第10話 南向き、子供の情景
南向き、子供の情景
窓の、ベランダの方から小鳥の鳴く声が聞こえると、部屋の明るさと、外の日差しが混ざっていくのを見て、目が覚めた。むくりと体を起こすと、日差しの中のほこりが、星の運行のように、膝の上を動いている。わたしは毛布からもぞもぞと出てきて、おトイレに行った。
部屋の、鉢植えの観葉植物を見ながら朝ごはんを食べた。トーストした食パンに、バターをがりがりと塗っていく。バターナイフの上の、スキー場のような白いバターに、ボロボロ、パンくずがこびり付き、せっかく切り取った白いバターが、なんだかどんどん汚くなって、無くなった。食パンのふちに、白いものが残っている。赤いイチゴジャムを、その上からスプーンで延ばした。
カップに入った、まっしろな牛乳を飲みながら、苺のジャムパンを食べた。茶色のカスカスとしたパンの耳だけが、二辺ぶん残った。指でつまみ上げて、端から前歯で噛みながら、テレビの始まるのを待っていた。
ピンクと黄色とむらさきの女の子、学校の友だちとお泊り、バス、大きなホテル、みずうみ、キャンプファイヤー、悪の怪人、リボン、好きな男の子について。
食パンの、パンの耳が無くなると、お皿が下げられた。画用紙を持っていき、床に座って、新しい家の絵を書いた。かちゃかちゃお皿の鳴る音。緑の色鉛筆を出して、大きな長方形を書く。全員入れるぐらいの大きさが必要だ。隣の友だち、学校の友だち。わたしたち。おじいちゃん、おばあちゃん、田舎のおじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさん。
屋上に花を書いていると、顔を洗って、歯をみがくように言われた。空を塗って、たいようを書くと、おふろ場に向かった。
服を着替え、髪をとかしてもらうと、部屋を走って、玄関で靴を履いた。ドアを開けて、部屋の外に出た。
マンションの廊下を、行き止まりまで走っていった。エレベーターの横に置いてある、黄色い三角バケツ。ぴろぴろぴろとボウフラが泳いでいる。通路の端にある溝。曲がり角には排水溝があって、金属の柵が上に乗せてある。赤い傘。サッカーボールとバットの置いてある、廊下の端にタッチして、また走って戻ってきた。
エレベーターのとなりの階段を駆け上がっていった。白い柵が、栓を抜いた渦のように、1階まで続いている。7階、8階、9階、と数えながら、跳ぶように駆け上がった。
9階の廊下は、上のへりの影が端についているだけで、一面、空の真下にある。向こうの先まで走っていった。ペンキを塗った鉄骨の柱が四本、空につき出て、頭の上で横にも四本、組まれている。工の形の鉄柱の、六角形のボルト、細い柵と、丸い手すり。先端の壁まで着くと空が見えなくなった。ジャンプしても、壁の上へと届かない。下のほうで車の走る音が聞こえ、ゴトトントンと、トラックが走る。指で、でこぼこにペンキが塗られた壁をなぞると、つるつると白くなり、人差し指は真っ黒になる。自分の名前を書いたりして遊んだ。
ずーっと下を向きながら歩いていった。非常階段も、滑り止めの凹凸を見ながら下りた。8階、7階と、廊下を見て回ったけれど、珍しいものは落ちていない。
5階まで下りると、辺りは一転して暗くなる。階段の溝に溜まった煤ぼこり。黴臭い塀と廊下。ドアの並ぶ壁。ゆっくりと、鉄のドアの前から前を歩く。前から前から前。エレベーターの前はいちばん暗い。壁に奥まったところにドアがある。四角いインターホンはすぐそこ。ドアノブはずっと遠く。左手には、暗い階段の白い柵。うしろには、エレベーターの数字のランプが動いていた。1…2…3…4…。あわてて、隣りの階段を駆け上がる。廊下を走って、家へと戻る。1階から、怪人が上って来る。廊下を点検しにやって来る。
息をはずまして、家に帰ると、せっけんで手を洗うように言われた。白いせっけんは、また真っ黒になっていった。泡もきたない。さっきまでの、部屋の外の灰色に似ている。
ママはテレビを見ている。わたしは図書館から借りてきた本を取って、隣りに座って読んだ。柔らかな胸の上の、木綿の上の、ナイロンのエプロン。しましま、ギザギザ。すこし読むと、がっちゃがっちゃと、廊下を駆ける音がする。うちのドアの外で止まったのと同時に、扉が開いた。ばたばたばたとお兄ちゃんが帰ってきた。
「おかえり」
「ただいま」
あっという間に、そこらへんにいろんなものが散らかった。ママはお兄ちゃんにいろいろ言うと、台所に行った。ごはんが出来るまで、わたしたちは部屋で遊んだ。
三人でテーブルに着くと焼きそばを食べた。赤いお箸でキャベツをつまんだ。ぱさぱさになった肉をかじって、ソースの絡んだ麺をすすった。お兄ちゃんの空っぽの皿には、青のりがこびりついている。わたしは牛乳を飲んだ。
ママは洗い物をして鏡の前に座り、お化粧をし始めた。お兄ちゃんは帽子をかぶったまま、オモチャで遊び始めた。わたしはママに呼ばれた。鏡の前に行くと、ママはうしろで髪を結ってくれた。青いリボンの二つ結び。
三人、くつを履いて出かけようとしたけれど、わたしの歯に青のりが付いているらしい。お風呂場に行かされて、口をゆすいだ。
ドアに鍵を閉めて、三人でマンションの廊下を歩いた。お兄ちゃんがエレベーターのボタンを押す。ボタンを押す前から、エレベーターは下から上がっていた。ランプを見ていると、わたしたちのいる階を通り過ぎ、9階で止まった。すこしするとまたランプは動き出し、わたしたちのいる階に向かって下がっていった。中に誰かいるのだろうか。
ランプがわたしたちのいるところまで来て、ゆっくりと右手から扉が開いた。そこにも、ボタンを押すところにも、誰もいなかった。わたしはママと並んでエレベーターに入り、先に入ったお兄ちゃんが1階に行くボタンを押した。ドアはゆっくりと閉じていった。
…5…4…3…2…数字が動かない。ぴたっ、とわたしたちがいるエレベーターが止まると、左手からゆっくり扉が開いた。開いていく隙間を見ながら、様々な顔と姿を思い浮かべた。
薄暗い目の前の廊下には、何もいない。奥まったところにあるドアがこちらを向いている。お兄ちゃんは閉めるボタンを押した。扉はまたゆっくりと閉じていった。
1階に着くと、暗いエントランスからガラス窓をすり抜けて外に出た。明るく、まぶしい、さんさんとしたお天気だった。建物が青白く光り輝いている。ちかちか瞬きする道路をみんなで歩いていく。わたしはママの手を放して、少し前にいるお兄ちゃんのところに駆けた。
坂を上って杭の並ぶ駅に着くと、小さな階段をぴょんと跳んで、電車の来る廊下に立った。向こう側に、鏡のように左右に線路が並び、廊下の上には人がいて、時計がぶら下がって、屋根と看板の隙間が白く輝いている。そっちのほうに先に電車が来て、緑色の電車はわたしの前を隠すと、左のほうに行ってしまった。茶色い線路を引き返して来て、また目の前を見ると、廊下にお姉さんがひとりいる。立ち止まってカバンをごそごそしていると、ママがお化粧のときに使うやつを出した。パチンと音がして、廊下を歩きだすと階段を下りていった。お姉さんは信号を渡り、向こうの坂を下りて行ってしまった。
長い線路から音が伝わり、踏切のかねが聞こえると、左のほうの空気が揺れてきた。ママはバックからお財布を出して、わたしとお兄ちゃんにお金を渡した。10円と50円、二つの硬貨を握りしめて廊下に並ぶ。でかでかとした緑の電車が、おおきな窓をガタガタ揺らし、プシューとため息をついたとたんに、ドアが勢いよく開く。丸い輪っかがあちこち動くなか、頭の上から右手のドアまで人が歩いて廊下に下りてくる。知らない人たち。わたしとお兄ちゃんは前のドアまで近づくと、廊下から指一本の隙間をまたぎ、鋼鉄の階段を踏む。ひざを持ち上げて運転手さんのところまで来ると、お金とかみきれの入った透明な箱に、1枚ずつお金を入れる。坂を滑ってコトン、坂を滑ってチャリン。扇風機が首をまわす下を、お母さんとわたしたちは歩いて真ん中のドアまで来た。足を落っことしそうな鋼鉄の階段の前。緑のドアの窓ガラス。はりがみ。あみだな。冷たすぎる手すり。木の床。釘。みぞ。お兄ちゃんのぼうし。杭。畦道。がらがら石。茫々とした草。踏切。坂道。信号。自動車。電線。路地。桃の木。庭先。縁側。おふとん。ブロック塀。雨戸。とい。窓ガラス。二階の窓ガラス。屋根。壁。屋根。屋根。屋根。赤い電車。足。木の板。乳母車。扇風機。クリーム色の壁。お父さん。お母さん。抹茶の背もたれ。張り紙。手すり。ライト。窓ガラス。杭。踏切。川。はな。蝶蝶。木。橋。柱。お堂。裂け目。鳥。石。階段。穴。ひも靴。木の板。黒。白。灰色。坂。坂道。海。青い海。青い空。白い鳥。家。ビル。たくさんのビル。道路。駅。
「いくよ」
お兄ちゃんに呼ばれて窓から目を離した。二人で後ろのドアまで行く。高くて狭い階段を手をつないでしゃごみながら下りる。隙間をジャンプして廊下に立った。ママのところまで行って、みんなでデパートに向かった。
信号を渡ってたくさんの人たちがいる広場を歩いた。道の上にも空の下にも、かきまぜた絵の具みたいにいろいろなものが流れている。ママとわたしとお兄ちゃんは三人で手をつないで歩いていった。数えきれないほどの看板に人ごみ。真っ白に光る信号と、花壇の影。
わたしたちはガラスの重い扉を動かして、肌色の光線がふりそそぐ建物のなかに入っていった。ゆかはツルツル真っ白。柱はピカピカ。ガラスのなかも外もキラキラ。立っている人もみんな光って見える。エレベーターのところまで来て、お兄ちゃんはボタンを押した。ボタンも宝石のように透明で、壁もドアも輝いている。わたしたちはエレベーターに乗ってずーっと上まで昇っていった。
布の幕が張ってあって人でごみごみしたところに来ると、ママにおもちゃのところで待っているか聞かれた。わたしたちはお化粧のむっとしたにおいのなかを抜けて、白い廊下を走った。文房具、ノート、テレビのところをすり抜けた。右にも左にもたくさんの箱が並んでいる。お人形、ぬいぐるみ。どうぶつ、おんなのこ、こびと、おひめさま。もっと見たいのに、わたしの右手を引っ張ってお兄ちゃんは奥に行く。車と剣とゲーム。プラスチックの透明な箱にゲーム機が入っていて、お兄ちゃんが好きなアニメのキャラクターが戦うゲームをした。お兄ちゃんが先にキャラクターを選び、わたしは残った悪者になった。何回やっても勝てない。動かし方がよく分からなくてボタンを何度も何度も押した。お兄ちゃんは楽しそうだった。わたしもお兄ちゃんのキャラクターを一度使ってみたいなあ。
もう何回目だろう。ずっとぐしゃぐしゃやっていると、初めてわたしが勝った。これでわたしも悪者じゃなくて、白い剣士が使えると思うとうれしかった。キャラクターを変えようとすると、お兄ちゃんは言った。
「こんどはあれやろう!」そう言うとコントローラーを置いた。
「……これやりたい」
「えーでももう飽きたよ。あっちのカードゲーム見ようよ」
「……」わたしはゲームのコントローラを持ったまま、白い剣士の顔がチカチカ光っているのを見ていた。
「ほら、あっちいくよ」お兄ちゃんはわたしの右腕を強く引っ張った。わたしはコントローラーを透明な箱の上に置いた。
カードゲームのところにはお兄ちゃんくらいの子供もいたけれど、大人の人もいた。おんなのこは一人もいない。お兄ちゃんはキラキラしたカードの袋を手に取って見ている。ジャングルのヤシの木に怪獣が叫んでいる絵。顔になっている壺の絵。文字が書いてあるけれど漢字がたくさんあって読めない。わたしは手を放して中のほうに入っていった。文字はどんどん難しくなって、英語もいっぱいあって、絵は何だか病気のようになっていった。奥の方には男の人がたくさんいる。カードをかごのなかにいっぱい入れているおじさんがいてびっくりした。かごのなかにはたくさんの箱と袋が入っている。ひげを生やした魔法使いのおじいさんの絵が見える。かごを持っているおじさんは袋をいくつもまとめて取って中に入れると、先に進んでいった。周りにはカードが無くなって本やサイコロが置いてある。ステッキや金の輪っか、マジシャングッズが並んでいる。おじさんは白い廊下に出てレジの方に行った。
わたしはさっきのゲームのところに戻った。別の子が遊んでいる。おんなのこが白い剣士を使っていた。剣からピカーと七色の光が出て悪者をやっつけた。悪者は光に包まれて、そのまま消えていった。
おもちゃの並ぶ廊下を戻っていってぬいぐるみのところに来た。かわいいくま、かまないいぬ。黄色やピンクの箱がたくさん置いてある。どうぶつのおうち、おもちゃの包丁、カラフルなキッチン、プラスチックのたべもの。向こう側に行くと、朝のテレビの、リボンのおんなのこのグッズがたくさん置いてある。キラキラ光る変身コンパクト。欲しいけれど、誕生日はもう過ぎた。秘密兵器の宝石の入ったロッドもある。カードにシール、廊下を歩いていった。下敷きやペン、ノート。ふでばこ。どれもピカピカしている。わたしは白い廊下を走っていった。どのグッズもどのグッズも光っている。それだけじゃない、デパートは床も壁も天井も輝いている。テーブルもイスも。台も柱も。走りながら足元の白い床を見た。真っ白で、交互につく足がどんどん浮いていくみたいだ。ただ白いひかりのなかを走る。何にもない真っ白な壁のなかを、どこまでも続いている白い地面を。走っている。何にもない。わたしは走るのを止めて、歩き出した。前も後ろも、右も左も、白い。足元を見ても、胸を反らせても、どこまでも白が続いている。わたしは立ち止まった。足元にはほこりひとつない。辺りはどこにも、染みも点もない。右手を上げて横に歩いていった。右手はどこまで行っても何にも触らなかった。真っ白な壁のなかを、手を真っ直ぐ伸ばして進んでいくけれど、どこまでいっても、どこにもたどりつかない。天井はどのくらい高いのだろうか。真っ白で分からない。ひざを曲げて力いっぱいジャンプしたけれど、とどかない。ぴょーんと跳んで少ししたあと足に衝撃が伝わった。でも、わたしは下りたんだろうか。上がったんだろうか。
上に行っているのか下に行っているのか分からないけれど、とりあえず「どこか」に進んでいった。動くものは何もない。わたしの体はたぶん、動いている。ときに逆さになったり、くるくる回りながら。白い壁のなかを潜っているのか、浮いているのか分からないけれど「どこか」に進んでいった。進みながら、色々なことを考えた。お母さんのこと、お姉さんのこと。妹のこと。兄、父。彼のこと。娘、息子。孫のこと。わたしのこと。
白い廊下を歩いていると、突然、通路が現れた。わたしは廊下を曲がってそちらを真っ直ぐ歩いていった。段々光が翳り、薄暗くなっていくなと思うと、幅の広い大きな階段に出た。左に、上の階から下りていく階段があり、わたしの正面を折り返して下に続く。辺りは大変に暗い。右横の離れたところにぼんやりと、青い絵と赤い絵の看板が見える。
わたしの立つ正面の石の柱には二等辺三角形が並んでいた。左に上を向いた三角形。右に下を向いた三角形。右の、下に降りてゆく階段は、数歩先から真っ暗で、踊り場さえ見えない。手すりも段も暗闇の先に消えている。左側の上る階段は、踊り場に明かりがあるのかそこまで見とおせた。わたしがそちらに行こうとして近づくと、上から階段を降りる音が聞こえてきた。コツコツ……わたしは立ち止まった。立ち止まり、柱の前で息を潜めた。
コツコツコツコツコツコツコツコツ、音は階段のなかを反響している。足音の主がどのくらい遠いのか、あるいは近づいているのか、分からない。音は上の方から聞こえているようで、下の、右側の階段の闇からも聞こえてくる。横の、看板の方からも。後ろの壁からも。
ぼんやりと光っているような左側の踊り場に、何かが現れる、時を待った。わたしを中心とした円形の闇の縁から、足音は絶えず聞こえている。じっと踊り場を見つめていると、「その時」は突然やって来た。上の階の踊り場に、見上げるような背の高い影が現れた。
人影は、踊り場からゆっくりと階段を下りてきた。わたしのところへ、段々と近づいてくる。とても背の高い、天井まで届きそうなほどのシルエット。着物を着ている。紫色の着物の裾が、足元から立ちあがってくる。帯が現れ、長い袖と共に、腰の下まで覆うほどの輝くような白い髪が、着物を纏っているのが見える。とても高いところから顔が現れた。若く透徹した女性の顔。大理石の像のような曇りのない面影。川の流れのような白髪(はくはつ)。目の前に立つその女性を、わたしは見上げた。
そのひとは、とても静かな目でわたしを見下ろしていた。夜の一本道の、一つしかない灯のように、わたしとそのひとだけが、二つ、暗闇の中心に並んでいた。そのひとは、ただゆっくりとわたしを見下ろしていた。わたしは灯台を見上げるように、そのひとの顔を眺めていた。ある時にふっと、そのひとは微笑んだ。
「こんなところまで来て、困った子ね」とそのひとは言った。「上は立ち入り禁止。一緒に下まで降りましょうか」
わたしは、紫色の着物と、真っ白な髪を見た。
「あなたは誰ですか」
そのひとは優しく微笑んだけれど、声は聞こえなかった。
「早くしないと塞がっちゃうわよ。すぐに降りましょう」
そのひとは、わたしの前に来ると階段を一段下り、わたしの手を取った。そのひとの背後には見通すことの出来ない暗闇が広がっている。この階段を下りないといけないのだろうか。階段の横には赤い絵と青い絵の看板があるけれど、すぐに行き止まりになっている。背後は白い広い壁で塞がっている。わたしは左側の、上る階段を見つめた。踊り場は明るく、途中の段まで影ひとつ落ちていない。そして、わたしは気が付いた。階段が折り返す、正面の石の柱を見たときに。上を示す三角形と、下を示す三角形。右側の下を指す三角形に、何か赤いものが付いている。それは血のように見えた。
急に、紫の着物を着たひとに、手を引っ張られた。わたしはバランスを崩して、階段を一段下りてしまった。そのひとはわたしの手を引きながら、どんどん階段を下りて行った。わたしも手を引っ張られ、暗い階段を下りて行く。右も左も、壁も手すりも見えず、真っ暗な中、今居る段と、次の段だけがかろうじて目に映る。わたしは後ろを振り返った。わたしがさっきまで居た、階段の折り返すところは、柱も、壁も、床も、天井も、赤赤赤赤、全てが真っ赤に染まっていた。わたしがそれを見た時、キモノノヒトはいちだんと下りるスピードを速めて行った。キモノノヒトはわたしの手を強く掴み、階段を下りる速度はどんどん上がっていく。わたしは逃れられず、ただ必死に、階段を踏み外さないように、交互に足を運ぶ。もうわたしは、ほとんど落ちるようにして、階段を駆け下りて行った。後ろを振り返りたかったが、そんな余裕は無かった。ただ足元だけを見て、暗闇の階段を駆け下りて行く。キモノノヒトに引っ張られ……わたしは、はっとして気が付いた。前には誰も歩いていない。眼前は目を瞑ったように、ただ漆黒が続いている。わたしは立ち止まって後ろを振り返った。そこには、すぐ一段上にキモノノヒトが立っていた。背後の階段が、下から上まで判別のつかないほど一面、血の色に染まり、真っ赤なクダのようになっている。わたしの、目の前に立つ人物の着物が、腰から裾を流れ階段まで、滴るように赤くなっている。わたしは足元の裾から、背の高い、そのひとの顔を見上げようとした。そのとき、頭上で声が聞こえた。
「さようなら。がんばってね」
その声と共に、わたしは右肩を強く押された。ドンッ――と音がしたかと思うと、わたしは階段を踏み外し、後ろから真っ逆さまに闇の中へと落ちていった。
ずーっと暗闇を落ちていった。
触れるものの無い暗闇を
十階から一階まで、黒い筒のなかを落ちていく。
一階を越えて、地下の暗黒まで。
目も耳も鼻も塞がり、落ち続けている。
落ち続けている。いや、浮いている。
投げ出されている。
何も見えなければ、何も聞こえなくなれば、匂いも味も、触れるものも無ければ、わたしは居なくなってしまうのだろう。
こうして。
こうやって。
居なくなる。
わたしは世界から消えてしまった。
でも、
何故だろう。
それならば、なぜ。
この言葉は読まれているのだろうか。
誰が読んでいるというのだろうか。
わたしは闇の中を浮きあがり始めた。
黒い水から夜の空まで。
地下を通って。
地下から一階を越えて。
一階から十階まで、暗闇を浮かび上がる。
「どうしたの、あなた。そんなところのぞきこんで」
わたしがデパートの下りる階段を上から覗いていると、ママがお兄ちゃんを連れてやってきた。白い廊下を行き交う人たちが後ろに見える。
「なんでこんな階段のところに来たの。探したよ、もう」
わたしは振り返ってまた階段のほうを見下ろした。赤色のつるつるした固い段のふちに、滑り止めの黒板の色のような緑のゴムが下まで続いている。踊り場まで壁に包まれて薄暗い。古いぱっとしない色のペンキに、壁の高いところは埃がかって灰色っぽくなっている。
「何かあるの?」
ママとお兄ちゃんもわたしと並んで階段を上からのぞいた。デパートのフロアの外れの、薄暗い階段。誰も上ってこないし、誰も下りてこない。
「なんにもないね。ママの用事は済んだから帰るよ。みんなでアイス食べて、買い物して帰ろう」
ママとお兄ちゃんは振り返って歩き出した。わたしも階段から目を離してママの脇に並んだ。ママはちょっと止まって言った。
「二人ともトイレは。行かなくて大丈夫?」
ママの向く、階段の右のほうには、おトイレが並んでいた。おとこ用とおんな用。
「だいじょうぶ」おしっこはまだしたくない。
「カズくんもへいき」
「じゃあ、エスカレーターに行って下りよう」
ママは両手にわたしたちの手を取ってバンザイすると、デパートのきれいな売り場に向かって歩き出した。三人で楽しくおしゃべりしながら歩く。わたしはちょっと、後ろを振り返った。綺麗で豪華で恰好いいデパート、そこから取り残されたような階段。誰からも忘れられたような階段。右からは誰も下りてこないし、左からも誰も上ってこない。誰も――そのとき左の階段から、ちらっと人影が見えた。誰かが上って来る。でも、その姿を見ないまま、わたしはフロアの角を右に曲がってしまった。
わたしとママとお兄ちゃんは、デパートの外に出ると街を歩いて、いつものアイスクリーム屋さんに行った。デパートの帰りにいつも食べる、石畳の道を入った広場に面した、アイスクリーム屋さんに来た。ガラスの扉のなかに入ると、馬のせなかのようなつるつるとしたガラスの中に、パレットのような色々のアイスが入っていた。アイスと大人の飲むコーヒーのにおいがする。わたしはやわらかい黄色のピーチ味にした。お兄ちゃんはチョコ、ママはよく分からない青い英語のもの。
テーブルのソファーの席に三人並んで座ったけれど、わたしも外を見たくてママをよじ登り、お兄ちゃんの隣りに来た。桃のアイスはあっというまに食べ終えて、ふたり窓にくっついて広場の通りを眺めていた。ハト、犬と散歩する人。白いぼうしをかぶった人。おばあさん。大人も子供も。女の人も男の人も。歩いている。赤ちゃんを抱っこした女の人がこちらに近づいてきて、扉を開けるとお店のなかに入ってきた。わたしの前でアイスを選んでいる。また広場のほうを眺めると、ずっと向こうの何かのドアの前で、黒いスーツを着た男の人が立っていた。たくさんの人が交差するなかその人だけを見つめていると、黒いスーツの人はこちらに向かって手を振った。
「あら、あなたリボンどうしたの」
ママの方を向くと、コーンの上の水色のアイスが半分くらいになっていた。
「リボン?」
「左のリボンが無くなってる」
わたしは左手で髪の結び目をさわった。飾りのリボンがない。
「取れちゃったのかな。失くしちゃった?」
「わかんない」
わたしはまた窓の外を向いた。広場にはどっと人通りが増えている。
「デパートでは見た気がするけれど。おもちゃ売り場で落としたのかしら」
「わかんない」
わたしはひとごみのなかさっきみた黒い人を見つけようとしたけれど、見当たらない。わたしのうしろでママはアイスを食べ終えると、わたしの髪をさわって右と左の結び目をほどいた。手でわたしの髪をとかすと、一本にして後ろで結わいた。
「家に帰ったらデパートに電話してみようかなあ」
アイスクリームの店を出ると、三人で電車に乗って丘の上の駅まで戻った。途中スーパーで買い物をして、坂のふもとの蒸し暑い道をみんなで帰った。青空の裾がすこし鈍くなり、緑道のわきの道を歩いていると長く伸びた様々な影に出くわした。旺盛に生い茂る緑道の躑躅に埋もれた鉄柵が、平行に並んでいるこちらの道のアスファルトに影を落としている。列車の揺れるリズムのように、電信柱の並ぶ影を一つ一つ通過していった。真っ直ぐ続く、歩道の白いラインを目でぼんやりと追いながら、柵の向こう側で雀が鳴いているのを耳にした。見ると雀は飛びさり、残った夏の日の緑道は、植え込みが雑草が枝が下草が形をとらずただただ不格好に茂っていた。もうこれ以上濃くならない緑は草いきれを出していた。柵の向こう側の緑道の奥の家並みは剥げた壁うす汚れた室外機錆びた軒くもりガラスの隅は緑色になっていた。黴、苔。わたしは柵の向こう側から目を離した。緑道から逸れ、道を入ってマンションまで帰って来た。
家に帰ると、窓を開けてベランダに出た。洗濯物を取り込み、ソファに座って畳んだ。小さいワンピースを最後に畳むと、クローゼットに洋服をしまった。部屋の中を少し片付けると、冷蔵庫から飲み物を出し、本を手に取って椅子に座った。時計を見ると、30分くらい時間がありそうだ。文庫本を開き、昨日までの続きを探して読み始めた。
「ママは本を読むのがすきね」
部屋で遊んでいたはずの娘がダイニングまでやって来て言った。本から視線を上げて時計を見ると、20分ほど経っている。窓のレースのカーテンが暖かい色をしていた。娘はそちらに走っていくと、ソファの上で遊び始めた。わたしはまた、視線を本の上に落とした。
ソファの方で遊んでいる二人の声を聞きながら、キッチンで包丁を動かしていた。部屋に人工的な光が満ちると、ダンナはいつもの時間に帰って来た。
「おかえり」わたしは網の上の魚を引っくり返した。
「ただいま」
煮物を器に盛ったりしながら、ダイニングでの騒ぎを聞いていた。お、カズはどこだ?――うふふ、どこに行ったでしょーか?――そんな声も、キッチンに聞こえていた。わたしは四人分の夕食をこしらえた。
夕食を食べ終えると、ダンナは息子と一緒にお風呂に入り、わたしは食器を洗った。娘はテーブルで大人しくテレビを見ている。二人が上がって来るまでに、片づけを終わらせた。
脱衣所で、裸になった娘の髪をほどこうとしたときに、青いリボンのことを思い出した。髪をほどくと娘は浴室に入っていった。わたしは手に残ったリボンの髪飾りを見たあと、それを洗面台の鏡の前に置いた。自分の髪をまとめているゴムもそこに置いて服を脱いだが、ふと、何か思いつきのようなもので考え直し、髪ゴムを別のところに置いた。
真っ黒な娘の髪の、白い地肌に指を差し入れて洗っていった。目をつぶっている娘の上から、お湯を掛けて泡を落としてやると、湯船に入らせた。貝の上に乗ったヴィーナスのロゴの、水色のボトルからシャンプーを出し、自分の頭を洗った。近いうちに、美容院に行くのもいいかもしれない。手に多くなった髪を取ると、そう思った。
身体を流すと二人でお湯に浸かり、娘の話すのを聞いていた。手を動かし動かし、小さなくちから高い声で話されるそれは、とりとめなく、筋道というものはもちろん無かった。今日デパートに出かけたことも、断片的で、感情的で、時間も場所も、めちゃくちゃに出し入れした後の本棚のようだった。娘の話には単位というものが無かった。一つの絵であったジグソーパズルの、ばらばらになったピースを拾い上げていくと、どれも大きさが違っている。わたしは分からないなりに、適当なあいづちをした。それでも娘は楽しそうだった。狭い湯船のなかで、わたしに体をくっ付けている。わたしは、ふと何か、まだ何か仕事が残っていたのに、家に帰ってしまったような、そんな気持がした。
お風呂から上がるとパジャマを着て、いい加減に拭いてある娘の体と髪をバスタオルで拭いた。ドライヤーで髪をとかしてやると、娘はリビングの方に走って行った。脱衣所で一人になり、わたしも髪を乾かした。鏡に映った自分を見ながら櫛を入れ、ドライヤーの機械的な風の音を聞いていた。機械的な――その風を生み出す機械は一体どこにあるのだろうか。
白い牛乳を飲み、四人でテレビを見ていた。子供たちは、リビングにおもちゃを持ってきて遊んだりしていたが、そのうちに歯も磨いて寝室に入って行った。わたしは台所に行って、お米を研いだ。「米の研ぎ汁のような濃霧で海上は何も見えない」排水溝に研ぎ汁を流しながら、そういう海は、実際のところはどういうものなのかを考えていた。
わたしはリビングのソファで本の続きを読んでいた。ダンナはテーブルで、買ってきたナッツを齧っている。文章の内容は、まったくわたしの頭のなかに入って来なかった。活字を追っては戻り、追っては戻りの繰り返しだった。「それは、そうだ。当然のことだ」そう思っている。ダンナはお酒も飲まずに、クルミを口に入れている。わたしが向くと、ダンナは言った。
「なあ、冷蔵庫に果物が――だろう。剥いてく――」
わたしはキッチンに行って果物を剥いていた。果物は、産毛の生えたやわらかい皮に、汁を滴らせていた。わたしは包丁を置いて、それを皿に盛ってテーブルに置いた。ダンナはフォークを持ってそれを食べ始めた。わたしは本を手に取って、字を追い始めていた。
ダンナはソファの隣りに座って、わたしの肩を抱いていた。わたしは自分の膝に置かれた手を見ながら、話をしていた。
「デパートで、青いリボンを失くしちゃったみたいなの」
「――」
「電話した方がいいかしら」
「――」
わたしとダンナはソファの上で性交していた。窓の外で、雨の降る音がしていたのを覚えている。わたしは芯から身体を突き上げられ、気持良くなりながら、頭のどこかで探し物をしていた。探し物は――いったい、何を探しているのだろう。
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