第一話【Starfestival(1)】

 この三ヶ月ほどの間に、俺の周辺は目まぐるしく変わった。


 一ヶ月半ほどの入院期間と療養期間を経て、沙耶が職場復帰した。


「長い間、ご迷惑をおかけしました」


 頭を下げた沙耶を温かい拍手が迎える。これで人手不足による忙しさが解消に向かうぞ、とみんなが安堵した矢先、ところが沙耶は職場を去る意向を上司に伝えた。

 俺たちの東奔西走とうほんせいそうする日々は終わらないのか、と職場を諦めが満たした。

 どういった心境があったのか、沙耶には聞けずにいる。だが、彼女の気持ちはどこか理解できた。

 一度心に空いた穴は簡単には埋まらない。喪失感や虚無感に苛まれたとき、乗り越える方法は過去を見ることではない。視点を未来に向けて、何かに没頭することだ。

 視点を変えるために環境を変える。実に理にかなっている。

 かくいう俺も、ふとした瞬間に、巨大な喪失感に襲われることがたびたびあった。

 夕方、一人で味噌汁を作っているとき。

 帰宅して、出迎えてくれる人が誰もいないと認識したとき。

 休日、掃除をするため葉子が使っていた部屋に入り、そこが再び無人になっているのを確かめた朝――。

 心中に木枯らしが吹いたとき、ふと、柚乃のことを思い出してしまう。襲ってくる喪失感が、葉子ではなく柚乃の姿をしていることに、吐き気がしそうなほどの罪悪感にとらわれた。



「コーヒー、冷めちゃうわよ?」


 不意にかけられた声で我に返る。妄想を中断して顔を上げると、正面に松橋さんの顔が見えた。先日新調した黒縁眼鏡の奥で、切れ長の瞳が細められた。


「あっ……」


 慌ててテーブルの上のコーヒーカップを手に取るが、口にしたブレンドコーヒーはすでにぬるかった。

 思えば、食後のコーヒーが運ばれてきてから何分経ったのか覚えていない。

 二人で夜の街を歩き、なんとはなしに目についた店で夕食を食べた。その段階で遅めの時間だったのもあり、客の姿はまばらだ。食後のコーヒーで粘るのも、いい加減に厳しい頃合いか。


「ごめん。ちょっとボーっとしていた」

「何か考え事? ずいぶんと長い時間、放心していたようだけど」


 さも可笑しそうに、対面の松橋さんが笑うが、口調はそんなに楽しそうでもない。


「仕事のこと?」

「そうだな」


 上司にかけるものとしては砕けた口調だが、彼女が気に留めた様子はない。

 先日、俺は会社に辞表を出した。春先から担当していたプロジェクトが、終了する目処が立つのを待ってそうした。

 不測の事態でも起こらない限り、プロジェクトはスケジュール通りにあと一ヶ月弱で終わるだろう。そこからさらに一週間ほどかけて業務の引継ぎと整理を行い、できれば七月中に辞めたいと上司にそう伝えたのだ。

 待遇に何か不満があるのかと、部長には強く引き留められた。うぬぼれかもしれないが、引き留められるとは思っていた。優秀――であったかどうかはともかくとして、少なくとも勤務態度に問題がなかった沙耶が退職を決め、続け様に俺なのだ。業務に差し支えが出るほど人手不足になるのは明白だった。それでも、俺の決心が揺らぐことはなかった。

 まるで示し合わせたかのように二人が続けて辞めることに、「お前ら、裏でこそこそ付き合っていたの?」と同僚に揶揄されたがそんなことは断じてない。

 少なくとも、沙耶とは。


「本当に辞めちゃうんだね。今のプロジェクトが終わったら、昇進する可能性だってあったのに、もったいない」

「もったいない、か。そうかもしれないけどね。でも、これはもう決めたことだから」


 言い出したら聞かないとわかっているのか、松橋さんはそれ以上何も言わなかった。

 会社の待遇に不満はない。

 次の仕事が決まっているわけでもない。

 ではなぜ辞めるのか? と問われても、納得のいく答えは出せそうにない。忙しい日々を抜けた先ではたして何がしたいのか。自分でもうまく言語化できていないのだから。

 沙耶と同じように、環境を変えたかったのかもしれない。あるいは、彼女のことが羨ましかったのかもしれない。


「どうする? これから……家にくる?」

「いや、今日のところはこのまま帰ろうかな。最近仕事で気を張っていたので、少し疲れが出ているんだ」

「そっか」


 貼り付けたような笑みを浮かべて、カップの中に残っていたレモンティーを松橋さんが一気に飲み干した。

 窓の外は宵闇だ。こちらを一瞥してから、彼女が窓の外を見る。彼女の瞳のその奥に、わずかに失望の光が見えていたが、俺は気づかない振りをしておいた。

 沙耶が自殺未遂をしたあの日から、俺と松橋さんの関係は急速に近づき、いつしか交際が始まった。

 もしかしたら、彼女は二人の関係が次のステージに進むのを期待していたのかもしれない。

 それがわかっていてなお、差し伸べられた手を握る気にはなれなかった。

 彼女に魅力を感じていないわけではない。

 葉子と、柚乃と、二人分の思い出がいまだ漂っているあの空間に、三人目の女を加える気にはまだなれなかった。

 俺は二の足を踏んでいるのか。これで前を向けているのか。

 相変わらず、どこか煮え切らない自分の姿に辟易した。


 梅雨真っ只中の雨の日の週末。自宅のリビングにとある女性と二人でいた。

 ぴっちりとしたグレーのパンツスーツに身を包んだその女性は、八王子署の刑事だ。盗聴発見機を片手にリビングと寝室を何度も行ったりきたりする。

 やがて確信を得た顔になり、その女性刑事がリビングから俺に手招きをした。

 これ、と彼女が指差した先にあったのは、壁際にあるコンセント。そこに 三又のコンセントタップが刺されていた。


「これは、あなたが購入したものですか?」

「ええ。たぶんそうだと思いますが……って、まさか?」

「そう、そのまさか。これが盗聴器だね」


 彼女が盗聴発見器をコンセントに近づけると、明らかに異常を知らせる音が出た。


「ぱっと見で気づきにくいからね、コンセントタップ式の盗聴器はよく使われるんです。すり替えられていても、元のコンセントタップとの違いがわかりにくい。コンセントから電源を得られるので、半永久的に盗聴が可能。そのあたりがメリットかな」


 盗聴されないようにとの配慮だろう。極限までひそめた声で女性刑事が言う。


「なるほど。まったく気がつきませんでした」


 同様に、ひそめた声で応じる。


「次はこっちです」


 続いて、俺の寝室に刑事が入る。書棚の上にあるペン立てから、光沢のあるデザインの青いボールペンを取り出した。


「もしかして、それも?」

「そう。このペン、買った記憶とかあります?」

「あ……いや」


 言われてみると、確かにない。葉子が買った物だろうかと、無意識のうちにそう思ってしまったのかもしれない。さり気なさすぎて、こちらもまったく気がつかなかった。

 さらに盗聴器はふたつ見つかり、全部で四つあった。


「意外な話に思うかもしれませんが、盗聴器を仕掛けた相手というのは、案外身内だったりするんですよ。……誰か、心当たりはない?」

「まあ、ありますね」


 おそらく柚乃なのだろう。姉が死んだ背景に何かあるんじゃないのかと、彼女は俺と葉子を疑っていたから。盗聴器を仕掛ける動機ならちゃんとある。


「それで、どうします?」


 廊下に出たあとで女性刑事が声量を戻した。


「今ここで取り外してもいいんですが、盗聴者を突き止めるために、あえて泳がせておくという手も一応、あります」


 あまりおすすめしないけど、と刑事は補足した。


「いや。いいです」


 仕掛けた相手は明白だし、これ以上聞かれたくもないし。第一、俺たちの関係は終わったんだ。つながりは全部断ち切ったほうがいい。


「わかりました」


 手際よく盗聴器を外していく彼女の姿を、ただ見ていた。

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