第17話

 店員の姿も見当たらない寂れたメキシコ料理店や日本人のセンスでは決して選ばないような角張ったフォントの看板の寿司屋、九十年代初期のモデル写真が張り出された床屋など、時間が止まってしまったかのような風景が窓の外に続く。どの店もニューヨークと比べて随分と大きい。これが本当のアメリカか、と眺めるエドウィンの心を読んだかのようにカズマが声をかけた。


「ニュージャージーは日本の埼玉県みたいなもんだよ」

「じゃあカズマさんには馴染みやすい場所ですね」


 カズマはエドウィンの皮肉に中指をたて、四車線がぶつかり合う交差点の赤信号で停止した。ふと前方でガシャンとガラスが割れる大きな音が聞こえ、カズマとエドウィンは顔を見合わせた。その方角から若い男女が手を挙げながら駆けてきて、信号待ちの先頭車のドライバーに何か声をかけている。


 エドウィンは下唇を噛み、不安げにカズマの方を見ると、彼は興味深そうに窓から身を乗り出して二人の一挙一動を観察していた。彼らはまだ十代後半に見えた。挙動と目つきが明らかに異常だ。


 男は細身で、ウェービーな金髪をくしゃくしゃにかきあげ、青い目に大きな隈をこしらえ、随分とやつれた顔だ。目尻に彫られた泪柄のタトゥーが彼をさらに病的に見せている。髪を緑色に染めあげた女の方は鬱いだ表情で道路脇の縁石に座り込んでしまった。放っておくとそのまま地面に吸い込まれてしまいそうに生気が無い。女が男に向かって何か叫ぶと、男は激高して声を荒げた。放っておくと殴りかかりそうな勢いだ。


 その瞬間―カズマがクラクションを鳴らした。男は瞳孔を開きながら駆け寄り、ヤニばんだ歯を剥きだしてカズマに話しかけた。


「ちょっとだけの距離でいいから乗せてくれないか。トラブルに巻き込まれてしまってさ」

「…さっさと乗んなよ」


 エドウィンは自分の耳を疑った。

 信号は青に変わり、後方でせっつくクラクションの合唱が始まる。驚いた様子の金髪男は縁石に座った緑髪の女の腕を引っ張りあげ、強引にビートルの後部座席に押し込み、自分もダイブするようにその隣に飛び乗った。


「オレの名前はロニー。こいつがルーシー。あんたは命の恩人だ、ありがとう」

 ロニーは大袈裟な身振りとってつけたフレンドリーさでカズマの肩を揺さぶった。カズマはハンドルを持ち直し「ノープロブレム」とだけ答えた。エドウィンは呆然と隣のカズマを凝視したがカズマは気にも留めず真っ直ぐを見つめたままだ。


 信号を三つ越えて高速道路に合流すると、カズマはようやくフロントミラー越しの二人に自己紹介をした。自分たちが日本人だと伝えると、ロニーは口に唾をためながら自分がどれだけゴジラやブルースリーやダライラマを敬愛しているかという事を滔々と語った。きっと彼にとってアジアは一つの大きな国なのだろう。


 ロニーに目的地を聞くと「南に」と答えが返ってくるーそれでできるだけ遠くへー。カズマは自分達が南部の街メンフィスに向かっている事を伝えると、ロニーは途中にあるヴァージニア州の街に行ってくれればさらに最高だと言う。


「シャーロットビルって都市の近くなんだ。ガソリン代も折半するし運転も代わる」

「そんなお金ないじゃない!」

 ずっとおし黙っていたルーシーが初めて口を挟んだ。くすんだ灰色の目には感情が一切見えず、不快な気を放っている。ロニーは舌打ちをして鼻を鳴らすと即座に話題を変えたーニュージャージーで組んでいたバンドの事―メンバーとライブ後に乱闘し解散した事―たった今ルームメイトから不条理に追い出されたという事―彼がジャンキーで自分達がどれだけひどい目に合わされてきたかーそんな事をオーバーな身振り手振りを交えながらまくしたてる。


 ロニーが興奮気味に口角に唾を溜めて話す間、エドウィンは英語が理解できないふりを決め込んだ。関わりたくない。そして非常識すぎるカズマの行動には怒りを通り越して呆れていた。


 さらに残念なことにはカズマはどうやらこの男に好感―いや共感に近い感情を抱いているようだった。南部の田舎から希望を抱いてニューヨークに出てきて、結局手前のニュージャージーで人生に打ちのめされてしまったこの若者に。


「それにしても何でわざわざメンフィスなんかに行くんだ?エルビスのツアーにでも?」

 ロニーが冗談気味に問いかける。

「こいつの叔父が住んでいるんだー白人の。父親の生家らしい」

 ロニーはエドウィンの顔を舐め回すように観察した。

「お前、アメリカ人なの?」

「ハーフ」エドウィンは不快さを露わにして一言だけ絞り出す。


 ロニーは大げさに頷くと続ける。

「そっか、残念だな。アメリカの歴史―特に白人の歴史は虐殺と略

奪の繰り返しだ。俺たちには汚れた血が入ってるんだ」


 エドウィンは憮然としてロニーを一瞥する。

「いつか俺たち白人にはツケが回ってくる。オレはカルマを信じてるんだ。神も宗教も信じないけどな、カルマはあるよ」

 エドウィンが無視していると、ルーシーが口を挟む。

「じゃああなたが今日あの家でやった事もツケが回ってくるわね」


 ロニーは小さく舌打ちすると大袈裟にルーシーの肩に腕を回し、諭すように囁く。

「あいつには貸しがあったんだよ。でも奴はそれを台無しにした」

 ロニーは悔しそうに歯を食いしばり、自分の拳を眺めた。ルーシーは首を横に振りロニーの腕をふりほどくと、勢いよく窓を開けて荒涼とした冬景色に視線を預けた。ロニーは愛おしそうに目を細めてルーシーの横顔を見つめている。何かが決定的に噛み合っていないー


「本当にこいつらをバージニアまで乗せてくんですか?」

 エドウィンが小声の日本語で尋ねるとカズマは小さく頷いた。

「何で?頭おかしいんじゃないですか?」


 カズマは珍しく声を荒げるエドウィンにどこか満足そうだ。

「カルマって俺も信じてるんだよ。人助けできるときは助けましょうって。俺も若い頃ヒッチハイクで助かった事があるんだよ」


 ラジオからは十代の激情を歌ったニルヴァーナの名曲の前奏ギタ―リフが流れる。興奮したロニーが突然雄叫びをあげると、相槌を打つようにカズマも叫んだ。野生動物を二匹乗せた小型車―息が詰まりそうでエドウィンはやけ気味に頭上の幌を手でこじ開けた。ロニーはむしろ喜んで座席の上に立ち上がり空に拳を突き立て、曲のサビを熱唱し始める。エドウィンは助手席に座ったまま空を仰ぎ、頭上を通り過ぎる陸橋を敗北感と共にぼんやり眺めた。


 曲が終わるとロニーは座席に腰を下ろし、外を眺めたままのルーシーの頭を軽く撫で、忙しなく運転席に身を乗り出した。


「日本人もロックとか聞くんだな」

 カズマはそりゃそうさ、と頷く。

「日本は和を大事にするピースな仏教社会って聞いてたけど、何に反抗する必要があるんだ?」


 エドウィンは思わず突っ込みたくなるが会話に入りたくはないので黙っている。カズマは淡々と答える。


「日本人は何でも『常識』って名の小さな箱に全て閉じ込めようとするんだ。出る杭は打たれる。目立った事はしちゃいけない」

 ロニーは興味深そうに相槌を打つ。


「塾にせっせと通って高校から一流大学へ、一流大学から一流企業へってお決まりの流れがあって、みんな何も考えずにそこに乗っかろうと必死こいて勉強するのさ。時には浪人までしてね。それで会社に入ってからは満員電車にぶちこまれてクビにならないように必死で仕事するのさ」

「へえ、そりゃなかなかクソだな。オレには無理だ」

「オレにも無理だ。だから今ここにいる」


 エドウィンは、カズマの答えに反論したかったけど言葉が出てこなかったー自分ももうすぐその一員になるのだ。


「オレはアメリカが最悪な国だと思ってたけど、どの国も問題があるんだな。でもオレはやっぱり日本に行きたいよ」

 軽蔑するような目つきで見ているルーシーに気づかず、ロニーはカズマに話し続ける。

「じゃあお前日本よりアメリカの方が好きか?」

「わかんないな」

「わかんないはずがないだろ。お前が一番安らげるところーお前が『ここは俺のホームだ!』って思える場所はどこだ?」


「そんなとこは無い。世界中どこにいたってオレは外人だから」


 話半分に聞いていたエドウィンにその一言が刺さった。自分も今までずっとそう思って暮らしていたからだ。ロニーも深く頷いている。男たちの幻想を打ち砕くようにルーシーが面倒くさそうに沈黙を破る。


「男のくだらない愚痴は聞きたくないわ。あいつが悪い、社会が悪いって。…女なんて生まれた時からハンデ背負っているんだから」


 男達に返せる言葉はなかった。彼女の灰色の瞳はまた空に向く。何かを探しているようだけど、何を探しているのかは誰のも分からなかった。

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