沸騰した雪
白山無寐
雨が頭皮に当たる。雫が大きくなり、毛先を伝っていく。降る雨に紛れて、その水滴がつま先へと落ちていく。
悴む指先に力が入った。あの時の私は過ごした年月を感じさせる錆びた鉄柵をしっかりと握っている。
すぐ戻るからという声を何度も再生して、小さく光る少し遠い自販機を眺めた。
雪の降る三月。陽の光が春色になってきた頃、それに惑わされて桜が咲いた。急な寒波が襲ってきて、白濁色の桜は輝いて見えた。
歩くと剥がれる程度に積もった雪の上を、足を滑らせないようにと少し注意してつま先に力を入れて歩いた。
人の溢れる駅前ではぽつぽつと白息が舞っている。
春の匂いが一斉に消え、人々の感じる孤独感が鮮明になった駅のホーム。ホームに付く前、足並み揃えて歩いているわけでもないのに、誰も転ばない疎らな人混みで少し躓いた。それを思い出して少し鼻先が痛んだ。
通勤ラッシュが過ぎた午前十時前。私の乗る車内はそこまで混雑していなかった。
曇った窓ガラスをぼうっと見つめ、眠気を覚まそうと最近聴いている曲を脳みその奥の方で流した。
イヤホンをつけても良かったが、駅員のアナウンスを聞き逃すことや、誰かに声をかけられた時に不安になる。
真っ白になったいつも見る街がすごい速さで流れていくが、車内の暖房が効きすぎているのかそこまで焦りは感じられなかった。
ふと視線を落とし、目の前に座っている親子を捕らえた。丁寧に小さな靴が並べられている。髪の艶が活き活きとした少年は、窓ガラスをより曇らせながら外を眺めている。隣ではおそらく説得したが聞く耳を持たない息子に何か言葉をかけることを諦め、見守ることを選んだ母親らしき女性が遠い目で少年を見つめていた。
雪は止んだり降ったりしていた。また降り始めて、大人たちはさりげなく窓に視線をずらす。少年はさっきよりも姿勢をピンと張って、声は出さずとも興奮した様子が曇る窓ガラスで丸わかりだった。
濁っていく街。これがただの少し大きめな埃の塊だったらと考える。何かの拍子で火を付けたら、とそこまで考えていると降りる駅に着いた。
なんとなく少年に手を振りたくなったが、彼は私のことを見ていない。暖房で溶けかけた思考をしっかり固めながら、階段を登った。
改札を通る人は私一人だけだった。駅付近なのに、人が片手で収まる程度しかいない。この街の好きなところだった。冬や夏はほとんどの人が外には出たくないだろう。それをみんなが実践しているかのような、そんな自由さを感じられるこの場所が好きだ。
小さく深呼吸をして、肺を凍らせた。雪のすぐ下にあるタイルに警戒しながら、ゆっくり歩いた。
住宅街に入ればコンクリートしかないからと下を見ながら歩いていると、ちらほら雪だるまたちが立っていた。
他にも雪合戦した後なのか、雪玉も落ちている。誰かの楽しんだ跡が落ちて、新しい雪が積もって消えていく。時間の経過は静かで少し怖い。
そろそろ店に付く頃だろうと足を弾ませていると、マスターの鈴木さんが看板を描き替えている後姿が小さく見えた。
赤ワインのような深い色のマフラーを巻いて、ぴかぴかに磨かれた革靴が雪に沈んでいても気にしない無邪気さが好きだった。
「おはようございます」
「あ、おはよう。ちょうどいいとこに来たね。この絵って変じゃないかな」
「猫ですか? 可愛いですね」
「可愛い? よかった。まぁ犬だけどね」
「今日のマフラー素敵ですね。その赤色好きです」
「ありがとう。高野さんのイヤリングも素敵だね」
「いつもこれですよ」
「知ってるよ。早く中入ろう。寒いでしょ」
暖かく光る店内にはもうすでにコーヒーの香りが漂っていた。荷物を置きにキッチンに入ると、鈴木さんが今朝焼いたであろうパンが丁寧に並べられていた。
ランチの時間帯から店を開けるため、このパンでサンドイッチを作ったり、野菜たっぷりのスープにセットで付けたりもする。
そのスープを今から私が作るのだ。その横で鈴木さんがサンドイッチを作る。日替わりのスープとサンドイッチは最低二十食分は作ろうと話していたが、いつの間にか互いの気分によって量は変わっていた。
荷物を置いて、エプロンをつける。マスクをして、手を入念に洗った。それが終わるタイミングでいつも鈴木さんが中に入ってくる。
「今日お客さん来るかな」
「駅前は人少なかったですよ」
水道水が氷のように冷たかったおかげでしっかりと目が覚めた。小さな悲鳴を上げて手を洗う鈴木さんの後ろにある冷蔵庫を開けて、野菜を取り出した。
今日はカブとジャガイモがたくさんあった。これをまた氷のように冷たい水で洗って皮を剥いたり、芽を取ったりした後に切って鍋に入れる。ベーコンも準備しよう。今日はコンソメでいいかななど考えて、体を動かしているとあっという間に開店時間になる。
スープを煮込んでいる間に店内の電気をつけて、用意されたレコードを蓄音機に置いて音楽を流す。
すると鈴木さんがキッチンから出てきて、いい選曲だねと私に声をかける。曲を選んでいるのは鈴木さんなのに。
ドアの鍵を開けて、オープンの看板をぶら下げるために外に出た。看板の横に朱色のマフラーを巻いた大きな雪だるまができていた。お気持ち程度に添えられた犬か猫かわからない可愛らしい形のした雪の塊も置いてあった。
写真を撮って鈴木さんに送った。私より一回り年上の鈴木さんだが、最近携帯を買い替えてから操作がわからないと嘆いていた。きっと今送った写真も三日後くらいに見るんだろうなと、三日後に写真を見た鈴木さんを想像して笑った。
オープンの看板がガラスに当たって軽やかな音を立てた。今から私の一日が始まる。
「お店開けました」
「ありがとう。コーヒーでも飲んでお客さん待ってようよ」
「鈴木さんがコーヒー飲みたいだけでしょう?」
「いいからいいから。スープの様子見てきて。その間に準備するね」
コンソメの優しい匂いとベーコンの強い良い香りの広がったキッチン。もう一度手を入念に洗って、味見用のお皿を二枚用意した。ベーコンの脂が浮いていた。おたまを入れる度に光る脂はかわいかった。
火を止めて、形の悪い野菜たちを選んでよそっていく。
湯気が顔に当たって毛穴がふわふわと開いていく奇妙な感覚が襲う。何度も嗅いだ野菜の旨味が溶けだした気体が鼻を通っていく。
「これ、味見用です」
「ありがとう。高野さんはアイスコーヒーでいいんだよね」
「大丈夫です。お願いします」
カウンターに座り、奥に並べられた食器たちの輝きを見つめた。
これがどんなものかは知らないが、祖母が作ってくれるホットミルクに入れる、木のスプーンを伝っていく蜂蜜のような温もりのある輝き。何もかもを、鬱陶しくない粘度で包み込んでくれるかのような温もりと、それを破っていくコーヒーの尖った匂いが心地よかった。
氷にヒビが入る音が聞こえる。可愛いですね。と指さした底の分厚いグラスに注がれていくコーヒーはどこか喜んでいるように見える。
ストローを刺して、読書の似合う手に包まれたグラスを、誰かの手作りだと言っていたコースターの上に置いてくれた。
「お腹空いたね」
「朝ごはん食べてないんですか?」
横に座った鈴木さんは何の香りもしなかった。これからお客さんが来て、コーヒーを作り続けてやっといつもの鈴木さんの香りになる。
「ギリギリまで寝てたいからね」
「いつも気分で開店時間決めてるのに……。好きなだけ寝たらいいじゃないですか」
「そういうことじゃないんだよ。なんとなく何かに縛られて、渋々何かをやってこそ生活なんだよ」
「いただきます。だからちゃんと土日休みなんですか?」
コーヒーを一口飲みこんだ。コーヒーの苦みは特別な苦みだと誰かが言っていたが、何が特別だったのかは思い出せなかったし、多分その苦みはその人にとっての特別なような気がした。
「そう。時々、平日に休みが欲しくて土日にお店開けるけどね。縛られてることに嫌気が差したときとか」
私があげたお土産のマグカップをそっと持ち上げる。湯気が鈴木さんの鼻息でどこかへ飛んでいった。美味しそうに飲んでいるかと言われたらそうではないように見える。彼の当たり前を覗いている今、変に緊張してしまう。いつも緊張している。
「なんでそんなに日常にこだわるんですか」
「生きてたらさ」
そう鈴木さんが俯いたところで、ドアの開く音がした。私は急いで席を立っていらっしゃいませと声を出した。鈴木さんはゆっくり顔を上げて笑った。
いつも水曜日に来て、新聞を読み終えたらすぐ帰ってしまうおじいさんだった。いつも通り窓辺の席に座って新聞を開く。マスターは席を立ってカウンターの中に移動する準備を始めた。スープを一口飲んで、美味しいねと呟いた。
私もつられてスープに口を付けると、マスターはいつの間にかもう一度コーヒーを淹れ始めていた。
おじいさんは自分でホットコーヒーを頼むことはない。いつもお節介ではないだろうかと心配になりながらコーヒーを持っていく。マスターも気にしなくていいよと微笑んでいるし、お会計の時にいつもちゃんとコーヒー代を払って帰ってくれる。今日もいつもと同じように良い香りのするコーヒーを持って行った。
「ホットコーヒーになります」
なるべく食器の音を出さないようにそっと置いた。
「いつもありがとう。今度妻と一緒に来ようと思っているんだけど、休みの曜日を教えてくれないか」
「ここ最近は土曜日と日曜日がお休みですよ」
「ここ最近?」
持っていたお盆を前で抱え込んだ。
「マスターの気分なんです。だからもし、日付とか曜日が決まってたら私から伝えておきますよ」
眼鏡の奥にあるおじいさんの黒目が曇った。何か余計なことを言っただろうかと心配していると、どこか気まずそうにおじいさんは微笑んだ。
「いつここに一緒に行くことができるかわからないんだ。妻は今入院中でね。この年になると、いくら退院できると先生に言われたってもしものことを考えてしまう。僕たちはもう病気と闘える体力もないからね」
おじいさんは静かにホットコーヒーを飲む。綺麗な白いひげがカップの淵に優しく触れた。
「そうだったんですね。ちなみに退院の日はもう決まってますか」
「一応、再来週の火曜日だけど……」
「ならその日、絶対に開けます。お二人でいらしてください。今の話をうちのマスターが聞いたら張り切りすぎて腰を痛めてしまうかもしれませんが」
「それは、よくないね」
初めて笑った顔を見た。そこから少し話し込んだ。
おじいさんが店に来るようになったきっかけが、奥さんの入院だったそうだ。毎朝二人で散歩をしていたが、妻がいないと楽しくないとまた困った顔で優しく笑った。
少し時間をずらして、散歩に出てみるとこのお店の看板が目に入ったそうだ。何の動物かよくわからない曖昧な可愛い絵に惹かれて中に入ったという。それがもう半年も前の話。
マスターの作ってくれたコーヒーが美味しくて、でも美味しくなくても通うことは決めていたそうだ。あんなに可愛い絵を描く人が人の愛し方を知らないわけないと思ったと言った。
それは言いすぎだと思ったが、久しぶりに人と話すからなのか随分と饒舌に話をしてくれていて、それを言って遮ってしまうのも悪いと思った。
「今日、そんなことがあったんです。鈴木さん、愛を知っている人だと思われてるんですよ。素敵な発想だと思ったんですが、赤の他人にそこまで興味を持てるものなんですかね」
いつの間にか空が真っ暗になり、雪は吹雪のような勢いで降っていた。クローズの看板に変え終わって、一瞬で凍り付いた手を余ったスープで温めた。
スプーンが食器に当たる音と、少し音量を下げてさりげなく聴こえてくる今朝付けた音楽が鳴っている。朝はあれほど店内が暖かかったというのに、夜になりもう人が来ないと確定してしまうと、どこか寂しさが漂う。風に揺れる看板の音が一番目立つ。それにまた私は寂しくなった。
それをかき消してくれる鈴木さんの声が聞こえた途端、安心した。
「聞いたことはあったんだけどね。なんで通ってくれるのか。あの時はコーヒーが美味しいからって言ってくれたんだけど、高野さんにはそこまで教えてくれたんだ」
軽やかに笑う。フルートはここまで低い音を出せるわけないと思うが、木管楽器のぬくもりを感じさせる軽やかな笑い声が店内に響く。
「たくさん話してくれました。新聞は読んでるけど、次のニュースを見る頃にはさっき読んだニュースは覚えてないとか。ずっと、寂しそうに話してました。きっと奥さんがお話を聞いてくれてたんじゃないかなって。胸が少しだけ痛くなりましたよ」
「そう、それで思い出した。今朝の話の続きだけど、聞いてくれる?」
「もちろんですよ」
「生きていたらさ、非日常が恐ろしく見えるときがある。例えば、僕にはいないけど僕より先に訪れる愛する人の死とか。もっと身近なもので言うと、この店が急に燃えてなくなってしまうこととか。そんなこと起こらないだろうみたいな、そんなものから、もしかしたら起こってしまうみたいな出来事は、ずっと大切にしていた日常に大きく影響するものだと思うんだ。それが嫌なんだよね」
「何が、嫌なんですか」
「失ってから気づく大切なものというやつに気づく瞬間が。日常が続けと願って過ごしていなかったのに、もう取り戻せないものになってしまった時、僕は何をしてたんだろうって思うよ」
「あるんですか。その」
聞いていいものだろうかと二秒ほど頭を悩ませた。気まずいなど気にしなさそうで、でもきっと勝手に反省して気を付けようと心掛けてくれるくらいの優しさのある鈴木さんの前で黙りたくはなかった。
「あるよ。あるから、大切にしてるのかって言われたらそういうことでもないんだけどね。ずっと大切にしてたんだ。その時も、失ってから苦しまないように、もう二度と手に入らないものを強く望まないようにって。僕は臆病だから、実際経験してなくてもそんな予防線ばかり張って生きてきたんだけどね。ただ、それでもそんな予防線意味がなかったことばかりだよ」
仕事が終わると私は眼鏡をかける。なんとなく、眼鏡をかける。レンズが曇るが、気にせずコーヒーを飲んだ。彼のコーヒーは、美味しくなんかない。
「自分を守るために固めたその意志で本当に日常を愛せていたんですか。本当は怯えずに暮らしたいなとか、思わなかったんですか」
私たちは天気の悪い日にいつもなんとなくな話をする。お互いまた明日会っても同じ話題で話したりはしない。嵐が過ぎるのを、恐ろしい嵐から目を逸らして無理に笑って楽しく過ごしているような感じだ。楽しい時もあれば、今日のように楽しくない日もある。
「思ったよ。でもそれを考えたって、それをどうにかしようとしたって時間はかかるし、もっと傷つくと思ったんだ。諦めたとかじゃなくてね。考える力をより多く注ぐことではないなって。だから、愛せている自信がなくなったり、大事にできてないなって凹んだ時は、本当はこんなこと考えたくないのになって自分を笑ってるよ。嘘つきだなって」
「あー。でも結局私たちはそうやって生きていかないといけないんですよね。嘘ついて、その嘘がいつの間にか本当になってて。鈴木さんのこだわる日常が本当に日常なのかって思ったこともありました。それも含めてきっと、日常なんですよね」
「多分ね。今日話してくれたおじいさんもきっと、日常が壊れてどうしたらいいかわからなかったから、お店の出会いを何かのきっかけにしたかったんじゃないかなって思ってるよ。妻を心配する自分と向き合うきっかけなのか、妻がいなくなった後の生活を想像するためのきっかけなのか、きっと色んなものがあったと思うんだ。僕は本人じゃないからわからないけどね」
きっとまだ吹雪は続く。私たちの嵐は、話が終わってしまった後も続いていく。
「再来週、来てくれたらいいですね。鈴木さん、張り切りすぎて体痛めないでくださいね」
「僕はそんなに間抜けじゃないよ」
二人でやっとスープを食べた。温くなっていたが、美味しかった。今朝食べたやつよりも味が染みている。ジャガイモとカブは少し口を動かしただけで崩れてしまった。ベーコンの香りが染みついたスープとパンはよく合った。
「どんな結果になろうと、僕は僕の日常を愛していくしかない。それは高野さんもだし、そのおじいさんも。誰しもが他人愛されたくても、誰にも愛せない何かを持って、それに時折苦しめられないと生きていけないと思うんだ」
洗い終わったお皿を拭いているとき、彼はそう呟いた。私は彼の過去も思い出も知らない。何があったのか、どうしてそんなことを今口に出したのかもわからない。ただ、今の私たちのように心が満腹になってしまった時、少し声を出さないと破裂してしまいそうなときはあるよなと思った。
聞こえなかったふりをして、食器を片付けた。
「雪、止みそうにないですね。私そろそろ帰ります。お疲れさまでした」
「気を付けてね。お疲れ様。また明日」
張り付いた鈴木さんの言葉を思い出しながら、母の元へ向かった。母はもう私のことなど覚えていないが、週に一度、母のやっている飲み屋でお酒を三杯ほど飲んで家に帰ると決めている。
何度も行かないでと泣き叫んだ。ドアの鍵の開け方がわからなくなるくらい、私は泣き叫んでいた。少し開いていた、母の閉め忘れた窓を開けてベランダに飛び出して、もうすっかり私のことを忘れてしまった母の後姿を、しゃっくりを我慢しながら見つめた。
雪は収まり、次第に雨に変わっていった。頭皮に雨が当たるたびに針で刺されているかのような不快感を感じた。
重たいドアを押して、薄暗い店に入っていった。
「いらっしゃい。あら! 今日も来てくれてありがとね。お姉さんみたいな若い子全然来ないからもうすっかり覚えちゃったわよ。ほら、おっさんばっかでしょ?」
一気に店中に広がる下品な笑い声。
「ママ、今日もいつものやつください」
なにも違和感はない。この場では彼女は皆のママなのだ。何もおかしくない。それがおかしいことには目を瞑る。
「はいよ。外寒かったでしょ? 今日のお通しはおでんよ」
アウターに付いた水滴を落としてからいつもの席に着いた。角の、カウンターが一望できる席。ここで母の声に耳を傾ける。いつも不思議に思う母の上品なふるまいを凝視する。
「これおしぼりとお通しね。飲み物はちょっと待ってね」
両手で受け取るおしぼりはホカホカだった。
そのおしぼりに癒されていると、何度も嗅いだ匂いがすっと鼻の奥を叩く。母はどんなに熱くても、黒霧島のお湯割りを飲んでいた。
おでんと一緒に飲む酒は、何も懐かしくない。ここに来るたびに自分と母のことが大嫌いになる。いつか思い出してくれるのではないか。本当はわかっていて、気づかないフリをしているだけなのではないか。
そんなことを考えるが、鈴木さんは言う。私のこの望みは私で叶えるしかないのだと。他人(はは)に愛されたくとも、それはもう不可能だと。
おでんを食べ終えて、酒を流し込んだ。流石にお腹がいっぱいで、これ以上は食べたくなかったし、飲みたくなかった。
「ごちそうさまでした。おでんとても美味しかったです。また来ます」
母の声は階段を登ったその先の道まで響いた。
おでんのおかげかアルコールのおかげかはわからなかったが、体温が高いような気がした。そんな体温を小雨がどんどん冷ましていってしまう。
家まであと少しだったが、少し寄り道をして缶コーヒーを買った。近くの自販機はここまで来ないとない。真冬に暖かいコーヒーやココアが飲みたくなったとき、ここに来るしかないが、家に着く頃には少し温くなってしまう。
鈴木さんの作るコーヒーよりも缶コーヒーの方が美味しいし、母の作るおでんより、私の作るおでんの方が、味が染みていて美味しいに決まっている。
寒さに包まれている中、暖かいものを飲むと少し涙が出てくる。早く明日にならないかなと上を見上げてみると、街灯に照らされた小雨が雪に見えた。
小さな手に血のような匂いが染みつくほど、鉄柵を握りしめた夏。喉から血が染み出てきたと怯えるほど泣いた夏。
なんとなく想像している鈴木さんの日常に私がいますようにと少し祈る晩冬。
いつも通り、足を引きずりながら家に帰った。あの頃のベランダとは違い、今のベランダの柵は綺麗に塗装されている。
下に残ったコーヒーを捨ててしまうためにうがいをした。
沸騰した雪 白山無寐 @__wh_0_
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます