第28話 乳母ユリアの夢

 意識が曖昧に溶け、再合成される。


 目の前にあるのは、大輪の薔薇。薄紅の花弁が渦巻いて四つの芯を作り、それぞれが放射線状に広がり一輪の花を形作る。ロゼット咲きと呼ばれる、薔薇の中でも最も華やかな花形だ。その花の根元に水をやる。丁寧に、丁寧に。


 水桶を持つ手にはシミと皺がある。そして、この薔薇に対して湧きあがる敬意と愛情の念。


「グレイス様。本日もフレイヤ様は、お健やかにございます」


 水桶とひしゃくを地面に置き、呟く。ああ、この声は聞いたことがある。身体にある意識とは別の自分自身の意識はまた、少し上の方からこの人物の心の動きを傍観している。


「ユリア!」


 背後で名を呼ばれて振り返る。どうやら身体の主はグレイス様の侍女ユリアのようだ。薔薇に囲まれた小径を走ってくるのはフレイヤ様だ。薔薇によく似た薄紅色のドレスを持ち上げ、金色の髪を靡かせて走ってくる。


 慈愛に満ちた感情が胸にわく。しかし、愛しいからと言って甘やかしてはならないと我が心をいさめている。自分は亡きグレイス様に変わり、この美しい王女様を立派な淑女に育てなければならない。


 ユリアは腰に手を置いて、唇をきりりと結んだ。強い視線をフレイヤ様に向けて言う。


「そのようにバタバタと走ってはなりません。淑女たるもの、いつ何時も身振りはゆったりと、指の先まで上品に」

「いいの! ここは私の王宮よ!」


 プッと頬を膨らませる。陶器のような頬には、まだ少女のあどけなさが残っているけれど、どんな仕草も表情も、見る者を魅了してしまう。もう二年、三年。淑女となった王女様は、どれほど美しいだろうか。


 そう思った時、喉の奥にひりつくような傷みが湧き、咳き込んでしまう。咳がフレイヤ様にかからないように顔を背けるが、王女は背けた側に回り込んで顔を覗き込んでくる。


「大丈夫? ユリア。世間では嫌な病が流行っているんでしょう?」


 不安げに眉を寄せる王女に笑みを返す。


「ご心配には及びません。私の周りでは朱殷熱レグアにかかったものはおりませんし、身体の丈夫なものがかかっても大病にはならないと聞いております」

「でもユリアは喉が悪いじゃない。しょっちゅう咳で眠れなかったと言ってるわよ」


 返す言葉がなくて苦笑する。身体の芯にだるさがあり、熱っぽくもある。本当ならば暇を頂いて横になっていたいのだが、自分がいないとフレイヤ様は機嫌を損ねるし、書物に夢中になって夜ふかしをしてしまう。国王陛下が愛してやまないこのお嬢様を、なだめてベッドに入るよう説得できるのは、自分だけなのだ。


「あら、やだわ」


 フレイヤ様が自分の頬をパチンと叩き顔をしかめた。頬に虫の死骸と血の跡が残っている。ユリアはスカートのポケットからハンカチを取り出し、頬の汚れを拭く。


「嫌ね、王都は蚊が多くて」

「湿度が高い地域ですし、稲作をしておりますからね。クリームを塗っておきましょう。かゆみと腫れを抑える効果があるそうです。先日上の息子が南方の商人から買ったと言って、届けてくれたのです」


 ユリアは小さな陶器の入れ物を出す。蓋を開けると、目の覚めるような爽やかな香りが広がった。


「まぁ、良い香り。何の香りかしら」

「ミント、というものらしいです。虫除けの効果と、かゆみや虫刺されの腫れを抑える効果があるそうです。その国では田んぼの畦にわざとミントを植えているそうです。繁殖力が旺盛なので、他の雑草が生えてこなくなるらしいですよ」

「まぁ! そのミントという植物、王都でも育つのかしら」

「さあ……、如何でしょうね……」


 首を捻りながらユリアは、余計な事を言ってしまったと後悔する。フレイヤ様は喜々と目を輝かせながら、パチンと両手を叩いた。


「では、書庫に行って調べてみましょう。育つのならば、早速来年からその植物の繁殖を農民に勧めるように、お父様に進言するわ!」


 旺盛な好奇心に火を灯してしまったと、ユリアは苦笑する。気になったことはとことん調べ上げなければ気が済まない聡明な王女様。まだ十四歳という年齢なのに政治に興味を示し、王都がよりよくなるようにと心を砕いている。王族に生まれた女性はいずれ、政治の道具としてよその国に輿入れするのだけれど。


 しかし、冴えない体調をおして来て良かった。自分がいなければきっと、このお嬢様は朝まで書庫に籠もりミントについて調べるだろう。


***


 場面が暗転し、次には粗末な天井を見上げていた。身体は鉛のように重く、呼吸が苦しい。息を吸っても吸っても、何も入ってこないようだ。


 部屋は薄暗く、悪臭が立ちこめている。あちこちから苦しげな呼吸やうめき声が聞こえる。


 昨日無理矢理ここへ連れてこられた。朱殷熱レグアを患った者が隔離される療養所だ。療養所と行っても、ぎゅうぎゅう詰めに病人を押し込んでいるだけの場所だ。治療はヒーリアンの翁とその助手の二人だけしかおらず、手が回らないようだ。ここから出て行くのは、身体を赤く染めて息を引き取った遺体だけだと、噂に聞いた。


 自分もいずれ、そうなるのだろうか。


 いや、自分の事はどうでも良い。年老いた義母にうつらなかっただろうか。フレイヤ様に、うつらなかっただろうか。


 目を開けているのも大儀で、瞼を閉じる。すると、外から喧噪が聞こえてきた。


「フレイヤ様! ここがどのような場所かご存じか! 早く立ち去ってくださいませ!」

「黙れ! 私に指図するな、無礼者! そこをどけ!」


 その名を聞いて、ユリアは岩のような身体を起こす。


 フレイヤ様が、ここにやって来た? まさか。

 ああ、でも、あの直情的な王女様ならばやりかねない。


 勢いよくドアが開く。そこに、王女フレイヤが夜風に髪を靡かせて立っている。薄汚い療養所に突如差し込んだ光のように、美しく神々しい。


 フレイヤ様は自分を見付けて駆け寄ってくる。


「なりません!」


 ユリアは身体を引き摺り、フレイヤ様に駆け寄る。だが足に力が入らず、急いで前に向かおうとした身体だけが先に進みその場に崩れていく。重力に抗えない身体を、青いドレスに身を包んだフレイヤ様が抱き留めた。


「いけません。病がうつってしまいます」

「構わないわ。ユリア。私あなたにこれを渡しに来たのよ」


 フレイヤ様はシミだらけの手を無理矢理広げ、そこに青い実を握らせた。


「これは、シェリーグレイスの実……」


 唇をギュッと引き結んでフレイヤ様が頷く。


「そうよ。お母様が私の為に植えてくださった実。これは、どんな病にも効くの。私はいつもこの実に救って貰ったわ。これで必ず病を治しなさい。ユリアは私の乳母よ。王女フレイヤの乳母なのよ。朱殷熱レグアに負けるなんて、許さないわ」


 言葉の終わりは、涙でよく聞き取れなかった。フレイヤ様は汗の臭いの染みついた身体を、強く抱きしめてくださる。


***


 再び場面が暗転する。


 ユリアは後ろ手に縛られていて、身体は棒に固定されていた。自分の他にも、宮廷の侍女や庭師などが身体を押し合うように大きな樽に押し込められ、背中を棒に固定されている。足元には細かい薪が敷き詰められ、油の臭いを放っていた。


「これより、火あぶりの刑を執行する。王宮に朱殷熱レグアを持ち込み、王女フレイヤ様のお命を危険にさらした大罪人に罰を与える!」


 黒い山高帽を被った死刑執行人が、羊皮紙を伸ばして罪状を読み上げる。


「お前が病気を持ち込んだんだ」


 耳元で庭師が言う。ユリアは恐怖と後悔に打ち震えている。病をおして仕事に来るべきでは無かった。そのせいで宮廷に朱殷熱レグアが流行り、何人かの使用人が病に倒れた。そして、フレイヤ様も病魔に冒されたのだ。


 庭師に続いて口々に死刑囚がユリアを責める。


「やめましょう。死の間際に恨みを持っていたら、悪魔に魂を連れて行かれるわ」


 侍女の一人が言う。他のものは呻くように口を結ぶ。


「祈りましょう。神の御許へ行くのです。こんなに嬉しい事は、ありません」


 侍女はそう言って、賛美歌を歌い出した。


 か細い歌声は、群衆の猛り狂った歓声にかき消される。松明たいまつが近付き、桶に火が移された。油を含んだ薪はすぐに火を吸い込み、赤々と燃えさかる。足が熱せられる。皆悲鳴を上げながらバタバタと足踏みをする。


 フレイヤ様が無事でありますように。


 ユリアは唱える。


 愛おしいフレイヤ様が健やかであられますように。

 フレイヤ様が幸多き人生を送られますように。


 ああ、グレイス様。私はあなたに言われた大役を果たすことは出来ませんでした。


 ああ、グレイス様。

 グレイス様……。


 あなたが私に、あのような願いを託さなければ私は……。


 ユリアが最後に想ったのは、フレイヤ様の幸せではなかった。フレイヤ様に尽くすあまり構ってやれなかった一人息子や、大らかな夫、優しい義父母の姿を思い浮かべていた。そして、この余りにも理不尽な仕打ちに怒りや恨みが膨らんで行った。

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