穢れた、記憶の消去者

木立 花音@書籍発売中

プロローグ

プロローグ【七月七日夜七時】

 日没間際の十八時。本日の業務を終えてオフィスを出たところで、ポケットに突っ込んでおいたスマホが軽快なメロディーを奏でた。

 スマホに内蔵されている固定音源と異なるそのメロディーからわかるのは、電話をかけてきた相手が特別な存在である事実。廊下を歩きながら、画面を見ることなく俺は電話に出た。


「もしもし」

『もしもし、かっくん?』


 電話の主は、案の定婚約者である葉子ようこだ。仁平薫にへいかおるでかっくん。俺のことをこの仇名で呼ぶのは彼女しかいない。


『今日、何の日か忘れていないよね?』

「忘れたくても忘れられないよ。朝から何度そのことで電話をよこしているか、わかってる?」

『そんなに多いっけ?』

「多いよ。そんなに心配しなくても忘れやしない。自分の誕生日くらいはね」


 電話をした回数を自分では覚えていないのか、それとも後ろめたい何かがあるのか、『あはは』と葉子は軽薄に笑ってみせた。


『今年で何歳になるんですかー?』

「二十六だな。いわゆる結婚適齢期」

『ふふふ。よくできました。なるべく早く帰ってきてね。とっておきの料理を準備して待っているから』

「わかった」


 これが、本日三度目となる帰宅時間の確認であることからもわかるように、葉子は心配性な性格でそのうえお節介焼きだ。


 葉子と知り合ったのは、大学二年の秋のこと。そのとき俺は、大学の近くにある弁当屋でアルバイトをしていたのだが、長い髪と、人懐っこい笑顔が印象的な美人がバイト仲間の中にいて、それが葉子だった。

 思い切って話しかけてみたら、同じ大学の同じ学部所属なのがわかって、こんなに目立つ子を知らずにいたのかと驚いたものだった。灯台下暗しとでも言うべきか

「偶然、という名の運命かもね」とえくぼを見せて笑った彼女に、心臓が小さくはねたのを覚えている。

 一目惚れというのは、こういう感覚なのかもしれない。

 それまで、女っけのない生活を送っていた俺にとって、それは間違いなく変革だったのだ。

 アルバイトが終わったあと、肩を並べてバス停まで歩いた。途中にあるコンビニエンスストアに立ち寄って、二人でジュースやお酒を買った。そんな折、時々肩が触れあうのにドキドキしたり、言葉少なに交わす会話が心地よかったりと、一緒にいるだけでも楽しかった。

 そうしてひと月ほどが過ぎたある日、彼女の側から誘われたのだ。「私のアパートくる?」と。

 その言葉の意味がわからないほど鈍感ではない。その誘い文句から何かを期待しないわけでもない。だが、気持ちが高揚していく一方で、最初の一歩を踏み出す勇気を彼女に負担させてしまったな、という罪悪感が心中で芽生えた。

 とにもかくにも、その日から俺たちは恋人同士となったのだった。


 徒歩で駅まで向かう途中で、コンビニエンスストアに立ち寄った。

 葉子がいろいろ準備してくれているのだから、俺も何か準備していくべきだろう。店内をうろうろと歩いて、ワインの瓶を手に取った。俺はあまり酒は飲まないのだが、葉子は赤ワインをこよなく愛しているのだ。財布には少々痛手だが、背伸びした価格のワインを選んだ。

 駅から電車に乗る。車窓の景色を眺めながら心地よい揺れに身を委ねた。

 視界を横切っていく景観は、高層ビルやマンションが多い街並みから、次第に閑静な住宅に移っていき、三十分もすると緑が多い長閑のどかな景色となる。都心から電車で四十分。風光明媚なこの土地で、俺は葉子と二人で生活をしている。


 大学卒業後、二人そろってエンジニアの道を選んだ。

 俺は、情報処理を主な生業とする企業に就職し、ソフトウェアやアプリを開発するプロジェクトチームに何度か参加することで経験を重ねた。葉子は、メンタル・エンジニアと呼ばれる、人の精神や記憶を科学的に考証する研究者となった。

 仕事柄、俺はどうしても残業が多い。仕事は正直ハードだが、それだけに、葉子と過ごす時間が貴重なものとなっていった。

 忙しい日々の中で、お互いが、お互いの心の隙間を埋め合う関係となっていく。大学を出てから、二人が同棲を始めるまでさして時間を要さなかった。二人の関係は、季節が巡るたびに親密になっていき、今年の春に婚約を交わした。


 電車が、高尾駅たかおえきのホームに滑り込んだ。

 駅を出ると、徒歩十分の場所にある分譲マンションを目指して歩き始める。六階建てマンションの五階に、俺たちの住居がある。

 葉子の得意料理はローストチキンとグラタンだ。買ってきたワインはチキンとよく合うだろう。喜んでくれるだろうか、と舌鼓を打つ瞬間に思いを馳せていると、一台の救急車が俺の脇を通過していった。

 けたたましいサイレンの音と、赤色灯の灯りとを周囲にまき散らしながら、マンションがある方向に救急車が曲がった。


「なんだ――?」


 一年半前に葉子は仕事をやめているので、今は在宅している。まさかと思うが、うちのマンションで何か事件が? 強い胸騒ぎがした。

 いや、考えすぎか。俺の故郷である田舎と比べたら、確かに東京は治安が良くない。だからこそ、俺が帰宅するまで家の鍵は絶対外すなと伝えてあるのだから。

 大丈夫。心配には及ばない。

 救急車を追って角を曲がったそのとき、目の前に広がった光景に絶句した。

 人だかりができている。

 無数に見える人の背の向こう側に、赤色灯を点灯したままの救急車とパトカーが停まっていた。


「何か、あったんですか」


 人の群れの端にいた中年男性に声をかけると、引きつった顔で男が振り向いた。


「自殺じゃないかって。マンションの上階から、人が飛び降りたんだ」

「えっ!? 飛び降り?」


 そこで初めて気がついた。しゃがみ込んでいる救急隊員の足元に、うつ伏せで倒れている女性の姿があることに。赤く染まったブラウスの下に、じわりと広がった赤黒い液体に。

 そんな。

 どうしてこんな。

 目の前の現実を否定しようと何度かぶりを振ったところで、結果は何ひとつ変わらない。

 七月七日。

 俺の婚約者である葉子は、この日飛び降り自殺をした。俺、仁平薫の誕生日であり、週末、彼女の家に結婚の挨拶にいこうと予定を控えていたその日に。


「葉子ーーーーー!!」


 俺の叫びが、マンション前のスペースに木霊していった。


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