第30話 ジローの夢と消えた後に残ったもの

 意識は再び霧散し、別の形に作り替えられる。


 暗い森に膝をついている。光源は細い三日月だけで、それが青白い影を頼りなく作っていた。膝の下には赤黒い水が溜まっている。水はまだ溢れ続けていて、ジワジワと足首に向かって広がっている。


 視線を上げると、腹部を血に染めた女が一人、横たわっていた。彼女は全裸で、その身体を隠すように豊かな緑色の髪が纏わり付いている。


 赤黒い水分の源は、その腹部だった。


 内側から破裂するようにそこは割れていた。


 どこかとても狭苦しいところに押し込められていた記憶がある。余りにも狭苦しく、このままでは死んでしまうともがいたら、一気に広いところに出た。身体にへばり付いていた膜のようなものから這いずりだし、空気を求める内に大きな声を上げた。


 突然、耳をつんざくような咆吼が聞こえた。その声は森の木々を揺らし、大地を揺らし、身体を振動させる。揺れていないのは、中空に漂う三日月だけだ。


『お前が殺した!!』


 咆吼の意味が頭に響く。その意味が飲み込めず、ただ赤く染まる女の腹を見つめる。


『お前が殺したのだ!!』


 咆吼が、森を揺らし続ける。大きな黒い影が月の光を遮る。漆黒の毛並みを持った狼が見下ろしている。その目は三日月の光によって白銀の光をたたえている。


 口が大きく開き、鋭い牙がむき出しになった。唾液が幾筋も線を引き、赤い舌が蠢く。自分はこの口にすっぽり呑み込まれ、噛み砕かれるのだと悟る。


 とても大切なものを殺した。

 だからこれは、当然の報いだ。


 張り裂けそうな悲しみが溺れそうな程胸に込み上げてくる。身を捧げるように、赤い舌に身体を向ける。


 だが次の瞬間、身体は何かとてつもなく大きな力によって強く上空に引き上げられた。強くまばゆい光が、自分の身体を包んでいく。


『お前に使命を与える』


 白い光に、そのような意志が波紋のように広がっていく。


『欠けたものを補うように』


 身体が白い光に溶けていく。生まれ変わるのだと、頭のどこかで理解した。


 次の瞬間、目の前にあんぐりと口を開けてこちらを凝視している少年がいた。髪はとても美しい緑色で、こちらを見つめる瞳は赤い。


 って、俺じゃん。俺って、人から見るとこんな間抜け面!?


 この人の欠けたものを補い、共に生きる。ジローの意識が急激に満たされていくのを、客観的に眺める。それはとても深い愛情だった。


 こんなに深い愛情を向けてくれてたんだな。嬉しいけれど、くすぐったい。


 ジローと出会ってから過ごした時間が、めまぐるしい速度で駆け巡る。ジローの視線は常に俺に向けられていて、心は常に俺を想っていた。深い、とても深い親愛の念を抱いて。


 もっと心を通わせたいと、ジローは願う。

 言葉を話せるようになりたいと、切実に願う。


 この人の名は、「タイラー」。「タ」「イ」「ラー」。声は思うような音にならない。すやすやと眠る彼の横で、何度も何度も発声練習を繰り返す。


 そして、何とかそれらしい音を発する事が出来た時、彼はとても嬉しそうな顔をしてくれた。


 ああ、そうだよ。俺はめっちゃくちゃ、嬉しかったんだ。あの時。


 意識が急激に覚醒へ向かう。果実の皮がむけるように、意識がジローのものと自分のものに分離していくのが分かった。次の瞬間には、瞼を開けていた。


 薄闇がそこにあり、見えるのは石を組んだ天井だ。後悔が、どっと押し寄せてきた。俺は、ジローに酷い態度を取った。あれは八つ当たりだ。不甲斐ないのは自分で、ジローは精一杯助けてくれていたのに。


 ジローに謝らなければ。俺は身体を起こし、隣を見る。


「え……」

 そして、情けない声を上げてしまう。


 隣でジローは寝ているはずだった。けれどそこにジローの姿はなく、大きな卵が鎮座していた。


 卵の側には、シェリーグレイスの青い実が一房、無造作に落ちていた。

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