第3話

 お化粧ごっこ騒動から四か月が経った十月。先生と原口さんは、尋常小学校の二宮尊徳像の横にあった百葉箱の扉を開き、その日の昼の温度と湿度をノオトに記録されていらっしゃいました。クラスでは、気温・湿度の変化と四季の移ろいの関係を一年がかりで研究していました。運動場(うんどうば)では、六年生が先の日曜日にあった運動会の万国国旗を紐から外す作業の真っ最中でございました。原口さんは百葉箱の扉を閉じてから、

「ねぇ、彩ちゃん、今度の日曜日、空いている?」と尋ねてきました。

「空いているわ」

「夙川の叔父さんが、彩ちゃんを連れて、家に遊びにおいでって、誘ってくれたの」

先生は、瞼をパチパチなさいました。

「駄目ぇ~?」

「ううぅん。ちょっと、びっくりしちゃったの。人見知りの恥ずかしがり屋さんって聞いていたから。でも、どうして、どうして?」

「叔父さんがね、ほら、わたしたちお化粧ごっこをして、お母さんにこっぴどく叱られちゃったでしょ」

確かにそうなのでございます。帰宅された原口さんのお母さんは、自分の部屋でお化粧の遊びに興じていらっしゃった子供二人を、爆竹に火を付けたように、いつまでも、ガミガミ、くどくど、チクチク、ねちねち叱りつけました。

「可哀想だから、慰安会をやろうってね、誘ってくれたの」

「そうなの。もうずっと前の話なのに……」

「叔父さん、覚えていたみたいよ。でも珍しいことなの。だって、叔父さん、めったに人を招待するなんてこと、しない人だもの」

「そうなの」

「そうなのよ……。彩ちゃん、オッケーってことでいいわよね。叔父さんに言っておくわ」

原口さんは、百葉箱の踏み台を飛び降りると、

「叔父さんたら、この前の運動会にも来ていたのよ。叔父さん、ひょろっとして背が高いでしょう。だから、わたし、すぐ分かったの。紅白の幔幕から、出たり入ったりしていて。それで、『おじ様、運動会に来ていたでしょう?』って尋ねたら、神保町の本屋の帰りに、ウチに寄ったら留守で、って。運動会で留守だったのよ。諦めて歩いていたら、学校が賑やでしょう、だから覗いてみた、なんて言ってね。でもね、不思議なの。ウチに寄るなんてこと自体、滅多にしない人なの。それに、ウチと学校とじゃあ、回り道になるしね」と言いました。

 夙川虎之進氏を訪問する日曜日になりました。住まいは飯田橋の坂の上にございました。邸宅は板塀に囲まれた小さな庭を抱く地味な二階家でした。暖かい日でした。先生は冠木門を潜られた時、カーディガンを脱がれました。

「こんにちは」

原口さんが玄関扉を引きました。奥から着物の裾をさばく音が聞こえてきました。慌てて出迎えてくれたのは夙川氏でした。通されたのは、松の彫り物の欄間のある客室でした。赤いクロスを掛けたテーブルを絨毯の上に誂え、和に洋を捻じ込んだ不思議な空間でした。氏は椅子に座ると、慰安会の筈なのに「大変だったね」の愛想もなく、こめかみをピクピクさせながらゴールデンバットに火を点けました。先生は、夙川氏にことを、本当に気難しそうと思われました。

 しばらくすると氏の奥さんがお盆を掲げて部屋に入って来ました。後ろ髪をパーマネント・ウェーブにし、前髪をひっ詰め、波模様の銘仙に小花刺繍の半襟を覗かせていました。氏より一まわり若く見えました。首の細い薄化粧の人でした。

「まあ、貞子ちゃん、ご無沙汰。あら、こちらが、お友達の森さん? そう。なんて可愛い方なの。始めまして、夙川の妻です。よろしく」

奥さんは挨拶をしながら、スープ皿をテーブルに並べました。豆を裏ごししたスープでした。サイコロ状の小さなパンが浮いていました。

「義叔母様、あっちゃんと、けんちゃんは?」

氏には上が四歳のいたずら盛りの男子が二人いると聞いていらっしゃいました。その姿が見えないと、原口さんが不思議がったのです。

「今日は、わたしの実家に預けたのよ。叔父さんが、子供は預けておっけってうるさくて……。きかん坊は、叔父さん一人でたくさん。フフフゥ……」

「おい、お前、いらん事を言うな」。氏は真剣に怒っていました。

「まあ、怖い」と奥さんは軽くあしらった後、

「どうぞ、何もありませんが、ゆっくりして下さいね」と微笑みました。

「妻(さい)は、料理だけが取柄で、のみならず、凝り性でね。最近は、西洋料理の学校に、せっせと通って、レパートリーを増やしている最中なのですよ。ただ、味は保証できませんよ。さあ、スプーンを取って、さあ」と氏は食事を勧め、自身も黙ってスープを掬いました。

 先生は百貨店の西洋料理はご存じでいらっしゃいました。しかしその日のように、金縁の皿に仰々しく盛られた料理が次々と出る、本格的な洋食は初めてでございました。スープの次は、ビーフシチューが流された薄い皿が出ました。甘く煮詰めた隠元と人参に油で揚げた馬鈴薯が添えられていました。それが下がると魚の料理でした。香辛料と塩で味付けされた魚の切身が焼き上げられていました。香菜と素揚げの薄いレンコンが切身に乗っていました。先生はすっかり舞い上がっていらっしゃいました。何より、マナーがお分かりにならなかったのです。原口さんはお父さんが立派なお役人でしたので、このような食事も慣れていたのでしょう。スプーン、フォーク、ナイフを、難なくひらひらと使っていました。先生が困惑されていらっしゃいますと、夙川氏は先生の後に回って先生のお手に自身の手を添えて、実に優しく扱い方を教えてくれました。先生は、氏の掌が吸盤のようにご自身の手の甲に貼りついているように感じられました。

その夙川氏自身は、食が細いのか進みも遅く、傍目に見ましても美味しそうには口を動かしていませんでした。食事中の会話は、奥さんと原口さんが専らでした。時々、先生に話が振られる事はありましたが、氏は全くの埒外。だからと申しまして、氏がそれを苦にしている様子はありませんでした。

「あなた、もういいの?」

皿の上の魚を半分以上も残し、それをいつまでも持て余している氏に、奥さんが尋ねました。

「ああ」

氏はワインをグラスに注いで、ごくりと飲み干しました。

「これでも、叔父さん食べている方なのよ」

奥さんは氏の皿に手を伸ばし、自分の空いた皿に重ねました。

「おじ様、体調はどう?」

原口さんが、心配そうに氏を見ました。

「まあ、まあだ」

「叔父さん、一時は、お仕事の事で、本当に落ち込んでいて、お酒ばっかり飲んで、何も召し上がれなかった時もあったのよ。でも、ほら、丁度、おばあさんが入院されて、貞子ちゃんのおウチに寄ったでしょ? あれから、何だか少しご機嫌で……。おばあちゃんの件が一段落したので、少し気持ちが、楽になったのかしらね。森さん、びっくりなさらないでね。これでこの人、本当に、上機嫌なのよ」

「おい、お前。口数が過ぎるぞ」

「まあ、あなた、そんなに怒鳴って。森さんが、びっくりされるわよ。フフフゥ……。今日だってね、可笑しいぐらい、朝からソワソワして……」

「おい」

氏は照れたように怒って、顎で台所の方を差しました。奥さんは、ハイハイとテーブルの空いた皿を片付け部屋を出て行きました。先生は作家と言う職業の人と間近に接されるのは初めてでした。『東洋の鬼才』と暮らす奥さんは大変だろうなぁ、と思われました。

「叔父さん、まだ目の中で、キラキラするもの見える?」

原口さんが氏に、低い声で尋ねました。

「ああ、少しはいいようだ」

「ギザギザの輪は?」

「時々な」

「原口さん、何のことなの?」

先生は氏の方をご覧になって、原口さんに心配そうに尋ねられました。氏は急に笑顔を作り、

「何でもない、何でもないんだよ。目医者に行ったら、閃輝暗(せんきあん)点(てん)って、そう、そう言う、難しい名前の病気でね。のみならず、誰でも罹る可能性のある眼病だそうで……。なんでもない。なんでもないのです」と言って、ゴールデンバットに気まずく火を点けました。氏の気まずさを察しられた先生は、開け放たれた障子から庭に目を向けられました。庭からは甘い薔薇の匂いがしました。先生は深くその匂いを吸い込まれました。匂いを吸い込まれる頬に、先生はむず痒さを感じられました。むず痒さの先にお目を向けられると、射るように先生を見つめる氏の目とぶつかりました。

「上機嫌と言ったら」と、奥さんがアイスクリームを載せた盆を持って部屋に戻って来ました。

「叔父さん、カメラを買って、篤志や、建志を撮っているのよ。子供に、そんなサービスするなんて、ほんーと、珍しい。おばあさんが入院してすぐよね、あなたがカメラを買ったのは?」

「そうだったかなぁ」

「そうよ。コンタックスのカメラなのよ。目が飛び出るほど高い買い物だったのよ。それも、わたしには、内緒で……。今日は、貞子ちゃんや森さんの写真を撮るって、ハリキッテいたのよね、あなた」

「うう、ん」

「きれいなモデルさんで、腕が鳴るわね」

「そうだな」。氏はこめかみをピクピクさせながら、返事をしました。

「叔父さんの傑作を見てくれる? あなた、アルバムをお見せしてもいいかしら」

「ああ」

奥さんがアルバムを手にして戻って来ました。

原口さんは分厚い革の表紙を開きました。先生は原口さんの後からアルバムを覗かれました。ゴールデンバットの煙を吐き出す氏の視線が、また自分に向けられていると先生は感じられました。ご視力がお弱いだけに、そう言う感覚が自然と身につかれていらっしゃったのです。

アルバムの中には、あっちゃんとけんちゃん、そして奥さんの写真がございました。ただそれは、粗鬆(そしょう)な写真ばかりでした。先生は、お亡くなりになったお父様が撮影されたご自身のお写真を幾枚もお目になさっておられました。お父様は絵のご勉強をなさった方ですし、そもそも構図のセンスなども生来良かったのだと思われます。ただそれを差し引かれましても、お父さんと言う人は丁寧な写真ばかりを残してくれている、と先生は思われました。しかしお目の前の写真はなんだろう、『東洋の鬼才』が撮ったにしては、やっつけ仕事の、やれやれと言った声まで聞こえると、そうお感じになられました。あのような洗練巧緻な小説を書くのに、こう言った方面には気が回らないのだろうか、と首を傾(かし)げられました。

「じゃあ早速、お嬢様がたを撮ってみるか。森さん、眼鏡は外そうか」

氏はゴールデンバットを硝子の厚い灰皿でもみ消しました。

撮影は応接室で始まりました。奥さんは片づけ物をしており、撮影には立ち会いませんでした。氏はカメラを片手に活気づいていました、先生はその様子に、今日はこの撮影が目的ではなかったのでは……、と訝(いぶか)られました。

先ずソファーにお二人並んで正面から斜めからと撮られました。次は、お一人ずつとなりました。氏はファインダーを覗いて顔を上げ、またファインダーを覗いて顔を上げ、細かい調整をしきりにしました。調整は先生の方が多く、丁寧であったように思われました。

「次は庭に出てみよう。室内で撮ると写真が、どうしても暗い」

庭の一隅には、真っ盛りの白い秋薔薇が咲いていました。撮影は、室内と同じようにまずお二人、それからお一人ずつと進みました。

「森さん。そのバラの横に立って、そう、そう、もっと花の近くに顔を寄せて、そう、もっと、もっと近くに」

氏は掌で先生のお顔の位置を細かく指示してきました。

「こうですか?」

先生のお顔は満開の白薔薇の真横に並びました。

「もっと……、そう、それから少し横向きなって、そして斜めに、そう……。バラの花の香いに酔う感じで」

ポーズに物語が入るようになりました。そして、カチリ、カチリ、カチリ、と続けて三枚。

「ズルい、おじ様。わたしも、バラと並んだところを撮って」。原口さんが愚痴りました。

「ああ、当然だ。バラの横に立って。あれ……」

氏はフィルムの残数表示を覗きました。

「ああ、残念だなぁ。フィルムがもうない」

「えっ、そうなの。わたしもバラと一緒に撮って欲しかったのに……。何だか、彩ちゃんの方が、枚数が多いみたいだわ。差別よ、おじ様」。原口さんは拗ねていました。

 撮影が終わると、また欄間のある客間に四人が揃いました。テーブルの上には四つのコーヒーカップが並んでいました。氏はゴールデンバットを吸いながら、残りのワインを飲んでいました。その顔は紅潮していました。

「写真が出来上がったら家に送るから、森さん、後で住所を教えてください」

「そう言えば、あなた胃薬はお飲みになった?」と奥さんが言葉を挟みました。

「おじ様、まだ、お腹が痛い?」

「ああ、最近はすっかり、いいよ。薬はあとで飲む」

「忘れないでくださいね。あなたの、苦(にが)り切った顔を見ていると、わたしまでお腹が痛くなってきますから」

「分かっている」

「叔父さんはね、痔も患っていてね。大変なのよ」

「おい、いらん事を言うな」

氏は目をギョロリとむき出して怒鳴りました。それは、部屋が縮む程のヒステリックな声でした。

 写真は三週間後、先生宅へ郵便で届きました。届いた写真は全部で五枚でした。原口さんとソファーに腰掛けているお写真が二枚。庭でお二人が並んだ写真が一枚。先生お一人が庭の腰掛に座っていらっしゃる写真が一枚。そして、白い薔薇に酔うお写真が一枚。その一枚は画面いっぱいに、先生の横顔と薔薇が並んでいました。プロマイド(本当はブロマイドなのですが、当時の東京人はそう呼んでいましたの……)のようでございました。先生がその時その場で少女なりに精一杯なさった、酔う演技の一枚でございました。近視眼差しのお目は潤み、うつろう少女の美が抜き取られた、見事な一枚でございました。「さすが、『東洋の鬼才』ね」と、お写真をご覧になったお母様はおっしゃいました。

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