2.違和感
母が急にお隣の古関さんを気に掛けだしてから数日が経った。
「今日も姿を見せなかったねぇ」
夜のお茶──と言ってもハーブティーだが──を楽しんでいた母が、また古関さんの話を持ち出した。もはや毎晩の恒例行事。
年代物の石油ストーブの上で薬缶が立てる、チンチンと言う音がやけに大きく聴こえた。
「あのさ、古関のおじさんの生活音も聴こえないの?」
ふと、私は気になった事を母に尋ねた。
「生活音?何よそれ?」
生活している以上、キッチンやお風呂、トイレ等で立てる音は必ず聴こえるはずだが……。
「──だから日中、古関のおじさん家から何の物音もしなかったの?」
「そんなの聴こえるワケないでしょ。アンタみたいな地獄耳じゃないんだから」
母に聞くだけ無駄だった。
翌日、私は念の為、外から古関さん宅を確認しに行った。
数年前に大型バンから買い換えた白の小型車は、ガレージの中に行儀良く止まっていた。一昨年取り付けた、自慢のオール電化の給湯器も正常に作動している。
だけど、生活音らしき音は全く聴こえなかった。
洗濯機を回す音も、トイレの水を流す音も、独り暮らしの寂しさを紛らわせる為に、常に大音量で付けっぱなしのテレビの音も。
家に人の気配が無く、車も残っているなら可能性は二つ。古関さんが泊まりがけで旅行しているか、何らかの体調不良で寝込んでいるかだ。
前者だとしたら、旅行ではなく検査入院かも知れない。その可能性に私は思い至った。
数年前に癌の摘出手術を受けてから、 古関さんは季節の変わり目に体調を崩す事が増えていた。それでも、検査入院で何日も掛かると言う話はあまり聞かない。
それに、古関さんが留守にする時は大抵、留守中の郵便物の保管を我が家に頼んで行くし不在中は新聞の配達も停めて貰っている。
だけど今回、新聞も郵便物もごく普通にポストに投函されている様で、折り良く私の目の前で郵便配達のバイクが古関さん宅に立ち寄ったのを見た。
後者の体調不良だとしたら、迂闊に騒ぐと休養中の古関さんの迷惑になり兼ねない。良い歳をした大人なんだし、プロの運転手としての自己管理能力は未だ衰えてはいないはずだ。
とは言え、独り暮らしで何日も買い出しに出ていないのではストックも尽きる。お節介かも知れないが、食料品や日用品の買い出しくらいはお手伝い出来そうだな、と私は算段した。
──ただ、この違和感は何だろう。
何か大切な事を見落としている様な、ボタンを一つ掛け違えた様な不快な感覚は。
人気も出入りも生活音も無い家。
ガレージの中に停まりっぱなしの車。
普通に作動している給湯システム。
毎日、配達される朝刊と郵便物。
一見すると、別に異常でも何でもないはずの事なのにナニかがおかしい。本能から来る野生の勘と言うか、違和感が頭の片隅で微かな警鐘を鳴らした。
自分の内なる警鐘に耳を傾けながら、私は「違和感」の原因について幾つかの事項をメモ帳に書き出し、整理して見る事にした。
──ふと、誰かの視線を感じた。
ねちっこい、嫌な感じの視線の持ち主は辺りを見回すと直ぐに分かった。古関さん宅の裏手に居る、悪名高い鴫原のババア…もといオバサンだった。
視線が合うと「フンッ!」とそっぽを向いたが、此方も完スルーした。仲が良ければ、古関さんの事も何か聞けたかも知れなかったんだけど。
この時、余計な意地を張らずに下出に出ていれば、ひょっとしたら事態がもう少しだけ早く解決したかも知れない。
まあ、鴫原のオバサンに限っては無理な話だったのだろうけど。
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