4.4.2 夜の散歩
僕の漠然とした予感は的中していた。
或る夜間待機の日、誰かの黒靄が外に出ていく様子が、オイレン・アウゲンの領域に映し出される。
オイレン・アウゲンには残念ながらヒトの形までは映らないから、それが誰なのかは分からない。だが、あの位置ならクライトン支部長でほぼ間違いないだろう。任務の話も聞いていないことだし、確率としては百パーセントに限りなく近いと言える。
問題はもう一つ。この黒靄はどこへ行くのか。
帝都公安警察が周辺を警戒する中、帰宅や仕事だと真実を述べようが偽ろうが、そんなことはお構いなしに彼らは監視の目を付けるはずである。かく言う僕も、第二区画北西部にある自宅アパート付近には、いつもより多くの黒靄が視え、顔も知らない公安警察の誰かに、逐一行き先を見られている。彼らはイビガ・フリーデ、というかシェスト教会怪奇現象調査室が、夜間に活動していることを知っているのだ。だからこそ、怪しまれているのだ。
そのようなことがあるから、支部長室から出ていった黒靄がどうなるのか、どこへ行くのかが余計に気になってしょうがないのである。
目を閉じてオイレン・アウゲンの範囲を拡張し、仮にアルファ・ワンと名付けた黒靄を追う。
最近は、拡張したオイレン・アウゲンの探知範囲も、ほぼ最大の一千メートルにまで回復している。支部長の家がどこにあるのかは知らないが、アルファ・ワンが一定の場所に何時間も留まるのであれば、それはやはり支部長のもので、ただ帰宅しただけのことである。これならいくら監視の目があろうとも問題はないし、振り切る必要もこっそりと出る必要もないはずだ。
だが、アルファ・ワンは黒靄の隙を突いて、大聖堂の敷地からまんまと抜け出すことに成功し、そのまま西に移動している。このスピードは徒歩だろう。離れて後をつける黒靄も今のところはない。
これは、当たりだ。
僕はそう確信した。
西には何があっただろうと考えれば、第三区画の繁華街にヴィエチニィ・クリッドのアジトがあったことが思い出される。
つまり、支部長は夜な夜な出かけては、ヴィエチニィ・クリッドの奴らを成敗しているのだと容易に想像できた。支部長だって悔しかったのだ。部下が傷付けられ、殺されたのだから、当たり前だ。
だから、今だって僕のオイレン・アウゲンの端で、あんなに黒靄を膨らませているのだ。
自分に正義があるかどうかの確信を持てず、けれど、それでもやらなければならぬと思っているのだ。
――ああ、なんて危うい。
それはもう今にも零れそうなほど、限界まで膨れ上がってしまっている。
そして行き場を失ってヒトの形になり、やがてヒト型のケモノになってヒトを飲み込むのだ。
その形は
しかし、それは突然起こった。
ヒト型が黒靄を分離させたのだ。
いや、逆かも知れない。
アルファ・ワンがヒト型を切り離したのかも知れない。
どっちだ。
不安でたまらない。
ヒト型はナイフを何回か振るうと、やがてオイレン・アウゲンの外へ消えていった。
一方のアルファ・ワンと言えば、大聖堂に近づいてくるように見える。
そして大聖堂に近づくにつれ、黒靄が遠巻きに囲むように動く。
それは、アルファ・ワンがヒトであり、やはりケモノではないということを証明するものだった。
気になってしょうがない僕は、それが大聖堂の敷地に入ると、わざとらしく廊下を往復し始めた。自分でも明らかにソワソワしていることが分かる。正体を知ってしまったときに、なんて声をかけたらいいのかという不安もある。
やがて、アルファ・ワンが教務所の奥から地下に降りてきた。
地下通路を意味もなく散歩している僕の後ろから、足音が聞こえてくる。
そして、思い切って振り向いた。
それとほぼ同時に、背後から重く、低い声も聞こえてきた。
「おう、スヴァン。ちょうどいいところにいるな」
そこにいたのは、やはりクライトン支部長だった。
見たところ、怪我はない。
「なにか御用でしょうか」
などと、僕は白々しく返事をする。何を言われるのか、指示されるのかほとんど分かっていると言うのに。
「明日の朝……うーん、そうだな。朝の礼拝が済んだくらいの時間に、支部長室に来い」
「了解しました」
「早起きさせて済まねえな」
そして翌朝、夜の任務が多いために、教会の司祭でありながら普段、お昼前に起床している僕は、明るい表情と声色を心がけて支部長室に入室する。
「おはようございます」
「おう。まあ、座れ」
支部長室のウェズリー・クライトンはいつも通りにソファーに浅く腰掛けていた。上体を前に出して、両膝の上に両肘を乗せ、顔を支えているのもいつも通りだ。
そして僕の腰かけたソファーの半分には既に先客がいた。エリーヌ・ルブランだ。
これも予想通りといえば予想通りだが、アイザック・ニールが呼ばれる可能性が高いと思っていたので、少々意外だった。
「それで、どんなご用件でしょうか」
「ああ、お前らに任せたい任務があってな、簡単に言うとヒト型のケモノの討伐を頼みたい。それも内々にな」
エリーヌさんはピクリと眉を動かし、僕は目を見開く演技をした。
「どういう……ことでしょうか?」
これも演技だ。
そして支部長のことだから、僕の演技を恐らく見抜かれている。
「ああ、俺としたことが、昨日、下手踏んでよ、危うくケモノ憑きに堕ちるところだったんだ。或いは、俺くらいの器になると、お伽噺のアシハラ王とクレーベ将軍みたいに、内側からケモノになっちまっていたかも知れないがな。……どうしたスヴァン、顔が固まっているぞ?」
「あ、いえ、なんでもありません。……それで支部長はどうやって、その、ケモノ憑きを回避したんですか?」
それを聞くなり、よくぞ聞いてくれたとばかりに支部長の目が輝いたのだが、エリーヌさんの視線は、冷たい。視ていなかったであろう彼女でも、これまでの話の流れからして、支部長こそがヒト型のケモノを生み出したと容易に想像できるところであるから、当たり前である。
しかし、支部長はその重い声で楽しそうに、自らの武勇伝を語る。
「ハッキリとは覚えちゃいないんだがよ、オイレン・アウゲンの自分の像がどうにも危ういってもんで、俺は咄嗟にナハト・ルーエを唱えたんだ、自分を囲んでな。で、後ろに飛び退いた。そのタイミングが絶妙だったんだろうなあ。見事にヒト型だけ分離したと、こういうわけだ」
「……そして、そのナハト・ルーエを収縮し忘れたと」
「……そうだな、エリーヌの言う通りだ。咄嗟のこととはいえ、俺は滅獣に失敗し、俺のケモノを第三区画に放っちまった。まったく面目次第もねえ」
小さくなっていく支部長を前に、僕もエリーヌさんも、そして支部長も、大きく溜め息を吐いて場を濁す。
僕はそれがなぜだかおかしくて、思わず頬を緩めてしまったが、僕が質問したいことは解決されていなかった。
「ところで支部長。どうして僕に声を掛けたのでしょうか?」
「ああ、そうか。お前は俺の戦い方を知らないのか。俺のシクロは大型ナイフだ。リーチが短い分、不意を突き、接近戦に持ち込むしかないんだよ。お陰でかくれんぼが随分と得意でね」
そう言うと支部長は「切り裂け、リッパー」と静かに唱え、もうすっかりと存在が希薄になったシクロを出し入れしてくれた。
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