灰を溶かして
白山無寐
縁側に座り、隣に置いてある蚊取り線香を見つめた。こんな時なのに蚊に気を取られる余裕のある人たちを睨むと、腕がくすぐったくなった。
ふと視線を腕に落とすとそこには蚊が止まっていた。
吸いたけりゃ吸えばいいと放置した。
啜り泣く声を掻き消すかのように蝉が鳴いている。灰になった母を思い出すと、小さく腫れ上がって痒くてたまらない腕を思い切り引っ掻きたくなった。
少し赤くなってしまった腕を隠すために、暑いからと脱いだカーディガンをもう一度羽織った。蚊取り線香の匂いが染み付いていた。
人の歩く音や湯呑みを置く音。声のトーンを抑え、顔同士を近づけてヒソヒソと話す声。空気を読めず、庭を走り回る服を着せられた子供たち。
そして最終的にはそれら全てを壊す蝉の鳴き声が何度も耳の中に入り込む。
気分が悪くなり、クーラーの効いた部屋に行こうと立ち上がった。目線の先の方に小さな木がある。あの木は母が埋めたらしい。
木陰に違和感を感じてじっと見つめてみると、猫がいた。私をじっと見つめている。あそこまで行く体力が今は無いため、後で水を入れてやろうと、止まった頭で足を動かしてキッチンへと向かった。
ビーズの暖簾にぶつかった。その音で須藤が振り向き、目が合った。
「顔色悪いぞ」
「水入れてくれる?」
「おう」
須藤は慣れた手つきで家の冷蔵庫を開ける。母がよく使っていたであろう調味料がまだ並んでいる冷蔵庫の中を見ることは出来なかった。
二段目によく作り置きのおかずが置いてあった。手書きのメモを貼って、すれ違うことはそこまで多くないのに、口頭で伝えてくれたらいいことをわざわざ書いて置いといてくれた。
野菜室にはいつも野菜がギュウギュウになっていたし、冷凍庫には弟の好きなアイスがいつもあって、その隣には固まった白米がいくつも並んでいた。冷凍食品はそこまで多くなかったと思う。
水の注がれる音を聞きながら、卵の消費期限が気になって震える手で冷蔵庫を開ける。
母の作る肉じゃがが好きだった。この前帰った時に鍋ごと置かれた肉じゃがが確かにここにあった。
卵のことなど忘れて染み付いた思い出を撫でる。膝の力が抜けていき、立てなくなった。
冷気が顔に当たり続けるが、冷たさなど感じられず、離れることが出来ずにいた。
家の冷蔵庫は古いため、開けっ放しにしていても音はならない。時々、私が閉め忘れて母が怒鳴っていた事を思い出す。
「わざとじゃないじゃん」
「なら尚更気をつけなさい」
私の頭を優しく叩き、微笑む母の温もり。
温もりなど探せばいくらでも見つかるが、母の温もりだけはどこにもなかった。
こんなに私は母のことが好きだったのかと思ったがきっと違う。好きだし愛していたし、大切だったが、この愛というものは愛だけで表していいものでは無いような気がした。
「閉めるぞ」
水をしまおうと須藤が後ろから腕を伸ばした。
「待って」
立ち上がって卵の消費期限を確認して、須藤の腕を横にずらして、私が扉を閉めた。
一昨日、卵を買いに行ったのだろう。他の食材ももしかしたらそうかもしれない。
須藤が何も言わずに差し出してくれた水を受け取り、一口飲んだ。
そこまで喉は乾いていないと思っていたが、一口飲んだ瞬間に涙が流れてしまうかのように水を流し込んで行った。
潤う喉とは反対に、目は乾いていく一方だった。
忘れないように、いつでも思い出せるように、母の愛を大事にできるように、積み重ねた日常がどこにも行ってしまわぬように、と台所を何度も何度も見て、触る。
母がいなくならないと目を背けていた、二度と戻らない愛しい日々達がやっぱりありとあらゆるところに転がっていた。
ここで私は頭をぶつけたと食器棚の取っ手を撫でた。ここの床にオレンジジュースをこぼしてバレないように拭いたが、結局バレて怒られていた背の低い弟の顔と母の声。もう残ってるはずのないオレンジジュースが少しベタついているような気がした。
たまに帰ってきて、母と楽しそうにビールを飲む父のグラスはこれだったとどこにでも売ってそうなグラスを手にしてみる。
電気のついていない台所は陽の光のせいで青かった。クーラーが効いているため、水中にいる気分になる。
「最近どう?」
「何が?」
溺れないように声を出して、ここにいる須藤と話すことにした。
「由と上手くいってる?」
「平和に過ごしてるよ。この後来るって言ってたけど」
「さっき連絡あった。一緒に来たら良かったのに。まだ赤ちゃん産まれたばっかでしょ」
「俺も最初そうしようとしたよ」
流れるように椅子に座る。須藤が座った位置は父親の位置で、私は母親の位置。
このテーブルも傷だらけになっているし、中途半端に剥がしたシールがまだ残っていた。
「けど由が先行っててって言うから」
「気使ってくれたのかな、申し訳ないなぁ」
手を組んで、思い切り伸ばした。ため息が思わず出てしまった。疲れた。
「優しさなんだから受け取っとけよ」
「当たり前よ」
須藤は昔からこめかみをよく触る。今もこめかみを人差し指で少し押し込んで、撫でている。
その癖に最初に気づいたのは私だったが、由がその癖に気づいた頃には須藤のことが好きで、大好きだったと話してくれたことを思い出す。
嬉しそうにそしてどこか悲しそうに話す由の頬をつねって、驚くだけの間抜けな表情に私は大笑いした。それに釣られて笑ってくれる由の弱く上がった口角まで思い出して、目の前にいる須藤に視線を戻した。
「久しぶりの再会がこれでごめんね。前からご飯とか誘ってくれてたのに中々予定合わせられなくて、結局今日になっちゃった」
「謝るのは違くね? いやまぁそれはそうだけど、俺らのこと避けてんのかと思ってた」
「なんで!?」
思わず声を張り上げた。
「いや、だって結構余裕ある日程で誘ってたつもりだったんだけど」
確かに、須藤夫婦は一ヶ月後など断るには不自然な日程を提示してくれていた。
ただ、幸いなことに私は友人の会社でインハウスデザイナーをやっていたため、予定が急に崩れることだって少なくはなかった。
「私も一ヶ月後とかなら大丈夫かって思うんだけど、急なトラブルとか、そういうのも対応しないといけなかったからさ……」
嘘はついていない。午前中に終わるトラブルが発生しても断ったことに対して罪悪感がないという訳では無いが、どれだけ時間を貰っても彼らと過ごす時間を悦楽のひと時にできる自信はなかった。
「わかるけどさ。社会人として、一旦建前とかでいいから時間作ってくれよ、心配だよ」
心配という言葉をどう濁して伝えようか少し考えた跡のある須藤の表情に喉がしまった。
青色が揺れて見える。ビーズのぶつかる空疎な音が聞こえてきて、肩の力が抜けた。この音はあまり好きじゃない。
「香織ちゃん、遅くなってごめんね。久しぶり」
愛しか知らない小さな赤ん坊を抱えて慌ただしく入ってきた由は少し痩せてしまったように思う。
子供の寝息が小さく聞こえる。
「来てくれてありがとう。久しぶり」
席を立ち、頬に触れてもいいかとジェスチャーしてみると、嬉しそうに首を縦に振ってくれた。
指先で触れた赤ん坊の頬は熱かった。
「俺見とくから、二人で話したら?」
不自然では無い距離感の二人はやはり見ていられなかった。体同士が当たっていても気にする訳もなく、愛おしいものを愛おしい相手に渡す好きな人の表情は、私の欣快に堪えない今を無視している。
猫のような声を出して目を覚ましてしまいそうな赤ん坊をあやしながら須藤は台所から出ていった。
「外暑かった〜。ごめんね。遅くなって」
「本当に気にしないで。来てくれただけで嬉しいよ」
水を入れようとコップを二つ用意した。遠くから赤ん坊の泣き声が微かに聞こえてくる。彼女の幸せはきっとあれなんだろうなと思うと胸が詰まる。
母が死に、好きな女と約六年ぶりに再開し、再開したと思ったら子供がいる。
何もかも取り残されているような気がしてならなかったが、自分の思っている以上に疲れていたため、さっさと座ってしまいたかった。
コップを置く。ありがとうと優しく声を発する由を抱きしめてしまいたかった。
「改めてだけど、この度はご冥福お祈りします。香織ちゃんのお母さん、すごく良くしてくれたこと今でも覚えてる。さっき線香立ててきたけど、そっか」
目を据わらせてしまった由の頭を撫でる。私が撫でられる側だということはわかっていたが、理由はなんだって良かった。彼女に触れたかった。
少し柔らかくなった髪は産後の影響だろうか。
「この後どうするの? 今日はこっちいる?」
「ううん。帰るよ。お父さんとか他の親戚が盛り上がってくると面倒臭いからね。あと、さすがに疲れちゃった」
手を冷たいテーブルに置き直して、体を倒した。
目を瞑ってみると、蝉の鳴き声がさっきよりも小さい気がする。そろそろ日が落ちるんだろうなと思ったが、田舎の蝉は日が落ちてもまだ鳴き続ける。
こもった耳奥に違和感を感じながらも、母の眠った顔を思い出す。死んだ顔とは違う、生きて眠っている顔。
まるで眠っているようだとセリフのようなことを言う人はいなかったし、そう思った人もいなかったと思う。
あれは死体で、もう二度と固まった瞼は開かないという確信を持ててしまうほどに生気が全くなかった。
触れてみると固く、死んでしまっている。ひんやりとしているのは棺の中も冷えているからで、と言い聞かせてみたが、息を引き取ってすぐ触れて段々失われていく体温と似たような体温であったことは確かだった。
過ぎていく。すべては流れで、私が流れに身を任せても任せなくても、過ぎていく。何もかもがそうやってできてしまっている。運命を変えようと血を吐いてみても、運命が変わるか変わらないかもそもそも流れなんだなと思った。
もう少し早く気づいていれば母はどうにかもう少し生きていたかもしれない。老衰で死ぬ未来だってあったのかもしれない。だが、それは運命でもなければ、偶然でも、奇跡でも、努力でもなんでもない。流れが変わっただけなのだ。誰かのおかげで、誰かのせいで、誰かの何かで変わるものでは無い。
私は流れに逆らわず、だからといって身を任せることもせず過ごしていたおかげで今ありとあらゆる日常を愛せているわけで。愛しいなと思う女の前で下を向いてしまうことだってできる。
地元に帰ってくると染み付いた感情が沸騰し始める。東京に帰ればすぐに冷めて、蒸発せず留まっているが、ここに来てしまうと色んなものが吹きこぼれそうになる。
考えることに疲れ、もう一度体を伸ばした。
木陰で休んでいた猫のことを思い出した。茶碗を取ろうと立ち上がると酷い頭痛がした。
クーラーに当たりすぎたのだ。須藤の癖のようにこめかみに触れて、優しく撫でた。
水を入れて、外に向かおうとすると由が立ち上がろうとする。
「どこ行くの?」
「庭に行こうと思って」
「そう。今日ご飯一緒に食べない? 家泊まってもいいからさ。香織ちゃんちょっと痩せすぎだよ」
「由も痩せたでしょ。いいのいいの! 今度食べに行くから、その時自慢の手料理食べさせて」
「でも……」
立ち上がろうとした彼女に座るよう伝え、足の向きを戻して、彼女の元へ行く。座っている彼女はより小さく、弱々しい。
頭に触れ、そっと抱きしめた。彼女が私の気持ちに気づくことなく彼女の人生が終わりますように。
由が死んでしまった時、今の私のように過去を改めて愛してくれる大事な人がそばに居ますように。
そんな願いを込めて、強く抱きしめた。
「ありがとう。最近忙しくてご飯食べれてなかったの。ちゃんと食べるから心配しないで。健康になってもご飯作ってくれるよね」
「当たり前だよ!」
「本当? 嬉しい。じゃあ私行くから。今日は来てくれてありがとう。お母さんも喜んでると思う。会えて本当に嬉しかったよ。せっかく来てくれたのにすぐ解散でごめんね」
「ううん。私の方こそ会えて良かった。またね」
「うん」
ビーズに触れるとまた空疎な音が台所に響く。
どんどん蒸し暑くなっていく廊下を歩いていると須藤とすれ違った。
「あれ、もう帰んの?」
「帰るよ。今日来てくれてありがとうね。朝から付き合ってもらっちゃって、悪かったなって思う。何から何まで、ありがとう。本当に助かった」
涙のあとを貼り付けた赤ん坊はさっきよりも深く眠っているように見えた。
「いや、いいよ。慣れてるし」
「慣れてるから頼んだわけじゃないよ。誤解しないで。周りの人達頼りないからね、須藤がいてくれて心強かった」
「ならよかったよ。じゃあまた」
「うん。由にも伝えといて。ありがとう」
茶碗に入れた水がこぼれないようにゆっくり歩こうとしたが、足取りはグチャグチャになっていく。
何滴か水滴が足の甲に落ちたが、量はそこまで変わっていなかった。
蚊取り線香はとっくに消えている。木影もさっきより大きくなり、猫は眠っていた。
縁側の下に放っておいたパンプスを履いて、ゆっくり近づくと猫の耳が動いた。暑いのに体を丸めて眠っている猫の毛の艶は美しかった。
「ごめんね。寝てて大丈夫だよ。水置いとくから、よかったら飲んで。熱中症気を付けてね」
片目を開けて私の目を探していた。目が合うと猫はもう一度目を閉じ、小さな肺を動かしていた。
呼吸する度に体が少し動いている動物を見て、やっと自分の垂れてきた汗に気づいた。
縁側に置いておいた荷物を取り、父親や親戚たちにバレないよう、裏口から家を出た。
見上げた空はもうすぐオレンジ色になりそうで、そこまで眩しくなかった。
駅までの道のり。何度も三人で歩いた道。呪いのように染み付いている。歩くだけで思い出せる幼かった私たち。
駅前のスーパーではよく母が買い物をしていた。三人で母に会いに行き、四人で家に帰ることもあった。夜ご飯を皆で食べて、私だけ部屋着になった不格好な並びでまたこの道を歩いて各々の家に向かった。
母との出来事を思い出として割り切ることは簡単だった。一人暮らしが始まった時、恋しくて堪らなかったからなのか、もうすっかりこの虚しさには慣れてしまっていた。
ただ、由だけはまだどこかで期待している。須藤と別れて欲しいとも思わないし、彼女が傷つくことは起こらないで欲しい。
だけど、いつか私を選んでくれるんじゃないかとほんの少し、待ってしまっている。
今もあとを追いかけてきて、やっぱり一緒に帰ろう。ご飯も食べて行ってと腕を掴んでくれることを期待している。
次々に溢れていく感情を踏み潰しながら、駅に向かった。
やるせない感情すら置いてけぼりにして、まだ暑い外の空気を何度も吸って吐いて。タクシーなど拾わずに歩いた。
相変わらず蝉はうるさいし、忘れていた蚊に刺されも痒い。足も痒いから、さっき噛まれてしまったのだろう。
猫は水を飲んでくれただろうか。
父は卵の消費期限に気づいて使い切ることが出来るのだろうか。
汗が目の中に入り、目から落ちていく。涙のようだが、母が死んでからまだ一度も涙を流せていない。
また私は流れを見ないふりして明日を迎えるだろう。今日も家に帰ってパソコンを開くだろうし、明日もご飯を食べられる余裕があるかどうかも分からない多忙を無心で過ごしていく。
ジワジワと死んでいく人生を今、歩いている。
だが、今日くらいはご飯をちゃんと作って食べようと決めた。
最寄り駅に着いたらスーパーに行って、実家の冷蔵庫に入っていたものを思い出して、肉じゃがを作ろう。
母の味にはならないが、私自身が生きていくためには、誰かの何かではなく、私の何かで生活しなければいけない。
乱れる足を動かし続ける。
汗で張り付く喪服を時折剥がして、カーディガンで風を作る。
耳の奥で鳴り続ける蝉の鳴き声を体に染み込ませながら、私は歩き続けた。
灰になり、溶けてしまった母を思い出しながら。何度だって思い出して、何度だって忘れていく。
場違いにもほどがある、恋焦がれる私の心臓を夏の気温で溶かしながら、もう思い出したりなんかしないと強がりながら、この道を歩く。
灰を溶かして 白山無寐 @__wh_0_
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