抜いていく。
「半分?」
「私はあなたの殺害など命じてはいませんし、命令したとすれば、恐らくヴェリテルでしょう。名目は、ケモノを輸送しているところを目撃されたから、ではないでしょうか。……それに、私が殺したかったのは、スヴァンテ・スヴァンベリさんではなくセルハンです」
「俺はセルハンじゃない」
「セルハンが何者かは聞かないのですか?」
「興味がない」
「嘘を言うものではありませんよ。あなたの内に燃え盛る白炎は、三百年前にケスティルメのブラーク・ダイレ司祭が描き記した炎と瓜二つ。どうしてこれを偽れると言うのでしょう」
「……だとすれば、俺をどうしたい。やはり殺すのか?」
カルラ・アンジェロヴァは僕に、スヴァンテ・スヴァンベリに何を望むのか。答えなど分かり切っているようなものなのに、それでも聞かずにはいられない。セルハンの人生も混ざっているのだから。
「ええ、もちろん」
「三百年前の人間が、いったいお前に何をしたっていうんだ?」
彼女の表情は変わらず、或いはそれが、彼女にとっての無感情であると思わせるほどに、柔らかい。
「私の母方の姓はカシシュ。あなたに殺されたケレム・カシシュの子孫です」
俺も僕も、何も言う気にはなれず、ただ、じっと彼女の鈍色の炎を視る。この女は三百年前の話をどうして今さら持ち出すのだろうかと。そして、セルハンであるかどうかも不確かなままに、接点もない人間を殺したいと願う、その心境はどうにも歪である。
では、俺の今はどうだ。
「ケレム・カシシュは平和的な大陸統一を願っていたというのに、どうしてあなたは殺したのでしょうか。ケレム・カシシュは悪ではなかったのに、どうしてあなたは殺したのでしょうか。あなたさえいなければ、私たちの一族が反逆者の
「断る」
「まあ。ヒト殺しの武勲はもう充分でしょうに、なんと業の深いでしょうか」
彼女は俺のことをセルハンだと思っている。思い込んでいる。決めつけている。
彼女に僕は見えていない。
彼女はもうどうしようもなく、白炎に焼かれているのだ。
彼女は俺を殺そうとしている。
そして俺は、彼女を殺そうとしている。
実に、都合がいいことだ。
左手の銃口を正面に向ける。
彼女は、やはり柔らかく微笑み、
「照らせ、スヴェトロ・ア・スティヌ」
彼女の頭上に多面体の暗闇が集まったと思ったその瞬間、鋭く強い光が俺の目を刺した。
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