半身の鳥たち

ユウヤミ

半身の鳥たち

 大きな木々に太陽の光が遮られている薄暗い森の中を、一人のお姫様が歩いています。左手には小さな青い鳥が入った鳥籠を抱え、右手には二冊の本を持っています。

 お姫様は、大きな木の幹にもたれかかるようにして腰を下ろしました。

 すぐ隣に鳥籠を起き、持っていた本を読み始めます。

 ――あら、あれを見て。あんなところで読書をしている女の子がいるわ

 木の上にとまったヒバリが言いました。

 ――なんだってあんなところで? 迷子じゃないのかい?

 隣にはメジロがいます。

 鳥のさえずりと森の薄暗さが心地よく、少し眠くなってきたお姫様はそのまま目を閉じました。

 するとそこへ、森の奥から現れた一人の女の子が近付いてきます。女の子の着ているワンピースのような汚れた白い服には、たくさんの鳥の羽がくっついています。

 ――ねえ、なんだかおかしな女の子がやって来たわ。あの羽はなにかしら?

 ――きっとそこらの鳥を捕まえて、羽をむしっているんだよ

 ――あら怖い

 ヒバリとメジロは冗談めかして笑い合い、飛び去って行きました。

 奇妙な女の子は、眠っているお姫様のすぐそばに行きしゃがみ込みます。

「ねえ、それちょうだい」

 女の子に話しかけられ、お姫様はぼんやりと目を開けます。うっすらと見えるのは鳥の羽。

「誰なの? 大きな鳥。――あなたはフィッチャーの鳥さん?」

 それだけ言うと、お姫様は再び夢の世界へと戻ってしまいました。

 女の子は、お姫様の膝の上で開かれたままになっていた本に手を伸ばします。女の子の手は土や泥で汚れていましたので、本にもそれがべったりと付いてしまいましたが、女の子は全く気にしません。

 パラパラと本をめくり、途中のページで手が止まりました。そしてそこに描かれている絵を見た女の子の目に、じわじわと希望の光が宿ります。

 女の子はとてもいい気分で、森の奥へと消えて行きました。


一ノ瀬璃央《いちのせ りお》は、四十万綺《しじま あや》のことが未だによくわからない。

 若く見える四十代だと言われればそう見えるし、大人びた二十代だと言われればそう見える、つまりは年齢不詳の綺が経営している便利屋、「四十万屋」でアルバイトを始めて半年ほどになるが、この雇い主はなんだか掴みどころがなく、璃央はよく彼女の言動に振り回されている。

 まずこの「四十万屋」という店名、四十万綺の名前が由来だと考えていたので、当然のごとく「しじまや」と読むと思っていた。しかし実際には「しじゅうよろずや」と読むらしく、璃央は早速混乱させられることとなった。

 綺の言うところによれば、

「万という字で『よろず』と読む。よろずというのは全ての事、万事という意味なのだが、私は万とか千とか、そんなにたくさんのことはしたくないのだよ。百だって嫌だ。なんなら五十でも多い。だから私はだいたい四十くらいのことしかしませんよという意味でこの店名にしたのだが、何かおかしいことがあるかい?」

 そういうことらしい。この人は一体何を言っているのかと思ったが、そう説明する綺の非常に堂々とした表情を見た璃央はたった一言、「へえ、そうですか」としか返すことができなかった。

 そして綺は凄まじいデザインの服を好んで着ているのだが、これを璃央はこの世の終わりのようなファッションセンスだと思っている。今日の服はおそらくワンピースなのだろうが、どう頑張って眺めてみてもサツマイモの妖精にしか見えない。何をどうやってどんな人生を歩んで来たら、こんなおぞましいセンスを獲得するに至るのか。

 そんなサツマイモの妖精は狭い雑居ビルの二階、書類や段ボールが乱雑に散らばった小さな事務所の中、これまた壊滅的に散らかったデスクで真剣な顔をして何やら手紙を読んでいる。

「さっきから何を読んでるんですか?」

 背負っていた大きなリュックを下ろしながら璃央が訊く。

「ああ璃央くん、いつの間に帰って来ていたんだい? ポスティング作業は楽しかったかな?」

「綺さん、今日の天気わかってます? 雨ですよ、雨。楽しいわけないでしょう。おかげでリュックも服もびしょびしょですよ、髪も湿気でボサボサだし最悪です。しかも今日めちゃくちゃ寒いし」

「せっかくの男前が台無しだな。今度は天気のいい日に行ってもらうよ」

「そうします。ていうか、できればもうちょっと暖かくなってからがいいんですけど。で、何を読んでるんです?」

 璃央は湿った頭や服をタオルで拭きながら、デスク横の錆びたパイプ椅子に座った。ギッと嫌な音がする。

 細身で全体的にあまり肉付きが良いとはいえない璃央は、この椅子の座り心地が嫌いであった。座面が固くて、とても長時間座っていられない。けれどもこの狭い事務所には他に座れる場所などないので、渋々ここを定位置にしてしまっている。

 綺はなんとなく上機嫌な様子で、持っていた手紙を璃央に手渡す。

「読めばわかるさ。仕事の依頼が来たんだよ。いなくなったペットを探して欲しいんだそうだ」

 璃央は受け取った手紙を適当に流し読みしている。

「ペット探しですか? なんか大変そうですけど。――あの、ペットってもしかして鳥ですか? ここに鳥って書いてあるんですが」

「そうだ、鳥さんだ」

 ええっと小さく声を上げ、璃央は手紙を綺に押し付けるように返した。

「無理ですよ、鳥を探し出すなんて。ワンちゃんやネコちゃんと違って、鳥は飛ぶんですよ。飛んで行っちゃったら最後、もうどこに行ったかなんて絶対にわかりませんよ」

 無理無理と早々に諦めてスマートフォンをいじりだす璃央を綺が制す。

「まあ聞きたまえよ。そもそも私はいなくなった鳥を探し出そうなんてつもりは毛頭ない。璃央くんの言う通り、それは不可能に近いだろうからね」

「え、じゃあどうするんですか?」

「いなくなった鳥と見た目がそっくりな鳥をペットショップで購入すればいいだろう。そして、あたかも我々が見つけたふりをして依頼主に渡すのだよ」

 想像の遥か斜め上を行く発言に驚愕した璃央は、スマートフォンを床に落とした。ゴッと鈍い音が短く響く。

「何言ってるんですか! 正気ですか! 偽物を返して騙すってことですよね? それって詐欺じゃないですか! 俺は協力しませんからね! だいたい、なんでそこまでしないといけないんですか。いつもの綺さんならそんな無理そうな依頼、さっさと断ってるじゃないですか」

 一気にそこまで喋り、璃央は落ちたスマートフォンを拾い上げた。端末の角や画面に傷が入っていないか入念に確認している。

「まあ落ち着きたまえよ璃央くん。確かに普段の私であれば、鳥探しなんて解決困難に思える依頼は丁重にお断りして、手紙はすぐにシュレッダー行きだ。だけどね、今回はどうしてもこの依頼を受けたい、いや、受けさせていただきたいのだよ」

 そう言うと綺は、手紙の一番最後、依頼主の住所が書かれている場所を指さした。

「これを見たまえ」

 宮幡市平野町片山489番地。

 何の変哲もない住所が記入されている。

「――別に、普通の住所だと思いますけど。宮幡市って、お隣ですね。でもさすがの僕もそこまでポスティングには行っていませんから、ネットで四十万屋を見つけてくれたんでしょうか」

 綺は不敵な笑みを浮かべ、今度はデスクの上に建設された書類のタワー、そこにアンバランスに乗せられているノートパソコンの画面を璃央のほうに向ける。そこには豪邸と呼んで差し支えないような、大きくて作りのいい、立派な家の写真が表示されていた。広い庭の手入れも行き届いているようで、所謂「お金持ちの家」という感じである。

「この住所を調べてみたらね、こんな素晴らしい邸宅が出てきたのだよ。絶対にお金持ちだと思わないかい?」

「えっとつまり、依頼主が金持ちっぽいから何としてでも解決して報酬をぶんどりたいわけですね」

 璃央は呆れた様子で綺を軽く睨む。

「その通りだよ璃央くん。君もだんだんと私の考えていることがわかってきたようで嬉しいよ。こんなに立派な家に住んでいるんだ、それなりに高額な報酬が期待できるはずだよ」

 自分に向けられた厳しい璃央の視線など気にもせず、綺は続ける。

「というわけでだ、早速明日にでもこちらの豪邸に伺ってみようかと思っているんだが、璃央くん、もちろん君にも同行してもらうからね」

 璃央は明らかに嫌そうな表情を浮かべ、これまた嫌そうに口を開く。

「僕も行くんですか? さっき協力しないって言ったはずですけど。綺さんひとりで行って来てくださいよ。僕は明日も朝から大学に行くので、無理です」

「何を言っているのかね。バイトとはいえ、璃央くんはこの『四十万屋』の従業員だろう。従業員とはどういう字を書くか知っているかい?『業に従う』と書くのだよ。君は私と雇用契約を結び、私から賃金を受け取るのだから、当然私に従ってもらう必要があると思わないか。そして璃央くん、君の通っている大学がまだ春休み期間中だということは知っているのだよ。こちらの豪邸はここから車で一時間半ほどの距離だから、日帰りでじゅうぶん向かえる。ろくに友人もいない璃央くんはどうせ他に予定などないだろう。諦めたまえ」

「なんか、パワハラじゃないんですかそれ。賃金ったって、最低時給しか貰ってないんですけど。あと、明日大学に行くのは本当ですよ。ちょっと書類を取りに行く用があるので。ついでに言っておきますけど、別に友達がいないわけじゃないですよ。僕がイケメンすぎてみんな近寄りがたいってだけですから勘違いしないでください」

 綺はふっと笑い、デスクチェアの背にもたれかかってくるくると回り出した。

「まあ、そういうことにしておいてあげよう。実際、璃央くんは顔がいいからね。よすぎるくらいだ。そのよすぎる顔面のせいで、これまで他のバイトも続かなかったんだろう? この案件がうまくいってそれなりの報酬が手に入った暁には、君の時給も少し上げてあげようと思っていたんだが――」

 時給が上がる。それを聞いた璃央はほんの少し顔色を変えた。

「まあ、どうしても嫌だと言うなら仕方がないね。昇給はまたの機会にしておこうかな。それとね、さっき璃央くんは私の発言がパワハラと言ったが、心外だね。そもそもパワハラというのは――」

「ああもう、わかりました。行きます、一緒に行きますよ。行けばいいんでしょう、行けば」

 パワハラ談義を始めようとした綺のくるくるチェアを手で止め、璃央は綺の顔を凝視する。

「その代わり、ちゃんと時給、上げてくださいよ」

「そんなに見ないでくれたまえよ。男前に見つめられると照れるじゃないか」

 綺は立ちあがり、ふらっとよろけてデスクチェアにドスンと再び腰を下ろした。

「ああ、目が回った」



 昔々あるところに、小さなおうちがありました。おうちにはお父さんとお母さん、そして愛くるしい双子の女の子が住んでいました。

 お母さんは双子の姉のことを「よるちゃん」、妹のことを「あさちゃん」と呼んでいました。

 四人は、小さなおうちでそれなりに幸せに暮らしていましたが、よるちゃんとあさちゃんが二歳になったころです。お母さんは、毎日の家事と双子の育児で、とても疲れてしまっていました。いつも眠くて体がふらふらするし、頭はぼうっとして動かないのに、手足はぶるぶると震えたりすることがよくありました。

 そのうち、おうちの電子レンジや洗濯機がお母さんに話しかけてくるようになりました。

「私は、たくさんの危険な電磁波を出しているのよ。私を使って温めたものを、大切なよるちゃんたちに食べさせていいの?」

「僕は、回るたびに危険な物質を水に溶かしているんだ。僕を使って洗ったものを、大切なあさちゃんたちに着させていいのかい?」

 電子レンジや洗濯機だけではありません。冷蔵庫や掃除機、テレビやパソコンもいろんなことを言ってきます。

 そんなとき、お母さんは決まって大きな声を出しました。

「やめて! 消えて! 私に話しかけないで!」

 そうすると、電化製品たちは喋るのをやめてくれたのです。

 ある日、お母さんがよるちゃんとあさちゃんを連れて散歩をしていたときのことです。隣のおうちに住んでいるおじいさんに言われました。

「おたく、ちょっとうるさいよ」

 お母さんはすぐに謝りました。この子たち、まだ夜泣きがおさまらないんです、昼間も泣くことが多くて、うるさくしてすみませんと頭を下げました。

「そうじゃなくてさ。子どもはいいんだよ、それが仕事なんだから。うるさいのはお母さん、あんただよ。早朝でも真夜中でも、なんかでかい声でしょっちゅう叫んでるだろう。全部丸聞こえだよ」

 うるさい電化製品を黙らせるために出していた声は、外まで聞こえていたのです。

 それから、お母さんは周りの目をとても気にするようになりました。

 電子レンジが話しかけてきても、またうるさく思われたらどうしようと怖くて大きな声を出せなくなったお母さんは、自分の頭を叩くようになり、前よりもっともっと疲れるようになりました。

 そして、よるちゃんとあさちゃんが三歳の誕生日を迎えてすぐ、お母さんはお父さんにお願いをしました。

「静かなところで暮らしたい。うるさい電気や電波がなくて、周りに誰もいない静かな山の中で暮らしたい」

 それを聞いたお父さんは、冗談でこう言いました。

「じゃあ、ずっと昔におやじが使っていた山小屋に行くか? 狩猟のために建てたらしいんだが、あそこは静かだぞ」

 けれども疲れ切ったお母さんに、冗談は通じませんでした



 璃央の運転する車は、周りを森林に囲まれた一本道をひたすらに進んでいた。左右を木々が流れていくばかりで、ブロッコリーの中を歩いたらきっとこんな感じなのだろうと思う。

 カーナビの案内では、あと十五分もすれば目的地に到着するらしいのだが、人の気配が全くといっていいほど感じられない森の中、この先に町や村と呼べるものが本当に存在するのかと璃央は若干不安を感じ始めている。

「綺さん、本当にこの道で合ってるんですか? 人どころか、牛や狸すら出てこないんですけど」

 進行方向に目を向けたまま、助手席でくつろいでいる綺に声をかける。今日の服装も一段と凄まじく、どう眺めてみても太陽の塔の内臓にしか見えない。

「ナビがそうだと言っているんだ。信じて進みたまえ」

 綺が窓を開け、気持ちのいい風が車内に吹き込んできた。綺の真っ黒で艶のあるロングヘアが、さらさらと風になびいている。

 二時間ほど前、大学に寄ってから四十万屋に向かうと、ビルの前に軽のレンタカーが停められていた。すぐ隣に立っていた綺は、璃央が向かって来るのに気付くや否や、当たり前のように助手席に乗り込んだ。

 「僕が運転するんですか」という問いに対して返ってきた答えが「私が運転してもいいのだが、ここに駐車するだけで四十五分かかった」だったので、璃央はそれ以上何も言わず、おとなしく運転席に座った。

 そしてそれから一時間強、あの豪邸を目的地に設定したナビに従い運転し続けているのだが、左右を木々が流れていくだけの代わり映えのしない景色には、さすがにそろそろ飽きつつある。なんとなく瞼が重たくなってきたような感覚もあり、璃央は眠気を吹き飛ばすために綺に話を振った。

「あの、綺さん。ずっと気になってたことがあるんですけど、聞いてもいいですか?」

「聞いてもいいかどうかは、聞いてみないとわからないな」

 綺は髪をなびかせながら、窓の外に目をやっている。

「じゃあ聞きますけど、綺さんのその、なんていうか独特な喋りかたって何なんですか?」

「私の喋りかた? 何かおかしいことがあるかい?」

「それですよそれ。おかしいっていうか、聞き慣れないっていうか。綺さん、『おかしいことがあるかい』とか『こうしてみたまえ』とか言うじゃないですか。なんか、変わってるなと思って」

 綺は璃央に対して「男前」とか「顔がいい」とかよく言っているが、璃央からしてみれば綺もじゅうぶんに美人である。ただし、この世の終わりのような奇抜なファッションセンスと、この馴染みのない喋りかたに目を瞑ればの話だが。

 ずっと窓の外を見ていた綺が、璃央のほうへ向き直った。

「そうだね、この喋りかたになったのには、一応理由があるのだよ。全部を話すと長いうえにつまらないから割愛するが、子どもの頃によく見ていたアニメの主人公がこういう喋りかたをしていたのだよ。私はその主人公に憧れてね、こんなふうになりたいと思った。だからまずは手っ取り早く、口調を真似してみたのだよ。毎日朝起きてから夜寝るまで、二十四時間三百六十五日、夢の中でもひたすら主人公になりきって話していたらね、元に戻らなくなったのさ。以前の自分がどんなふうに喋っていたか、わからなくなった。だからそれからずっと、この喋りかたのままというわけさ。別に、ただそれだけの話だよ」

 ほら、つまらない話だろうと、綺は再び窓の外に目線を移した。

 子どもの頃の話とはいえ、綺がアニメを見ていたということが意外だった。今の綺はアニメはおろか、そもそもテレビというものを見ている様子が全くないからだ。

「アニメの主人公に憧れるなんて、綺さんも普通の子どもだったんですね。ちなみになんですが、その主人公って、もの凄いデザインの服を着ていたりしませんでしたか?」

「いや、何の特徴もない黒の学ラン姿だったはずだよ」

「そうですか……」

 残念ながら綺の恐ろしいファッションセンスは、その主人公由来のものではないらしい。いいや、またそのうち訊く気になったら訊いてみようなどと考えていたら、少し開けた場所に出た。

 周囲を大小様々な山と田んぼに囲まれている小さな町――というより集落には、人が住んでいると思われる民家が二十軒ほど、ぽつりぽつりと立ち並んでいる。

 ナビに従い細い道を曲がったりしてさらに進んで行くと、パソコンの画面で見た、あの豪邸が目の前に現れた。実物は画像で見たときよりもさらに大きく感じられ、かなりの威圧感がある。

 豪邸を取り囲む塀に埋め込まれた黒い大理石の表札には、筆が踊るようなおしゃれなフォントで「末永」と掘られていた。

 敷地内に車を停め、先に綺が降りた。さっさとインターホンを押しに行こうとする綺を、璃央が止める。

「ちょっと、ちょっと待ってください」

「なんだい」

「今更ですけど、本当にやる気ですか? その、似た鳥をペットショップで買ってくる詐欺まがい作戦」

「当たり前だろう。そのために来たんだ」

「でも、お金持ちの飼ってる鳥ですよ? すごく高価だったり、珍しい種類だったらどうするんです? そのへんのペットショップでは手に入らないかもしれませんよ。もし身代わりを用意できたとしても、バレちゃうかもしれませんし」

 綺は少し考えるように下を向いたが、またすぐにいつもの堂々とした姿勢に戻った。

「そのときはそのときだ。良くも悪くも、お金持ちとコネクションができれば次の案件に繋がる可能性もあるだろう。うまいこと恩を売っておこうじゃないか」

 そう言うと、綺はためらいなくインターホンを押した。



 お父さんの言っていた「おやじの山小屋」は、おうちから少し離れた山の中にありました。

 よるちゃんとあさちゃんを連れて小屋へやって来たお母さんは、そこで新しい生活を始めることにしたのです。

 おうちから持ってきたのは、キャリーバッグ一つだけ。そこには少しの着替えと小さなお鍋などが入れてありました。

 小屋の周りには鬱蒼とした森が広がるだけで他には何もなく、しつこく話しかけてくる電化製品もないし、うるさいと言ってくるお隣さんもいませんでした。

 森には野生の鳥がたくさん住んでいて、いろんな種類の鳴き声が聞こえてきます。

 青い鳥を見つけたら教えてね、青い鳥は幸せを運んできてくれるのよと、お母さんはよく言っていました。

 人目に怯えていたお母さんは、絶対に森から出ようとしません。よるちゃんとあさちゃんにも、絶対に人に見つからないようにしなさい、外の世界は危険なものだらけなの、森を出てもいいことなんて何もないのよと毎日のように言っていました。

 電気もガスも食品スーパーもない生活は不便でしたが、しばらくすると慣れました。

 火は自分たちで起こせばいいし、食べるものは森の中にたくさんあります。おうちを出るときに持ってきた野菜の種を植えたりして、三人で大切に育てて食べました。

 お母さんとよるちゃんは、質素だけれども静かで平和な生活に満足していて、自然の中で毎日をとても楽しく過ごしていました。

 だけど、あさちゃんだけは、この生活に物足りなさを感じていました。

 あさちゃんは、小さなおうちで暮らしていたときのことをよく覚えていました。おいしいごはんにおやつを食べて、テレビで好きなアニメを見たり、色とりどりのおもちゃで遊んで、暖かいお風呂に入ってお布団で眠る。そんな日々を恋しく思うことも、よくありました。

 森の中で流れる時間はとてもゆっくりで穏やかでしたが、あさちゃんはそれがつまらなかったのです。食べるものも少ないし、おもちゃもない。よるちゃんと鬼ごっこやかくれんぼをしても、毎日そればかりでは飽きてしまいます。

 ある日あさちゃんは、お母さんに言いました。

「ねえおかあさん、あさちゃん、おうちにかえりたい」

 お母さんはそれを聞いて、どうしてそんなことを言うの、あさちゃんのおうちはここでしょうと、泣き出してしまいました。

 困ってしまったあさちゃんは、ごめんなさいと謝りました。そしてもう二度と、おうちに帰りたいとは言わないことにしました。

 そして四つの季節が何度も何度も巡り、よるちゃんとあさちゃんが随分大きくなったある日のことです。小屋に、お父さんがやってきました。

「子どもたちを学校にも行かせないで、一体いつまでこんなところにいるつもりなんだ。キャンプごっこはもう終わりにしろ、今すぐに帰るぞ」

 お父さんはそう言いましたが、お母さんは嫌がりました。絶対に帰らないと暴れて、お父さんを追い返そうとしています。

「そんなにここにいたいなら、お前は好きにしたらいい! 子どもたちは連れて帰るからな!」

 お父さんはよるちゃんとあさちゃんの手を引いて、一緒に帰ろうと言いました。

 けれどもよるちゃんはお父さんの手を振り切って、お母さんの後ろに隠れてしまいます。

「よるは、ここにいる。かえらない」

 よるちゃんの言葉を聞いたお母さんはとても喜んで、そのままよるちゃんを抱きしめました。あさちゃんもここに残るよね、こっちにおいでと、手を伸ばしています。

「あさは、おとうさんとかえりたい」

 あさちゃんの言葉を聞いたお父さんはとても喜んで、そのままあさちゃんを抱きしめました。

 お母さんは、どうしてそんなことを言うの、あさちゃんのおうちはここでしょうと、いつかと同じことを言ってまた泣き出してしまいました。

 ごめんなさいと謝って、あさちゃんはお父さんと一緒に山を下りました。



 異様に広い応接間のソファに、並んで座っている綺と璃央。一体どうやって掃除をするのか分からない位置にある天窓から、温かい午後の日差しが差し込んでいる。

 璃央は落ち着かない様子で、膝に両手を置いたままキョロキョロと視線を動かしているが、綺はまるで実家のリビングにいるかのようにリラックスしている。

「お待たせいたしました」

 ガチャリとドアが開き、先ほど綺と璃央を家の中へ案内してくれた三十歳くらいの女性と、小学生の女の子が応接間へ入って来た。

 女性はトレイに載せたティーセットを、女の子は鉄製でアンティーク調のデザインをした鳥籠をそれぞれ持っている。

「どうぞ」

 上品な音をたて、飲み口の薄い高級そうなティーカップが二人の前に置かれる。

 女の子は何も言わずに正面のソファに座り、すぐ隣に女性も腰を下ろした。

「この末永家で住み込みの家政婦をしております、野中といいます。こちらは、末永家の一人娘、亜沙美ちゃんです。この度の依頼は、私がお願いしたものです。わざわざ足を運んでいただきまして、ありがとうございます」

 野中と名乗った女性は、座ったまま深々と頭を下げた。高い位置で一つに纏められてた、綺麗なお団子ヘアがよく見える。

 つられて璃央も頭を下げたが、綺は「いえいえ、こちらこそ」と言うだけで、相変わらず堂々とくつろいでいる。

 亜沙美と紹介された女の子はおよそ生気というものを感じられないほど肌の色が白く、それとは対照的に肩のあたりで綺麗に切り揃えられた艶のある黒髪は、頭頂部付近で美しい天使の輪を作っている。目鼻立ちがはっきりしているので、黙って座っているとまるで人形のようだ。

 綺と璃央は簡単に自己紹介をし、それぞれカップの紅茶を一口飲んだ。

「早速なのですが、探していただきたい鳥というのは、この子です」

 野中はエプロンのポケットから一枚の写真を取り出し、テーブルに置いた。

 写真には、頭が白く、胴体と羽が鮮やかな青色をした小鳥が写っている。それを見た綺は一瞬、「よしきた」という表情をした。

「えっと、もしかしてインコですか?」

 拍子抜けした様子で璃央が尋ねた。

「はい、セキセイインコの『ピピ』といいます。亜沙美ちゃんがお世話をしているのですが、目を離した隙に鳥籠から逃げてしまったようで」

 野中は、亜沙美の持っている鳥籠をちらっと見た。

「なるほど。亜沙美ちゃん、ピピちゃんがいなくなったのは、いつだったか覚えているかな?」

「…………」

 綺が話しかけるが、子どもに警戒されないようにと無理やり作った笑顔が強張っていて気持ちが悪かったのか、亜沙美は何も答えない。代わりに、野中が返事をした。

「いなくなったのは先週の金曜です。ピピがいなくなったと亜沙美ちゃんに聞いて近所を探したのですが見つからなかったので、ペット探しをしてくれる業者様をインターネットで探して――四十万屋さんに手紙を出しました」

 今日が水曜なので、ピピがいなくなってからすでに丸四日以上が経過していることになる。

「でも、インコって普通に飛ぶ鳥ですよね? 飛んで逃げて行ってしまったのなら、さすがにもう近くにはいないんじゃないかと思うんですが」

 璃央の問いを遮るように、「いえ」と野中が口を挟む。

「ピピは、飛びません。というか、飛べません。生まれつき羽に障害があるんです。足の力もあまり強くないので、歩いて移動するにも長い距離は難しいと思います。ですからいなくなってすぐ、近くにいないか探したんです」

「ああ、そうなんですね。ちなみに、ピピちゃんは見た目で分かる特徴かなにかありませんか? 障害があるということなら、例えば羽が曲がっているとか、変わった模様があるとか」

「それなら、クチバシを見ていただければ分かると思います。この写真は少し前に撮ったものなので写っていませんが、クチバシに赤い油性ペンの線が入っているんです。亜沙美ちゃんがお絵かきに使っていたものが、ついてしまったようで」

「赤い線、ですね。わかりました。じゃあ亜沙美ちゃん、ピピが逃げたときのことを聞きたいんだけど、その鳥籠はどこに置いてあったのかな? お部屋の中? それとも外?」

「…………」

 璃央がイケメンオーラ全開の爽やかな笑顔を向けて聞いてみるも、やはり亜沙美は何も答えない。それどころか、キッと璃央を睨み、鳥籠を抱えて部屋を出て行ってしまった。

 引き留めようとする野中の声を遮るように、応接間のドアがバタンと音を立てて閉まった。

「嫌われたようだな」

 綺がニヤニヤしながら璃央に囁いた。

 軽くショックを受けている様子の璃央に「すみません」と謝る野中、そして綺が尋ねる。

「亜沙美ちゃんは、普段からあのような? 人見知り、にしては度が行き過ぎているようですが」

「ええ、私以外の人間とは、ほとんど口をききません。といっても、最初は私もお二人と同じように、何を言っても返事をしてもらえなかったんです。私がこの末永家で働き始めたのは二年ほど前なのですが、そのとき亜沙美ちゃんは小学校に入学したばかりでした。その頃からずっと、学校でもあの様子なので、お友達はいないようです。当時は私が何を聞いてもまともに喋ってくれないので嫌われているのかと思いましたが、一緒に生活するうちに、なんとか心を開いてくれて」

「そうだったんですね。では、亜沙美ちゃんにとってはピピちゃんが唯一のお友達というわけですか」

「はい。ですから、どうしても亜沙美ちゃんの元にピピを返してあげたいんです。もし、あの鳥籠にピピを戻してくれたら、報酬として百万円お支払いするつもりです。四十万屋さん、どうかお願いします」

「ひゃくっ」

 百万円という金額を聞いて、璃央はひゅっと息をのみ込んだ。隣で、綺は目を輝かせている。

「もちろんですとも。必ずピピちゃんを連れて来ますから、我々にまかせて――」

「ちょっと、ちょっと待ってください!」

「なんだね璃央くん。水を差さないでくれたまえよ」

「いや、だって百万って、ペット探しの報酬として高額すぎませんか? それに、野中さんは家政婦さんなんですよね? 百万なんて大金を勝手に報酬にしてしまっていいんですか? 亜沙美ちゃんのご両親に何か言われたりしないんですか?」

 野中は、一度深く頷いた。

「末永様――亜沙美ちゃんのご両親はお仕事の関係で、私がここへ来たときに入れ替わりで海外へ行かれています。不在の間、この家のことは全て私に一任されていますから、百万円を報酬として用意することについては何ら問題ありません。それに、お金の問題ではないんです。今回の依頼はペットのインコではなく、亜沙美ちゃんのお友達のピピを探して欲しいというお願いですから、私はこれを高すぎる報酬だとは思っていません」

 野中は、「どうか、よろしくお願いします」と改めて頭を下げた。


 綺と璃央は一旦末永家を後にし、車の中で作戦会議を開いている。

「で、どうするんですか。予定通り、ペットショップでピピちゃんに似たインコを探すつもりですか」

 慣れない豪邸の雰囲気に呑まれて疲弊した璃央は、体ごとハンドルにもたれかかってだらだらとしている。そんな璃央を尻目に、綺はこれまでにないくらいのやる気をみなぎらせている様子である。

「いや、気が変わったよ。身代わり作戦はやめよう。やはりそんな詐欺まがいのことをするのは依頼主の心を踏みにじるようで心苦しいではないか。そもそも、まともなショップであれば飛べないインコを店頭に出すなどしないだろうからね。同じような個体を用意するのは、まあ無理だろう。というわけで、我々の力で全身全霊を尽くしてピピちゃんを探し出し、何としてでも亜沙美ちゃんも元へ返してあげようではないか」

「うまくいかいかなくても、そのときはそのときだとか言ってたくせに、百万円に目がくらんでるだけじゃないですか」

「そうだよ璃央くん、その通りだ。私はどうしても百万円が欲しい! 目の前にぶら下がっている札束が欲しい! だから何が何でもこの依頼を達成するのだ、いや、しなくてはならないのだよ! 何かおかしいことがあるかい?」

 金欲の権化かと思うような発言をする綺に冷めた視線を送る璃央だが、もうここまできてしまったからにはどうせ最後まで付き合うしかないのだと諦め、腹を括ることにした。璃央にとってみても、これは昇給がかかっている案件なのだ。

「まあ、別におかしくはないです。僕も時給アップがかかってますし。でも相手は小鳥ですよ。飛べないとはいえ、やみくもに探し回ったって簡単に見つかるとは思えませんけど」

「そうだ。だから最初に聞き込みをしようと思う」

「聞き込みですか? 近隣住民に『このインコを見かけませんでしたか』って?」

「その通りだよ。ピピちゃんは鮮やかな青色をしているからね、もしも見かけた人がいれば印象に残るだろう。そうと決まればさっさと行くぞ璃央くん。こうしている間にも、ピピちゃんは遠くへ行ってしまうかもしれないからね」

 璃央の返事を待たず、綺は車から降りて歩き出してしまった。

 焦って追いかける璃央だが、綺は振り向きもせずザカザカと道を進んで行く。こんなに早く歩く綺を璃央は初めて見た。金の力とは恐ろしい。

 ザカザカと風を切って歩いていた綺は小さな十字路の手前で止まり、璃央に来い来いと手招きをしている。

「あのご婦人に声をかけてみよう」

 綺の視線の先には、六畳程の小さな畑で農作業をしている五十代くらいの女性がいた。

「璃央くん、行って来たまえ」

「え、僕が行くんですか?」

「そうだ。猫にはマタタビ、吸血鬼にはニンニク、ご婦人には男前と決まっている。文句を言わずさっさと行きたまえ」

 綺は璃央の背中をぐいっと押した。

 璃央は明らかに渋々といった表情で仕方なく女性のほうへ近付く。当然、璃央はこれまでの人生においてナンパ行為などしたことがないものだから、道端で見ず知らずの女性に突然声をかけるとき、一体どう話しかければ警戒されずに済むのかわからない。

 後ろからだと驚かせてしまうかもしれないと考え、作業をしている女性の正面に回り込んだ。

「あの、お忙しいところすみません。ちょっとお聞きしたいことがあるんですが」

 意を決して無難な言葉を選び話しかけると、女性は作業の手を止めて璃央のほうを見た。

 一瞬、目を細めて「誰よアンタ」という表情をしたが、すぐにパッと花が咲いたような明るい表情へと変わった。

「あら、どこのイケメンさんかしら。この辺の子じゃあないわよね、見たことないもの」

 女性は持っていた農具を置き、璃央のほうへパタパタと近付いてくる。とりあえず不審者とは思われなかったようなので、璃央は安堵した。

「日野崎市から来ました。あの、このセキセイインコを探しているんですが、どこかで見かけたりとかしませんでしたか? またはそういう話を聞いたとか」

 野中から預かったピピの写真を見せようとしたとき、近くの道を歩いていた三人組の女性が「あら田口さん何してるのよ」と璃央たちのほうにやって来た。

 三人の女性たちも、皆五十代かそれ以上に見える。

 璃央は、あっという間にわらわらと取り囲まれてしまった。

 あら大学生さん? やだすごいイケメンじゃないちょっと田口さん誰よこれまさか彼氏とか言わないわよね怒るわよあら違うの。この辺の子じゃないわよねそうよね見たことないものこんなに綺麗な顔した男の子。インコを探してるの?どれどれちょっと写真を見せてよあらかわいいセキセイインコねあなたが飼ってるの?あら違うの。ちょっと見たことないわねそうねインコならもう飛んで行っちゃったんじゃないかしら残念だけど。

 おばさま――綺の言うところのご婦人というのは、どうしてこんなにもの凄い勢いでお喋りすることができるのだろう。よくこんなに口が回るなと感心する。もはや口が本体だとしか思えない。

 矢継ぎ早にあれやこれやと質問を飛ばしてくるのに、それに対する返答はそもそも聞く気がないらしい。あの、とかえっと、とか言うのが精一杯で、まともに口を挟めない璃央は、複数のマシンガンに囲まれて一斉射撃されている気分になっていた。このままでは蜂の巣にされてしまう。

 助けを求めるように少し離れた場所にいる綺のほうを見たが、仁王立ちをして大きくうんうんと頷くだけで特に何もしてくれそうにない。

 狼狽える璃央を置き去りにして、おばさまたちのマシンガントークは続く。

 インコじゃないけど渡辺のおじいちゃんがニワトリがいなくなったとか騒いでいたわよねそういえば。ああそうそう言ってたわねそんなこと二週間くらい前だったかしら結局どうなったのかしらね盗まれたとか言ってたけどどうせ野犬の仕業でしょあの小屋いつも開けっ放しじゃない。あらニワトリといえば西本さんとこのお義母さんがまた何かよくわからないこと言っていたわよ確かそのあたりの山でニワトリを抱えた幽霊を見たとかなんとか。あらやだあの人まだそんなこと言ってるの?信じられないわ一体何十年同じようなこと言ってるのよ。それにあのお義母さんもうだいぶぼけーっとしてきちゃってるじゃないこの前も冷蔵庫に入ってた生の鶏肉をそのまま食べちゃったらしくて大変だったみたいじゃないの。あら鶏はだめよあれは加熱しないと死んじゃうわよ本当に。あらちょっとほらあなたたちがペラペラペラペラとやかましいからイケメンさんが困ってるじゃないのやだもうごめんなさいね私たちって喋ってないと死んじゃうのよね。

 ようやくご婦人たちのマシンガンが弾切れを起こしたようなので、リロードされる前に璃央は急いで口を開いた。

「あの、では皆さんは、このインコは見かけてないんですね?」

 おばさまたちは改めて写真に写るピピをじっと見た後、そうねやっぱり見たことないわねと顔を合わせた。

「そうですか。――わかりました、貴重なお時間をありがとうございました」

 軽く会釈をして璃央がその場を去ろうとすると、おばさまたちは残念そうにあらあ、と声を上げた。

 イケメンさんもう行っちゃうの?ごめんなさいね力になれなくてまた何かあったらいつでも声かけてねインコさん見つかるといいわねじゃあねイケメンさん。

 璃央はもう一度会釈をし、逃げるように綺のほうへ駆け寄った。

「おかえり。どうだい、何か有益な情報はご提供いただけたかい?」

 綺は仁王立ちのまま、やはり璃央を行かせて正解だったと言わんばかりの得意気な顔をしている。

「なんだかもの凄く疲れました、特に耳が。残念ながらピピちゃんの目撃情報は得られなかったんですけど、ニワトリの話が聞けましたよ」

「ニワトリ?」

「はい、二週間くらい前にこのあたりの小屋からいなくなったニワトリがいたそうなんです。おばさまたちはどうせ野犬の仕業だって言ってましたが、山の中でニワトリを抱いた幽霊を見たっていう人がいるみたいですよ。――ところで綺さん、どうしておばさまってあんなにお喋りなんですかね? 僕は相槌すらまともに打たせてもらえなかったです」

 綺は頷き、さっきまで璃央を取り囲んでいた女性たちのほうに目を移した。

「ああいうご婦人たちというのはね」

 おばさまたちは喋り足りなかったのか、まだ何かペラペラとマシンガン井戸端会議をしている声が聞こえてくる。

「単純に、お喋りするのが好きなのさ。お喋りすることで、日々蓄積されたストレスを解消しようとしているのだよ。自分の中に溜まったモヤモヤやイライラやムシャクシャする何かを、大量の言葉と一緒に吐き出しているのさ。そうやって自分の心の調律をしているわけだから、つまりは自分で自分の機嫌をとっているということだ。家庭や職場や友人関係に、負の感情を持ちこまないためにね。実に経済的なストレス解消法だと思わないか。長く生きていればそのぶん溜まるストレスも増えていくわけだから、年を重ねるほどにお喋りも増えていくというだけのことさ。何かおかしいことがあるかい?」

 なるほど。あれだけの勢いでペラペラと好きなことを喋っていれば、そりゃあストレス解消にもなるだろうと、璃央は納得した。別におかしいことではない。

 だが、巻き込まれたほうはたまったものではない。いや、基本的にはお喋りなおばさまの相手は同じくらいお喋りなおばさまのはずだろうだから、別に問題はないのだろうか。

 璃央がおばさまの生態について考えていると、

「ねえイケメンさんイケメンさん」

 先ほど璃央が声をかけた女性――確か、マシンガンのおばさまたちには「田口さん」と呼ばれていた女性が、二人のもとへ小走りでやってきた。

 いつの間にか井戸端会議は終わっていたらしい。

「さっきはあまりお話できなくてごめんなさいね。あの人たち喋ると止まらなくなっちゃうの」

 田口は眉をハの字にし、少し困ったように笑っている。

「それでね、さっきは言えなかったんだけど実は私、イケメンさんが探しているインコを見たかもしれないの」

「それは本当ですか」

 璃央が言おうとした台詞を横から綺に奪われてしまった。

 普通に生活していればお目にかかることはそうそうない、信じれないほど奇抜な服を身にまとった綺を見て、田口は目を丸くして少し後ろに下がった。明らかにぎょっとしている。というか、引いている。

「すみません、この人は僕の雇い主なんです。決して不審者ではありませんので」

 綺は何か言いたげな表情で璃央を軽く睨みつけた。

「ああ、そうなのね。綺麗な人だからちょっとびっくりしちゃったわ。その服も、ほらなんだかすごく個性的だし。――あ、そうそうインコよね、インコの話。ほらそこの、この道をずっと行ったところに山の入り口が見えるでしょう? その山で私、青色っぽい鳥を見たような気がするの。そのときはあら、幸せの青い鳥だわくらいで別に気にもしてなかったんだけど」

「それ、いつのことですか」

 また綺に台詞を横取りされまいと、すかさず璃央が質問する。

「ええと、つい最近よ。確かおとといの月曜だったかしら」

 野中の話では、ピピちゃんがいなくなったのは先週の金曜だったはずなので、月曜に青い鳥を見たというのが本当であればピピちゃんの可能性がある。

「教えていただいてありがとうございます。早速、その山を探してみたいと思います」

「あらいいのよ。お役にたてたのなら嬉しいわ。私、そこの平屋に住んでるの。ほらそこの、屋根がえんじ色の。だいたい家か畑にいることが多いから、また何かあればいつでも来てね」

 じゃあねと手を振り、田口はまたパタパタと畑に戻って行った。

 文字通り綺に背中を押されたからとはいえ、自分が声を掛けた人物から有益な情報を得られたことで、璃央の士気は一気に高揚した。

「目撃情報ですよ綺さん、すぐに山に向かいましょう」

 意気揚々と山の入り口のほうへ歩き出した璃央だが、綺は動く気配がない。

「綺さん、どうしました? 置いて行きますよ」

「璃央くん、少しだけ別行動にしよう。璃央くんはこのまま山へ行ってくれたまえ。私は一度、末永家に戻るよ。やはりピピちゃんがいなくなったときの状況を、亜沙美ちゃんに確認しておきたい。さっきは何も聞けなかったからね」

「え、じゃあ僕一人であの山に入るんですか?」

「そうだよ、そう言っている。おや、璃央くんまさか――」

「別に怖いわけじゃないですよ全然違いますから。僕一人でピピちゃんを見つけちゃったら綺さんの面目丸潰れじゃないかなと思っただけですからね」

 図星を突かれそうになると璃央は早口になる。

 綺はわかったわかったと手をひらひらさせている。

「では璃央くん、後ほど車で落ち合おう。何かあったら連絡したまえよ」

 そう言ってまたザカザカと末永家のほうへ向かって歩いて行ってしまった。

 十字路に一人取り残される璃央。途端に寂しく、不安な気持ちが湧き上がる。ほんの数分前に抱いた高揚感がすでに懐かしい。

 しかしこれで何もしないまま車へ戻ってしまったら、間違いなく綺に馬鹿にされてしまうだろう。綺のニヤニヤ顔を想像するだけで悔しくてたまらない。

 自分一人でも行動できるのだということを証明し、あのおかしな雇い主の鼻を明かしてやろうじゃないか。何なら本当にピピを見つけ出し、手柄を自分のものにしたらどうか。そして時給を百円、いや三百円上げてくれと嘆願してやろう。

 昇給の夢を胸に、璃央は山の入り口に向かって歩き出した。



 何年かぶりに帰ってきた懐かしい小さなおうちに、お父さんはあさちゃんの部屋を用意してくれていました。

「来年の四月からは、ちゃんと小学校に行こうな」

 お父さんの言う「しょうがっこう」というのが、あさちゃんには何のことなのかわかりません。それなあにと訊くと、勉強をするところだよと教えてくれましたが、「べんきょう」というのもよくわかりません。

 お父さんはあさちゃんに話を聞き、ショックを受けてしまいました。

 あさちゃんはもう十一歳になっていたのに、ひらがなすらも読み書きできなかったのです。当然、漢字など一つも知らないし、同じ歳の子が当たり前にできるような計算だってできません。

 お父さんは、あさちゃんをこのまま小学校に通わせるわけにはいかないと思いました。変な子だと言われて、あさちゃんが傷付いてしまうのではないかと心配したのです。

 お父さんは、仕事を減らしてあさちゃんに勉強を教えることにしました。今まで知らなかったたくさんのことを教えてもらえるのは、あさちゃんにとって、とても楽しいことでした。

 一年半、お父さんと二人で一生懸命に勉強し、文字を覚えたあさちゃんは、なんとか同じ歳の子たちと同じくらいには物事がわかるようになりました。

 小説のように長い文章を読むのは苦手でしたが、教科書を読むことはできるようになったので、お父さんは安心しました。

 そして次の四月、あさちゃんは森の中でのひっそりとした不便な生活のことなどすっかり忘れ、普通の女の子として中学生になりました。


 一方、お母さんと小屋に残ると言ったよるちゃんは、変わらず不便だけれど楽しい毎日を過ごしていました。

 お母さんは森の中での生活に必要なことしか教えてあげないので、よるちゃんは文字の読み書きもできないし、掛け算だってできません。けれどもよるちゃんは、普通の女の子が知らないことをたくさん知っていました。

 食べてもいいきのこと、そうでないきのこがわかります。触ってもいい植物と、そうでない植物がわかります。自分で火を起こすことだってできました。

 空気が冷える季節になると、いつも着ているお洋服に、お母さんが鳥の羽をたくさん縫い付けてくれました。そうすると、ほんの少しだけ暖かくなった気がしました。

 ちゃんが十五歳になったころ、お母さんはよく咳をするようになりました。とても心配でしたが、お母さんが大丈夫だと言うので、よるちゃんはそれを信じていました。

 けれどもある日の朝、お母さんは動かなくなってしまいました。体は冷たく、声をかけても返事をしてくれないし、目も開けてくれません。

 いつだったか、森の中で見つけた動かない鳥を連れて帰ったとき、生きているものは必ず死んでしまうのだと、お母さんが言っていたことを思い出します。

 お母さんもきっと死んでしまったのだと気付いたよるちゃんは、小屋の近くの茂みに穴を掘りました。鳥を連れて帰ったとき、お母さんがそうしていたからです。

 冷たくなったお母さんを引っ張ってきて、時間をかけて掘った大きな穴の中に入れました。お母さんが寒くないように、土のお布団をかけてあげます。

 一人になってしまったよるちゃんは急に寂しくなってしまい、小屋の前に座って泣きました。

 ずっと下を向いて泣いていたよるちゃんは、いつの間にか目の前に男の人が来ていることに気が付きませんでした。

「こんにちは。こんなことろで、どうしたの?」

 突然話しかけられて、驚いたよるちゃんは顔を上げました。

 男の人は、目の周りに黒くて四角いものをつけています。首からも、何か黒くて四角いものをぶら下げていました。どちらも、よるちゃんは見たことがないものでした。

「だれ?」

「驚かせてごめんね。鳥の写真を撮りに来たんだけど、ちょっと帰り道がわからなくなっちゃったんだ。君も迷子なの?」

「ちがう。ここがおうちなの」

「え、ここに住んでいるの?」

 男の人は信じられないという顔をしています。

「君だけ? お母さんや、お父さんは?」

 一人でここに住んでいたら何かおかしいの? お母さんとお父さんのこと、どうして言わなきゃいけないのと、よるちゃんは思いました。

「ねえ、かえって。かえってほしい」

 冷たい態度でそう言うと、男の人は困ったように頭を搔きました。

「帰りたいんだけど、道がわからないんだ。山を下りたいんだけど、こっちでいいのかな?」

 そう訊かれても、よるちゃんは山を下りたことがないのでわかりません。小屋からあまり遠くへは行っちゃだめとお母さんに言いつけられていたので、道がどうなっているのかも知りません。

 だけど、よるちゃんはふと思い出しました。お父さんとあさちゃんが帰っていったとき、どの方向に歩いて行ったかを。よるちゃんはあさちゃんが行ってしまうのが悲しくて、姿が見えなくなるまで見送っていたのです。

「たぶん、あっち」

 よるちゃんはその方向を指さします。

 男の人は、ああ、ありがとうと言って帰っていきました。途中、一度だけ振り向いて何かを言っていましたが、よるちゃんには聞こえませんでした。




 山の入り口にはたった八段、丸木で作られた階段が申し訳程度に用意されていた。

 そこを登りきったところに、大人の背丈ほどある大きさの石が二つ、寄り添うように置かれている。

 そして二つの石の奥には、樹木が繁茂している薄暗い森が広がっていた。鬱蒼とした、とは、まさにこういう様を言うのだろう。一歩踏み入ったらそこから先は別の世界に続いているような、そんな得体の知れない雰囲気があり、璃央は少し足が竦んでしまった。

「璃央くん、もしかして怖いのかい?」

 ニヤニヤと嫌な感じの笑みを浮かべて璃央の顔を覗き込む綺の幻影が見えた気がした。

「は、何言ってるんですか別に怖くないですけど。僕もう大学生ですよ。ほらさっさと行きましょう」

 早口の独り言で綺の幻を追い払い、幾重にも重なる枝葉で太陽の光が遮られた薄暗い森へと足を踏み入れた。冷気を感じる森の中を、足元に気を付けながら進んで行く。

 頭の上のほうでは鳥の鳴き声や、羽がはためくような音が聞こえてくる。どうやらここは野鳥が多いようだが、目的のインコ――ピピの姿は見当たらない。

 ひたすら奥へ奥へと二十分ほど歩いたとき、目の前に「この先危険! 立ち入るな!」と、褪せてはいるものの赤と黄色と分かる色で、危機感を煽るようなデザインの看板が現れた。

 光のほとんど入らない森の中で見る「危険」という文字は、どうしてこんなに恐ろしいのだろう。熊でも出るのか、それとも進んだ先に崖があるのか。

 とにかく立ち入るなと言われているのだ。無理してこれ以上進むこともないと判断し、璃央はそこで引き返そうと思った。そう思ったのに、看板の奥、多い茂る草木の隙間に、見つけてしまった。

 それは人の足のように見える。見間違いではないのかと、璃央は看板の向こうへ数歩、足を踏み入れてみた。

 人の足のように見えたものは、やはり間違いなく人の足であった。そして足だけではない。腕や胴体、頭といった人間を構成するためのパーツは全て揃っているのだが、それらは繋がってはいなかった。

 バラバラになった複数のパーツは、地面の上で人の形に成るように綺麗に並べられており、十歳くらいの少女の姿を造り出していた。

 そして胴体部分には、鳥の羽がいくつも付着したワンピースのような布がかけられている。もともとはまっさらな白色だったのだろうが、無数のシミや泥で茶色く汚れてしまっている。

 頭は頭、胴体は胴体、腕は腕と本来あるべきところにきちんと配置されているし、顔もはっきりと判別できるから、知っている人が見ればこれが誰なのかすぐに分かってしまうだろう。

 体がバラバラになっているのだから当然この少女は死んでいるのだろうが、璃央には死体を目の前にしているという実感が湧かなかった。

 死んでいる人を初めて見た。バラバラ死体なんてものが本当にこの世に存在するのだと、どこか冷静で、なんだか作り物を眺めているような気分であった。

 璃央はポケットからスマホを取り出して、バラバラの少女を写真に収めた。別にこれを人に見せびらかそうとか、SNSで拡散しようとか、そんなことを考えたわけではない。不謹慎だと思われるだろうが、無性にそうしたかったのだ。

 珍しいものを見たら、写真を撮りたくなる。自分は間違いなくこれを見たのだと、何より強い証明になる一見を記録したくなるのは当たり前のことだろう。綺の言葉を借りて言えば、何かおかしいことがあるかい? そういうことだ。

 何かあったら連絡しろ、そう言われていたので綺に電話をかけようかと思ったが、スマホの電波マークにバツ印が付いていたので、璃央は一旦、山を下りることにした。


 亜沙美の部屋は、本で溢れていた。

 とても小学生の一人部屋としては似つかわしくないほどの広さがある洋室の壁は、天井まで高さのある本棚でびっちりと埋まっているし、そこに入りきらなかった本は床に無造作に積まれたり置かれたりしている。

 十分ほど前、綺が再び末永家を訪れると、買い物か何かに出かけてしまったのか野中は不在であった。

 代わりに亜沙美が応対してくれたのだが、終始無言。無言で玄関を開けて無言で綺を家に上げ、野中がいないのでどうすればいいか分からなかったのか、無言で自室へ案内してくれた。

 亜沙美は数日前までピピが入っていた鳥籠を抱えて、綺の前に立っている。じっと綺の顔を見つめており、もちろん、何も喋らない。

「亜沙美ちゃんは、本がとても好きなようだね」

「…………」

「絵本や児童書、童話集に少し難しい内容の小説までたくさん揃っている。ああ、図鑑もあるんだね。一体何冊くらいあるのかな? 全部、亜沙美ちゃんのかい?」

「…………」

 何を聞いても返事をしない亜沙美に全く臆することなく、綺は独り言のように喋り続ける。

「本はいいよね。文字を追っていると、いつの間にか自分だけの世界に連れていってくれる。妄想と想像の世界に閉じ込めてくれる。その世界では何を考えても自由で、誰もが優しくしてくれるし、誰も自分を否定したりなんかしない、最高の世界だよ。私も嫌なことがあるとよくその世界に逃げ込んだものさ。」

「…………なの?」

 これまで頑なに無言を貫いてきた亜沙美が、初めて何か言葉を発したような気がしたが、そこらを飛び回る虫の羽音のほうがよほど大きいと思えるほどのか細い小さな声だったので、綺は聞き取ることができなかった。

「亜沙美ちゃん、すまないがよく聞こえなかったから、もう一度言ってくれるかい?」

「……お姉さんも、本が好きなの?」

 亜沙美は綺を上目遣いで睨みつけているように見えるが、おそらく緊張しているのだろう。亜沙美にとって、野中以外の人間と会話をする、ましてや自分から質問をするなどということは、とても勇気がいる行動に違いない。

「そうだね、好きだよ。子どもの頃からよく読んでいた。最近はタブレットなんかで電子書籍を読むという人も多いんだろうが、私は紙の本のほうがいいね。あの独特の紙の匂いとか、パラパラとページをめくる、あの感覚、感触が好きなのだよ」

 亜沙美は鳥籠を抱えたまま、綺のほうへぐいっと体を近付けた。

「わ、私も紙の本が好き。『読んでる』って感じがするから。私の周りでは、あんまり本を読む人がいないの。ともちゃん、あ、野中さんのことだよ。ともちゃんは長い文章を読むのが苦手だって言ってたし、お父さんもお母さんも本は退屈でつまらないって。学校でも、休み時間にいつも本を読んでたら、話しかけづらいとか暗いとか言われるの」

 相変わらず力のない声ではあるが、これまでの亜沙美の無言ぶりを考えれば驚くほどの長文を口にしてくれた。

 野中のことを実は「ともちゃん」と呼んでいるところも、普通の小学生らしくてかわいらしい。

 そして亜沙美は、一度喋り始めてしまえば案外饒舌な女の子であった。

 ともちゃんは料理が上手でごはんがすごく美味しい、ともちゃんは野菜の育てかたに詳しくて、庭で一緒にミニトマトを育てている、ともちゃんはお裁縫も上手でお掃除も丁寧。

 よほど野中のことを慕っているのだろう、亜沙美の話のほとんどは彼女に関することだった。

 亜沙美が他人と全くと言っていいほど口をきかないのは、怖いからだという。

 相手がどんな人かわからないので、自分のことを話すのが怖い。おかしな子だと思われたらどうしよう、変なことを言っていると思われたらどうしよう、自分を否定されたらどうしよう、受け入れてもらえなかったらどうしよう。そんなネガティブな「どうしよう」がいくつも絡まりあって合体し、何も喋れなくなってしまうのだと教えてくれた。人と話すことが嫌いなわけではないということも。

 綺と会話をする気になったのは、綺が自分のこと――本が好きだということを教えてくれたからだと亜沙美は言った。

「では、野中さんと話す気になったのはどうしてかな? この家に来たころは、ほとんど口をきいてもらえなかったと言っていたんだが」

「ともちゃんは、自分のことを全然教えてくれないの。子どものときどうだったとか、どこに住んでいたとか、何が好きだとか嫌いだとか、そういう話をしてくれないの。だからずっと怖かった。うちに来たときからとても優しくていい人だったけど、ちょっと怖かったの。だけどある日、私に本をプレゼントしてくれた。それで私、この人は私のことをちゃんと見てくれてた、私の好きなものを否定したり馬鹿にしたりしないんだって思って、私の味方なんだってわかったの。だから、ちゃんとお話しできるようになった」

 なるほど。亜沙美が心を開くトリガーは、相手がどんな人間なのかを知ることのようだ。自分を否定する存在でないのだとわかれば、それで安心できるのだろう。

 あとで璃央にも教えてやろうか、いや、一人だけ亜沙美の無言攻撃を受ける璃央を見てほくそ笑むのもいいかもしれないと、綺は底意地の悪いことを考えていた。

 よく喋るようになってくれた亜沙美から、このままピピがいなくなったときの状況を聞き出すつもりであったが、突然、綺のスマホが着信を知らせるため小刻みに震えだした。

 画面には「璃央くん」と表示されている。何かあったら連絡しろと言ってしまった手前、電話を無視するわけにもいかない。

 なんてタイミングが悪いんだ、せっかくいい会話の流れができていたのに。璃央に情けをかけず、何があっても一人でなんとかしたまえとでも言っておいたほうがよかったかもしれない。

「もしもし、璃央くん。どうしたんだね。今、とてもいいところだったんだが」

 電話の向こうの璃央は、少し息が荒いように感じる

「あ、綺さんすみません。さっきの山で、ちょっと変なものを見つけてしまったので連絡したんですけど、お邪魔でした?」

「邪魔というほどではないよ。少しタイミングが悪かっただけさ。それで、変なものというのは何のことだい?」

「バラバラ死体です」

「…………」

 突拍子もない璃央の回答に、綺は思わず口を噤んでしまった。

「璃央くん、からかっているのかな? バラバラ死体なんてもの、そう簡単にお目にかかれるわけがないだろう。見間違いではないのかい? ああそうだ、一人で山に入る恐怖心が生み出した幻だよそれは」

「いえ、見間違いじゃないですよ。本当にバラバラ死体があったんです。とにかく一度、僕と一緒に来てください」

 俄かに信じがたい話ではあるが、璃央がそんなくだらない嘘をつく理由も思いつかない。

 璃央はすでに山を下りており、末永家へ向かっているという。車に集合すると約束し、綺は電話を切った。

「亜沙美ちゃん、申し訳ないが、急用ができてしまった。まだまだ話したいことがあるから、また来てもいいかい?」

 亜沙美は少し残念そうな顔をしたが、「うん、また来てね」と笑顔を見せてくれた。

「亜沙美ちゃんの笑顔はいいね、笑っていたほうがいい」

 そう言って、綺は本だらけの亜沙美の部屋を後にした。



 薄暗い森の中、よるちゃんは小屋の前に座っていました。

 一人になってしまってから、あまり元気がでないのです。お母さんがやっていたのと同じようにしてみても、料理がうまくできないし、一人で食べても全然おいしくありません。

 お母さんに会いたいな、あさちゃんは今頃どうしているのかなと考えていたら、また涙が出そうになってきました。

「こんにちは。どうしたの?」

 気が付くと、またあの男の人がいました。

「またまよったの?」

「違うよ。君に会いに来たんだ。この前言っただろう? また来るねって」

 そんなこと、聞いた覚えがありません。

「なんであいにくるの?」

「なんでって、こんなところに一人でいるなんて心配じゃないか。それにほら、お腹もすいてるんじゃないのかなと思って」

 男の人はガサガサと音のする袋の中から何かを取り出し、よるちゃんに差し出しました。

「これなに?」

「焼き鳥だよ。知らないの?」

「しらない。どうやってたべるの?」

 男の人は袋の中から焼き鳥をもう一本取り出し、よるちゃんの目の前で食べてみせました。

 真似してよるちゃんも焼き鳥を口に入れてみました。

 おいしい。こんなにおいしいものは、今まで食べたことがありません。

 よるちゃんは串に刺さった焼き鳥を飲み込むように食べ、男の人が持ってきた残りの焼き鳥もあっという間に平らげてしまいました。

 気に入ってくれたみたいで嬉しいよと、男の人は笑っています。

「これ、どうやってつくるの?」

 よるちゃんは作り方を教えてもらおうとしました。

「どうやって? ええと、鶏肉を一口サイズに切って串に刺して、秘密のタレをつけて焼く、でいいのかな」

「じぶんでつくったんじゃないの? これ、とりなの?」

「違う違う、お店で買ってきたんだ。焼き鳥は、だいたいニワトリの肉を使ってるね」

「わたしがとりをつれてかえっても、おかあさんはたべさせてくれなかったよ」

「まあ、食べないほうがいい鳥もいるだろうし、捌いたりとか、しっかり火を通したりしないといけないからね。大変なんだよ」

 よるちゃんは、男の人が持ってきてくれた焼き鳥がとても気に入りました。毎日これが食べられるなら、毎日来てくれてもいいと思いました。

「名前はなんていうの?」

 男の人はよるちゃんに尋ねました。

「なまえ? おかあさんは、わたしのことよるちゃんってよんでた」

「よるちゃん? 素敵だけど、珍しい名前だね。もしかすると、あだ名なのかな。僕はヤスさんって呼ばれてるんだ」

「やすさん? ねえ、またやきとりがたべたい」

「わかったよ。じゃあ、また買ってきてあげるね」

 それからヤスさんは、焼き鳥を持って頻繁によるちゃんのところへやって来るようになりました。焼き鳥が買えなかった日はおにぎりやサンドイッチを持って。

 いつでも白米が食べられるように、お米を持ってきてくれたりもしました。

 三日に一度だったのが毎日来るようになり、一日のうちに三度も顔を見せることもありました。

「写真を撮ってもいいかい?」

 ある日、ヤスさんがよるちゃんに言いました。首からぶら下げた、四角い黒いものをよるちゃんのほうへ向けています。

「それ、なに?」

「これ? これはカメラだよ。写真を撮るのに使うんだけど、見たことない?」

 よるちゃんは首を横に振ります。ヤスさんの言っている「しゃしん」というものが、なんなのかわかりません。それに、「かめら」というものも何なのかよくわかりませんでした。

「だめ、こわいからこっちにむけないで。」

 カメラの真ん中の丸い部分から、何かが飛び出してくるのではないかと怖かったよるちゃんは、思いっきり顔を背けました。

 ヤスさんは、残念そうにしています。

「そうか、仕方ないね。――じゃあ、小屋を撮らせてもらおうかな」

 そう言って、よるちゃんの住んでいる小さな小屋の写真を撮りました。

 ヤスさんは、とても優しい人でした。

 夏の暑い日には、よるちゃんが倒れてしまわないように冷たいアイスや氷を持ってきてくれたし、冬の寒い日には、よるちゃんが凍えてしまわないように暖かい毛布やカイロを運んできてくれました。

 随分伸びてしまった髪の毛を、綺麗に見えるように整えてくれることもあります。

 雨の日にはカエルの写真を撮ったり、風のある日には揺れる草木の写真を撮ったりするヤスさんを、よるちゃんは小屋の前に座って眺めていました。

 時間がゆっくり流れる森の中で、二人だけの世界がそこにはありました。

「それ、なに?」

 よるちゃんがヤスさんの目の周りにあるものを指して訊きました。

「これ? これはメガネだよ」

「なにするもの?」

「世界を、よく見るためのものだよ」

「ふうん」

 いつしか月日は流れ、ヤスさんが来るようになってから三年が経っていました。

 そして、月がとても綺麗に輝いていたある夜のことです。よるちゃんは、甘くて、幸せで、切なくて、少しだけ痛い、忘れられない思い出を作りました。



 鬱蒼とした森の中を、綺と璃央が歩いている。

 本当にバラバラ死体なんてものがあったのかと、綺は何度も璃央を問い詰めているが、璃央はその度に同じ返事をしている。

「本当です。見ればわかりますから、ちょっと静かにしていてください。口に虫が入りますよ」

 しばらく同じ問答を繰り返していると、「この先危険! 立ち入るな!」の看板が見えてきた。

「ほら、あの看板の向こうです」

 璃央の指さしたほうへ向かっていった綺は、しばらくじっくりと辺りを見回したあと、璃央のほうへ向き直った。心底うんざりしたような表情を浮かべている。

「璃央くん、やはり私をからかったね。何もないじゃないか」

 璃央はえっ、と声を上げ、綺の元へと駆け寄る。そして周囲を見渡してみたが、綺の言った通り、何もない。

「え、そんな! ――見間違いなんかじゃないです。さっきは絶対に、間違いなくここに死体があったんです!」

 璃央は頭を抱え、どうしてと呟く。

「おかしいと思ったんだよ。私に電話をしてきたときの璃央くんは、バラバラ死体を見たという割にはえらく落ち着いていたからね。私をうまく騙したいのなら、まずは演技の勉強でもしてくるといい」

 はあっと短くため息をつき、来た道を戻ろうとする綺を、璃央が引き留める。

「綺さん待ってください! さっきはなんか実感がなかったから冷静だっただけで、別に綺さんを騙そうとしていたわけじゃありませんよ! あ、そうだ僕さっき写真を撮ったんです。バラバラ死体の写真を」

 璃央は綺の前に回り込み、スマホの画面を見せた。先ほど撮影した死体の写真が表示されている。

 綺は疑うような目つきで写真をじっと見つめ、「確かに」と呟いた。

「この看板も写り込んでいるし、草木の様子からも、ここで撮影されたものであることは間違いなさそうだね」

「僕の言ってること、信じてもらえますか」

「まあそうだね、証拠として写真が残っているんだ。とりあえずは信じることにするよ。それにしても、一体、この死体はどこへ行ってしまったんだろうね」

 綺が看板の向こうへ足を踏み入れようとしたとき、ガサッガサッと何かがこちらに向かって歩いてくるような音が聞こえてきた。

 二人は咄嗟に近くの大木の後ろに隠れ、息をひそめる。

「なんでしょう、まさか熊とかじゃないですよね。さすがに僕――」

 璃央は途中で喋るのをやめ、森の奥を凝視している。

「あ、あれ。あれです。さっき見たバラバラ死体」

 綺が璃央の視線の先に目をやると、少し遠くで何かが動いているのが見えた。

 よく見ると、茶色く汚れた白っぽいワンピースのような服を着た十歳くらいの少女が一人、ボロボロのキャリーバッグを引いて歩いているようだった。

「あれって、あの少女のことかい?」

「そうです。だってほら、顔も同じだし、あの子が着ている服、死体の上にかけられていたものとそっくりですよ」

 二人はバラバラ死体の写真と、キャリーバッグを引く少女とを見比べた。

 確かに顔は瓜二つ、少女が纏っている汚れたワンピースには鳥の羽がいくつも付着しているし、どちらも同じく十歳くらいに見える。

 もしこの二人の少女の写真を並べられ、同一人物だと思うかと聞かれれば、間違いなくそうだと誰もが答えるに違いない。

 璃央は急いでスマホのカメラを起動しシャッターボタンを押してみたが、ズーム機能を使ってしまったからだろうか、歩く少女の姿が随分ぼやけた写真になってしまった。

 少女はキャリーバッグをガタガタと引きながら、暗い森の奥へと消えていった。


「綺さん、どういうことでしょうか。あのバラバラ死体、元に戻って歩いてました」

 運転席に座った璃央の顔は青ざめている。

「何を言っているんだね。バラバラになっていた死体が、元に戻って歩き出すなんてことがあるわけないだろう」

 綺は助手席で腕を組んでいる。

「でも、どう見ても同じ人間でしたよあれは」

「そうだね」

「死体がくっついて元に戻ったわけじゃないなら、どういうことなんでしょうか」

「さあ、どういうことだろう」

 元に戻って歩き出したバラバラ死体などどうでもいい、この話には興味がない、だからこれ以上私に話を振るな。そう冷たく突き放すような声色で、綺は気のない返事をした。

「綺さん、さっきのが一体何なのか、気にならないんですか?」

「気にはなるさ。だけどね、今回の我々の仕事はあくまでもピピちゃん探しなのだよ。山の中で偶然巡り合わせたバラバラ死体についてあれこれ考えてやる義理もなければ義務もないのさ。バラバラ死体の謎を解いてくれなどと誰かから頼まれたわけでもなし、それは警察やどこぞの私立探偵にでも任せておけばいいのだよ。何かおかしいことがあるかい?」

 綺のもとでアルバイトを始めたころ、「四十万屋」の名前の由来を尋ねたときのことを思い出す。

 あのとき綺が言っていた「四十くらいのことしかしませんよ」の意味が、ここに来てようやく分かったような気がした。綺の言っていることは一理ある。いや、一理どころかただの正論だ。何もおかしいことなどない。

 けれども見てしまったものは、そう簡単には忘れらるものではない。然るべきところへ通報してこの話はもう終わり、さて、気を取り直して引き続きインコ探しを頑張りましょうなんてのは無理なのだ。

 そして何より、璃央には微かに予感があった。綺は「偶然」と言ったが、果たしてこれは本当に偶然なのだろうか。

 たまたまピピの目撃情報があった山に入り、そこで見つけたバラバラ死体。それもなぜだか丁寧に人の形に成るよう並べられ、いつの間にか忽然と消えてしまった。そして死体と同じ見た目をした謎の少女。これらがすべて、たまたま同時に起きた偶然なのか?

 バラバラ死体を見つけてしまうことが、小鳥を探しに来たことと釣り合う「偶然」とは思えなかった。

 予感がした。もしかしたら、全てのことは関係があるのではないだろうかという予感。それは蚊の涙ほどもないような僅かなものではあるけれども、心のどこかにベッタリと張り付いてしまってもう離れてくれそうにない。

「偶然じゃないかもしれません」

 言って璃央は、綺の目をじっと見た。その視線の強さは、睨んだ、に近いかもしれない。

「ピピちゃんを探して入った山でバラバラ死体を見つけたこと、あの女の子のことも、偶然なんかじゃなくてきっと全部関係があるんですよ。綺さん、百万円を運ぶ青い鳥を見つけて気持ちよく依頼を完遂したいなら、バラバラ死体の謎を避けては通れないと思いますよ」

 君もなかなか折れない性格だねと、綺は長い前髪を掻き上げる。そうすると、美しいラインを描く富士額がよく見えた。

「わかったよ。璃央くんには今日、休憩もとらせず長時間運転をさせてしまっているからね。最低賃金でそんな重労働、私だって申し訳ないとは思っているし、感謝もしている。だからその詫びと礼というわけでもないが、今回は私が折れよう。ピピちゃん探しと並行して、そちらの調査も進めてみようじゃないか」

「え、本当ですか? ありがとうございます! 」

 本音を言えば、ダメ元だった。まさか何の根拠もない、戯言に近いような我儘を聞いてもらえるとは思わなかったのだから。

 いや、綺の場合、百万円というワードに脊髄反射で食いついただけかもしれないが。

「そういえば綺さん、僕がおばさまたちに囲まれたときのことを覚えていますか? 山の中で、ニワトリを抱いた幽霊を見たという人がいるって」

「ああ、確かにそんなことを言っていたね。それがどうかしたかい?」

「その幽霊って、もしかしてさっき見た女の子のことじゃないかなと思ったんです。ほら、あの子の服には鳥の羽がたくさんついていましたし」

「確かにその可能性はあるね。なかなか鋭いじゃないか。しかし、もしそうだとしたらあの少女は、連れ去ったニワトリを一体どうしたのだろうね」

「さあ、それは分かりませんけど、ペットとして可愛がるつもりかも。ニワトリってよく見ると結構愛くるしいですし」

 冗談のつもりでそう言ってみたのに、綺は何かを閃いたようにはっと目と口を開いた。これがちょっと古い漫画やアニメなら、高確率で頭の上に電球のマークが描かれているだろう。

「なるほどペットか。だとしたら、あの少女はピピちゃんのことを知っている可能性もある。いや、ピピちゃんの行方を知っているかもしれない最有力候補だよ。どこかでピピちゃんを見かけて、自分のペットにするため連れ去ったのかもしれない。よし璃央くん、あの少女を追いかけよう」

 助手席のドアを開け、勢いよく飛び出そうとした綺の服を璃央が引っ張る。

「何をするんだね璃央くん、服が伸びるじゃないか」

「ちょっと待ってくださいよ。追いかけるっていっても、どこにいるかもわからないし迷子になるだけです。あんな暗いところで遭難なんて、僕は絶対に嫌ですからね」

 不満そうな表情を見せる綺を無視し、それに、と璃央は続けた。

「僕、SNSでこの地域についての投稿がないかこまめに探してたんです。もしかしたらピピちゃんを拾って保護している人がいたりしないかなと思って。そしたらこれ、この前の土曜にこんな投稿をしてる人がいました」

 璃央はスマホの画面を綺に見せた。

 先ほど二人が入った山の入り口の写真と共に、短い呟きが表示されている。


『ボーナスで一眼買ったから野鳥撮りに来たんだけど、バラバラ死体見ちゃったかもしれん』


 さらに一時間後、今度は写真はなく、文章だけが投稿されていた。


『やっぱ見間違いだったっぽい。さっきもう一度見に行ったら何もなかったわ。お騒がせしてすまんです』

『あーでも怖いからちょっと撮ってもう帰るかな。野鳥が多いってことで二時間も運転してきたのにもったいないけど』


「土曜ということは、ピピちゃんがいなくなった翌日だね」

 綺はスマホを見ながら助手席に座り直した。

「そうですね。どうやらあのバラバラ死体を見たのは僕だけじゃないみたいです。しばらくしたら消えてるっていう状況も同じですし、もしかしたら山の中で張っていれば、あの女の子もまた姿を見せるかもしれません。無闇にあんな暗い森に入っていくより、それを追いかけたほうが安全だし確実じゃないですか」

「わかったよ。璃央くんの言う通りにしよう。今日はもう日が暮れてしまうから、明日また出直そうじゃないか」

 わかってもらえてよかったですよと言い終わらないうちに、綺は車を降りて末永家へ入っていった。一旦帰宅し、明日また来るということを伝えに行ったのだろう。

 わずか数分で豪邸から出てきた綺は、すぐには車に乗らずどこかに電話をかけている。

「待たせたね。では帰りの運転もよろしく頼むよ」

 車に戻ってきた綺は、当たり前のようにそう言った。それに対して璃央も何も文句を言わず、当たり前のようにエンジンをかけた。

 もはや綺の傍若無人な振る舞いに、いちいち反応したりはしないのだ。ついさっき、長時間運転をさせて申し訳なく思っていると言っていたのは、もしかすると夢だったのだろうか。

「どこに電話してたんですか?」

「信頼できる知人に、少し調べ物をお願いしただけさ。璃央くん、明日は強力な助っ人を呼んでおいたから、楽しみにしていたまえよ」

「助っ人ですか? 綺さんにそんな人脈ありましたっけ」

「何とでも言いたまえ。きっと有益な情報を運んでくれるはずから、楽しみにしているといいよ」

 半日前に走った一本道を戻る途中、綺は獣の呻き声かと思うようないびきをかいて眠っていた。

 森林に囲まれた代わり映えのしない景色の中、唯一の話し相手がいなくなってしまった璃央は、山の中で見たあのバラバラ死体と謎の少女について、ゆっくりと思考を巡らせている。

 あのバラバラになっていた少女は、やはり誰かに殺されてしまったのだろうか。だとしたら誰に? なぜ? 消えた死体は一体どこへ行ってしまったのだろう。キャリーバッグを引いた少女は、あそこで一体何をしていたのか。

 考えても、今はまだ何も分からない。とにかく、明日もう一度、あの山へ入らなくてはならない。


 翌日、綺と璃央は午前中の早い時間に四十万屋を出発した。当然、璃央の運転で、である。

「璃央くんも連日往復三時間の運転はきついだろう。私もできる限り早起きはしたくない。今日で決めてしまおう。絶対にピピちゃんを見つけ出し、亜沙美ちゃんの元に返してあげようではないか」

 やはり綺が自分で運転するつもりは更々ないということがはっきりしたが、それについて璃央はもはや何も言及しなかった。

 代わりに、昨日綺が言っていた助っ人とやらはどうなったのかと聞いてみたが、「現地集合」とだけしか教えてもらえなかった。

 末永家の駐車場に車を停め、綺が豪邸のインターホンを押す。

 応対した野中と二言三言会話をし、中には入らず車に戻って来た。

 今日はどのように行動するつもりなのかを確認しようとしたとき、一台の白いセダンがやって来て二人が乗っている車に横付けした。

 グレーのパーカーにジーンズ姿の見覚えのある人物が降りてきて、綺の座っている助手席の窓をコンコンと叩く。

「あれ、三分一《さんぶいち》さんじゃないですか。どうしてここに?」

 三分一と呼ばれた男性は、「お待たせして申し訳ない」と後部座席に乗り込んできた。

「璃央くん、助っ人の三分一くんだよ。どうだい、頼りになるだろう」

 三分一正義《さんぶいちまさよし》。お人好し、人がいい、そんな言葉を体現したようなこの男性は、定期的に依頼人として四十万屋を利用している現役の警察官である。

 依頼の内容としては大したものではなく、部屋の模様替えを手伝って欲しいとか、お歳暮選びに付き添って欲しいとかそんなものばかりであった。

正義と書いて正義 《まさよし》と読む、正義と書いて正義 《せいぎ》と読む。名は体を表すとはよく言ったもので、三分一もその名前通り、少し小柄でおとなしげな外見からは想像できないほどに正義感に溢れた男であった。

 第一志望であった大学の試験日当日の朝、路上でひったくりを目撃した三分一は犯人を追いかけたために試験を受けられず、そのまま一年浪人したことがあると、いつだったか話してくれたことがある。

 「浪人して一年を無駄にしてしまったけど、もしひったくり犯を追いかけなかったら俺は一生後悔していたと思うよ。長い人生、そのうちの一年なんて一瞬みたいなものだからね。一年無駄と一生後悔なら、前者をとるに決まってるよ」

 三分一はおかしそうに笑ってそう言っていた。

 まさか綺の呼びつけた助っ人が三分一だとは思いもしなかったが、確かに頼りがいがある人物であることに間違いはない。

「四十万さん、今日の服も素敵ですね」

 三分一が、綺の服装を褒めた。璃央にはカラスに襲われたオウムのコスプレにしか見えない奇抜な恰好だが、三分一には何か違うものが見えているらしい。

 三分一は、綺のことを苗字で呼ぶ。

 「四十万」よりも「綺」のほうが一文字少ないのだから名前で呼んでくれたまえ、璃央くんのことは名前で呼んでいるではないかと綺は言ったのだが、恋仲でもない女性を名前呼びするのは無理です、それはできませんと断られてしまっていた。

「ところで三分一くん、昨日頼んでおいた件はどうだったかな」

 綺に話を振られた三分一は、ああそうでしたそうでしたと、大きなボストンバッグの中からバサバサと書類を取り出した。

「ええとですね、頼まれていた件、しっかり調べてきましたよ。まず、この辺りで行方不明になった十歳前後の女児はいませんでした。過去数年分遡っても、失踪届や捜索願が出された記録もありません。あと、この地区で住民登録されている小学生女児は末永亜沙美ちゃんという子だけでした。そもそも人口が少ないですからね、女の子は何人かいますけど、五歳以下の未就学児と、中高生が数人だけですね。小学生女児は末永亜沙美ちゃんの一人だけです」

 璃央は、昨日の帰り際に綺が誰かと電話をしていたことを思い出した。おそらくあのとき、三分一に調査を依頼していたのだろう。

「ありがとう三分一くん。さすが警察官だね、仕事が早い。助かったよ」

 綺は三分一から受け取った書類の束をパラパラと流し見ている。

「綺さん、つまり、どういうことですか?」

 三分一の調査結果を聞いても、璃央はいまいち状況が掴めないでいた。

「つまり、昨日見たあの少女――少女たちというべきかな。彼女たちは、ここに存在しないはずの子どもたちというわけさ」

 綺は、何でもなさそうにそう答えた。


 綺の指示で、璃央と三分一は一緒に例の山へ向かうことになった。

 綺は「虫が多いから嫌だ」と言い、一人でさっさと末永家へ入っていってしまった。

 山の入口にさしかかろうというとき、背後から、あらあれ昨日のイケメンさんじゃないかしらそうよそうよ昨日のイケメンさんよと、覚えのある声で不穏な会話が聞こえてきた。

 璃央が振り返る間もなく、口にマシンガンを装備したおばさまたちに取り囲まれてしまう二人。今日は田口の姿は見当たらなかった。

 ねえイケメンさんこんにちは今日もいるのねインコは見つかったのかしらまだなのあらそうなの大変ね。そっちの人は誰かしら昨日はいなかったわよねお友達かしらそれにしては少し年が離れてるんじゃないかしらそれじゃあきっとお兄さんか先輩か何かねきっと。そういえばインコって誰のペットなのかしらイケメンさんが飼ってるの?あら違うのそうなの。え、末永さんちの?ああそうだったのねあそこ小学生くらいのお子さんいるわよねアリサちゃんだかアリスちゃんだかそんな名前だったかしらその子が飼ってるの?ご両親いなくなって大変よねえ。え、仕事で海外?やだ何言ってるのよイケメンさんそんなわけないわよあの夫婦が仕事で海外なんて。そうよあそこの旦那さんはろくに仕事なんてしてなかったし余所に女作っちゃってね奥さんは奥さんで愛人だの彼氏だのがいっぱいいたらしいじゃないの。せっかくおじいさんがご立派な家を残してくれたのにねえ恥ずかしくないのかしら。それで結局離婚したのかどうなったのか知らないけどいつの間にかいなくなっちゃってね最後は娘の親権を押し付けあってそりゃあもう酷いもんだったらしいわよ。

 昨日よりもマシンガンの威力が上がっているのは気のせいではないはすだ。わずか一日の間によほどストレスの溜まる出来事でもあったのだろうか。

 横にいる三分一は目を丸くして口を半開きにしている。

 それにしても、亜沙美ちゃんの両親についての話はどういことだろうか。仕事で海外にいると野中は言っていたはずだが、おばさまたちの話と随分な齟齬がある。

 もう少し詳しく話を聞きたかったのに、あらやだいつの間にかこんな時間よさっさと買い物済ませちゃわないとねそうねそうねと、おばさまたちの会話が勝手に収束に向かってしまった。

 じゃあねイケメンさんインコ早く見つかるといいわねと言いながら、おばさまたちは二人の元を離れていった。

「すごいね、竜巻に絡まれたみたいだったよ」

 三分一は苦笑いを浮かべている。

「そうですね。綺さんによるとあれは、ストレス解消の一種らしいです」

「ああ、なるほどね。何となく納得したよ。――ところで璃央くん、一つ聞いていいかな?」

「はい、なんでしょう」

「事のあらましは四十万さんから聞いてるんだけど、昨日璃央くんがバラバラ死体を見たのは何時頃だったか覚えてる?」

「時間、ですか? あ、ちょっと待ってくださいね」

 璃央はスマホを取り出し、バラバラ少女の写真撮影時刻を確認する。

「十六時三十二分、ですね。それがどうかしましたか?」

「うん、その女の子が姿を現すとしたら、もしかして同じ時間帯なんじゃないかなと思って」

 そんなことは考え付きもしなかった。

 もしも三分一の言う通りだとすれば、適当な時間に山に入ってもただの無駄足で終わってしまうことになる。

 璃央はスマホを操作し、昨日見つけたSNSの投稿を再度確認してみた。

 『バラバラ死体見ちゃったかもしれん』の投稿時刻は、十六時二十七分となっている。

「もしかすると、十六時台が怪しいかもしれません。その時間を狙ってみますか?」

「そうだね。そのあたりで山に入ってみようか。でも、それだとまだ随分時間があるね」

 十六時まで、まだ五時間ほどある。さすがにずっとフラフラしているわけにもいかない。

 一旦車に戻ろうかどうしようかと考えていると、正面の家の窓から誰かが手を振っているのが見えた。

 屋根がえんじ色の平屋、田口の家だ。

 璃央が会釈をすると、大袈裟なジェスチャーで「玄関まで来て」と伝えてきたので、二人は平屋の玄関先まで移動する。

 数秒後、磨りガラスがはめ込まれた引き戸がガシャガシャと動き、中から割烹着姿の田口が顔を覗かせた。胸の部分に、可愛らしいウグイスの刺繍が施されている。

「イケメンさんこんにちは、今日もいるのね。あら、そちらの方は?」

 三分一がこんにちはと挨拶をし、十五度の角度でぴしっと頭を下げた。お辞儀というより、敬礼といった感じである。

「まあ、立ち話もなんだし、自己紹介は中でしましょうか。二人ともどうぞ上がって」

 綺麗に片付けられた居間に通された二人は、田口に促されて二十センチは厚さがありそうな座布団の上に座った。物凄くふかふかで信じられないほどに座り心地がいい。

 部屋の中を見回してみると、木目の美しい桐の箪笥の上には小さなウグイスの置物がいくつも並べられているし、壁に掛けられた小さな日本画の中にも梅の枝に留まったウグイスがいて、よく見ると襖の柄もウグイスであった。

 田口はウグイスが好きなのだろうか。あの山は野鳥が多いから、ピピを見かけたときも、もしかしたらウグイスを探しに行っていたのかもしれない。

「ねえ、お昼はもう食べたかしら。もしまだならうちで食べていかない? お蕎麦をたくさんいただいたんだけど、私一人じゃ食べきれなくて」

 そういえば、昼食のことを何も考えていなかった。じゃあ、お言葉に甘えて、と璃央が返事をすると、三分一もそれに続いた。

 じゃあすぐに作るから待っててと、田口はキッチンに消えていった。――と思ったらまたすぐに戻ってきて、待ってる間暇でしょう、よかったら見てて、亡くなった主人が撮った写真なのよと、一冊の分厚いアルバムを置いて再びキッチンへ消えた。

 特にすることもない二人は、勧められるがままにアルバムをテーブルの上で開いてみると、一ページに六枚、一般的なL判サイズの写真が整然と並べられていた。

 風景写真が多いが、ときどき小鳥や動物を被写体にしたものも混じっている。

「すごく綺麗に撮ってあるね、ちょっと画質が粗いけど、何年前のものなんだろう」

 三分一が感心したようにそう言ったが、正直、璃央には写真の巧拙はよく分からない。被写体がブレずに写っているだけで、じゅうぶんにすごい技術だと思ってしまう。

 何ページかめくったとき、見覚えのある風景が目に飛び込んできた。

 申し訳程度に設置された、丸木でできた階段。間違いなくあの山であると思ったが、寄り添うような二つの石が見当たらない。

 さらにその写真の隣には、壁も屋根も扉もすべて丸太を組み上げただけのような、簡素な造りの小さな小屋を写した写真が収められている。

 この小屋はなんだろう、あの山にあるものだろうか。

 さらにページをめくって璃央は少しだけ驚いた。

 見開き一ページに収められた十二枚の写真すべてが、同じ小屋を写したものだったのだ。

 そして次のページも、その次のページも同じだった。まるで愛しい恋人を撮るかのように、角度を変え、時間帯を変え、何枚も何枚も何枚も。

 この小屋はそんなに魅力的な被写体なのだろうか。申し訳ないが、璃央には暗い森の中に佇むただのボロ小屋にしか見えない。

「三分一さん、僕は写真のこととか全然分からないんですけど、この小屋ってそんなに珍しいものですか? 思わず撮りたくなる感じですかね?」

「いや、ただの山小屋にしか見えないけどね。何か惹きつけられるものがあったのかもしれないね」

「そんなものですかね」

 アルバムの最後のページには、写真がたった一枚だけしかなかった。上下左右に均等な余白をあけ、真ん中に収められている写真には、産まれたばかりと思われる赤ん坊の小さな足が二人ぶん写っている。

「はい、お待たせしました」

 お盆に蕎麦の入ったどんぶりを三つ乗せた田口が居間へ戻ってきた。出汁の香りが食欲をそそり、璃央の腹の虫がぐうっと鳴る。

「あったかいうちに食べちゃいましょ」

 小学生のように全員で合掌をし、湯気のたつ蕎麦を啜った。

「ねえイケメンさん、ずっとイケメンさんて呼ぶのも失礼よね。名前を聞いてもいいかしら」

 一足先に蕎麦を完食した田口に言われ、そういえば名乗っていなかったことを思い出した璃央は、急いで口の中に残った蕎麦を飲み込んだ。

「僕は、一ノ瀬璃央です。こちらは三分一正義さん。それと昨日、僕と一緒にいた雇い主は、四十万綺といいます」

「まあ、みなさんかっこいい名前で羨ましいわ。私は田口淳子というの。ね、普通でしょう?」

 田口は、また眉を八の字にして困ったように笑っている。

「ところで璃央くん、あ、璃央くんて呼んでいいかしら。探してるインコは見つかりそうなの?」

「もちろん、お好きに呼んでもらって構わないですよ。インコはまだ見つかってはいないんですが、手がかりが掴めたかもしれないので、もう少しかもしれません」

「そうなの、早く見つかるといいわね。飛べないなら近くにいそうなもんだけどね」

「はい。――あの、田口さんにいくつかお尋ねしたいことがあるんですが、いいですか?」

「あら、もちろんよ。私に答えられることならなんでも答えるわよ」

「ありがとうございます」

 璃央と三分一は蕎麦を綺麗に完食し、田口から蕎麦湯をもらってつゆも残らず飲み干した。

「ごちそうさまでした。すごく美味しかったです。それであの、早速なんですけど」

 璃央は先ほど見ていたアルバムを、改めてテーブルの上で開く。

「この写真、そこの山の入り口を写したものだと思うんですが、大きな二つの石がありませんよね? あの石って、わりと最近置かれたものなんでしょうか」

「ああ、あれね。置かれたの、いつだったかしら。主人がこの写真を撮ってすぐだったと思うから、二十年くらい前よ」

「二十年前ですか?」

「そう、近くに住んでる西本さんというおばあちゃんがいるんだけどね、その人がずっと言ってたのよ。『山に子どもの双子幽霊が出る、呪われるぞ』って。しつこく騒ぐもんだから、じゃあその幽霊を供養するために双子石を置きますね、だからもう騒がないでねってなったのよ。まあ、西本さんを黙らせるために置いただけの飾りみたいなものよあれは。幽霊が出るなんて、誰も信じちゃいなかったわよ」

 田口は湯のみで一口、淹れたての煎茶を飲み、西本さんてちょっと変わり者でね、ご近所付き合いもしないしオカルトっていうの? そういうのにハマってるみたいだからと続けた。

 湯のみと急須にも、さりげなくウグイスがいた。

 あの三人組のマシンガンおばさまたちほどではないが、田口もわりかしにお喋りである。

 それにしても確か、先日山でニワトリを抱いた幽霊を目撃したというのも西本という人だったはずだ。あとでその人のところにも話を聞きに行った方がいいかもしれない。

 続けて璃央は、アルバムに収められた写真の大半を占めていた小屋について尋ねてみた。

 これについては、田口もよく分からないらしかった。田口の夫である靖弘は、写真が趣味で休みの日にはいろんな場所を撮りに行っていたということだが、ある時期から何かに取り憑かれたように、頻繁にあの山へ入るようになったという。

 酷いときには一日に三度も四度も山へ行き、その度に小屋の写真が増えていったという話だったから、この小屋はあの山のどこかにあることは間違いなさそうである。

 三分一が冗談めかして「小屋に恋してたのかもしれないね」と言うと、田口は一瞬、顔をぴきっと引きつらせたように見えた。

 しかしすぐにまたあの八の字眉で「そうかもね」と笑ったので、気のせいだったのかもしれない。

 最後のページの赤ん坊の写真を指し、田口さんのお子さんですかと三分一が尋ねるが、田口は首を横に振った。

「うちは子どもができなかったから、これはたぶん、主人の病院で産まれた子ね」

 悪いことを聞いてしまったと、申し訳なさそうに下を向く三分一に「いいのよ気にしないで」と声をかける田口。

 眉はずっと、八の字のままだ。

 康弘は産婦人科医で、隣町で小さな病院を経営していたのだという。

 「主人が亡くなって病院も閉めちゃって、今はもうコンビニになっちゃったんだけどね」と、少し寂しそうに教えてくれた。

 子どもができず夫にも先立たれ、長いことこの家で一人暮らしをしているのであろう田口は、もしかしたら話し相手が欲しかったのかもしれない。口にマシンガンを装備したおばさまがたとのストレス解消合戦ではなく、自分のことや夫のこと、なんでもない話を誰かとしたかったのかもしれない。

 だから、ただインコを探しに来ただけの見ず知らずの大学生にわざわざ自分の家を教え、何かあればいつでも来てねなんて言ってくれたのだろうし、こんなふうに家に招き入れてくれたのだろう。

「お蕎麦、ありがとうございました。とても美味しかったです」

 璃央と三分一は昼食の礼を言い、そろそろ失礼しますと、分厚いふかふか座布団から腰を上げた。

 四十万屋の事務所にもこれと同じものを用意してくれないだろうかと切に思ったが、何年物なのかわからないほど年季の入った錆びたパイプ椅子を全く気にせず使い続けている綺のことだ、いい座布団を買ってくれとお願いしたところで、いろいろと御託を並べて絶対に承諾してはくれないだろう。

 山に幽霊が出ると言い続けている西本という人の家の場所を田口に尋ねてみたが、あの家の人たちってちょっと攻撃的だから、関わらないほうがいいわよと、教えてはもらえなかった。

「璃央くん、三分一くん、楽しかったわ。ありがとう」

 玄関で見送りを受け、二人は田口家をあとにした。

 時間は、十三時をまわろうとしている。

 先ほどの田口の話を聞き、三分一は少し調べたいことができたらしい。十六時までには帰ってくるからと言い残して、愛車のセダンへと戻って行った。

 さて、一人になってしまった璃央は三分一が帰ってくるまでどうしていようかと考えた挙句、関わらないほうがいいと言われた人物に関わりに行くことにした。

 近くに住んでいると言っていたはずだし、昔ながらの日本家屋が多いこの町は、ほとんどの家がきちんと表札を掛けている。中には律儀に世帯全員のフルネームを郵便ポストなんかに掲示しているご家庭もあったりするので、地道に確認していけば目的の家を見つけることはそう難しくなさそうだ。

 じろじろと家を眺めて怪しい人物だと思われないよう、横目でさりげなく表札を確認しながら歩いていると、

「わかったよ! あたしが死ねばいいんだろ!」

と、低い塀に囲まれた家から、外まではっきり聞こえる怒鳴り声が響いてきた。

「毎日毎日あたしのやることなすこと全部に文句つけやがって! 誰がお前の世話してやってると思ってんだよババア!」

 ドアが叩きつけられるような激しい音と共に、ぼさぼさの髪を低い位置で一つに纏めた、ひどく疲れた様子の女性が飛び出してくる。そのまま庭に停めてあった古い軽自動車に乗り込み、タイヤから音がするほどの急発進でどこかへ走り去ってしまった。

 塀越しに覗いてみると、縁側に座っている白髪の老婆とばっちり目が合ってしまった。皺だらけの顔と体はすっかり痩せて萎んでいるのに、ぎょろりと丸い目だけが爛々としている。

 慌ててしゃがみ込む璃央の目に、かまぼこ板のような木に油性ペンで書かれた「西本」という表札が映った。

「お前はそこで何をしている」

 塀の向こうから声をかけられてしまったので仕方なく立ち上がると、左足を悪くしているのだろうか、老婆は右足だけでぴょんぴょんとジャンプをするように璃央の目の前までやってきた。

 田口の言っていた西本というのはこの老婆のことだろうか。いや、攻撃的だと言っていたはずだから、もしかしたら違うかもしれない。

「あの、ここは西本さんのお宅ですか」

「そこの表札にそう書いてあるだろう! 見ればわかることをいちいち聞くなこの余所者が!」

 目と鼻の先で怒鳴りつけられ、璃央の顔に老婆の唾液が飛んできた。なるほど、やはりこの老婆が幽霊を目撃した西本に違いない。

 素直にすみませんと謝り、あの山で幽霊を見たというのは本当ですかと単刀直入に聞いてみた。回りくどいことを言って苛立たせてしまったら、怒鳴られるだけでは済みそうにない。

「あたしゃもうずっと長いことそう言っているんだ! ずっと! なのにここの馬鹿共は誰も私の言うことなんか信じやしない! どいつもこいつも死んじまえまいいのさ!」

 老婆は右手で拳を作り、塀を殴りつけている。

 田口はこの家の人たちのことを「ちょっと攻撃的」と表現していたが、これは「ちょっと」とは言わない。

「あの、その幽霊って、もしかしてこんな感じの女の子じゃないですか」

 ぼやけてしまった少女の写真を表示し、スマホの画面を老婆に向けた。

 なんだこれは変なものを見せるなと怒られるかもしれないが、さすがにバラバラ死体のほうを見せるわけにはいかないので仕方がない。通報されてしまっては困る。

 写真を見た老婆は、目玉が落ちるのではないかと心配になるほどカッと目を見開き、頭を両手で押さえて絶叫しだした。キエエエーとかヒイイイーとか、周波数の高い声で叫びながら片足でぴょんぴょんと縁側へ移動していく姿は、まるで新種の大型鳥のようであった。

 黒目を上下左右に動かしながら叫んでいる老婆の様子を見るに、山で見た幽霊というのがこの少女であることに間違いなさそうである。

 そうですか、ありがとうございましたと一応会釈をし、早足でその場を離れる。

 老婆はまだ何かを叫んでいるが、璃央は振り向かない。服の袖で、顔に付いた老婆の唾液をぬぐった。


 あさちゃんは、高校生になっていました。

 中学では勉強を頑張り、友達もできました。誘われて入った家庭科部で、あさちゃんは料理の楽しさを知りました。部員みんなでメニューを考え、買い出しに行き、レシピ通りに調理をする。おいしいごはんを食べると幸せな気分になり、心を豊かにしてくれました。

 お父さんにも料理を作ってあげると、すごくおいしい、お前は天才だと褒めて喜んでくれたので、それから毎日の料理はあさちゃんの担当になりました。

 人並みに受験勉強をして、おうちから通える高校に入学したあさちゃんは、そのまま大学か専門学校に進むつもりでした。栄養士とか調理師とか、料理に関わる仕事に就くための資格が欲しいと思ったのです。

 けれども、あさちゃんが高校二年生のある日、お父さんが病気になってしまいました。お父さんは入院したり退院したりを繰り返していたので、そのうち仕事を辞めることになりました。

 大きな手術をして病気はよくなり、お父さんもすぐに新しい仕事を始めましたが、お給料は前よりも少なくなってしまいました。

 お父さんは気にしなくていいと言ってくれましたが、生きていくためにはお金が必要です。

 お父さんの負担を少しでも減らしたいと思ったあさちゃんは、卒業したら進学はせず、働くことに決めました。勉強は、学校に行かなくてもできる。あさちゃんは、それをよく知っていました。

 無事に高校を卒業したあさちゃんは、すぐに地域の家政婦紹介所に登録しました。

 紹介所から帰る途中、遠くにあの山が見えました。

 よるちゃんとお母さんは、どうしているのかな。二人のことを考えたら、なんだか無性に会いたくなってしまいました。

 あさちゃんは、山に向かって歩き出しました。山の入り口にある丸太でできた階段を上り、そのまま薄暗い森の中を進んでいきます。記憶を辿ってしばらく歩き続けると、見覚えのある小屋に到着しました。

 あさちゃんが出て行ったときよりも、小さくなってしまったように感じる小屋の前に、あさちゃんと同じ見た目をした女の子が座っています。

「よるちゃん?」

 おそるおそる声をかけてみると、女の子はあさちゃんの顔を見て少し驚き、立ち上がります。

「あさちゃん?」

 二人はそれ以上何も言わず、離れていた時間を埋めるようにきつく抱き合いました。

 そしてあさちゃんは気が付きました。よるちゃんのお腹が、大きくなっていることに。

「よるちゃん、赤ちゃんができたの?」

「そうみたい」

「今、何か月なの?」 

「――どういうこと?」

 よるちゃんは、困ったように首をかしげました。

「誰の子なの? ねえ、お母さんはどこ?」

「わたしと、やすさんのあかちゃんだよ。おかあさんは、もうずっとまえにしんじゃった」

 お母さんが死んでしまった。それはあさちゃんにとって悲しいことのはずでしたが、不思議と涙は出てきませんでした。

 お母さんがいなくなってからも、よるちゃんはここにたった一人で住み続けていた。そっちのほうが、よほど悲しく思えたからかもしれません。

「よるちゃん、山を下りよう」

 あさちゃんは、よるちゃんの手を取ってそう言いました。

「いやだ。ここにいる」

 よるちゃんは下を向いて答えました。

「どうして? こんなところに一人でどうするの、赤ちゃん産まれるんだよ?」

「だって、わたしはもうここでしかいきられないの」

「そんなことないよ」

「ううん。わたしはほかのせかいをしらないから」

「絶対に無理なの? ここから離れたくないの?」

「うん」

「――わかった。じゃあ、私がここに通ってよるちゃんたちのお世話をする」

 それを聞いたよるちゃんは、弾かれたように顔を上げました。

「それはだめ。そんなことしなくていいよ」

「どうして? よるちゃんと赤ちゃんが心配なの」

「ごめんねあさちゃん。ほんとうは、もうすぐやすさんといっしょにくらすことになってるの」

「赤ちゃんのお父さん?」

「そう。やすさんのおうちにいって、そこでくらすの。うそついてごめんね」

「それ、本当なのね?」

「うん。だからもう、あさちゃんはここにこなくていいよ」

「でも――」

「ううん、もうこないで」

 もう来ないで。よるちゃんがとても優しい笑顔でそう言うので、あさちゃんは仕方なく頷きました。

 あさちゃんは持っていたノートのページを一枚破り、そこに小さなおうちの住所と電話番号を書いて、よるちゃんに握らせました。

「いつでもいいから、落ち着いたら連絡して。手紙でも電話でも、何でもいいから」

よるちゃんは、渡されたノートをじっと見ます。だけど文字が読めないよるちゃんには、そこに書かれているものが何なのかわかりませんでした。

「うん。れんらくするね」

「絶対だよ。待ってるから」

 あさちゃんは、最後にもう一度よるちゃんのことをぎゅっと抱きしめました。

 あさちゃんが帰ったあと、しばらくして今度はヤスさんが姿を現しました。

「よるちゃん、もしかしてさっき山を下りたりした? すごく似ている子を見かけた気がするんだけど――」

「ううん。わたしはここからはなれたりしないよ」

「そうか、そうだよね。ならやっぱり僕の見間違いだね」

 ヤスさんはよるちゃんの隣に座って、焼き鳥の入った袋を開けました。いつものように二人で一緒に焼き鳥を頬張ります。

「よるちゃん、前にも言ったんだけど、赤ちゃんが産まれるときには病院に行こうね」

 よるちゃんのお腹に赤ちゃんがいるとわかったときからずっと、ヤスさんは同じことを言っています。

 病院に行こう、よるちゃんと赤ちゃんの命がかかっていることなんだよ。

 けれどもよるちゃんは、絶対に「うん」とは言いませんでした。

「あと何か月かしたら、ものすごくお腹が痛くなり始める。それが、赤ちゃんが産まれてくる合図なんだ。ここで産むのは危ないんだよ、何かあったときに助けられない。だからそうなったら、よるちゃんがどんなに嫌だと言っても僕の病院に連れて行くからね」

 やはりよるちゃんは「うん」とは言いません。代わりに、ヤスさんにお願いをしました。

「やすさん、わたしからもおねがいがあるの」

「どんなお願い?」

「もうここに、だれもこないようにしてほしい。だれにもみつからないようにしてほしい」

「――うん、そうだね。わかった」

 次の日ヤスさんは、森の中に看板を立てました。誰も森の奥に入って来ないように、「危険! この先立ち入るな」と書いておきました。

 それからしばらくして、よるちゃんがいつものようにヤスさんと焼き鳥を食べていた夜のことです。

 お腹が痛くなってきて、痛みはだんだんと強くなっていきました。

 ヤスさんにそのことを伝えると、「今すぐ病院へ行こう」と言われました。

 よるちゃんは山を下りるのは絶対に嫌だと思っていましたが、お腹があまりにも痛くて意識がぼうっとしていたので、ヤスさんに抱え上げられても拒否することができませんでした。

 ヤスさんは山を下りるとよるちゃんを車に乗せ、小さな産婦人科へ急ぎます。到着すると誰にも見られないように、こっそりと中へ入りました。

 そして夜が明けようとするころ、二人以外には誰にも知られることなく、ひっそりと二つの新しい命が産まれました。

 ヤスさんは目を潤ませ、双子の赤ちゃんの写真をたった一枚だけ撮りました。

 よるちゃんが赤ちゃんたちの手をそっと触ると、小さな手はよるちゃんの指を握り返してきます。

「よろしくね」

 よるちゃんは、この夜のことを絶対に忘れないと、そう思いました。



 綺は再び、亜沙美の部屋にいた。

 どうやら野中はなかなか忙しくしているようで、綺を家へ入れたあと、すぐに出かけてしまった。

 綺は自分の敵ではないと認識した亜沙美はすっかり警戒心を解いたようで、リラックスした様子でベッドの上に座っている。もちろん、鳥籠を抱えたまま。

「亜沙美ちゃん、昨日は突然おいとましてすまなかったね。今日はもっとゆっくり話をしよう」

 綺は部屋の中を歩きながら、所狭しと並べられた本の背表紙を眺めている。

「昨日の話を覚えているかい? 亜沙美ちゃんは野中さんから本をプレゼントされたと言っていたが、どんな本だったのかな」

 亜沙美はベッドから降り、正面の本棚から一冊の本を取り出して綺に手渡した。

「これだよ、『青い鳥』。お姉さんはこのお話知ってる?」

「もちろん知っているさ。とても有名な話だからね」

 手渡された本をパラパラとめくりながら、ふと綺は思った。これだけたくさんの本を所持している亜沙美が、名作として名の知れた『青い鳥』を持っていなかったのだろうか。

「亜沙美ちゃんは、この本を持っていなかったのかい?」

「ううん、絵本のやつを持ってたよ。ともちゃんにもらったのはお芝居の台本みたいなやつだから、同じ話でも書き方が違うの」

「ああ、そうか」

 『青い鳥』は童話劇なので、もともとは戯曲の台本のようになっている。慣れていないと読みにくいものだと思うが、亜沙美はそんなことを気にしたりはしなかっただろう。

 本が好きな自分のために、書店に行き本を選んでくれた。自分を理解し、受け入れてくれようとしたその気持ちが何より嬉しかっただろうから。

 『青い鳥』を本棚に戻そうとしたとき、背表紙がひどく汚れている本があることに気がついた。

 泥水に浸けてしまったような茶色い汚れがつき、タイトルを読むことができない。角のほうは破れてしまっている。どの本も綺麗に保管されているので、この一冊だけ悪い意味で目立っていた。

 綺は破れている部分には触らないよう、慎重にその本を取り出した。

 表紙には、大きな白い鳥に人間の足が生えた奇妙なイラストが描かれている。タイトルは『フィッチャーの鳥』。

 中を開いてみると挿絵の多いタイプの本であるということは分かったものの、背表紙と同じように茶色い汚れがついている箇所が多く、まともに内容を読むことができない状態になっている。中の数ページは完全にちぎれてなくなってしまっていた。

 亜沙美が、こんな状態になるほど本を乱暴に扱うとは思えない。何かあったのかと、綺は疑問を感じた。

「亜沙美ちゃん、この本はどうしたんだい? 随分状態が悪いようだけど」

 亜沙美は大きな目をさらに見開き、はっとした表情を見せる。

「あ、それは、――なんでもないの。落としちゃっただけ」

 綺の顔を見ず、視線をキョロキョロと動かしている亜沙美。明らかに動揺しているのが見て取れる。

「落としただけで何ページも破れたりはしないだろう。一体何があったらこうなるんだい? もしかして、誰かにいじわるをされたとかじゃあないだろうね」

「ちがう、それは、いつの間にかそうなってたの」

 絶対誰にも言わないでと前置きをし、亜沙美は綺にそのときのことを話し始めた。

 それは先週の金曜日、つまり、ピピが鳥籠からいなくなった日のこと。

 亜沙美はピピが入った鳥籠と本を抱え、山へ入って行ったという。入口に二つの石が置いてあり、璃央がバラバラ死体を見つけたあの山である。

 実は亜沙美は、たまに野中の目を盗んでは一人であの山へ行き、森の中で読書をしていたというのだ。静寂の中で無数に聞こえる野鳥の鳴き声と、光が遮られた薄暗さが、亜沙美の心を落ち着かせたという。

 そしてあの日、いつものようにピピを連れて山へ入った亜沙美は、木にもたれかかって本を読んでいる途中で居眠りをしてしまったようだ。

 しばらくして目を覚ますと、鳥籠からピピの姿が消えていた。

 そしてそれだけではなく、亜沙美が持ってきていた二冊の本のうち、一冊はひどく汚れてページが破れてしまっており、もう一冊はその場からなくなってしまっていたというのだ。

 亜沙美は辺りを探し回ったがピピの姿は見当たらず、破れたページもなくなった本も見つからなかったので、半べそをかいて山を降りた。

 その後のことは、最初に野中が話した通りだということだった。

「汚れた本というのは、この『フィッチャーの鳥』のことだね。なくなった本というのは何だったのかな?」

 当時のことを話しながら、悲しい気持ちが蘇ってきたのだろう。亜沙美は少し鼻を赤くして、目を潤ませていた。

「なくなったのは、『青い鳥』」

「おや、それは先ほど本棚に戻したと思うんだが」

「さっきのは、ともちゃんにもらったほうだよ。なくなったのは、もともと持っていたほうで、絵本のやつ。ともちゃんにもらったのは大切だから、外には持って行かないの」

「ああそうか、『青い鳥』を二冊持っていたんだったね。亜沙美ちゃんは、そのことを野中さんには報告していないのかい?」

「うん、誰にも言ってない」

「それはどうしてかな?」

 亜沙美はバツが悪そうに、下を向いてモジモジと動いている。

「あの山には絶対に行っちゃダメだって、ともちゃんに言われてるの。だから――」

「野中さんに? なぜだろう、暗くて危いから心配しているのかもしれないね」

 亜沙美は、下を向いたままううんと首を横に振った。

「たぶん違うと思う。ともちゃんははっきり言わないけど、あの山が嫌いみたい。ちょっと話題にしただけで、笑わなくなって、何も喋らなくなっちゃうの」

 亜沙美は顔を上げ、綺のほうをじっと見た。

「だから、こっそりあの山に行ってたことがバレたらものすごく怒られると思う。怒られるだけならいいけど、ともちゃん、私のこと嫌いになっちゃうかもしれない。だからお願い、このことは絶対に言わないで」

「もちろん、絶対に言わないさ。約束するよ」

 綺にポンと頭を叩かれた亜沙美は少しホッとしたようで、再びベッドの上に腰を下ろした。

「あ、そういえば」

 突然何かを思い出したようで、亜沙美が小さく声を上げる。

「森で寝ちゃったとき、何だか変な夢を見たんだ」

「変な夢?」

「うん。大きくて白い鳥みたいなのが私に近寄ってきて、何かを、見ていたような、聞かれたような――」

 綺は考える。

 森で眠ってしまった亜沙美、鳥籠からいなくなってしまったピピと、二冊の本。

 そして亜沙美が見たという変な夢が、もし夢でなかったとしたら。――やはりピピは、あの少女のもとにいるに違いない。

 璃央は言っていた。ピピがいなくなったこと、あの山でバラバラ死体を見つけたこと、あの少女のこと、きっと全部繋がっているのだと。

 正直なところ、あんなものは綺をその気にさせるための適当なハッタリだと思っていた。

 綺は予感がした。これは、ただペットのインコがいなくなってしまっただけの単純な話ではないかもしれない、と。

 ふと亜沙美を見ると、目を閉じたり開けたりを繰り返し、ウトウトと船を漕ぎそうになっている。

「亜沙美ちゃん、眠いのかい?」

「うん、最近あんまり、寝てないから」

「ピピちゃんが心配なんだね。少し眠るかい? 何かお話を聞かせてあげよう」

 綺は亜沙美の隣にゆっくりと座った。

「ううん、面白いお話を聞くと目が覚めちゃうの。だから私がお話してもいい? 話してたほうが、眠れるから」

「ああ、もちろん。何の話をしてくれるのかな?」

「じゃあ、あるお姫様のお話」

 亜沙美は綺にもたれかかり、ゆっくりと話し始めた。

 

 昔々あるところに、大きなお城がありました。そこには王様と美しいお后様とお姫様が一人いて、とても仲良く暮らしていました。

 けれども、仲がいいと思っていたのはお姫様だけでした。王様とお后様は、本当はとても仲が悪かったのです。

 王様には愛人がいて、お后様にもたくさんの愛人がいました。

 二人はいつの間にか、毎晩のようにケンカをするようになりました。お姫様はそれを知らないふりをしていましたが、本当はドアの隙間から、二人が汚い言葉を使って罵りあっているのを見ていたのです。

 ある日、お姫様はお后様にお願いをしました。

 もうすぐお誕生日だから、プレゼントが欲しい。物じゃなくて、本当の幸せが欲しいと、お后様に言いました。

 しかし、お姫様の誕生日が近づいてきたある日のこと、王様が、お后様にもお姫様にも何も言わずに、お城を出て行ってしまったのです。怒り狂ったお后様は、自分も出て行ってやると叫び、暴れていました。

 そしてお姫様の誕生日、お后様は鳥籠に入った綺麗な小鳥をプレゼントしてくれました。

 この鳥は幸せを運んできてくれる鳥だよ、だからずっと大事にしてあげてね。そう言ってお后様も、お姫様を置いてお城を出ていこうとしました。

 私は行かないでと言いました。けれどもお后様は、私の手を振り払い、その鳥を籠から出しちゃダメよ。籠の中でずっとずっと大事に大切にしていたら、きっと戻ってくるからねと言って、一人でお城を出ていきました。

 そして私は毎日小鳥のお世話をするうちに、気づいてしまったのです。お后様からもらった青い鳥は、飛ぶことができませんでした。飛べない鳥は、幸せを運んできてなどくれないのです。

 それでも私はお后様の言葉を信じ、飛べない青い鳥を大事に大切にしていました。

 お姫様は一人ぼっちになってしまいましたが、平気、です。寂しくありません。お城には、たくさんの本が、あるし、ともちゃん、も――

 

 お話の最後で力尽きた亜沙美は、綺の隣ですやすやと小さな寝息を立てて眠ってしまった。

 「お姫様」が、途中で「私」になってしまっていたことに、亜沙美はきっと気づいていなかっただろう。

 亜沙美を起こしてしまわないようにこっそりと立ち上がり部屋を出ると、その瞬間、スマホが璃央からの着信を知らせてきた。


「三分一くんはどこへ行ってしまったのかね」

 車に集合した二人は、例のごとく運転席と助手席に座っている。説明するまでもなく、当然、璃央が運転席である。

「調べたいことがあるって言ってましたけど、どこに行ったかはわからないです」

 田口の家を訪問したことは正直に話しておいたが、美味しい蕎麦をご馳走になったことは黙っておくことにした。綺にばれたら、君たちばかりずるいではないかと、しつこく小言を言われることは目に見えている。

 三分一の見解により、十六時にアタリをつけて少女を待ち伏せするつもりであることを伝えると、綺から「私も行く」とまさかの発言が飛び出した。

「虫が口に入るから嫌だって言ってたのに、どうしたんですか?」

「口に入るとは言っていない、虫が出るから嫌だと言ったんだ。いやなに、亜沙美ちゃんといろいろ話をしてね、気が変わったのさ。全ての真相を知りたくなってしまった」

「え、亜沙美ちゃんと話ができたんですか? ずっと無言で取り付く島もないって感じだったのに、どんな手を使ったんです? まさか脅したとか?」

「そんなわけないだろう人聞きの悪い。亜沙美ちゃんはね、あるトリガーを引いてあげれば心を許してくれるのだよ」

「トリガーって何ですか」

「それは自分で探したまえ。まあ一つ助言をしてあげるとね、璃央くんの場合は過去のアルバイトでの悲しい経験を話してあげればいいと思うよ。優しい亜沙美ちゃんはきっと心を開いてくれるはずさ」

 過去のバイト。――璃央の初めてのバイトは大学一年の春、おしゃれが爆発しそうなカフェでのウェイターだった。

 璃央ほどのイケメンがギャルソン姿で働いているのだ、女性客の間で話題にならないわけがない。イケメンを一目見ようと女性客が移動する水牛のように押し寄せ、店は大繁盛した。そこまでは良かった。

 しかし問題は、この客達はしばらくすると、一番安いソフトドリンク一杯で何時間も席を占領してしまうようになってしまったことだ。

 当然、店の回転率は悪くなり売上も落ちる。男性客からはいつまでも席に案内されないとクレームが入り、同性の先輩たちからも冷たい態度をとられるようになってしまった。

 居た堪れなくなった璃央は、僅か二週間で店を辞めてしまったのだ。

 この経験を生かして次のファミレスでは、人前に出るホールではなくキッチンを希望した。

 すると璃央目当てに迷惑な客が押し寄せることはなかったが、アルバイトの女子高生と正社員の女性社員が、璃央の作った料理を運ぶ権利を賭けて殴り合いの喧嘩をするという事件が起きてしまった。

 当然、璃央はすぐにその店を辞めた。

 こんなことが何度も続き、すっかり困り果てた璃央は「僕がずっと働けるバイト先を探してください」と四十万屋のドアを叩いたのである。

 そこで綺に、「それならうちで働くといい」と言われて現在に至るわけだが、こんな話を亜沙美にしろと言うのか。

 璃央にだって人並みの羞恥心というのもは備わっている。

 そして今考えれば、おそらく綺は面倒だったのだろう。顔が良すぎるあまりに自滅している大学生男子の働き口を探してやるなど、第三者目線で冷静に考えれば、面倒極まりない仕事である。

 あの綺のことだ、最低賃金で助手が雇えるならラッキーくらいに思い、ここで働けと提案したに違いない。

「あんな黒歴史、人に言いたくないんですけど」

 綺はニヤニヤと笑っている。

「話したくないのなら別にいいさ。私はあくまでも助言をしたまでだからね」

 なんて意地の悪い雇い主なのだろう。あの日、ここで働けと言われ、涙を堪えて喜び、四十万綺という人物を神か仏のように崇め奉ろうとした愚かな自分を助走をつけてぶん殴ってやったらどんなに気が晴れるだろか。

 璃央はここでふと、田口に聞き忘れていたことがあると思い出した。亜沙美の両親のことである。

 トリガーとやらを引き、会話をしてもらえるようになった綺であれば、何か聞いているかもしれない。

「綺さん、亜沙美ちゃんのご両親のことなんですけど、ちょっと変な噂を聞いたんです。仕事で海外に行っているのは嘘かもしれません」

「ああそれなら、亜沙美ちゃんが語ってくれたよ。本人にそのつもりはないだろうけどね。それぞれが愛人を作って出て行ったとかそういう話なら、たぶん本当のことだろうね」

「――亜沙美ちゃんのご両親、帰ってくると思いますか?」

「いや、思わない」

「僕もです。野中さんはどうして、海外に行ってるなんて嘘をついたんでしょう」

 綺が助手席で、少し窮屈そうに腕と足を組んだ。

「そりゃあ、亜沙美ちゃんが聞いているかもしれないところで本当のことなど言えないだろうさ。表向きには、亜沙美ちゃんも両親は海外に行ったのだと信じているふりをしていただろうからね」

「まあ、言われてみればそうですね。早く亜沙美ちゃんのところに、ピピちゃんを帰してあげたいです」

「私だってそう思っているよ」

「それは、百万円のためですか?」

「璃央くんはどうなんだい?」

 質問を質問で返されて、綺から目を逸らした。

 確かに、ピピ探しをするための最初の原動力は自分の昇給だった。

 けれども今はそれだけではない。亜沙美のためにという気持ちが、間違いなくある。

 そんな璃央の気持ちを汲み取ったのだろう。

「私も同じさ」

 綺はそう言って、「だからまず情報共有しようじゃないか」と続けた。

 璃央は田口家と西本家での話を、綺は亜沙美との会話を、なるべく詳細にお互い伝え合う。

 狭い車内で四十分ほどそうしていると、三分一の乗ったセダンが駐車場へと戻ってきた。

 午前中に合流したときと同じように助手席の窓を叩き、後部座席に乗り込んできた三分一は、お待たせして申し訳ないと同じ台詞を口にした。

「三分一さん、おかえりなさい。調べもの、うまくいきましたか?」

「うん、結構いい情報が手に入ったと思うよ」

「一体、何を調べに行っていたのだね」

「ああ、それはですね、――あっと、とりあえず山へ向かいませんか。もう十五時半を過ぎてるから」

「あ、ほんとですね。ちょっと急ぎましょうか」

 三人は車を降り、山へと歩き出した。


 「危険 この先立ち入るな!」の看板から数メートル離れた場所にそびえ立つ大木の後ろで、三人は息を潜めてしゃがみこんでいた。かれこれ三十分ほどこうしているが、あの少女はなかなか姿を現さない。

 無数に寄ってくる小さな虫を、綺は心底うっとうしそうに手で払い続けている。

 足が痺れそうになった璃央が立ち上がったとき、それは森の奥から現れた。

 ボロボロのキャリーバッグをガタガタと引き、鳥の羽が無数に付いた、茶色く汚れた服を着た少女。

 璃央はさっとしゃがみ直し、三人は少女の様子を静かに伺う。

 少女は看板の手前で立ち止まり、地面に倒したキャリーバッグを開けて何かを取り出した。

 少女は、自分と同じ顔がついた頭部を抱えてその場に置いた。続けて上下に分かれた胴体、腕、足と少しづつ人間の体のパーツを取り出しては、人の形に成るように丁寧に並べている。

 そして最後に、少女が着ているものと同じような服を胴体部分にふわりとかけると、少女と瓜二つのバラバラ少女が、雑草に覆われた冷たい地面の上に現れた。

 それをしばらく見つめたあと、少女はまたキャリーバッグを引いてどこかへ行ってしまった。

 少女の姿が見えなくなったことを確認し、三人はバラバラのほうの少女に駆け寄る。

 間違いなく、昨日璃央が見たものと同じだ。

「見た目が完全に同じだったね。――双子なのかな」

 三分一がバラバラ少女をまじまじと見ている。

「三分一くん、もしかしてこの子の死因がわかったりするかい?」

「え? えっと、小さな擦り傷は沢山ありますけど、死因になるような外傷はないみたいだし。――すみません、ちょっとわからないです」

 お役に立てず申し訳ありません! と、三分一はその場で上半身を四十五度に傾けた。

「外傷がないって、犯人はどうやってこの子を殺したんでしょう」

「別に、殺されたと決まったわけではないさ」

「でもバラバラ死体ですよ?」

「バラバラにされているからといって、殺されたとは限らないだろう」

 綺は続けて何かを言おうとしたがそれをやめ、不便だなと呟いた。

 あの子だのこの子だの少女だのバラバラ死体だの、呼びにくくて仕方ない。生きているほうの子をキャリーちゃん、バラバラになっている子をバラバラちゃんと呼ぶことにしようと言い出した。

 捻りも何もない酷いネーミングだと思ったが、実際、口に出してみるとこれは結構わかりやすい。

「キャリーちゃんとバラバラちゃんは、やっぱり三分一さんの言う通り双子なんでしょうか」

「ここまで瓜二つならそうだろうね。そっくりなんてものじゃない、まるでクローンじゃないか」

「ええと、西本さんが双子の幽霊が出ると騒いでいたのが二十年前。でもキャリーちゃんたちはどう見ても十歳くらいです。てことは、キャリーちゃんたちとは別の双子が、昔ここにいたってことでしょうか?」

「そうだね、もしかしたら、その二十年前に目撃されたという双子と、今回の双子たちは親子という可能性もあるんじゃないのかい」

「確かに、双子は双子を産みやすいって聞いたことがありますけど。――そんなによくあることじゃありませんよね」

「璃央くん、宝くじで一等が当たる確率を知っているかな?」

「え、何ですか突然。ええと確か、年末ジャンボの一等が当たる確率が二千万分の一とか、そのくらいですよね」

「その通りだよ。じゃあ、双子が双子を産む確率はどうだい?」

「え、いや、ちょっと、考えたこともないので検討もつかないんですが」

「一卵性か二卵性かで違いはあるけれどね、単純に計算するとだいたい一万分の一と言われている。つまりだ」

 綺は右手でピースサインを作り、璃央の顔の前に持ってきた。

「双子として産まれてきて自分も双子を産むほうが、宝くじで一等を当てるよりも遥かに簡単だということさ」

 おそらく綺は、だから二組の双子が親子である可能性は充分に有り得ることなのだと言ったつもりなのだろうが、なぜだろう、どちらかというと宝くじが当たらないのは当然なのだと主張しているように思えてしまう。

 実際、綺はしょっちゅう宝くじやロト何とかを買って来るが、数日後にはゴミ箱に突っ込まれているのを璃央は見てしまっていた。

 ここでずっと頭を下げていた三分一が、ゆっくりと上半身を起こした。下げるときは素早く、戻すときはゆっくり、ファストイン・スローアウトというやつだ。

 俺がさっき調べに行っていたのは、その二十年前に目撃されたという双子のことなんですと言い、またもや大きなボストンバッグから書類の束を取り出した。

 目撃されたときに五歳から十歳くらいだったと仮定して、当時そのくらいの年齢だった女の子の双子が近隣で行方不明になったりしていなかったかを調査してきたのだという。

 まさかこの短時間でと驚いたが、さすが三分一くんだねと綺は絶賛しているし、三分一は「いえいえそんな」と謙遜を口にしながらも、満更ではない様子であった。

 三分一の調査によると、行方不明になった双子はいかなったものの、どうも怪しい双子が見つかったらしい。

 その双子は産まれてからずっと同じ場所に住んでいることになっていた。――つまり住民票はそこにあるのに、幼稚園にも小学校にも一切、たった一日すらも通った履歴がなかったのだという。

 入学式にすら出席していなかったらしいので、そもそも始めから行く気がなかったのだろう。

 幼稚園は義務教育ではないので通わせない家庭もあるのだろうか、小学校に行っていなかったというのはどういうことだろうか。

 三分一は続ける。二人揃って小学校には通っていなかったたずなのに、なぜか双子の妹のほうだけが、中学からはきちんと登校するようになっていたと。

「小学校に通っていなかった期間が確かに怪しくはあるね。二人揃ってとなると、単なる不登校というわけではなさそうだ」

「じゃあその空白期間、その双子はこの山にいて、それを西本さんに目撃されたってことでしょうか」

「そう考えると辻褄は合うけれどね、一体なぜ学校にも行かずこんな所にいたのか分からない」

 璃央と綺は頭を抱えた。

 謎が謎を呼び、結局謎は謎のままという、どこで聞いたかもう忘れてしまったフレーズが頭を過ぎる。やめてくれ、これを謎のまま終わらせてなるものか。

 綺がはっと顔を上げた。また頭の上に、電球マークが見える。

「そうだ三分一くん、年齢的にもその怪しい双子というのはまだご存命なのだろう? 二人に当時の話を聞けばいいだけのことではないか」

 そう来ると思いましたと言い、書類の束をめくる三分一。

「ええとですね、双子の妹のほうは間違いなく存命で、現住所も追えました。ただ、姉のほうはずっと住民票が動いていなくてですね、所在どころか生死も不明です」

「その住民票がある住所には住んでいないのかい?」

「はい、何年か前までは妹と父親が住んでいたようですが、現在は父親だけが居住しているみたいです。ちなみにですけど、この双子の母親も、どこでどうなっているのかわかりません」

 もう少し時間があれば調べられたかもしれないですがと、三分一は悔しそうにしている。

「そうか。ではその妹さんというのは、今どこにいるんだい?」

「ああ、それなんですけど、ちょっとびっくりですよ」

 三分一が綺に書類を一枚手渡そうとしたとき、森の奥からガサッガサッと何かが歩いて来るような音が聞こえた。

 急いで大木のうしろに回り込んで様子を伺っていると、再びキャリーちゃんが姿を現した。

「あ、戻ってきましたよ!」

「璃央くん静かにしたまえ」

 キャリーちゃんはバラバラちゃんのところまで戻ってくるとすぐ隣に座り込み、静かに天を仰いでいるバラバラちゃんの姿をしばらく眺めていた。

 五分ほどそうしたあと、キャリーちゃんは深い溜息をつき、ひどく落胆したように「なんでだめなんだろう」と呟いた。

 少し高めでよく通る、綺麗なカナリアのような声だった。

 キャリーちゃんは立ち上がり、バラバラちゃんの体のパーツを一つずつ拾い上げてはボロボロのキャリーバッグの中に戻している。

 体にかけられていた服を丁寧に畳み、キャリーバッグに詰めて森の奥へと歩き出した。

「よし、追いかけるぞ。璃央くん、先頭を行きたまえ」

「ええ、なんで僕なんですか」

 璃央、綺、三分一の順で隊列を組み、キャリーちゃんに気付かれないよう適度に距離を保ちながら、コソコソと後をつける。

 ドラマでよく見るベタな演出のように、木の枝を踏んだりして音を出してしまっているが、キャリーバッグを引くタイヤの音で掻き消されているようで、こちらに気付く様子はない。

 そのまましばらく、と言うには少々長すぎる時間を歩き続ける。進んでも進んでも、暗くて深い森が広がっているだけで、何も変化のない景色が続いた。

 実際に歩いた時間は十五分か二十分程度だろうが、道が悪いので遥かに長く感じられた。

 綺が痺れを切らして「一体あの子は何時間歩くつもりなんだね、山越えでもする気かい」とボヤき出したころで、ようやく景色に変化が見られた。

 無数に生える木々の隙間に、小屋が現れた。丸太を組み上げただけの簡素な造り。間違いなく田口の夫、康弘が撮影し続けていたあの小屋であった。

 小屋のすぐ隣と後ろは少し地面の色が違っている場所があり、小さな畑のようになっている。

 キャリーちゃんは躊躇うことなく小屋の中へと入って行ったが、数秒もしないうちに再び外へと出てきた。キャリーバッグは引いておらず、代わりに木製のバケツのようなものを二つ抱えている。

 そのまま小屋の裏手へ回り、またどこかへ行ってしまった。

「璃央くん、これ、写真で見た小屋だよね」

「ですね。まさかキャリーちゃん、ここに住んでいるんでしょうか」

 綺は何も言わずに小屋の周りをぐるりと一周すると、そのまま扉を開けて小屋の中へと入って行ってしまったので、璃央と三分一も慌ててそれに続いた。

 小屋の中は外から見るより広い印象で、白や茶色、黒といった鳥の羽根が無数に床に散らばっている。壁際には干し草を固めたベッドのようなものがあり、色の褪せた毛布が二枚かけられている。隣には、ボロボロのキャリーバッグが立て掛けられていた。

 こんな森の中にぽつりと佇む小屋である、電気やガスなど通っていないだろうから、当然テレビや電子レンジ、洗濯機などの家電は一切置かれておらず、キッチンのようなものも見当たらない。

 璃央くん璃央くん、と三分一に手招きされ、真ん中に置かれた小さな木のテーブルに置かれた小さな鍋の中を覗いてみると、食べかけの白米が残っていた。

「やっぱり、ここで生活しているんでしょうか。これ、どうやって炊いたんですかね。炊飯器とかありませんけど」

 いつの間にか隣に来ていた綺が鍋をひょいっと掴みあげ、側面や裏面をじろじろと見る。

「小屋の裏に、石と薪で作ったかまどがあったよ。そこで炊いたんだろうね」

 そう言ってまたすぐに鍋を置いた。

「かまどって、キャンプとかで見るやつですよね。火はどうしてるんでしょう。ここ、電気もガスもなそうですけど」

 三分一が「まさか、火起こし器でせっせと?」と驚いた顔で発言すると、「いや、違うみたいだよ」と綺が返した。

「文明の利器に頼らず原始的な生活をしているのかと思いきや、楽するところはしているみたいだね。かまどにライターが置いてあったよ」

 ライター? 一体どこで手に入れたのだろうか。山へ来た人が落としたものを拾ったのかもしれない。

「それにしても」

 綺はぐるぐると小屋の中を回っている。

「ピピちゃんの姿が見当たらないね。キャリーちゃんが連れていたと思われるニワトリもだ。絶対ここにいると思ったんだがね」

 亜沙美の夢の話から、綺はキャリーちゃんがピピを連れて行ったのだと考えていたし、それを璃央にも伝えていた。

 ざっと小屋の中を見回しても、ピピらしき小鳥は見当たらないし、床に散らばる鳥の羽の中にも、ピピのものと思われる色の羽は混じっていない。

 ここにいるのではないのだろうか。

 璃央はふと、干し草のベッドの上に目をやった。気のせいだろうか、毛布の隙間から、干し草ではないものが見える。

 ベッドにかけられている毛布を一枚捲り上げると、いた。見つけた。

 そこには『青い鳥』の絵本と、別の本から破り取られた数枚のページと一緒に、頭が白く、胴体と羽が鮮やかな青色をした小鳥が横たわっていた。

 目を閉じており、ぴくりとも動かない。

 クチバシには、油性ペンの赤い線が一本。間違いなくピピであった。

 璃央はピピを両手で優しく持ち上げてみたが、体温が全く感じられない。とても、生きているとは思えない冷たさだった。

 そのまま綺と三分一のほうを振り向くと、二人は璃央と、その掌で眠っているピピを静かに見つめる。

「死んでいるのかい」

 綺が訊く。

「生きているとは思えません」

 璃央が答える。

「そうか」

 綺はそのまま、ベッドの上に置かれた絵本と、破られた‪ページを手に取った。

 三分一は下を向き、ただただ悔しそうに唇を噛んでいる。

 綺は破られたページを睨みつけるようにじっと見て、「やはりか」と吐き捨てるように言った。

「綺さん、その絵本と破られたページは、何なんでしょう」

 璃央はもう息をしていないピピを落とさないよう、胸の前でしっかりと抱いている。

「璃央くんは、『青い鳥』を知っているかい? モーリス・メーテルリンクの有名な童話劇なんだが」

「ちゃんと読んだことはありませんけど、だいたいの内容は知ってます。兄妹が、魔法使いのおばあさんに頼まれて、幸せの青い鳥を探しに行くっていう話ですよね」

「その通りだよ。じゃあ、『フィッチャーの鳥』はどうかな? 『まっしろ白鳥』とも呼ばれるグリム童話だよ」

「え、いえ、ちょっと、どちらも聞いたことないです」

「まあね、他のグリム童話、『赤ずきん』や『ヘンゼルとグレーテル』なんかに比べるとマイナーな話ではあるからね。知らなくても無理はないさ」

 下を向いていた三分一が顔を上げ、「もしかして」と口を開いた。

「悪い魔法使いの男が、可愛い三姉妹を長女から順番にさらっていく話ですか?」

「そう、そんな話だ。さすが三分一くんだね」

 知らない璃央くんのために説明してあげようと、綺は『フィッチャーの鳥』のあらすじを簡単に話し始めた。

 魔法使いの男が、花嫁候補として三姉妹を上の娘から順にさらい、自分の城に連れていく。

 魔法使いの男はさらった娘に鍵を渡し、この鍵で開く秘密の部屋には絶対に入ってはいけないと言いつける。

 けれども好奇心に負けた一番上の娘と二番目の娘は秘密の部屋に入ってしまい、約束を破った罰として、魔法使いの男にバラバラにされて殺されてしまう。

「なんでもそうですけど、入ってはいけないって言うなら、最初から鍵なんて渡さなけりゃいいじゃないですか」

 璃央の発言を無視して、綺は続ける。

 しかし三番目の娘は少し知恵を使い、秘密の部屋に入ったことを魔法使いの男にはばれないようにした。

 そして秘密の部屋の中で見つけた二人の姉のバラバラ死体を集め、すべてのパーツを綺麗に並べ直す。

 すると不思議なことに、バラバラだった姉たちのパーツが動き出してくっつき、体が元に戻った姉たちは目を開けて生き返る。

「え、ちょっと待ってください。それって――」

「そうだ、キャリーちゃんがバラバラちゃんにしていたことと同じだよ。そしてこの破り取られたページは、『フィッチャーの鳥』のまさにその部分が挿絵として描かれたページなのさ」

 綺は破れたページを璃央に手渡した。三分一も一緒にそれを見る。

 あまりグロテスクにならないよう気を遣った絵柄で、三番目の娘が二人の姉のバラバラになった体を並べている場面と、体がくっついた姉たちが生き返る場面が描かれている。

「キャリーちゃんはバラバラちゃんを生き返らせるために、これを真似してたってことですよね?」

 璃央が訊く。

「そういうことだろうね」

 綺が答える。

「そうなるとやっぱり、バラバラちゃんは誰かに殺されてバラバラに? ――可哀想に、こんな幼い子が」

 口元に手を当て、三分一が嘆く。

「いや、殺さたわけではないと思うね。バラバラにされたというのは同意だが」

 綺が言う。

「綺さん、どういうことですか。殺されてはいないのにバラバラにされたって」

 再び璃央が訊く。

「おそらくだけれどね、バラバラちゃんは、言い方は悪いだろうが勝手に死んでしまったのさ。森の中には危険な虫や植物なんかそれこそ山のようにあるだろうからね。そしてキャリーちゃんは偶然にも亜沙美ちゃんが持っていた『フィッチャーの鳥』を見て、同じことをすれば姉妹であるバラバラちゃんが生き返ると思ったのだろう。死んだバラバラちゃんをバラバラにしたのは、キャリーちゃんのはずだよ」

 そんなことが有り得るのだろうか。童話の内容を現実でもそうだと信じ込み、死んだ姉妹を自らバラバラに解体してしまうなんてことが。

 普通に考えれば、まともな常識を持ち合わせていれば、そんなことは絶対に起こり得ないということは分かるはずだ。だって、これはただの作り話なのだから。

「言っただろう、キャリーちゃんたちは存在しないはずの子どもたちだと」

 璃央の思考を見透かしたかのように、綺がそれに対する答えをくれる。

「つまり戸籍がないのさ。出生届を出されていない。この世に産まれてすらいないことになっている。だから当然、学校にも行けないし、ずっとこの小屋で生きていたのだろうからね、まともな教育を受けていないのさ。字だって読めるか怪しいよ。俗世間での常識なんてもちろん通用しない、だからこんな作り話を信じたのだろう」

 もし綺の言う通りだとしたら、なんて悲しいことなのだろう。死んだ人間は何をしたって、生き返ることなんかない。そんな当たり前のことを誰にも教えてもらえないまま、この子は生きてきたのだ。

 そして大切な姉妹を、双子として産まれてきた自分の半身をバラバラにしてしまった。

「綺さん」

「なんだい?」

「タイトルの『フィッチャーの鳥』っていうのはどういう意味ですか。さっきのあらすじを聞く限りだと、鳥は登場しませんでしたよね」

「ああ、三番目の娘が魔法使いの城から逃げ出すときに、自分だとわからないよう鳥のふりをするのだよ。蜂蜜の壺に入って羽根布団を切り裂き、そこで寝転がったのさ。そうして羽根を全身に付けて城を出ると、まるで大きな白い鳥が歩いているように見えたものだから、すれ違う人にどこから来たのかと尋ねられる。それで娘は『フィッチャーさんの家から来たのよ』と答えるというわけだよ」

「大きな白い鳥、ですか。――ラストはどうなるんです?」

「三姉妹の兄や親戚の手によって、城に火がつけられる。そして魔法使いの男とその仲間たちは、焼け死んでおしまいさ」

 悪い魔法使いは、焼け死んでおしまい。

 キャリーちゃんは、物語のこの結末を知っているのだろうか。別にキャリーちゃんのことを悪い魔法使いと同一視しているわけでは全くないのだが、ふと、そう思った。

「僕、少し外に出てきます」

 ピピを抱いたまま小屋の外に出た璃央は、そのまま裏のほうへ向かった。

 小さな畑には、収穫できそうな小ぶりの人参が頭を覗かせている。他にも何かの種を植えているのかもしれないが、見ただけでは分からない。

 すぐ横には、石と薪で作られたかまどがあった。毎日ここで炊飯しているのだろうが、そういえば、米はどうしているのだろう。近くに田んぼは見当たらい。

 積み上げられた石の裏に、黄緑色のプラスチックが見える。綺の言っていたライターだろう。

 しゃがんで拾い上げたそのライターを見て、璃央の心臓がぞくりと脈打った。気付いてしまった、わかってしまった、腑に落ちた、そんな感じがした。

 ライターをポケットに入れて持ち帰ろうかと思ったが、そんなことをしたらキャリーちゃんが困ってしまうかもしれない。三分一の言ったように、火起こし器でせっせと、になってしまうのだから。

 璃央はスマホでライターの写真を撮り、そのまま元の場所に戻しておいた。

 ピピを両手で抱き直して小屋の正面に戻ると、扉の前に、キャリーちゃんが立っていた。

 先ほど抱えていた木製のバケツには、八分目まで水が入ってたぷついている。

「だれ? なにしてるの?」

 カナリアのような声で、キャリーちゃんは璃央に向かいそう言った。

 小屋の中にもそれが聞こえたのだろう、扉が開き、綺と三分一が外へ出てきた。

「勝手に入ってすまなかったね。君はここに住んでいるのかな? 少し聞きたいことがあるんだが、いいかい?」

 キャリーちゃんはその場にバケツを置いた。

 キャリーちゃん一人に対し、大人三人が取り囲むよう形で立っているので、少し可哀想な気もする。

「我々はね、鳥を探しに来たんだ。そこのお兄さんが抱いている青い鳥だよ。君は、その鳥のことを知っているよね?」

 綺がキャリーちゃん訊く。

「うん、しってるよ。でもいつのまにか、うごかなくなっちゃった」

 キャリーちゃんは、少し残念そうに言った。

「その鳥はね、亜沙美ちゃんという、君と同じくらいの年齢の女の子が、とても大切にしていた鳥なのだよ。ピピちゃんという素敵な名前もある」

 怒っているような、悲しんでいるような、悔いているような、普段の綺とは違う、少し感情的な声だった。

「君は、ピピちゃんを盗んだのだろう? 亜沙美ちゃんが森で寝ている間に、鳥籠からピピちゃんをさらった。持っていた本も一緒に。違うかい?」

「ちがう」

「どう違うというのかね」

「ぬすんでない。それちょうだいって、ちゃんといった」

「亜沙美ちゃんは承諾したのかね」

「しょうだく?」

「いいよと言ったのかい?」

「そんなのおぼえてない。でも、だめっていわなかった」

「だめと言われなかったからといって、いいというわけではないだろう」

 言い返せなくなったキャリーちゃんは、下を向いてしまった。

「ピピちゃんは、連れて帰らせてもらうからね」

 もう言い返してこないかと思いきや、その言葉を聞いたキャリーちゃんはばっと顔を上げて「だめ!」と叫んだ。

「だめ! つれてっちゃだめ!」

「どうしてだい? さっきも言ったけどね、ピピちゃんには飼い主がいるんだよ。これは君の鳥じゃないんだ」

「おかあさんがいってた、あおいとりをみつけたら、しあわせになれるんだって」

 キャリーちゃんの目が潤み始めている。

「せっかくみつけたの! やっとみつけたの! だからだめなの、つれていかないで!」

 潤んでいた目から、ついに涙がこぼれ落ちてしまった。それを見た綺は、さすがにそれ以上強く言うことはできなくなってしまったのだろう。少しだけ、声のトーンが落ち着いた。

「君は、幸せじゃなかったのかい?」

「わからない」

「お母さんはどうしたのかな? お父さんは?」

「わからない」

「君と同じ顔をした子がいたはずだ、その子はどうしたんだい?」

「うごかなくなっちゃった」

「どうして?」

「おなかがすいて、とりをたべてたの。そしたらおなかをおさえてないちゃって、きづいたらうごかなくなってた」

 抱いて歩いていたというニワトリを食べたのだろうか。しっかりと火を通さなければ、食中毒を起こしてしまう危険がある。誰も教えてくれなかったのか、こんな、普通に生きていたら当たり前に知っているようなことを。

「君が、その動かなくなってしまった子を丁寧に並べているところを見たよ。亜沙美ちゃんの持っていた本を見て、同じようにすれば、また動いてくれると思ったんだろう?」

「そう。――だけどなんどやっても、だめなの。うごかないの」

 キャリーちゃんの目から、また大きな水の粒がぼたぼたと落ち、土の地面に染みを作っている。

「ひとりで、さみしい」

 見るのが辛い。

 この子はこの暗い森の中でたった一人、あんな悲しい作業を何度繰り返したのだろう。希望を持って体を並べては、動き出さずに絶望し、また同じことを繰り返す。

 死んだ人間が再び動き出すことなど絶対にないのだと、気付かないまま。

「泣かせてすまない。だけど君は、亜沙美ちゃんに謝らないといけないよ。我々と一緒に、この森を出よう」

「いやだ、ここからどこへもいかない」

「なぜだい? このまま一人でここにいたら、近いうちに君も動かなくなってしまうよ」

「おかあさんにいわれたから。もりからでたらだめだって。それに、もりのそとになにがあるのかわからない。こわい。だからいかない!」

 キャリーちゃんはその場にうずくまり、声を上げて泣き始めた。

 「死ぬ」という言葉を使わないのは、綺なりの優しさなのだろうか。

「――わかったよ」

 綺は後ろにいた三分一に何か耳打ちし、三分一は小さく何度か頷いている。

「それじゃあ、我々はもう帰るよ。君がなんと言っても、ピピちゃんは連れて帰らせてもらうからね」

 キャリーちゃんはしゃくり上げるだけで、もう何も返事をしない。

「最後に一つだけ教えておくよ。動かなくなってしまった生き物はね、何をしても、もう二度と元には戻らないんだよ」

 二人とも帰ろうと、綺は小屋に背を向けて歩き出した。

 綺の最後の言葉が、キャリーちゃんに届いているのかはわからなかった。


 山を出るまで、三人はほとんど何も会話をしなかった。正確には、綺と璃央がたった一言ずつ、言葉を発しただけである。

 「これで包んであげるといい」と綺がハンカチを差し出し、璃央は「ありがとうございます」と言ってそれを受け取った。ピピの亡骸を、丁寧にハンカチで包む璃央。服と同じで、この世の終わりのようなセンスのハンカチ。いつもなら璃央を引かせるような凄まじいデザインが、沸々と湧いてくる後味の悪さとやるせなさを覆い隠し、中和してくれているように感じた。

 それからはずっと無言でひたすらに山の出口を目指し、璃央はハンカチに包んだピピを絶対に落とさないようにしようとだけ考えていた。

 丸太でできたたった八段の階段を下りたところで、ようやく綺が口を開いた。

 すでに日が落ち、空には濃紺からオレンジのグラデーションが出来上がっている。

「そういえば三分一くん、話が途中になってしまっていたね。二十年前、この山の中にいたと思われる双子の妹というのは、今どこにいるのかね?」

 ああ、そうでしたそうでしたとお決まりの台詞と共に、お決まりのボストンバッグから書類を一枚取り出す三分一。それは双子の妹の住民票だった。

 記載されている住所と氏名を見て、綺と璃央は驚きを隠せていない。

「三分一さん、これ、間違いないんですか」

 もちろん、そこは信じてくれていいよと三分一は胸を張っている。


 世帯主 省略

 住所 宮幡市平野町片山489番地

 氏名 野中 朝子

 生年月日 平成五年八月二十四日

 性別 女

 住民となった年月日 令和二年四月十五日


 野中朝子。

 特別、珍しい名前というわけでもない。日本全国探して回れば、同姓同名の人物はそれなりに見つかるだろう。

 しかし、住所は間違いなくあの豪邸になっている。野中が住み込みで家政婦をしていると言っていた末永家の住所である。

「この野中って、あの野中さんですよね。朝子さんっていうんですね、知りませんでした」

「いや、読みはおそらく『ともこ』だろう。亜沙美ちゃんは、野中さんのことを『ともちゃん』と呼んでいるからね」

「ああ、朝と書いて『とも』って読みますもんね、源頼朝とか。――まさかあの野中さんが、二十年前に目撃された双子の片割れってことですか?」

「まだ確定したわけではないよ、怪しいというだけさ」

 後で話を聞いてみようと言い、綺は末永家の方向へ体を向ける。

「四十万さん、俺はここで失礼します」

 三分一が、ぴしっと十五度の会釈をした。

「ああ三分一くん、せっかくの休みに呼びつけてすまなかったね。いろいろとありがとう、とても助かったよ。最後に申し訳ないが、先ほど伝えておいたこと、よろしく頼むよ」

「はい、然るべき手段を講じて、すぐにキャリーちゃんを保護させていただきますので、ご安心ください」

 もう一度「失礼します」と言って、三分一は愛車のセダンへと走って行った。

「璃央くん、行くよ」

 綺と璃央は、僅かな街灯もない薄暗い道を歩き出した。


 いつの間にか、あさちゃんが家政婦として働き始めて十年が経とうとしていました。

 もうすっかり仕事も板につき、人当たりもよく真面目で家事も丁寧、特に料理がとてもおいしいと評判のあさちゃんは、紹介所で人気の家政婦になっていました。

 そんなあさちゃんに、ある日「住み込みで働かないか」という話がきます。

 とても大きなおうちに住んでいる人からのお願いで、あさちゃんはすぐにその話を受けました。

 これまでよりもお給料が多くもらえるというのも理由の一つでしたが、そのおうちには小学生の女の子が一人いて、住み込みで働いてくれる家政婦が見つからないとその子が一人ぼっちになってしまうと聞いたからです。

 大きなおうちは女の子のおじいさんが建てたものでした。小さな会社を何十年もかけて大きくし、将来困らないようにと、使い切れないほどたくさんのお金を息子に残しました。

 けれども息子はそれに甘えて働かないようになってしまい、自分の奥さんとも険悪で、娘である女の子にも興味がありませんでした。

 離婚することになったのに、誰も大きなおうちには残らず、女の子の面倒も見ないと言います。

 そんな悲しい話を紹介所の所長さんから聞いたあさちゃんは、女の子を一人ぼっちにしたくなくて、その大きなおうちで働くことにしたのです。

 でもあさちゃんは、大きなおうちの住所を知って少し驚いてしまいました。それは、よるちゃんとお母さんと暮らしていたあの山のすぐ近くだったのです。

 大きなおうちで働き始めると、毎日窓からあの山が見えました。

 あの山を見ていると、そこで暮らしていたときの不便な生活や、毎日つまらない、帰りたいと考えていたことを思い出して嫌な気持ちになりました。

 それと同時に、よるちゃんのことが気になってしまいました。

 やはりもう一度山に行ってみようかと考えたりもしましたが、よるちゃんはもうヤスさんという人と一緒に違う場所で暮らしているはずです。赤ちゃんも無事に産まれて、きっと忙しいけれどとても楽しい毎日を過ごしているはずでした。

 よるちゃんがどこかで幸せに生きていることを信じようと決めたあさちゃんは、もう二度と、あの山には行かないことにしました。

 今のあさちゃんが一番大切に思っているのは、大きなおうちに一人残された女の子なのです。

 私はこの子のために頑張ろう。あさちゃんは、そう思っていたのです。





 昨日と同じ、異様に広い応接間のソファに、同じように並んで座っている綺と璃央。

 一体どうやって掃除をするのか分からない位置にある天窓から、小さく光る星がいくつか見えている。

「お待たせいたしました」

 ガチャリとドアが開き、ティーセットを持った野中と、アンティーク調デザインの鳥籠を抱えた亜沙美が入って来た。亜沙美は綺を見て、少しだけ安心したように顔を緩めた。

「亜沙美ちゃん、さっきは何も言わずに部屋を出てすまなかったね」

「ううん、大丈夫。寝ちゃってたから」

 二人は親しげに会話をしている。

「ねえ、ピピが見つかったって本当?」

 亜沙美は、大きな目をきらりと輝かせた。信じているのだ。いなくなったときのまま、元気なピピが戻ってくると。

 そう思うと、璃央の胸は痛んだ。亜沙美になんと説明すればいいのだろう。

「ああ、本当だよ。ピピは見つかった」

 綺に促され、璃央はずっと大事に抱いていた凄まじい柄のハンカチをテーブルの上に置く。

 それを見た野中は、何かを察したように目を伏せた。

 そのまま璃央がハンカチを開くと、ぴくりとも動かない、目を閉じて静かに眠っているピピの姿が現れる。

 亜沙美は状況が飲み込めていないのか、きょとんとした表情でピピを眺めている。

「ピピ、どうして全然動かないの?」

 亜沙美はピピを抱き上げ、その体の冷たさで、もう生きてはいないと気付いたようだった。

 これ違う、ピピじゃないと、唇を震わせている亜沙美ちゃんの肩を野中が抱く。

「これは間違いなくピピだよ。亜沙美ちゃんがつけてしまった油性ペンの赤い線があるでしょ。違うなんて言ったら、ピピがかわいそうだよ」

 野中は、自分も震える声でそう言った。

 それでも亜沙美は違う違うと繰り返しており、目と鼻の頭は赤くなり始めていた。

「亜沙美ちゃん、我々が見つけたときには、すでにピピは亡くなっていた。本当に申し訳ない」

 綺が深々と頭を下げたので、璃央も「本当にすみません」と言って同じようにした。

 頭を上げてくださいと、野中が二人へ歩み寄る。

「昨日の今日で、お二人はよく探してくださいました。正直、いなくなったピピが見つかっただけでも奇跡だと思っています。それに――」

 ガシャン。

 突然、鳥籠の扉を開ける音が響き、三人は亜沙美のほうに目をやった。

 抱き上げていた動かないピピを鳥籠の中に放り込む亜沙美。その頬には涙が伝っている。

 ガシャン。

 もう一度音がした。亜沙美が乱暴に扉を閉めたのだ。

 野中が何か声をかけようとしたが、その前に亜沙美は鳥籠を抱えて部屋を飛び出してしまった。

 階段を駆け上がる音が聞こえる。

「すみません、お礼も言わず」

 野中が申し訳なさそうに言った。

 部屋を飛び出した亜沙美と、それを謝る野中。そういえば、昨日初めてここへ来たときもそうだったなと、璃央はぼんやりと思い出した。

「いえ、仕方がないですよ。今はそっとしておいてあげたほうがいいでしょう。――ところで野中さん」

「はい。あ、そうですねすみません、少々お待ちいただけますか」

 おそらく綺は二十年前の双子についての話を切り出そうとしたのだろうが、野中は何か勘違いをしたようで、壁際に置かれた背の低いチェストから白い封筒を取り出してきた。

「お待たせしました」

 封筒を渡された綺が、断りを入れて中を確認してみると、そこには小切手が一枚入っていた。

 金額欄には「金壱百万円也」と丁寧に手書きされている。

 もし、元気なピピをここへ連れて帰って来ていたら、とてもいい気分でこれを受け取っていたはずだ。綺と一緒に礼を言い、帰り道ではどちらが換金に行くかで少し揉めたりなんかして。

 けれども現実はそうではなかった。

 確かに野中の依頼通りピピを見つけて来はしたが、自分たちにこれを受け取る権利があるのだろうか。

「野中さん、僕たちはこれを受け取ってもいいんでしょうか」

 璃央くん、突然何を言い出すんだと野次が飛んでくるかと思ったが、綺は何も言わずに野中のほうを見ていた。

「なぜ、そんなことを言うんです? お二人はピピを見つけてくださったのだから、お約束通りに報酬をお支払いするのは当然ですし、ぜひ受け取っていただきたいのですが」

「だって、ピピちゃんは死んでしまっていたんですよ。依頼を完遂したと言えるんでしょうか」

「昨日、私は言ったはずです。『鳥籠にピピを戻してくれたら、報酬として百万円お支払いするつもりです』と。生死については条件をつけていません。そして亜沙美ちゃんの鳥籠に、ピピは戻ってきました。だからお二人には、報酬を受け取る権利があります」

 どうするべきか分からず綺のほうを見ると、綺も璃央を見ていた。

 数秒、無言の状態が続いたあと、「そういうことなら、ありがたく頂戴いたします」と、綺は小切手を封筒へ入れ直した。

 綺は内心、どう思っているのだろう。璃央と同じように複雑な気持ちで百万円という大金を受け取ったのか、それとも予定通りに報酬を手に入れて、心の中では狂喜乱舞しているのか。

 後者だといい。璃央はそう思った。そのほうが綺らしいからだ。どんな状況でも振れず、綺は普段の綺でいてほしかった。いつも通りという、安心感が欲しかった。

「野中さんは、もしかするとピピちゃんがもう生きていないと分かっていたのですか?」

 綺が唐突に訊いた。

「分かっていたからこそ、依頼の仕方をしたのではないですか?」

「――そういうわけではないですけれど、覚悟はしていました」

「覚悟ですか?」

「ええ。セキセイインコって、ストレスで簡単に死んでしまうんですよ。環境の変化がストレスになり、すぐに餌を食べなくなって抵抗力が下がり、感染症にかかってあっという間に死んでしまう。そういうことは珍しくありません。それにピピはもともと飛ぶこともできません。ですから――」

 野中は小さくため息をついた。

「いつも入っている鳥籠からいなくなってしまい、飼い主である亜沙美ちゃんのもとを離れた時点で、もし見つかったとしても生きている可能性は低いと思っていました。それでも亜沙美ちゃんのところへ帰ってきてほしいと思ったので、四十万屋さんにお願いしたんです」

 野中はそこまで言って、窓のほうへ移動した。

 今日は星がよく見えますねと、小さく独り言を呟いている。

「ピピちゃんは、どこにいたと思いますか」

 再び、綺が野中に訊く。

「さあ、見当もつきません。近所は一通り探しましたが、見つからなかったので」

「ピピちゃんは、山にいました。入口に大きな石が二つ置かれている山ですよ。ご存知ですよね?」

「ええ、知っていますよ」

「もし違ったら申し訳ありません。先に謝っておきます。野中さんは、二十年ほど前、あの山の中で生きていたのではないですか? 双子のお姉様と一緒に」

 ずっと窓の外を眺めていた野中が、顔だけこちらに振り向いた。その顔は驚いているようにも見えるし、少し微笑んでいるようにも見えた。

「何を言うんですか。そんなことありませんよ。なぜ、そんなことを訊くんです?」

「二十年前、あの山で双子の幽霊を見たという人がいましてね。璃央くんがどうしても気になると言うので、知人に調べてもらっていたのですよ」

 こうやって、唐突に人の名前を出して都合よく使ってくるのだから油断ができない。

「そうしたら、二人揃って小学校に一日も登校していないという双子が見つかったのですがね、これがその幽霊の正体ではないかと考えているんです。そしてその双子の妹さんのほうが、この末永家に住む野中朝子という人物だったわけです」

 野中が何も答えないので、綺が続けた。

「亜沙美ちゃんは野中さんのことを『ともちゃん』と呼んでいました。この野中朝子というのは、間違いなくあなたのことですよね?」

「――ええ、そうです。野中朝子というのは私です。確かに私は母と、双子の姉である小夜子と三人で、あの山で生活していた時期がありました」

 顔は微笑んでいるが、吐き捨てるように野中は答えた。

「ですが、それが何か?」

「一体どうして学校にも行かず、あのような薄暗い山の奥深くで暮らしていたのか教えていただけませんか」

「なぜそんなことが知りたいんです?」

「璃央くんが、どうしても気になって仕方がないと聞かないのですよ」

 ほら、また人のせいにする。

 しかし、二十年前に目撃された双子についての話を持ってきたのは確かに璃央である。気になって仕方がないというのも嘘ではない。

「そうなんです。僕、気になって仕方がないんです。追加報酬だと思って、教えていただけませんか」

 綺の策略に嵌められたようで癪ではあるが、加担することにした。

 野中は、また小さくため息をついた。

「ある日突然、母は私たちをあの山へ連れて行ったんです。どうしてそんなことをしたのか、母は教えてくれませんでした」

 ですから、と続けた。

「理由については父から聞いた話になりますけど、それでもよければ」

 もちろんですと、二人は同時に返事をした。

 頭の中でこれから話す内容を整理しているかのように少し間を置いて、野中は語り始める。

 双子の小夜子と朝子を産んだあと、母親が酷いノイローゼ症状に苦しんでいたらしいこと。

 精神的に疲弊していた母親は、静かな場所での育児を求めて山小屋へ双子を連れていったこと。

 森の中での質素で粗雑なつまらない生活のこと。

 父親が迎えに来たとき、母親と姉の小夜子は帰るのを嫌がったこと。

 自分だけ帰ってきてからは、周りに追いつくため必死に勉強したこと。

 一気に喋り、「以上です」と締めくくった。

「帰って来てから、お母さんとお姉さんには会われてないんですか?」

 間髪入れずに璃央が訊く。

「ええ、ずっと会っていなかったんですが、実は高校を卒業したあとに一度だけ会いに行ったことがあるんです。人に見られないよう、こっそりと」

「二人とも、まだいらっしゃいました?」

「いえ、母の姿は見当たらず、姉に訊いたら『死んだ』と言っていました。姉は一人でそこにいましたが、お腹が大きくなっていたんです」

「妊娠されていたのですか」

 綺が割り込んできた。野中が頷く。

「今何ヶ月なのと尋ねたのですが、姉はよく分かっていないようでした」

 綺の提言していた、双子が双子を産んだ説が現実味を帯びてきた。そのときお腹にいた子がキャリーちゃんたちだとすると、年齢的にも辻褄が合う。

「野中さんがこの末永家で働こうと思ったのは、やはりお姉様のことが気掛かりだったからですか? 近くに住んで見守っていようと?」

「いいえ、関係ありません。私がここで働くことになったのは本当に偶然です。それに、その頃にはすでに姉は山を離れていたはずですから、私が気にすることもありません」

「山を離れていた?」

「ええ、そのときに姉は言ったんです。もうすぐお腹の子の父親のところへ行って一緒に暮らすから、もう二度とここへは来なくていい、来ないでと。きっと今頃、どこかで家族と幸せに暮らしていると思いますよ」

 野中は知らないのだ。あの山に、今も人が住んでいることを。ましてやそれが、行き別れた双子の姉が産んだ子だとは。

 綺は口元に手を当て、考え事でもしているのか何も喋る様子がないので、璃央が口を開いた。

「野中さん、あの山には今でも人がいます。十歳くらいの女の子です。たぶん、野中さんのお姉さんの子です」

 璃央くん、待ちたまえと綺が止めようとしたが、それを更に野中が制した。

 どういうことですかと、璃央に続きを話せと促している。

「その子もきっと双子なんですが、一人はすでに亡くなっていました。残されたもう一人の子がピピちゃんを盗んだんです。青い鳥を見つけて幸せになりたいって、一人は寂しいって」

 野中は目を丸くしている。

「あのまま一人であんなところにいたら、その子も死んでしまいます。助けてあげなきゃだめです」

「璃央くん、キャリーちゃんの保護についてはすでに三分一くんに頼んである。任せておけば大丈夫さ」

 熱くなる璃央と狼狽する野中の間に、綺が割って入ってきた。

「野中さん、あなたのお姉様はきっと、ずっとあそこにいたのだと思います」

「でも、お腹の子の父親と暮らすって」

「それはきっと、あなたを安心させるための嘘だったのではないでしょうか。このまま森の中で双子を産み育てるなどと言ったらきっと心配させてしまう、優しいあなたを、また山小屋へ通わせてしまうことになるかもしれないと、そう考えてしまったのかもしれません」

「まさか、そんな。――あ、あの、ちょっと待ってください。女の子が一人でいたって、姉は一緒じゃないんですか?」

綺は、首を横に振った。

「見当たりませんでした。少女に訊いても、『わからない』と」

 それを聞いて、野中は顔を窓の外に向けた。

 遠くに小さく、あの山が見える。

「子どもを置いて、姉は一体どこへ行ったんでしょうか。だけど、まだいるんですよね? 姉の子は、まだあそこに」

 そう言い終わらないうちに駆け出し、部屋を出ようとした野中を綺が引き止める。

「野中さん、残っている少女については警察に任せてありますから、すぐに保護されるはずです。今からあの山へ入るのは危険ですよ」

「でも」

 野中の頬がみるみる紅潮してくる。

「可哀想じゃないですか! そんな危険なところに、あんな暗いところに一人でいるなんて、ずっといるなんて――」

 涙の滴が、ぽとりと垂れた。

「可哀想です」

 綺がハンカチを取り出そうとして、手を止めた。綺のハンカチはピピを包むために使っていたことに気が付いたのだろう。

 視線だけで、璃央に「君のハンカチを貸したまえ」と指示してくる。

 上着のポケットに手を入れてみたが、いつかどこかで無理矢理に渡された、怪しげな広告付きのポケットティッシュしか入っていない。せめてタオルハンカチの一枚でもあれば、格好もついただろうに。

 仕方がないので広告の面を裏にして、よれたポケットティッシュを差し出した。

 野中はすみませんと言ってティッシュを一枚取り出し、涙を拭いてついでに鼻もかんだ。

 綺は「ハンカチも持ち歩いていないのかね君は」と、少し呆れた様子で璃央を見ている。

 そんな三人を、少し開いたドアの隙間から、亜沙美の大きな目がじっと見つめていた。


「さっき、すみませんでした」

 運転席でシートベルトを引っ張りながら璃央が言う。

「突然何の謝罪かな? ああ、ティッシュのことか。ハンカチくらいは持ち歩いたほうがいいと思うね」

「じゃなくて、野中さんのお姉さんの子が、まだ山にいるって言ってしまったことです。綺さんが言わないなら僕が、と思ったんですけど、もしかして余計なことをしてしまったかなと」

「別に余計なことではないだろうさ。まあ、切り出し方はもう少しやりようがあったとは思うがね。私もどう説明しようか迷っていたんだが、結局野中さんを動揺させてしまった」

「すみません」

「謝るほどのことでもないさ。もし次に同じような機会があれば、少し気にしてみればいいだけのことだからね」

「善処します。ーー綺さん、そろそろ車出すので、シートベルトしてください」

 璃央くんは切り替えが早いねと、褒めているのかボヤいているのかわからない呟きと同時に、カチッとバックルのはまる気持ちのいい音が響く。

「もう帰ってしまっていいのかい? やり残したことはないか、よく考えてみたまえよ」

 やり残したこと、思い残すことが二つある。

「結局僕は、亜沙美ちゃんと一言も喋ってません」

 ああ、と綺が笑う。

「そういえばそうだね。まあ、璃央くんはほとんど山に行っていたのだから仕方がないよ」

「そうですけど、綺さんとは打ち解けてる感じだったし、なんか悔しいです」

 羨ましいだろうとふんぞり返る綺に、最後に行きたいところがあると伝える。

「私も同行したほうがいいのかな?」

「どっちでもいいですけど、いてくれると安心します」

「そうかい? では、いるだけいるとしよう」

 璃央は道なりに少し車を走らせ、えんじ色の屋根の平屋へ向かう。

 田口のものと思われるピンク色の軽自動車の隣に駐車させてもらい、玄関の引き戸をノックした。

 綺は璃央の後ろを黙って歩いている。まるで初めてのおつかいに行く我が子を見守る保護者のように。

 数秒待って、引き戸が開く。

「あら璃央くん。と、四十万さん、だったかしら。どうしたの?」

 昼間と同じ割烹着を着た田口がひょこっと姿を見せる。

 夕食の準備をしていたのだろうか、懐かしさのある煮物の匂いが鼻腔をくすぐる。

「こんばんは、忙しい時間にすみません。実は、探してたインコが見つかったのでご挨拶に。僕たちもう帰るので」

「あらそうなの、よかったじゃない!」

「はい。それであの、田口さんに少しお話があるんですけど、いいですか?」

 眉を八の字にしてしまうかと思ったが、そうはならなかった。田口はニッコリと微笑んで、「もちろんよ。立ち話もなんだから、どうぞ上がって」と二人を中に招いた。


 双子の女の子を産んだよるちゃんは、あの山に戻ってきていました。もちろん、赤ちゃんたちも一緒です。

 ヤスさんは何度もよるちゃんにお願いしました。もう山には戻らないでほしい、赤ちゃんは、もっといい環境で育ててあげたほうがいいと、何度も。

 けれどもいつも通り、よるちゃんは「うん」とは言いませんでした。

 そしてその度に、ヤスさんは「どうして?」と訊きましたが、よるちゃんは自分がどうして山に戻りたいのか、どうして山から下りたくないのか上手に説明できませんでした。

 あさちゃんと違ってよるちゃんは、小さなおうちに家族四人で暮らしていたときのことをよく覚えていませんでした。だからよるちゃんの世界は、この小さな狩猟小屋だけなのです。

 ずっと長い間ここでお母さんと一緒に過ごしてごはんを食べ、木々の騒めきと鳥たちの鳴き声を子守歌に藁のベッドで眠り、わずかに差し込む朝日で目を覚ます。それ以外の世界を知りません。ほかの世界で生きていける自信がありませでした。

 それによるちゃんは、お母さんの近くにいたかったのです。土の下で眠るお母さんが、寂しい思いをしないように。

 絶対に「うん」と言わないよるちゃんを説得することを、ヤスさんはついに諦めました。

「それなら、僕がここに通うから」

 ヤスさんはこれまでと変わらず、毎日のようによるちゃんのところへ行きました。

 赤ちゃんのミルクや新品の紙おむつを抱えて山へ行き、帰りは使用済みのおむつを持って山を下りました。

 よるちゃんはヤスさんがいない間も、ずっと双子に愛を注ぎ続けました。夜通し泣き続ける双子の赤ちゃんを交互に抱いてあやし、一晩中起きていることが何日も続いたりしました。寝不足でふらふらで、自分のごはんも食べられない毎日でしたが、それでもよるちゃんは幸せで幸せで仕方がありませんでした。

 そうして忙しくも幸せな日々を過ごしていると、赤ちゃんだった双子もいつの間にか元気に歩き回るようになり、いつの間にか楽しそうにお喋りをするようになりました。

 言葉がわかるようになった双子に、危ないから森から出たらだめよと言い聞かせます。

 よるちゃんは双子と一緒に野菜を育て、寒くなるとお母さんがしてくれていたように、服に鳥の羽を縫い付けてあげました。

 そして毎晩、眠る前によるちゃんは双子においしい焼き鳥のことや、お母さんから聞いた幸せの青い鳥の話をしました。双子は丸い目をキラキラさせて、その話を聴いていました。

 双子の成長を見るのが、よるちゃんの何よりの楽しみでした。

 しかし双子が産まれてから六回目の春がやってくるころ、よるちゃんはお母さんと同じように咳をするようになりました。

 ああ、もしかしたら私も、お母さんみたいに死んでしまうのかもしれないと予感があったよるちゃんは、ヤスさんに最後のお願いをします。

「もしもわたしがしんじゃったら、おかあさんのとなりにねむらせてね」

 そんな悲しいことを言わないでくれと、ヤスさんは辛そうな顔をしました。

 よるちゃんはいたずらっぽく笑い、お母さんが眠っている場所をヤスさんに教えてあげました。

 そして夏を知らせるホトトギスが鳴き始めたころ、よく晴れた気持ちのいい朝に、よるちゃんは死んでしまいました。

 動かなくなってしまったよるちゃんを、ヤスさんは約束通りお母さんの隣に眠らせてあげることにします。

「おやすみ、ありがとう」と言って土の布団をかけてあげるのを、双子が泣きながら見ていました。

 よるちゃんがいなくなったあとも、双子は小屋に住み続けました。

「おかあさんとはなれたくない」

 双子はいつもそう言っていました。

 ヤスさんは相変わらず毎日のように山に通い続けて双子の世話をしていましたが、よるちゃんが死んでしまってからだんだんと元気がなくなっていきました。

 歩くのにもしんどさを感じて、小屋に到着するまでにかかる時間がそれまでの倍になり、ふっと目の前が白くなって倒れてしまいそうになることもありました。

 それでも双子のためにと無理をしていたら、ある日、本当に倒れてしまいました。

 病院に運ばれて検査をしたら、病気が見つかりそのまま入院することになってしまいます。

 双子のことが心配で心配でたまらなかったヤスさんは、とても信頼している人に双子の世話をお願いすることにしました。

 自分の子であるということは伝えず、山にいる双子を頼む、どうか面倒を見てやってくれと、病室の床に座り込んで両手をつき、土下座のような体制で懇願しました。

「ジュンちゃん、頼むよ」

 何度も何度も必死に頭を下げるヤスさんを、ジュンちゃんと呼ばれたその人は訝しむような顔で見ていましたが、最後には「わかった」と言ってくれました。

 それを聞いて安心したヤスさんは治療に専念しましたが、残念ながらそのときがやってきてしまいます。

 意識が遠のいて目を閉じたとき、訊かれました。

「双子の母親はどんな人だったの?」

 よるちゃんは、どんな人だっただろう。ヤスさんは、もう思い出になってしまったよるちゃんのことを考えます。

 母を愛し、我が子を愛し、焼き鳥が好きで、不便な生活に不満を言わず、何もない自然の中での生活を楽しんでいたよるちゃん。同世代の子たちが当たり前に知っていることを何も知らない、真っ白な心を持ったよるちゃん。結局最後まで山を離れられなかったよるちゃん。

「とても、綺麗な人だったよ」

 もちろん、見た目のことではありません。

 それだけ言ってふっと小さく息を吐き、ヤスさんは永い眠りにつきました。

「おやすみなさい」

 遠くで懐かしいよるちゃんの声が聞こえたような気がしましたが、それはきっと、気のせいです。




 居間に置かれたふかふかの座布団に座り、綺は感動していた。

 これと同じものを事務所にも買おうじゃないか、いや高いかと、璃央の後ろでぶつぶつと独り言を言っている。

「璃央くん、話って何かしら?」

 テーブルにウグイス柄の湯のみと急須を置き、田口が訊いた。

 何から話せばいいのだろう。

 数十分前、野中の前では話の切り出し方を間違えたと思う。善処するとは言ったが、どうするのが正解なのか分からない。単刀直入にずばりではなく、順を追って話せばいいだろうか。

 綺にもっと助言を貰っておけばよかったと悔いた璃央の掌は、緊張で汗が滲んでいる。

「僕たちが探してたインコ、ピピちゃんっていうんですけど。ピピちゃんは山にいたんです。田口さんが青い鳥を見たと教えてくれた、あの山です」

 それを聞いた田口はあら、と嬉しそうに顔を緩めた。

「そうだったのね。じゃあ私が見たのはやっぱりピピちゃんだったのかしら。お役に立ててよかったわ」

「あの、田口さんはもしかして――」

「なあに?」

「もしかして、ピピちゃんがどこにいるのか初めから知ってたんじゃないですか?」

 何を言うの、そんなわけないじゃないと驚く田口。

「昼に僕と三分一さんが来たとき、田口さんは『インコ早く見つかるといいわね。飛べないなら近くにいそうなもんなのに』って言ったんです。覚えてませんか?」

「さあ、言ったかもしれないけど、それが?」

「ピピが飛べないことを、僕は田口さんに言っていません。なのにどうしてそれを知ってたんですか」

 田口は眉を八の字にしている。

「そうだったかしら。じゃあきっと、あのよく喋るおばさんたちに聞いたのね」

「あの人たちにも言っていません」

「じゃあ、写真を見てそう思ったんだわ。インコの写真、見せてくれたでしょう?」

「見た目ではわかりません」

 田口は璃央から視線を逸らし、じゃあ、と次の言葉を考えている。

 単刀直入にずばりが、やはり正解なのかもしれない。

「田口さん、もし違ったらすみません。先に謝っておきます」

 田口の視線が、璃央に戻ってきた。

「あなたは、僕のことを――僕たちのことを利用しましたよね。あの山に住む双子を見つけさせるために」

 柔らかい物言いで否定されるかと身構えていたのに、田口はあら、とまた嬉しそうに笑ってみせた。

「なんだ、もう見つけてくれてたのね。ねえ、あの子どうなるの?」

 嬉しそうではあるが、楽しそうではない。

 そして「あの子」と言った。「あの子たち」ではなく。

「警察に頼んであります。すぐに保護されると思います」

「あらそう、じゃあもういいわ、全部おしまい」

 田口はぬるくなったお茶を一気飲みし、空いた湯のみにまたお茶を注いでいる。

「璃央くんの言った通り、あなたたちを利用させてもらったわ。あの子を見つけてもらって、保護でもなんでもしてくれればそれでよかったの。インコのことも知ってたわ。写真に写ってたのとそっくりな飛べない青い鳥が、小屋にいたのよ。――ねえ璃央くん、どうして利用されたって分かったの?」

 綺は何も言わず、ふかふかの座布団に座ったまま田口と璃央のやりとりを眺めている。割って入ってくる様子もない。

「僕たちがピピを探しに山へ行ったのは、田口さんがそこでピピを見たかもしれないと言ったからです。その目撃情報がなければ、僕たちはたぶん、山へ行くことはなかったです」

 うんうん、確かにそうだと綺が頷いている。

「それに、昼間ここへお邪魔したとき、田口さんはアルバムを見せてくれましたよね。それは、あの山に小屋があるということを印象付けるためだったんじゃないかと思ったんです。山へ入って、そこで見覚えのある小屋を見つけたら、あれ、ちょっと中を見てみようってなりますから。あなたはピピを見たと言って僕たちを山へ向かわせ、そこで双子のいるあの小屋を見つけさせるつもりだったんじゃないかと思ったんです」

「あら、なんだバレバレだったのね」

「どうしてこんな回りくどいことをしたんですか? 双子を助けたいなら、自分で通報するなりすればいいじゃないですか」

 それを聞いた田口は、あははと、初めて声を出して笑った。

「助けたい? 冗談じゃないわよ、どうして私がそんなことしてやらなきゃならないの?」

 田口は昼間見せてきたアルバムを引っ張り出し、乱暴にテーブルの上に放り投げた。衝撃でアルバムの裏表紙が開き、赤ん坊の足を写した写真が現れる。

「あの双子はね、私の主人の子なのよ。あの汚い山小屋で暮らしてた訳の分からない女に産ませた子なの。主人がはっきりそう言ったわけじゃないけどね、それくらい分かるわよ。つまり愛人の子なの。どうして愛人の子を私が助けなきゃいけないのよ!」

 叫んで、写真を掌で叩きつけた。

「でも、田口さんはあの双子のお世話をしてたんじゃないですか? あの小屋で、こんなものを見つけました」

 璃央はスマホを取り出して写真を見せた。

 かまどに置かれていたライター。小さなウグイスのシールが貼られている。

「これは田口さんのものですよね。あなたは定期的にあの小屋へ行って、双子の面倒をみてたんじゃないですか? お米や野菜なんかを届けたり、調理器具を運んだりとかもしてましたよね」

「そうよ、してたわ。なぜかって、主人に頼まれたからよ。山にいる双子を頼む、どうか面倒を見てやってくれって、あの人が入院したその日に懇願されたわ。どうしてそんな頼みを聞いてやったのかって思うでしょう? 仕方ないのよ、愛してたんだから。死にゆくあの人の頼みを断るなんてできなかった。だから毎日山へ行って、とにかくあの子たちを死なせないように必死だった。あの子たち元気だったわよなんて言うとね、病床の主人はそれはそれは嬉しそうにしたのよ。それで病気が少しでも良くなるならと思ってた。だけど私は辛かったわ。だって私は愛する主人の子どもが欲しくて、不妊治療に何百万も使って、それでもできなくて泣いて諦めたのに。自分の子も抱けなかった私が、せっせと愛人の子の世話をしてるのよ、変でしょう? なによこれ。辛くてしんどくてもうやめようと思ったのに、やめられなかった。あの子たちは確かに愛人の子だけど、主人の子でもあるから。私がどんなに望んでも授からなかった、愛する主人の子だと思うと、少しだけ愛しく感じてしまうことがあったの。それがまた辛かった。だけどね、なんで私がこんなことをしなきゃならないのって憤りはずっと消えなかったわ。そのうち主人が死んで、あの子たちも成長していろんなことが自分たちの力でできるようになってくると、私も自然と山から足が遠のいた。最近ではもう、何日かに一度しかあそこには行ってないわ」

 やはり、田口もよく喋るおばさまであった。

 ほとんど息をつかず一気に喋り、さすがに口が乾いたのだろう。すっかり冷めてしまった湯のみのお茶を、再び勢いよく飲み干した。

 ゴクゴクと喉の鳴る音が聞こえる。

「最後に、あの子たちのところへ行ったのはいつですか?」

 飲み終わるのを待ち、璃央が訊いた。

「月曜日よ」

 月曜日。田口が山でピピを見たと言っていた日だ。だとしたらピピは、月曜の時点ではまだ生きていたということになる。

 もう少し早くここへ来ていたら、もう少し早く探し出していたら、ピピは助かったのだろうか。

 そしてピピだけではない、双子の片割れ、バラバラちゃんのことも。

「なら田口さんは、双子のうちの一人が死んでしまっていることを知ってますよね?」

「知ってるわ、なぜかバラバラになってしまっていることも。だからもう嫌になったのよ、全部終わらせたくなっちゃったの。何よバラバラ死体って。もう充分でしょう? 自分で言うのもあれだけど、私はこの数年間よくやったと思うわよ」

「それで、僕たちに双子を見つけさせようとしたんですね」

「そういうこと。だって私が通報したら絶対訊かれるでしょう? こんな山奥まで何をしに来たんですか、一体どういうご関係ですかって。バラバラ死体のこともあるし、私が疑われるかもしれないじゃない。もうこれ以上、面倒事に巻き込まれたくなかったのよ。第三者が偶然見つけてくれたらそれで終わりだもの。あの子は私の名前も住んでる場所も知らないから、誰かに私のことを話したりもできないだろうし」

「どうして僕たちだったんですか。見つけてくれれば誰でもよかったなら、何も知らないご近所さんでもよかったじゃないですか。僕たちが、余所者だからですか?」

「それもあるけど、ちょっと違うわ。私ね、嫌いなのよ。あなたたちみたいにお顔が綺麗な人、嫌いなの。どうしてだと思う?」

 綺は自分の顔をぺたぺたと触っている。確かに璃央くんの顔面は綺麗だが、別に私は違うだろうと怪訝そうな表情で。

 分かりませんと答える前に、また田口が喋り出す。

「主人が息を引き取る直前にね、私訊いたのよ。『あの双子の母親はどんな人だったの』って。私は見たことがなかったから。『とても綺麗な人だった』って言われたわ。それが最期の言葉になった。笑っちゃうわよね、愛する主人の口から聞いた最期の言葉が、長年連れ添った妻である私へのものじゃなくて、愛人を褒める言葉だなんて」

 ひと呼吸おいて、だから、と繋いだ。

「嫌いなの、綺麗な人が」

 何も言えずにいると、田口が晴れやかな表情で徐ろに立ち上がった。

「さあ、お話は終わりよ。あなたたちも、そろそろ帰らないと真っ暗になっちゃうわ。明かりのない山道は危険よ」

 ではそろそろおいとましようと、綺はあっさりと立ち上がり、ふかふかの座布団を名残惜しそうに見つめている。

 慌てて璃央も腰を上げるが、最後に一つ、訊きたいことがあった。

「田口さんは、ウグイスが好きなんですか?」

 田口はニッコリと微笑んだ。

「いいえ。好きじゃないわよ、こんな鳥」

 笑顔のまま吐き捨てるようにそう言って、箪笥の上に飾られているウグイスの可愛らしい置物を、指でピンと弾いてみせた。

「ウグイスだらけなのは、忘れないためよ。――さあ、二人とも気を付けて帰ってね」

 話は終わった、もう帰れと、そう言われているような語気の強さだった。

「田口さん、ありがとうございました」

「こちらこそ。じゃあね、イケメンさん」

 綺と璃央が玄関を出るとすぐ、後ろで引き戸がぴしゃりと閉まった。

 しばらくして、また煮物のいい匂いが漂ってきた。


 田口が言った通り、帰りの道は真っ暗であった。

 対向車もほとんど見かけず、璃央の運転する車のヘッドライトが照らす先の、数メートル程しか視認することができない。

 代わり映えのしない景色、暗い車内、疲れもあって、璃央は睡魔に襲われそうになっていた。

「綺さん、寝てしまいそうなので話しかけていいですか」

「君に寝られてしまっては私が困るからね。どんどん喋ってくれて構わないよ」

「最後に田口さんが言ったの、どういう意味でしょうか」

「最後? イケメンさんてやつかい?」

「じゃなくて、ウグイスは忘れないため、ってやつです。しばらく考えてみたんですけど、全くわかりません」

「ああ、そっちのことか。璃央くんは、托卵という行為を知っているかな?」

 突然何を言われたのかと思ったが、托卵というのはあれだろうか。動物が自分の産んだ卵と産まれてきた子の世話を、他の個体に託すこと。

「知ってると思います。カッコウがやるやつですよね」

「そうだね、托卵する鳥といえばカッコウが有名だが、実はホトトギスも托卵をするのだよ。そしてホトトギスが卵を託すのは、ほとんどの場合がウグイスなのさ」

 田口の家に無数に存在していたウグイスという鳥は、ホトトギスに卵を預けられ、産まれた雛鳥の世話をさせられる存在ということか。

 そう考えると、あの言葉の意味も分かる気がした。

「自分はあの双子の親ではない、あれはあくまでも夫と愛人の子だって忘れないため、ですか? それとも、愛する夫が自分にした仕打ちを忘れないため?」

 さあどうだろうねと、綺は笑った。

「一体どういう意味で言ったのか、本当のところは誰にもわからないさ。それにしても、なかなかによく喋るご婦人だったね。よほどストレスが溜まっていたらしい」

「そりゃそうでしょう。愛人の子を何年も世話してたんですから」

「それは確かにその通りだね。ところで璃央くん、約束の昇給の件だが、時給をいくら上げようか迷っているのだよ」

 忘れかけていた時給アップの話を、綺のほうから持ち出してきたことに驚いた。

 いや、なんなら本当に時給を上げてくれるのか疑ってすらいた。何かと理由をつけて約束を反故にするつもりではないかと思っていたから意外だったし、そんなふうに思っていたことを少し申し訳なく感じてしまった。

 璃央が忘れていたならいたで、「君は何も言わなかったじゃないか」などと、きっと悪びれもせずに言ってくる。四十万綺というのはそういう人間であったはずなのに、何か気持ちの変化でもあったのだろうか。

 やはり、この人のことは未だによくわからない。

 五か八かで迷っていると綺は言う。

「五十円か八十円ですか? だったらもちろん八十円上げてほしいです」

「いや、桁が違うよ」

「え、五百円か八百円ですか? だったらもちろん八百円上げてほしいです!」

「何を言ってるんだ君は。五か八と言っただろう、五円上げるか八円上げるかで迷っているのだよ」

「……まじで言ってるんですか」

「当たり前だろう。何かおかしいことがあるかい?」

 四十万綺は、やはり四十万綺だった。たった数十秒前、綺に対して疑って申し訳ないと思った自分が恥ずかしい。

「せめて百円、いや五十円でもいいです。さすがに昇給が一円単位は泣きそうです。僕、今回は結構頑張ったと思うんですけど」

「綺麗な顔に似合わずなかなか強欲な子だね。報酬の小切手を見て『これを受け取ってもいいんでしょうか』などと言った人間と同一人物とは思えないよ」

「強欲って――綺さんにだけは言われたくないんですけど」

 綺は何か言い返してこようとしたが、タイミングがいいのか悪いのか、その瞬間に着信を知らせるバイブレーションの低い音が響いた。

 璃央のスマホではない。

 綺さん鳴ってますよと、電話に出るよう促す。仕方なさそうにスマホを取り出し、綺は応答ボタンを押した。

 電話の相手は、どうやら三分一のようだ。

「――なんだって!」

 怒鳴り声に近いような大声に驚き、璃央は思わず急ブレーキをかけてしまった。

 キーッと嫌なスキール音が響く。後続車がいたら間違いなく衝突していただろう。

「ちょっと綺さん、なんですか急に!」

「璃央くん、急いで戻るぞ」

「え、どうしてです?」

「あの山小屋が燃えているそうだ」

 道路の幅を目一杯に使ってその場でUターンをし、アクセルを思い切り踏み込んだ。


 山の入口付近に、パトカーと消防車が一台ずつ停まっている。山のほうに視線を移すと、一部から黒い煙が立ち上っているのがはっきりと見えた。

 パトカーから制服姿の三分一が降りてきて、二人の元へ駆け寄って来る。

「三分一くん、一体どういうことだ」

「それが、キャリーちゃんを保護するために応援を呼んで小屋へ向かったときにはもう火がついていて――消火しようにも消防車が入れないんです」

「キャリーちゃんはまだ小屋にいるんですか?」

 璃央が問うと、三分一は首を横に振った。

「わからないんだ。一応大声で呼びかけてみたけど反応はなかった。中に飛び込もうとしたけど、一緒に来た先輩に止められたよ」

 悔しそうに下唇を噛んでいる。

 ふと、四十万屋さん四十万屋さんと呼ぶ声が聞こえた気がして周囲を見回すと、末永家へ続く道から野中がこちらへ向かって走ってくるのが見えた。

「お二人とも、まだいらっしゃったんですね」

 野中の息は上がっており、額にはうっすら汗が光っている。ひどく焦っているようだ。

「野中さん、どうしたんですか」

「亜沙美ちゃんが、見当たらないんです」

「亜沙美ちゃんが?」

「はい、ずっと部屋にいると思っていたんですけど、夕食に呼んでも返事がなくて、いつまで経っても降りて来ないので部屋を開けたらからっぽで。家の中にも外にも、どこにもいないんです」

 それを聞いた綺は、長いスカートの裾を捲り上げて山の中へと走って行った。突発的に、璃央もそれに続いた。

 後ろから、だめだ危ないよと引き止める三分一の声が聞こえる。あとで謝らなくてはいけない。

 星の光も月の光も遮られた真っ暗な森の中を、慎重に、けれどもできるだけ急いで歩く二人。

 璃央がスマホのライトで、進む先を照らしている。

 だんだんと煙の臭いが強くなってきた。

「危険! この先立ち入るな!」の看板を超えてさらに歩き続け、ようやく小屋の近くへ到着した。煙と熱風がすごい。咄嗟に、腕で口と鼻を覆った。

 数時間前、ここでひっそりと静かに佇んでいただけの小さな小屋が、今はオレンジ色の炎に包まれて黒い煙を吐き出していた。

 パキパキと、木が弾けるような音が頻繁に聞こえてくる。

 綺は少し離れた場所で、おい、どこにいるんだいとか、いるなら何か言いたまえとか、威圧的な声掛けをしながらうろうろしている。キャリーちゃんを探しているのだろうか。

 燃え盛る炎のほうへ向き直ると、小屋の向こうに人の影が見えた気がした。まさかと思いながら、煙と炎を遠回りに避けて裏手へ回ると、亜沙美がいた。

 人形のような生気のない表情で、炎上する小屋をじっと見つめている。

 左手でいつものように鳥籠を抱えているが、空ではない。中にはピピの亡骸が横たわっている。そして右手では、ウグイスのシールが貼られたライターを握りしめていた。

「亜沙美ちゃん」

「…………」

 声をかけてみたが、返事がない。綺の言っていた、トリガーとやらを引いていないからだろう。

 璃央の声に気付いた綺が、いつの間にか隣に来ていた。そしてその後ろには、二人のあとを追いかけてきた野中と、騒ぎを聞きつけた田口の姿があった。

 少なからず母親と姉との思い出がある場所、かつて自分が暮らしていた小屋が燃えて消えていくのを、野中はどんな気持ちで見ているのだろう。

 田口は呆然と立ち尽くしており、後悔とも呵責とも思える言葉を呟いている。そんなつもりじゃなかったのに、こんなことを望んでいたんじゃないの、私のせいなの、私が悪かったの、どうして、どうして――。

「亜沙美ちゃん」

「あ、お姉さん。どうしたの? もう帰っちゃったのかと思った」

 綺が話しかけると、今度はちゃんと返事がきた。

「亜沙美ちゃんが、火をつけたのかい?」

「そうだよ」

「どうしてそんなことを」

「だって、おかしいんだもん」

 そう言って、亜沙美は突然ケタケタと笑い始めた。と思った瞬間、抱えていた鳥籠を地面に思いっきり投げつけた。

 ガシャンと大きな音がして、ピピの亡骸が籠の外に放り出される。

「だっておかしいもん! なんでこの子ばっかり可哀想って言われるの! 私は? 私は可哀想じゃないの?」

 燃える小屋を指差す亜沙美。

「お母さんもお父さんもいなくなってピピも死んじゃって、ピピはこの子のせいで死んだのに! なのにこの子ばっかり可哀想可哀想可哀想って! なんで? お母さん帰ってこないじゃん! ピピのこと、ずっと大事にしてたのに帰ってこなかった!」

 亜沙美は泣いていた。

「私のことも助けてよ! 可哀想って言ってよ!」

 亜沙美の目から零れた涙が、横たわるピピの羽にぶつかって地面に落ちる。

 何粒も、何粒も。

 野中が駆け寄り、抱きしめようと伸ばした腕は、亜沙美に振り払われてしまった。

「ともちゃん、私よりこの子のほうが大事でしょ」

「違う、どうしてそんなことを言うの」

「だって、この子を助けるためにともちゃんは走って行こうとしたでしょ。お姉さんたちに止められたけど」

「会ったこともない姪っ子より、亜沙美ちゃんのほうがずっと大切よ。そうじゃなければ、こんなところまで追いかけない」

 ごめんねと言って、もう一度亜沙美に手を伸ばす。今度はきつく抱きしめた。

「綺さん」

「なんだい璃央くん」

「時給の件、やっぱり八円でいいですよ。――それで充分です」

「いや、桁が違うよ。八十円上げよう」

 巻き上がる黒煙と炎が広がる暗い森の中、亜沙美の泣き声だけがはっきりと響いていた。


 大きな木々に太陽の光が遮られている薄暗い森の中を、一人のお姫様が歩いています。

 生きていくための場所を探してもう何日も歩き続けているので、足は傷だらけで血が滲んでいるし、疲れで頭も体もふらふらです。着ている服にも肌にも、すすのような曇った汚れがたくさん付いています。

 ――ほらごらん、あんなところを女の子が歩いているよ

 木の上で見ていたメジロが言いました。

 ――迷子じゃあないの? 汚い格好ねえ。あれは何を引きずっているのかしら

 隣にはヒバリがとまっています。

 ――知らないのかい? あれはキャリーバッグというんだよ。荷物を入れて運ぶためのものさ

 ――へえ、あなたは物知りなのね

 キャリーバッグを引いて歩くお姫様は、光が差し込む明るい場所に出ました。少し休もうと、水辺に腰を下ろします。

 そこで、足元に転がる小さな玉ねぎを見つけました。

 どうしてこんなところに玉ねぎがあるのかと不思議に思いましたが、とてもお腹が空いていたお姫様は、その玉ねぎを丸ごと口に入れてしまいます。

 それを見ていたヒバリは、大きな声で鳴きました。

 ――ちょっと、それは水仙の球根よ! 毒があるのよ、食べてはいけないの!

 ヒバリの鳴き声に驚いたお姫様は一瞬だけ顔を空へ向けてあたりを見回しましたが、またすぐに下を向いてしまいます。

 そして口の中に入れたものを、もぐもぐと噛み始めてしまいました。

 ――ああ、なんてことなのかしら!

 ――もう見ちゃいられないよ

 ヒバリとメジロは呆れた様子でとまっていた木から飛び去って行きました。

 口の中のものをゴクリと飲み込んだお姫様は、立ち上がってキャリーバッグを開けました。

 中にはお姫様と同じ顔をした別のお姫様が入っていますが、体がバラバラにちぎれてしまっています。

 お姫様はバラバラの体を一つずつ取り出して、シロツメクサやカラスノエンドウが茂る地面に並べ始めました。

 人の形に成るように丁寧に並べ終えると、そこにはお姫様と全く同じ見た目をしたもう一人のお姫様が姿を現します。

 地面に現れたお姫様の隣に、同じように仰向けで寝転がったお姫様。体のちぎれたお姫様の手をそっと握ってみます。

 それはとても冷たくて、なんだか色も変わってしまっていて、小さな虫が無数にうごめいていました。

 少し気分が悪くなってきたお姫様は、そのまま眠ることにしました。起きたらまた、生きていくための場所を探して歩かなくてはいけません。

 けれども、お姫様が目を覚ますことは二度とありませんでした。

 お母さんとも離れ離れになり、一緒に産まれてきた自分の半身も失ってしまった可哀想なお姫様。

 鳥たちがさえずる森の中で誰にも知られずひっそりと、一人ぼっちで死んでゆきました。


おしまい

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半身の鳥たち ユウヤミ @yumaxxx

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