第4話

 明けて昭和十二年になりました。さてその頃の日本はどんな状況だったのでしょうか。ご本やドキュメンタリーなどで、その頃の日本は暗い時代であったと語られがちでございます。確かに、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件など、流血の惨事が立て続けに起こりました。そしてそのイメージが昭和初期に定着しました。またその頃の写真は白黒で、収まった人物が無表情にレンズを睨んでおり、暗澹とした雰囲気をいやがうえにも醸成しております。ただわたくしが、当時の分別盛りの大人であった方々から、直接伺いましたお話は、さほど暗澹としたものではございませんでした。例えば前述の事件なども、政財界に限られた惨事で、その恐ろしさは、一般庶民には届いていなかった、と聞いております。過去は、極端な表現で語られがちで、『こうだったに決まっている』と言う先入観に陥りがちで、気を付けなければならないところでございます。さてわたくしは、先生が生きられた時代を、皆様に出来るだけ正確にご理解していただきたいと思っております。本で読みました内容やいろいろな先生方のお話を踏まえ、その聞きかじりをまとめたものに、数枚割かせていただこうと思います。

 一九二九年(昭和四年)、第一次世界大戦後の世界経済を牽引していたアメリカの株価が、89パーセント暴落いたしました。世界経済が大混乱いたしました。日本も煽りを受けました。輸出入は振るわず、物価は暴落し、会社が次々に倒産いたしました。昭和六年の失業者は二百五十万人、失業率は九パーセントと言われております。そこへ災いが重なりました。東北地方の大凶作です。東北の人々は、飢えと貧困で八方塞がりとなり、木の実をあさり、草の根を掘り、地を這う蛇も蜥蜴も蛙も虫も食べ尽くしたと、ものの本に書いてありました。東北の空を飛ぶ鳥は斃死(へいし)し、人跡まばらな山里では、もっと凄まじい惨状があったと耳にいたしました。『娘の身売りの際はご相談を!』と役場が看板を立てる始末でした。これが昭和恐慌です。なんだやっぱり暗い時代ではなかったかと、早合点なさらないでくださいませ。話はここからでございます。

その頃、世界中の国々は閉塞した経済を抜け出そうと、様々な工夫をこらし始めました。よく知られておりますのが、アメリカのニューディール政策でございます。ただ、わたくしが特に注目していただきたいのは、イギリスとフランスがとった経済政策でございます。英仏は自治領や植民地に、ポンドとフランの経済圏を作り上げ、排他的な姿勢をとりました。つまり海外の支配地を『持つ国』は、その支配地内で経済をまわし苦境をしのぎました。さて海外支配地を『持たない国』の日本は焦りました。そして目を付けたのが、中国の満州(現在の遼寧省・吉林省・黒竜江省)でございました。

そもそも最初に満州へ触手を伸ばしたのはロシア帝国でした。当時、中国を支配していたのは清朝でしたが、アヘン戦争、アロー号事件、清仏戦争、日清戦争に次々と敗北し、衰退の極みに達していました。ロシアはこの衰退の隙をついて南へ南へと国境線を進めておりました。さて日清戦争に勝利した日本は、大陸への足掛かりとして、満州の入り口である遼東半島の領有を中国に要求しました。南下を目論むロシアはこれに黙っておりませんでした。ロシアはフランス・ドイツと手を携え、日本の遼東半島領有を阻止しました。いわゆる三国干渉です。そしてロシアは、日本を諦めさせた見返りに、皮肉なことですが、大連と旅順の租借と満州での鉄道敷設の権利を得ました。こうしてロシアの南下が加速しました。その南下の先に、ロシアを『露スケの野郎』と忌み嫌う、大日本帝国が海に浮かんでいました。ロシア帝国は、大日本帝国と境を競う関係になりました。その衝突が日露戦争です。日本は八万四千の屍を重ねてロシア帝国に勝利し、満州の権益を手に入れました。その権益の中でも、南満州鉄道(厳密には東清鉄道南満州支線)は虎の子でした。日本は関東都督府を設置し、南満州鉄道沿線の経営を始めました。こうして日本は人と物とお金を満州へ動かし、円の経済圏を作りあげ、停滞していた経済に風穴をあけようとしました。そのスローガンが、『満州は生命線』でした。

 他国であった満州を経営するためには力が必要でした。力などと言えば、きれいに聞こえますが、つまりは暴力です。関東都督府の軍事部門が独立して関東軍が出来ました。関東軍は、鉄道沿線以外の地域も蚕食していきました。日本に軍需景気が起こりました。欧米の資本がどんどん流入してきました。ますます人と物とお金が動きました。日本は世界に先駆けて恐慌を脱しました。富裕な人が現れました。三井・三菱・住友・安田といった財閥が巨大化し、日産・理研といった新興財閥が出来ました。豊かになった彼らは、娯楽を求めました。大消費社会が出現しました。エロ・グロ・ナンセンスの風潮がおきました。アジア初の地下鉄が走り、丸の内に近代的なオフィースビルが立ち並び、銀座はネオン眩い繁華街となり、浅草は映画・演劇・レビュー・ミュージカルのどぎつい看板の並ぶ享楽街となりました。お子様ランチ、キャラメル、サイダー、インスタントコーヒーなど新規な物品が市場に出回りました。キャバレーのダンサーはホールサービスでチップを稼ぎ、カフェの女給は簡易な性的接待までしました。


        ♪ジャズで踊って リキュールで更けて

              明けりゃダンサーの涙雨(作詞・西条八十)


と『東京行進曲』に歌われた退廃が、世相の底で腕枕をしておりました。これで昭和初期がさほどに暗い時代でなかった事がお分かりいただけましたか? そしてこの享楽と繁栄は、大陸の犠牲の上に成り立っていた事も、お分かりですか? ではもう少し話をお聞きくださいませ。

 昭和三年六月四日、張作霖爆殺事件発生。続く昭和六年九月 関東軍による柳条湖で南満州鉄道爆破事件。昭和七年二月 日本の傀儡国家満州国建国。こうして日本は『生命線』の満州の地を関東軍の暴力で刈りはじめました。日本人にとりまして、大陸でのチャンチャンバラバラは対岸の火事でした。満州を侵略すればするほど、景気に拍車がかかりました。日本人は徹底して火事場見物を決め込み、大陸の火が大きくなる事をワクワクしながら期待しました。関東軍は暴走しました。暴走された中国人の悲嘆はいかばかりであったか。強姦・略奪・殺人・拷問・放火があったのかなかったのか? あったにしても、ちょっとした事を大袈裟に語られているだけではなのか? いや、ちょっとした事ではなかったのではないか? そもそもちょっとの目安は何だ! いろいろ難しい議論はありますが、ただそれなりの事があったと思う方が自然ではないかと思われます。日本人は満州の暴走を見て見ぬふりでやり過ごしました。いえ、それどころか「チャンコロ(当時の中国人への蔑称です)の性根は腐っとる。関東軍の気合の入った竹刀で、叩き直してやらんといかん」などと、見当はずれの空威張りを決め込みました。いっぽうの中国は、イデオロギーの相容れない蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が、張学良(張作霖の後継者)の仲介によって抗日戦線で連携をしました。そして日本の横暴を国際連盟に提訴しました。

昭和八年三月、日本、国際連盟脱退。

昭和九年三月、満州国皇帝に溥儀が就任。

この昭和九年が、前述した東北地方の凶作が最も辛酸を極めた年でした。東北の農家の次男三男は関東軍の兵隊として、また満蒙開拓団として海を渡りました。満州は『王道楽土』『五族協和』の夢の地でありました。

昭和十二年七月、蘆溝橋事件勃発。支邦事変の始まりです。日本人は、支邦事変を日清戦争のようにわが国の勝利ですぐ終わるだろうと高を括っておりました。何より軍需景気はうなぎのぼりでした。それに戦争は、人の地位や立場を転倒させる面がございます。つまり恵まれない人にも救われるチャンスが出来たのです。支邦事変は歓迎されました。ちなみに、新聞やラジオなどが、戦争の報道合戦を始めたのは、この支邦事変からでした。メディアは、日本兵の武勇伝、中国兵の残虐談、また自分の葬儀代金を軍に献じた老人の美談などを、盛んに刷って刷って刷り捲りました。日本人は煽られ始めたのです。

 昭和十年前後の日本人は、このような雰囲気の中で日々を過ごしておりました。とにかく当時の日本人は、アナキズムや共産主義などの思想に染まらず、皇室を尊び、御身大事を信条とし、儲けるときは儲けて、楽しむことは楽しんで、地道に暮らすことを信条としておりました。大陸の人や貧しい人に下手な同情心など起こそうものなら、危険分子ではと怪しまれるのがオチでございました。日本はやがて、後悔してもしきれない戦争へと突入して行きます。本当の意味で、恐怖にゾックと背筋を凍らせたのは、召集令状が身近な人に届くようになり、本土への空爆が本格化してからでした。つまり、火の粉がかかるようになってからでございます。それまで日本人は、案外気楽な気分で過ごしていたようでございます。

 「うそだ。ウソだ。嘘だ!」

わたくしには、そんな声が聞こえてまいります。

「昭和初期は思想統制が敷かれ、特別高等警察などが鵜の目鷹の目で社会を監視していたはずだ」

そのような声も聞こえてまいります。ただ昭和十年の前後まで、特別高等警察が監視していたのは、主に無政府主義者や共産主義者でした。

「いや、特高(特別高等警察)の事だけではない」

また声が聞こえてまいります。

「当時の児童には、愛国主義の教育が強要されていたはずだ」

はい、確かにそうでございます。それは確かでございます。衣都子先生の学校生活を覗いてみますと、その事がお分かりいただけると思います。

では覗いてみましょう。

その頃のラジオは、『子を頌(たた)う』と言う童謡を、引きも切らず流しておりました。


   ♪ 太郎よ花子よ日本の子 丈夫で大きく強くなれ

       みんなが大きくなる頃は 日本も大きくなっている

         子供よ大人をこえて行け(作詞・城 左門)


この童謡でもわかります通り、日本人は国土の小ささにコンプレックスを感じておりました。さて、そのコンプレックスを押し返すように、尋常小学校では伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の国生みの物語に始まる神話を史実だと語り、大日本帝国は神武天皇から代々皇胤を引き継がれた、世界に稀にみる萬世一系・萬古不易(王朝が変わっていないと言う事です)の正義の神国である、と教えていました。小学生の先生は、古代の神話や、萬古不易の神国大日本帝国の正義を、毫も疑っていらっしゃいませんでした。

「崇神天皇がご崩御なさったお歳は?」と尋ねられれば、

「御年百四十でご崩御なさったのであります」と、直立不動でご返答なさっていました。すべてが、お胸が苦しくなる程の、誇り高い歴史でした。

そんな馬鹿な、古代の天皇が百歳以上も生きていたなんて……、誰が信じるのですか……、馬鹿げた……と言われるのは偏見でございます。アメリカでは現在でも、旧約聖書を真実の歴史と伝え進化論を疑った教育がなされていると耳にしております。そして子供と申しますのは、純真無垢で操縦しやすい面がございます。そこへ心くすぐる物語が差し挟まれれば盲目的に教えを疑いません。いえ、疑いたくありません。

毎朝の朝礼では、『教育勅語』が唱されていました。その中に、

『一旦緩(かん)急アレハ義勇公二奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スヘシ』との一節がありました。 一旦危急の大事が起こったら、大義に基づいて勇気をふるい一身を挺して国家皇室のために奉仕せよ、と言っているです。そして朝礼は、『海行かば』を合唱して終わるのです。こうして、子供たちに皇室を尊ぶ精神を培(つちか)っていたのです。

ただ、昭和十年前後の尋常小学校はまだ、天皇や国のためなら死ななければならないと、子供の喉元に刃を突きつけはしませんでした。大正ロマンの遺香を残し、昭和モダンの真っ只中で、リベラルな雰囲気がありました。衣都子先生も「水漬く屍 草生す屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ」と、口を合わせていらっしゃっただけです。戦争などは、遠くで兵隊さんにお任せしている存在(もの)でした。先生だけではございません。多くの女の子はそう思っておりました。女の子には、徴兵義務がございませんでしたから。

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