エクス・マキナ

ユウヤミ

エクス・マキナ

 西日がきつい部屋の中で、散乱した折り紙を一枚ずつ拾い集める。よれてしまった部分は丁寧に伸ばしながらケースに戻していく。お父さんの血が付いてしまっているものや、化け物が吐いたものが付いてしまった折り紙はもう使えないから拾わない。

 窓の外から、ヂィーと高くて長い鳴き声が聞こえる。この蝉の名前はなんだっけ。小さい頃お母さんに教えてもらった気がするけど、今は蝉の名前も、優しかったお母さんの顔も、思い出せない。



「まだ、全然産まれそうにないね。もういつ産まれてきても大丈夫ですから、お産を進めるためにたくさん歩いてね。では本日はこれで終わりですので。また一週間後に来てください」

「ありがとうございました」

 診察室を出て、すっかり大きくなったお腹を支えながら椅子に座る。

 待合室に置かれたテレビではワイドショーが流れており、数日前に起きた夫婦の無理心中事件が取り上げられていた。夫を滅多刺しにしたあと、妻は除草剤を大量摂取して自殺したらしい。同居していた小学生の女の子は無事に保護されたとのことで、変な服を着た女性タレントが「よかったですぅ」とバカみたいな猫撫で声でコメントしている。

 私はといえば、予定日が来週に迫ってきているというのに、お腹の子がまったく産まれてくる気配がないので少し焦っていた。

 お腹をさすりながら会計に呼ばれるのを待っていると、頭上から不意に声をかけられた。

「ねえ、もしかして宏美ちゃん?」

 顔を上げると、なんとなく見覚えのある女性と小学生の女の子が目の前にいた。誰だっけ。頭の中で顔面検索をかけるも誰だかわからず、えっと、あの、と口ごもっていたら、

「やだ、覚えてないの?」

 と笑われた。

「美帆だよ、江上美帆。思い出した? 

今は遠藤になっちゃってるけど」

「え、美帆? うそ、ごめん全然分からなかった。もう随分会ってなかったから……。ていうか、美帆もこっちに住んでるの?」

「中学の卒業式以来だもんね。ダンナの仕事の都合でずっとこっちに住んでるの。ねぇ、今何ヶ月なの?」

 美帆とは小学校と中学校が同じだった。特別仲がいい大親友というわけではなかったけれど、顔を合わせれば雑談をするし教科書の貸し借りもした。お昼だって一緒に食べたし、買い物に出かけたりしたことも何度かある。

 高校が別々になったことで自然と疎遠になり、私は県外の大学に進学してそのまま就職したので、中学校を卒業してからは会う機会もなかった。

「もう臨月だよ。来週が予定日なんだけど、全然産まれる気配なくて。美帆、そういえば成人式も来てなかったよね? 何かあったの?」

「ああ、その時ちょうど、この子が産まれるかどうかって時期でさ、お腹大きいまま参加するのもどうかなって思って行かなかったんだ。式の真っ最中に産気づいても困るしね。あ、この子は私の娘。真希奈っていうの」

 ほら、挨拶しなさいと美帆が促すと、マキナちゃんはニコッと微笑んでお辞儀をした。

 私の記憶の中の美帆は、明るいけれど大人しく真面目な性格で、見た目もどちらかというと地味なほうだった。そんな美帆が若くして出産していたことに驚きつつ、私も自己紹介をする。

「こんにちは。私は城田宏美って言うの、よろしくね。マキナちゃんって、漢字はどう書くの? 今、何年生?」

 マキナちゃんは首から下げていたスマホを操作して、画面をこちらに向けた。

 白い画面の左上に、

 

 いま五年生です

 漢字は真希奈

 

 と入力されている。

「この子、声が出ないのよ」

「え、そうなの。……生まれつき?」

「ううん、二年くらい前から出にくくなってきて、今はもう全然。病院もいろいろ行ってるんだけど原因不明だし、精神的なものかもしれないってことだけど心当たりもなくて。聴力には問題ないから、こんなふうに筆談で会話はできるんだけどね」

「そう。じゃあ、今日もそれで病院に?」

 真希奈ちゃんが、また画面をこちらに向けてくる。

 

 今日は、予防接種


「ああ、なるほど。これから打つんだよね? がんばってね」


 大丈夫、痛いの平気


「痛いの平気なんだ、真希奈ちゃんは強い子だね。」

 真希奈ちゃんが、また何か文字を打っている途中、

「遠藤さーん、遠藤真希奈さーん、三番診察室にお入りくださーい」

 呼ばれてしまった。

「ごめん呼ばれちゃった。宏美ちゃん、また連絡してもいい?連絡先変わってない?」

「電話番号は変わってないよ」

「じゃあ、とりあえずまた電話するね」

「うん。真希奈ちゃん、行ってらっしゃい」

 バイバイと手をひらひらさせ、真希奈ちゃんは美帆と一緒に診察室へ入っていった。

 喋れなくても、美帆に似て明るい性格なのが伝わってくるし、すごくいい子そうだ。

 あなたも真希奈ちゃんみたいに明るい子になってねと、またお腹をさすっていたら会計に呼ばれた。


 その日の夜、さっそく美帆から電話がかかってきた。

 電話だけだと日常の連絡には不便だよねという話になり、美帆がメッセージアプリのIDを教えてくれた。

 一旦電話を切ってメッセージを送ると、すぐに返信が来た。

『真希奈ちゃん、美帆に似てるよね』

『そうなの、目元なんて私そのまんまで一重だから申し訳なくて』

『キリッとしてていいと思うけどな』

『そう? そのうち化粧するようになったら文句言われそうだよ』

『二重にしたいって言われたらどうする?』

『整形かあ、二重瞼くらいならオッケーしちゃうかも』

 そんな何でもない雑談や、お互いの近況なんかを送り合い、最後に

『産まれたら、赤ちゃん抱っこしに行くから教えてね! じゃあ明日早いからもう寝るおやすみ!』

 というメッセージが来て、その日のやり取りは終了となった。

 美帆はシフト制の工場で働いており、給料は悪くないけど早い日は朝七時に出勤だし、たまに夜勤もあるので大変だという。

 それから、二日に一度くらいの頻度で美帆とメッセージのやり取りをした。内容は何でもない雑談ばかりだったが、毎日くだらないことで笑って、何にでも文句を言っていた中学時代を思い出して楽しかった。

 お産が始まったのは予定日を二日過ぎた七夕の日だった。夕飯の支度をしているとき急に破水したので、事前に申し込んでおいたタクシーを配車してもらい仕事中の夫にも連絡を入れた。

 仕事を切り上げてすぐに病院に向かうと言っていたのに、私が分娩室に入ってもまだ来る気配がない。

 結局、赤ちゃんが産声を上げて「おめでとうございます、元気な女の子ですよ!」とドラマでよく見るあのシーンをやっているときにようやく夫は姿を現した。

「すぐに来るって言ってたのに。会社からここまで車で二十分もかからないでしょ? 何やってたのよ。もう本当に一人で不安だし、大変だったんだから」

 病室に移り、遅い夕飯を食べながら夫を軽く責めた。

「途中の踏切で事故があったみたいで、通行止めになってたから遠回りしたんだよ。救急車とかパトカーとかたくさん来てたから、周りの道路もめちゃくちゃ混んでて。まさかこんなに早く産まれてくるなんて思わなかったんだよ、ごめんって」

「確かに、スピード出産ではあったけど。……事故って人身?」

「ブルーシートみたいなのが見えたからそうかもな」

「そっかあ。自分の子が産まれたときに、同時に亡くなった人がいるってなんか複雑……」

「そうだけど、その亡くなった人とうちの子は関係ないからな」

「まあそうなんだけどね。……あ、そうだ」

 無事に産まれたことを美帆に報告しておこうと、メッセージアプリを開いた。

『さっき無事に産まれました。また時間があったら会いに来てね』

 と、新生児室に入る前に撮った娘の写真を添えて送信した。

 美帆と真希奈ちゃんに娘を抱っこしてもらいたいと思っていたのに、それから何日経っても、何ヶ月経っても、美帆から返信が来ることはなかった。



 六歳になった菜々を連れて電車に一時間揺られ、実家の最寄り駅へ到着した。改札を出ると、母が車で迎えに来てくれていた。

「宏美、菜々ちゃん、おかえり。お家に着いたら、おじいちゃんにもご挨拶して、お線香あげてね。ねぇ、お昼まだならどっかで食べて帰らない?」

「まだ食べてないよ。お母さん行きたいお店ある?」

「じゃあ、西の喫茶店に行こうか。あそこならお子様ランチもあるからね」

「西野喫茶店? 東口にあるとこ? お子様ランチなんてあったっけ」

「違う違う、西口を出てちょっと行ったところにできた喫茶店なんだけどね、店の名前が長すぎて覚えられないのよ。スペイン語で『駅の西にある小さな喫茶店』て意味らしいから、常連はみんな『西の喫茶店』て呼んでるの」

「ややこしいね……。まあ、お母さんのオススメならそこに行こうかな」


 窓際のボックス席に座り、菜々はお子様ランチのエビフライを頬張っている。

 通称『西の喫茶店』はナポリタンが絶品とのことだったので、それを注文してみた。

「まさか、あんたが孫を連れて出戻ってくるなんてね」

 フォークでプチトマトを転がしながら母がぼやく。

「私だってまさかよ。自分の夫が浮気して離婚することになるなんて、そんな人生になる予定じゃなかったわよ」

 ナポリタンを巻き取り、口に入れる。本当だ、懐かしい味付けですごくおいしい。

「そういえば、あの事件どうなった? ほら、井戸のやつ」

 二週間ほど前、町の国道を抜けたところにある廃屋の枯れ井戸の中から、二人の遺体が見つかった。一人はこの町に住む二十五歳の増田梨緒という女性で、死後数日が経過していたとのこと。

もう一人は既に白骨化しており、四十代前後の男性ということだが死因と身元は判明していない。

 増田さんの方は首を絞められた跡があるということで、殺人事件として全国ニュースで取り上げられていたが、その後の進展がないので報道はパタリと止んでしまった。

「特に続報はないわよ。こんな田舎の廃墟だもの、周りに防犯カメラなんかもないだろうからね」

 フォークに刺したプチトマトを口に入れながら、そういえば、と母が話題を変えた。

「あんたと中学まで同じだった美帆ちゃん、覚えてる? あの子も何年か前、こっちに戻ってきたのよ。お子さんも随分大きくなって」

 美帆が?

「え、美帆も離婚したの?」

「離婚? 美帆ちゃん旦那さんいたの? 高校卒業した後、働き出してすぐに妊娠して、相手には逃げられたって噂だったけど。結局結婚したのかしらね」

 知らなかった。母親というのは、一体どこからこういった情報を入手しているのだろう。

「まだ菜々がお腹にいるとき、向こうの病院で偶然会ったんだよね。その時は旦那さんいるみたいだったけど。娘の真希奈ちゃん、たしかもう高校生くらいじゃない?」

「そうそう、すごい美人さんよ」

 結局、美帆とはあれから一度も会っていない。出産報告にも返事はなく、その後何度かメッセージを送ってみたが全く音沙汰なしだった。

「ねえママ、デザートも食べていい?」

 お子様ランチを平らげた菜々が、メニュー表を広げている。

「いいけど、ちゃんと自分で食べきれるのにしてね」

 わーい、どれにしようと嬉しそうにページをめくる菜々を眺めながら、また返事は来ないかもしれないけれど、久しぶりに美帆に連絡してみようかなと思った。


 事前に実家に送っておいたダンボール箱を何個か開け、とりあえず必要なものを片付けていく。

 慣れない電車移動に疲れてしまったようで、菜々はいつもより早い時間に寝てしまった。

 今週は片付けや転入の手続き、菜々の小学校入学準備に時間を取られるだろうから、就活は来週からになりそうだ。

 独身時代の貯金と、元夫と浮気相手の女からの慰謝料があるのでしばらくは困らないが、シングルマザーとしての生活を軌道に乗せるためにも早く仕事を決めてしまいたい。

 続きはもう明日にしようと、未開封のダンボールを部屋の隅に追いやり、スマホでラジオ配信アプリを開いた。

 ブックマークから「ニイちゃんねる」を開き、放送が始まるのを待つ。

 元夫の浮気が発覚した半年ほど前、私は離婚するべきかどうか決めあぐねていた。

 関係の修復をする気は更々なかったが、菜々のことを考えるとこんな父親でもいてくれたほうがいいのかと迷いが生まれ、なかなか決断できずにいた。

 誰かに相談したかったが、浮気されてしまったことを知り合いには言う気になれず、私のことを知らない人に話を聞いてほしかった。

 ネットで無料の相談サイトか何かないかと探していた時、偶然見つけたのがこのニイちゃんねるだ。

 SNSで質問や相談を募集し、個人が自由にラジオ放送を行える配信アプリを使って雑談混じりに回答をしているというものだった。

 SNSを見てみると綺麗な空の写真がたくさん投稿されており、文章もとても丁寧で真面目な人柄が感じられたので、この人にならと思って早速そのアプリをダウンロードし、相談を投稿してみた。

「夫に浮気されました。正直今すぐ離婚したいのですが、娘のことを考えるとやはり父親がいたほうがいいのかと思い、どうしたらいいかわかりません」

 その日の夜のラジオ配信で、放送主の「ニイちゃん」が私の相談を取り上げてくれた。

「浮気されてしまったんですね。許せないし、お辛いですね……。私はまだ結婚も離婚も経験がないので、娘としての立場から回答しようと思います。もし父の浮気が原因で母は離婚したいと思っているのに、私のためにと我慢しているのだとしたら、それはとても悲しいです。私のせいで母の人生を縛ってしまっている、私がいなければ母はすぐに離婚できたのにと、自分を責めてしまうかもしれません。もちろん父親がいないことで寂しく感じることもあるでしょうが、大好きな母には笑顔でいて欲しいのです。お母さんが幸せになれる道を選んでくれることが、娘の私にとって一番嬉しいですね。最後に決断するのは質問主様ですが、どうか幸せになれる選択をしてくださいね」

 ニイちゃんは、とても優しい声をしていた。少し高い声は透き通っていて聞き取りやすく、それでいて柔らかくて落ち着く声。

 たった一度の浮気で離婚したいなんて、自分勝手な母親ではないかと悩んでいたのに、そんな迷いや思いが全て許され、受け入れられた気がしてすっと心が軽くなった。

 素敵な声に後押しされて、私の気持ちは固まったのだ。

 これをきっかけにすっかりファンになってしまい、あれからずっと『ニイちゃん』に癒しを求めて追いかけている。

 今日のニイちゃんねるでは、「ニイちゃんの名前の由来はなんですか?」という質問が取り上げられていた。

「名前の由来かあ、ちょっと恥ずかしいな」と、ニイちゃんは相変わらず心地のいい声ではにかんだように話し始めた。

「小さかった頃、夏になるとよく母と蝉捕りをしてたんです。家の周りにニイニイゼミという蝉がたくさんいて、私はその蝉の鳴き声が好きでした。『ニイ』というハンドルネームはニイニイゼミが由来なんです」

 ニイちゃんは、楽しそうにふふっと笑う。

「ヂィーって感じの高い声で長く鳴くので、夏になったら探してみてくださいね」

 癒しの時間は、あっという間に終わってしまう。次の配信はいつだろう。またSNSをチェックしておかないとな、とスマホを操作し、美帆に連絡するつもりだったことを思い出した。

 随分長いこと音信不通の相手には、なんて送るのがいいんだろう。

 メッセージアプリを開き、とりあえず

『久しぶり、元気?』と入力してみる。これだけでは素っ気なさすぎるかと、

『実は離婚しちゃって、実家に帰ってきたんだ。名前も旧姓の福田に戻ったよ。美帆もこっちにいるって聞いたから連絡してみた。また機会があれば会ったりできるといいな』

 率直な気持ちをそのまま入力し、送信ボタンを押してスマホの画面を消した。きっとまた返信はないだろうが、同じ町に住んでいればそのうちばったり会うこともあるだろう。


 翌日、ダンボールの開封をあらかた終わらせ役所へ向かう。菜々は「おばあちゃんとお留守番してる!」と言うので、母に任せることにした。

 役所で転入届を出すためにソファで順番待ちをしていると、メッセージアプリに通知が来た。開いてみると、まさかの美帆から返信だった。

『宏美ちゃん久しぶり。ずっと返信できてなくてごめんね。こっちに戻ってきてるなら、一度お茶でもしない?』

 どうせまた返信はないと思っていたので、驚きで心拍数が上がる。

『美帆! 返信くれてありがとう! うん、どっかで会いたいね!』

『こちらこそありがとうね。宏美ちゃん、どこか行きたいお店とかある?』

 嬉しくてメッセージを打つ手がおぼつかず、ミスタップをしてもどかしい。勢いで美帆に電話をかけると、すぐに出てくれた。

 返信くれてありがとうと改めてお礼をし、『西の喫茶店』はどうかと提案したら、じゃあそこにしようかと言ってくれた。

 けれどやっぱり、駅の東口にある『西野喫茶店』のことだと思ったらしく、説明したらなにそれややこしいねと美帆は笑っていた。

 土曜の昼に約束をし、じゃあまたねと電話を切った。

 長いこと待たされてようやく転入の手続きを終え、家に帰ると玄関で菜々が待ち構えている。

「ママおかえり! おみやげは?」

「おみやげなんてないよ、役所に行ってきただけだもん」

「ええー!」

 いい子でお留守番してたのにと不貞腐れる菜々に、今度ママのお友達と西の喫茶店に行くけど、一緒に来るかと聞いてみた。

 行く行く! と前のめりで返事をし、楽しみーとすっかり機嫌をなおしている。昨日デザートに食べたパフェが余程おいしかったらしい。


 約束の日、菜々と一緒に西の喫茶店に向かうと、すでに店の入口前に美帆の姿があった。気のせいだろうか、以前会った時よりも痩せたというか、やつれている。

 隣には、首からスマホを下げた制服姿の女の子。

「美帆、ごめんお待たせ。本当に久しぶり、元気だった?」

 菜々の手を引き、駆け寄った。

「宏美ちゃん! 久しぶり、元気だったよ。ねえ、あの時お腹にいた子だよね? こんにちは、はじめまして」

 菜々のほうを向いて、ニコッと微笑む美帆。

 菜々は人見知りを発動してしまったようで、小さな声でごにょごにょと挨拶をして私の後ろに隠れてしまった。

「ごめん、恥ずかしがっちゃって。ね、とりあえず中に入らない?」

 昨日と同じ窓際の席に座り、四人でメニュー表を広げる。

「真希奈ちゃん、すごい大人っぽくなったね。見違えちゃったよ」

 高校生になった真希奈ちゃんは、母の言っていた通り美人に成長していた。

 胸下まであるロングヘアはサラサラで、背もすらっと高い。目鼻立ちもはっきりしてモデルさんみたいだ。

 小学生の時の真希奈ちゃんは美帆にそっくりのキリッとした一重瞼だったのに、今は綺麗な平行二重になっている。メイクでそうしているのかと思ったが、そういえば二重にするくらいの整形なら許しちゃうかもと美帆は言っていた。でもまさか「整形した?」なんて聞けるはずもないので黙っていた。

「真希奈、宏美ちゃんと一度会ったことあるんだけど覚えてない? まだ菜々ちゃんがお腹にいた時に」

 美帆が聞くと、真希奈ちゃんはスマホを操作する。


 ごめんなさい、覚えてない


「そっかあ、まだ小学生だったし、一度しか会ってないんだもん。そりゃ覚えてないよね」

「ほんと、ずっと連絡無視しててごめんね宏美ちゃん。いろいろバタバタしてて、なかなか返事する余裕がなくて…」

「いいのいいの、こうしてまた会えたんだし。……真希奈ちゃん、結局声は戻らなかったんだね」

「そうなの。もう病院通いもやめちゃった。真希奈は別に困ってないって言ってるし、これも立派なアイデンティティかなって」

「お姉ちゃん、声が出ないの?」

 お子様ランチとパフェのページを交互に見ていた菜々が口を開いた。人見知り発動中のはずなのに珍しい。

 真希奈ちゃんがスマホの画面をこちらに向ける。


 うん、だからこうやってもじでおはなししてるんだよ。ななちゃんは、いまなんさい?


 菜々にも読めるよう、ひらがなで打ってくれている。

「あたしはいま六歳だよ。もうすぐ小学生になるの。」

 

 そうなんだ!たのしみだね。おたんじょうびはいつ?


「七夕の日だよ!だから名前も『なな』なの。ね、ママ」

 真希奈ちゃんはそれを聞いてまたスマホに文字を打ち始めたが、突然手を止めて美帆のほうをちらっと見た。

 美帆はメニュー選びに夢中で気付いていない。

「お姉ちゃんどうしたの?」

 菜々の問い掛けで、真希奈ちゃんははっとこちらに向き直った。


 おかあさん、まだきまらないのかなって


「あはは、美帆、真希奈ちゃんが早く決めてだって。菜々はお子様ランチでしょ? 真希奈ちゃんは何にするか決めた?」


 オムライスにしようかな


「オムライスもおいしそうだね。そうだ、ここのナポリタンすっごくおいしいよ」

「じゃあ私ナポリタンにしようかな。全部おいしそうで決められないもん」

 ずっとメニュー表とにらめっこしていた美帆がようやく口を開いた。

「真希奈はね、ナポリタン苦手なのよ。家で作っても絶対食べないの。」

「あ、そうなんだ。残念」

「お姉ちゃん好き嫌いだめだよ、ママに怒られるよ」

 真希奈ちゃんはえへへ、と小さく笑った。


 注文した料理が運ばれてくるのを待つ間、真希奈ちゃんがテーブルに置かれている紙ナプキンを使って折り紙をしている。

 長方形の紙ナプキンが器用に折りたたまれてハートや魚が姿を現すと、そのたびに菜々が歓声を上げた。


 これは、ななちゃんにあげる。がっこうでたのしくすごせるように、おまもりだよ


 小さなお守りの形に折られた紙ナプキンを受け取った菜々は、「お姉ちゃんありがとう!」と大喜びしている。

 四人分の料理がテーブルに並び、菜々の「いただきます」を合図に食べ始めた。

「ねえ美帆、変なこと聞くようだけど、こっちに戻って来たのってもしかして私と同じ理由?」

 懐かしい味の絶品ナポリタンを一口食べてから、思い切って聞いてみた。

 美帆はんーん、と首を横に振り、

「離婚ではないかな。うちはね、ダンナいなくなっちゃったから」

 さらっと答えて水を飲んだ。

「え、いなくなった? 行方不明ってこと? 大変じゃない」

「そんな大袈裟な感じじゃないって。どうせ外に女でも作ってそっちに行ってんのよ。待ってるのもバカらしいから、真希奈と二人で勝手に引っ越しちゃった。ざまあみろよ」

 美帆はニヤリと悪そうな笑みを浮かべて真希奈ちゃんにナポリタンを一口勧めているが、ヤダいらないとフラれてしまったようだ。

「そうだ宏美ちゃん、もしかしてこっちで仕事探したりする予定ある?」

 ああそうだった。そろそろ本格的に職探しをしないといけない。

「そうそう、シングルになっちゃったから早めに決めるつもり。まだどこにも応募すらしてないんだけどね」

「あのね、もしよかったらなんだけど、うちの工場で働かない? 今ちょっと人が足りなくてバタバタしてるの。条件いいところが見つかるまでの繋ぎで全然構わないし、もちろんずっと働いてくれるなら大歓迎だし。どうかな?」

「え、すごく助かるよ! ぜひお願いしたい!」

 上半身を乗り出して答えると、美帆は本当?

と嬉しそうに目を大きく開いた。

「じゃあ、担当者には私から話をしておくね。形だけの面接はあると思うけど、宏美ちゃんなら二つ返事で即採用だよ」

 すぐに就活しないといけないとは思っていたけれど、正直かなり億劫だった。美帆が働いているならおかしな職場ではないだろうし、何より最初から知り合いがいるというのは心強い。誘ってくれた美帆に感謝しなくては。

 ふと横を見ると菜々と真希奈ちゃんの皿はすでにきれいになっており、二人でデザートどれにしようとメニュー表を開いている。

 菜々はチョコレートパフェに狙いを定めたようで、真希奈ちゃんは抹茶アイスの写真を指さしている。

「じゃあ私はこれ!」

 シロップが滝のようにかかったパンケーキ五段盛りを指さす美帆を見て、真希奈ちゃんは信じられないという顔をして笑った。


 美帆たちと別れて家に帰る道すがら、菜々はずっと真希奈ちゃんの話をしてした。

「お姉ちゃん、あんなにかわいくて綺麗なのに声が出ないなんて、お話に出てくる人魚姫みたい!」と大興奮している。

 人見知りの菜々が珍しいと思っていたら、そういうことか。どうやら真希奈ちゃんのことがお姫様か何かに見えているらしい。

「人魚姫って、最後は海の泡になっちゃうんでしょう?ママ、真希奈ちゃんが泡になっちゃうのは嫌だなあ」

「泡にならない人魚姫もいるよ!」

「そうなの?」

「幼稚園で読んだ絵本では泡になっちゃったけど、テレビで見たアニメだと泡にならずに王子様と結婚したもん!」

「じゃあ真希奈ちゃんは、泡にならない人魚姫なんだね」

「そうだよ、幸せになるの!」

「うん、そうだね」

 上機嫌の菜々を寝かしつけたあと、ニイちゃんのSNSを開いてラジオの配信予定をチェックする。

 綺麗な空の写真に添えて、明日の夜十時半から配信予定ですと投稿されていた。

 そのままメールチェックなんかをしていると、美帆からメッセージが届いた。

『今日はありがとう。仕事の件、早速話してみたよ! それで急なんだけど、明日とか面接来れたりする? 履歴書なんかは後日でもいいって』

 今日の今日で話が進むなんて、本当に人手が足りていないようだ。

『大丈夫だよ。何時から?』

『午後の四時とかどうかな。ちなみに場所はここ』

 工場の地図が送られてきた。自転車を使えば、実家から十五分ほどで行ける距離だ。

『オッケー、じゃあその時間に伺うね』

 美帆から「ヨロシク!」とかわいいクマのスタンプが送られて来た。


 翌日、予定時間の十分前に工場に到着した。菜々は母に預けて来たが、今度こそおみやげ! と騒いでいたので帰りに何か買って帰ることになりそうだ。

 事務室のインターホンを押して面接に来た福田ですと伝えると、五十代くらいの男性が出てきて中へ案内された。

「遠藤さんからの紹介だし、もう採用するものとしてお話しちゃいますね」と、担当者の中川さんが工場での仕事内容と就業時間などの説明をしてくれ、最後にこちらの勤務希望時間を聞かれた。

 娘が小学校に入ってからの生活に慣れるまで夜勤は避けたいですが、それ以外の時間帯であればいくらでも働きたいですと伝えると、中川さんは「それはありがたいです」と笑って頭を下げた。

 とりあえずは平日の九時から十七時まで、アルバイトとして働くことに決まったが、希望すれば勤務状況により正社員として登用してもらうことも可能らしい。働いてみて問題なさそうなら積極的に考えてみてくださいと言われ、面接は終了となった。

 ありがとうございましたと事務室を出て駐輪場に向かっていると、見覚えのある後ろ姿の女子高生が目に入ってきた。

「真希奈ちゃん?」

 真希奈ちゃんは振り向き、口パクで「こんにちは」と挨拶してくれる。

「どうしたの? もしかして美帆に届け物とか?」


 お母さんは今日夜勤なのでまだ家にいます。私もここでバイトしてるんです


「えっ、そうなの? 美帆そんなこと言ってたかなあ。じゃあ今からバイト?」


 はい、八時まで


「高校生だから、短時間なんだね。でも、確か仕事中はスマホ持ち込み禁止だよね? 大変じゃない?」


 単純な流れ作業だから会話できなくても大丈夫。みんな優しいので楽しく働いてます


「そっか。私も早速週明けから働くことになったよ。真希奈ちゃん先輩だね、よろしくお願いします」

 ペコリとお辞儀すると、真希奈ちゃんもこちらこそとお辞儀をしてくれた。

 顔を上げた真希奈ちゃんは、あ、そうだという表情をしてまた何か文字を打ち始めた。


 もしご迷惑じゃなければ宏美さんの連絡先を教えてもらえませんか?


「え、私の? もちろんいいけど、どうして?」


 私はこんな状態なので、お母さん以外にも連絡のとれる身近な大人のひとがいたほうがいいかなと思って


 なるほど、確かにそうだ。何かあった時、真希奈ちゃんは話すことができないから助けを求めたり、警察を呼んだりも難しいだろう。

 そうなるとメールやメッセージアプリで美帆に連絡するしかないが、美帆がすぐ気付くとは限らない。連絡のとれる人間は多いほうがいい。

「そうだね。私のIDを教えておくから、いつでも気軽に連絡して」


 ありがとう。お母さんと喧嘩したら愚痴ってもいいですか?


「もちろん! 楽しみにしてるね」

 真希奈ちゃんはもう一度「ありがとう」と口パクし、手を振って工場の中へ入っていった。

 私は自転車に跨り、菜々へのおみやげを買いに行くミッションを遂行すべく商店街へ向かった。


 商店街の老舗で買ったカステラをペロリと平らげた菜々は、ご機嫌のままお風呂に入りあっという間に寝てしまった。明日は朝早くから町内会の溝掃除があるからもう寝るわと、寝室へ向かう母におやすみと声をかける。

 まだ夜の十時前だというのに、起きている人間が私だけになってしまった。テレビのボリュームを下げ、菜々が小学校で使う持ち物に記名していく。

 花の形をした小さなおはじきに名前シールがうまく貼れずイライラしていたら、気付くとニイちゃんねるの配信開始時間になっていた。

 急いでラジオアプリを開き、テレビを消してスマホの音量を少し上げ、テーブルに置いた。

 「疲れが溜まっていてやばいです、何かいい癒しグッズはありませんか」という相談に答えるニイちゃんの心地よい声を聞きながらの名前シール貼りは、不思議と全然イライラしない。

 癒しグッズなんて必要ない。私にとって、この声を聞くことが最高の癒しなのだ。


 菜々の入学式も無事終わり、工場で働き始めて数日が経った。妊娠するまではずっとデスクワークばかりだったので、工場での仕事やルールに馴染めるか心配だったけれど、真希奈ちゃんの言っていた通り他の従業員の人達はみんな優しかった。

 連絡先を教えて以来、真希奈ちゃんからはちょくちょくメッセージが来るようになって、主に美帆に対する愚痴を聞いたり、菜々の様子を伝えたりしている。

 午後の小休憩の時間になり休憩室に入ると、煎餅を食べながら談笑している田中さんと安川さんが「こっちにおいで」と手招いてくれた。

 二人とも、私の教育係をしてくれているベテラン社員さんだ。

「仕事はもう慣れてきた?」

 田中さんが煎餅を勧めながら聞いてきた。

「はい、おかげさまで」

 今度は安川さんが違う種類の煎餅を差し出しながら、

「福田さんが入ってきてくれてよかったわよぉ、覚えも早いし本当に助かったわぁ。遠藤さんも、いい人連れてきてくれたわよねぇ」

 と笑っている。

「ほんと、福田さんよくうちに来てくれたわよね。あんなことがあって、嫌じゃなかったの?」

「あんなこと?」

「やだ、遠藤さんから聞いてないの?ほらちょっと前に、廃墟の井戸で死んでる人が見つかったでしょ」

「その女の人のほう、増田さんはうちの社員だったのよねぇ」

「え? そうなんですか!」

 思わず大きな声が出てしまい、田中さんがしーっと人差し指を立てた。

「工場内で死んでたわけじゃないとはいえ、やっぱり気味が悪いじゃない? 同僚がこんなことになって、ショックで来れなくなった人も多くてね。結構な人数がバタバタ辞めちゃったのよ」

 人手が足りなくなったのはそれが理由だったのか。美帆は何も言っていなかったが、私が嫌がると思って気を遣ってくれたのかもしれない。

「増田さんて、どんな方だったんですか?」

 殺されるほど恨みを買うような人物だったのか、半ば好奇心で聞いてみた。

「若いけどそんなに派手な感じじゃなかったわよねぇ。仕事はちゃんとしてたけど、ちょっとお喋りで詮索好きな子だったわねぇ」

「そうそう、近所の誰々さんが不倫してるとか、何々さんこの前あそこにいましたよね何してたんですかとか、大きな声で言うのよ。悪い子ではなかったんだけどね」

「そうなんですか……」

 誰かの秘密を知って、口封じのために殺されてしまったのだろうか。

「とりあえず早く犯人捕まって欲しいわよね。無差別とかだったら怖いし」

 休憩時間終了を知らせるチャイムが鳴り、私達三人はそれぞれの持ち場へと戻って行く。

 殺人事件を身近に感じてしまい、仕事に戻ってからはあまり集中できなかった。

もしかするとこの工場の従業員に犯人がいたりする可能性もあるのだろうか。白骨化していた被害者との関係は?

 結局、終業まで頭の中はそのことでいっぱいだった。

 着替えを済ませてスマホをチェックすると、真希奈ちゃんから写真付きでメッセージが届いている。

『お疲れ様です。今日、西の喫茶店の前を通ったら、こんなものが貼られていました』

 一緒に送られた写真には手作りのポスターが写っており、たっぷり盛られたピンクのクリームに桜の花を模したチョコレートがデコレーションしてあるパフェが、期間限定メニューとして紹介されている。

『桜のパフェみたいです。菜々ちゃん、パフェ好きですよね?よかったら一緒に食べに行きませんか?』

 真希奈ちゃんからのお誘いなんて、飛び上がって喜ぶ菜々の姿が目に浮かぶ。

『いいね、行こう! 菜々めちゃくちゃ喜ぶよ!』

 お互いの予定を出し合い、五日後の土曜に行くことで話がまとまった。

 楽しみな予定ができたことで、殺人事件でモヤモヤしていた気持ちが少し晴れたような気がする。

 家に帰って早速菜々にこのことを話すと、やっぱり飛び上がって大喜びしてくれた。


 木曜日、久しぶりに美帆とシフトが被っていたので楽しみに出勤したのに、始業時間になっても美帆が現れない。

遅刻なんて珍しいわね、だけどまだ連絡来てないみたいよぉと田中さんと安川さんが話しているのが聞こえた。

 休憩時間、美帆と真希奈ちゃんにメッセージを送ってみたが一向に返事はなく、結局、美帆は終業時間まで連絡のつかないまま欠勤となってしまった。

 増田さんのこともあるし、何かあったんじゃないかと田中さん達がざわついている。途端に不安になり、お先に失礼しますと逃げるように工場から帰宅した。

 母は友人と二泊三日の旅行に行くと言って出かけてしまったし、菜々は隣の部屋でテレビアニメに夢中になっている。

 私はキッチンで一人、毎分のようにスマホを確認してみるが、美帆からも真希奈ちゃんからも返信がない。心を落ち着かせようとニイちゃんのSNSを開き、絶望した。

『このアカウントは存在しません』

 存在しません。まるで最初からいなかったかのような一文。ニイちゃんに相談して離婚を決意したこと、ニイちゃんに癒してもらっていた時間、これまでの全てを否定されたような気分になり、スマホを床に落としてその場にうずくまった。

 しばらくそうしていると、テレビを見ていた菜々が突然、

「ねえママ、遠藤美帆って、真希奈お姉ちゃんのママだよね?」

 と聞いていた。

「そうだよ、それがどうかした?」

「テレビに名前が出てるよ」

 ばっと顔を上げ、ハイハイのような体制で隣の部屋まで移動しテレビに目をやると、いつの間にかアニメは終わって夕方のニュース番組が始まっていた。

「速報」と赤いラベルが付き、「井戸遺体遺棄事件、被害者と同じ工場勤務の三十七歳女性が出頭」と見出しが出ている。警察署を映した映像と一緒に、「遠藤美帆容疑者」と名前が表示されていた。

 美帆は増田さんの殺害と遺棄について自分が一人でやったことだと言っており、さらに白骨化していたのは夫である秀昭で、これも三年前に自分が殺して棄てたと供述しているという。

 信じられない光景にくらくらと目眩がし、後頭部がすうっと冷たくなってくる。

 菜々を二階の部屋に行かせ、食い入るようにニュースを見続けた。

一体なぜ美帆がこんなことを? 何かの間違いではないのか、誰かに言わされているんじゃないかと必死に美帆が犯人ではない可能性を考えてみる。

 真希奈ちゃんはどうしているだろう。ずっと連絡がつかないけれど、警察で保護されているのだろうか。

 ニュースが終わってすでに別の番組が始まっていることにも気付かず、テレビの前で呆然としていたら、いつの間にか降りてきていた菜々に話しかけられた。

「真希奈お姉ちゃんのママ、どうしたの?」

「……菜々、明後日のパフェはやめにしよう」

「え、どうして? あたしすごく楽しみにしてるのに!」

「真希奈ちゃん、今すごく大変なの。きっと来れないし、来ても楽しくお話なんて無理だから諦めよう、またいつか行こうね。ごめんね菜々」

私の声は震えてしまっている。

やだ! と騒がれると思っていたのに、菜々は一言「わかった」と呟き、テーブルで宿題を始めた。子供なりに、いつもと違う何か大変なことが起きていると察したのかもしれない。


 翌朝、テレビに知り合いの名前が出ていたとか遠藤美帆さんを知ってるとか絶対に言っちゃダメだよと菜々に言い聞かせ、学校へ送り出した。

菜々を巻き込みたくはない。

 続報があるかもとニュースを垂れ流しながら家事をしていたら、インターホンが鳴った。

玄関を開けると知らない男性が二人立っており、警察手帳を見せてきた。

「福田宏美さんですか?」

「そうですが、刑事さんがなんのご用でしょうか」

「ニュースご覧になりましたよね? 遠藤美帆さんと親しくされていたようですが、娘の真希奈さんご存知ですか?」

 美帆のことを聞かれるのかと思っていたのに、真希奈ちゃんの名前が出てきて面食らう。

「え、真希奈ちゃんですか。もちろん知ってますけど、どうかしたんですか」

「実は昨日から行方が分からなくなっているんです。母親の出頭を受けて自宅を家宅捜索したんですが、真希奈さんの部屋にあったカレンダーに予定が書き込まれていました。明日の土曜のところに『宏美さんと菜々ちゃんとパフェ』と。菜々ちゃんというのは誰なんでしょう、どこで会う約束をしていたか教えてもらえませんか」

 真希奈ちゃんが行方不明? なぜ警察は真希奈ちゃんを探しているんだろう。

「菜々は私の娘です。小学生になったばかりなので関係ないですよ。場所は……」

 なんとなく嫌な予感がした。真希奈ちゃんを見つけ出してどうするつもりなんだろう。

ふと、昨日のニュースを思い出した。美帆はこの事件について、「一人で」やったことだと言っているはずだ。わざわざ出頭してそうアピールするなんて、もしかして真希奈ちゃんも事件に関わっていて美帆はそれを庇って隠そうとしているんじゃないか。そして当然、警察もそれを疑っているに違いない。

美帆が真希奈ちゃんを守ろうとしているのだとしたら…

「福田さん?」

「あ、すみません。明日は『西の喫茶店』で会う予定でした」

「西野…ああ、東口にありますね。あそこですか。真希奈さんは来ると思いますか」

「さあ、分かりません。約束をしたのは美帆が出頭する前ですし、こんなことになって私は行かないつもりでした。真希奈ちゃんもそれどころではないと思ったので」

「明日行かないことを、真希奈さんに伝えましたか」

「いいえ、昨日からずっと連絡がつかないのでまだ言ってません」

 じゃあまだ来る可能性はあるな、と二人の刑事は顔を合わせて頷き、

「朝早くにすみませんでした。ありがとうございます」

 と足早に去っていった。

 美帆が守ろうとしている真希奈ちゃんのために私ができることは、これくらいしかない。

今日は仕事を休みにすると夜中に中川さんから連絡があったので、家事を済ませて昼すぎに『西の喫茶店』へ向かった。

 いつもの窓際のボックス席に座り、メニュー表を開く。期間限定の桜パフェが最初のページに載っているけれど、これはいつかみんなで食べようと菜々と約束した。

 お馴染みのナポリタンを注文し、待っている間に紙ナプキンを一枚取り出す。

 明日、真希奈ちゃんはここへ来るだろうか。





 「ただいまー。ねえポストに手紙溜まってたよ」

「あ、ごめん。昨日から見てなかったわ、おかえり菜々」

菜々はバッグをテーブルに置き、郵便物の束を広げて仕分けを始めた。

「げー、また塾の勧誘チラシこんなに入ってるよ」

「そりゃあ、あんた来年受験だからね。大学生さんになるにはお勉強しないと」

「あー考えたくない」

 ガチャガチャと派手な色味のチラシをまとめてゴミ箱に突っ込んだあと、菜々が一通の封筒を差し出してきた。

「これ、お母さん宛だよ。差出人書いてないけど」

無地の白封筒には切手が貼られておらず、住所も書かれていない。真ん中に丁寧な時で「福田宏美様」とあるだけだった。

「えー誰だろう」

ハサミで端を切り、中の便箋を開いてヒュッと息を飲み込んだ。

真希奈ちゃんからだ。

 郵便物を仕分け終わった菜々が、バッグを持って階段を上がって行く。

 十年前、美帆が出頭してから真希奈ちゃんからの連絡はずっと途絶えたままだった。

何度メッセージを送っても返信は来ず、真希奈ちゃんが保護されたとか捕まったとか見つかったとか、そういう話も一切なく行方が分からないままになっていた。

 ダイニングチェアに座り、便箋に書かれた文字を一行目から読み始める。


 宏美さん、お久しぶりです。遠藤真希奈です。まだ覚えていてくれるでしょうか。

何も言わずにいなくなってしまったこと、本当に申し訳なく思っています。

 宏美さんにごめんなさいとありがとうを伝えたくてこの手紙を書いていますが、きっと長くなると思います。

私達親子に何があったのか、そのお話しをするにはまず私のことを知ってもらわなくてはいけません。

 私は「遠藤真希奈」になる前、血の繋がった実の父と母と三人で暮らしていました。

専業主婦だった母は経済的に父に依存しており、精神的に弱い部分がありましたが、綺麗で優しい人で大好きな自慢の母でした。父は仕事で不在のことが多く、家の事にあまり興味が無いようでした。

 私が小学五年生の時、父の浮気が発覚します。

母はひどく取り乱して父を詰り、毎日のように出て行けと叫んでいましたが、絶対に離婚するとは言いませんでした。

 結局父は本当に家を出てしまい、家には母と私だけが残されました。

母はその頃から少しずつおかしくなってきて、私が将来不貞を行うような人間にならないよう有害なものは全て排除しようと、多くの事に制限をつけ始めたのです。

 見てもいいテレビ番組は母が選んで一日一時間までと決められ、読んでいいのは母が選んだ文庫本のみで漫画は禁止、お絵描きも塗り絵もイラストは母が決める、テレビゲームなんて以ての外です。クラスの子と遊ぶにも母の審査が入るようになり、友達はほとんどいなくなりました。

 そんな中で唯一、折り紙だけは「安全だから」と母の干渉を受けず楽しむことができたので、専用のケースに色とりどりの折り紙を入れて常に持ち歩いていました。

 そして母はだんだんと酒に溺れるようになり、一日中ビールや発泡酒の缶を片手に生活して、酒の在庫がなくなると奇声を上げて暴れていました。

完全にアルコール依存症だったと思います。

 大好きな人が壊れていくのを見るのが辛くなった私は、家をめちゃくちゃにした父となぜ離婚しないのかと母に聞いてしまいました。

 母は持っていた缶ビールを床に叩きつけ、金切り声で叫びました。

あんたがいるのに離婚なんてできるわけないでしょう、お金どうするの、誰が二人分の生活費を稼ぐのよ、習い事もできない子になりたいの、私一人ならさっさと離婚してるわよ

 母が父と離れられないのは私のせいでした。私がいなければ母はすぐにでも離婚して、新しい人生を始められたのに。

 私が母の人生を縛って幸せを奪っているという自責の思いは確かにあるのに、まだ小学生だった私は働くこともできないし、生活するには母に頼るしか術がなく、どうすることもできませんでした。

 そんなある時、あの人が帰ってくるのよと、母の機嫌が不気味な程にいい日がやってきます。母は久しぶりにばっちりと化粧をして身なりを整え、父の好物だったナポリタンを作って帰宅するのを待っていました。

 そして正午過ぎに父が姿を現したのですが、母と私に何か声をかけることもなく自室に直行してキャリーバッグに自分の荷物を詰め始め、最後にようやく母のところへやって来ました。

離婚しないというのならそれでもいいが、俺はもうこの家には戻らない。最低限の生活費は振り込んでやるが、それ以外のことで連絡してくるな

 めかしこんだ母にそう言い放ち、父はまた家を出ていこうとしました。きっと浮気相手の女性と新しい生活を始める気なのだと子供の私でも察しがつきましたので、母も同じことを考えたのでしょう。

 母はキッチンに置いてあった包丁を手に取り、父の背中を刺しました。

 床に倒れゆく父の手がテーブルに置いてあった折り紙ケースを叩き落とし、中に入っていた色とりどりの折り紙が散らばる光景を、私は今でもよく覚えています。

 母は仰向けに倒れた父に跨り、何度も何度も包丁を振り下ろしていました。

 すっかり動かなくなった父をしばらくぼうっと眺めたあと、母は突然テーブルについて皿に盛られていたナポリタンを食べ始めたのです。

血塗れになった父が足元に倒れているのに、血走った目で口の周りを汚しながら黙々とナポリタンを食べる母をとても人間と思えなかった私は、この化け物を倒して優しかった母を取り戻さなくてはいけないという妄想に取り憑かれます。

 ナポリタンを食べ尽くした化け物はまた冷蔵庫から大量の酒を出して飲み始め、しばらくすると眠ってしまいました。

そこで私はテーブルに放置されていた空のビール缶を一つ手に取り、玄関に放置されていた古い除草剤を缶の中に注いで元の場所に戻しておきました。

 そのうち化け物は目を覚ましますが、起きるなり酒、酒と騒いで目の前にあったビール缶を掴み、中の除草剤を大量に飲み込んでくれました。床に倒れて嘔吐し、口の中や喉を押さえながら痙攣を起こす母に似たそれを、私は何もせずただ眺めていました。

 それから何時間経ったか分かりませんが、それは完全に動かなくなったので「やった、化け物を倒したぞ」と、私は一種の高揚感、達成感のようなものを覚えたのです。

 このとき、私もきっと人間ではなくなっていたのでしょう。

 そして残念なことに、化け物を倒しても優しかった母は帰って来ず、私は一人ぼっちになりました。

 父と母の死は無理心中として処理され、両親を亡くした私は施設に入ることになるのですが、この時の私は一時的に声を失っていました。

 母が父を刺し、二人が絶命する瞬間を目の前にした精神的ショックによるものだと言われましたが、それだけではなかったはずです。化け物を倒したのに母は戻らず、一人になってしまった寂しさが私にとって何より辛かったのですから。

 施設の人達は私に良くしてくれましたが、話すことができない私は同世代の子達とうまくコミュニケーションがとれず、受け入れられていないという孤独感がありました。一人で部屋の隅に座り、折り紙遊びをしていることがほとんどだったと思います。

 施設に入って一年ほどが経過した頃、声が出ない子、喋ることができない子がいたら積極的に養子縁組を考えたいというご夫婦がいらっしゃるのだけど会ってみないかという話をいただくのですが、これが遠藤秀昭さんと美帆さんでした。

 わざわざ声が出ない子を希望するなんてどんな物好きな夫婦なのかと、半ば冷やかしで私は二人と面会してみることにしたのです。

 実際に会ってみると秀昭さんも美帆さんもどこか疲れたような雰囲気がありましたが、それを気にさせないくらいに誠実で暖かい人だという印象を受け、物好きだなんて思ってしまった自分を恥じました。

 筆談で自己紹介をすると私の名前を見て二人はとても驚いた様子で、それと同時にどこか感動しているような表情を見せたのですが、これは後日になって理由が分かります。

 私は遠藤夫婦と何度か面会を重ね、そのうち打ち解けてくると一緒にお出かけをしたり自宅にお泊まりしたりするようになりました。

 遠藤夫婦、特に美帆さんは私が喋れないことを全くマイナスには考えていませんでした。

声が出ないままでも構わない、喋れるようになる必要はない、あなたはそのままでいいのよと言ってくれ、この人は声が出ない私をそのまま受け入れてくれるのだという大きな安心感を得ることができて本当に嬉しかったのです。

 二度目のお泊まりのとき、美帆さんは私に沢山のことを話してくれました。

美帆さんは若くして未婚の母になり、娘の名前は私と同じ「真希奈」であったこと。

真希奈ちゃんが小学三年生のとき、婚活サイトで知り合った秀昭さんと結婚したこと。

小学生の子がいる女なんて誰も相手にしてくれないと思っていたのに、秀昭さんはそれを嫌な顔をせず受け入れてくれて、真希奈ちゃんに対しても本当の父親のように接してくれたこと。

真希奈ちゃんはある時からどんどん声が出なくなってしまったけれど、結局原因は分からなかったこと。

そして真希奈ちゃんは五年生のとき、七夕の夜に踏切で電車に跳ねられ亡くなってしまったこと。

 美帆さんはその日夜勤で家を空けていたので何があったのか分からないらしく、普段なら寝ているはずの時間にパジャマのまま家を飛び出してそのまま踏切に飛び込んだと、当時家にいた秀昭さんから知らされたことを悲愴の表情を浮かべて話してくれました。

 声の出ない子を希望していたのは、亡くなった真希奈ちゃんの代わりがほしかったからなのだと分かりましたが、それは私にとってどうでもいいことでした。

 代替品としてで構わないから、私をこの暖かい世界に迎え入れてほしい、もう一度家族がほしい、優しいお母さんがほしい、何よりもそう願っていたのです。

 亡くなった真希奈ちゃんと同い年、同じ名前で同じように声が出ないなんて、これはもう運命という以外なんと表現すればいいのでしょう。私の名前を知ったとき、きっと美帆さんも同じ気持ちだったのだと思います。あなたがいいなら、すぐにでも家にお迎えしたいと、そう言ってくれました。

 そして初めて面会してから三ヶ月後、私は「遠藤真希奈」として新しい人生を始めることになったのです。

 それからの生活は、本当に幸せでした。

 優しくて明るい美帆さんに、家族にちゃんと興味を持ってくれる秀昭さん。二人の愛情を一身に受けて楽しい毎日を過ごしていると、そのうちなんとなく喉のあたりに違和感を感じるようになりました。

 少しずつ、声が出るようになってきたのです。

 下校途中や寝る前の布団の中など、誰も見ていないところで声を出して喋る練習をしていた私は、美帆さんを驚かせようと考え電話をかけてみることにしました。

 筆談用にと買い与えられたスマホから、美帆さんの休憩時間を狙って何コールか鳴らしてみると、もしもし?と訝しげな声の美帆さんが電話に出ました。

 声を取り戻したことをきっと喜んでくれる、これから沢山お喋りしようねと言ってもらえると信じていた私は、お母さん私だよ、真希奈だよ、声が出るようになったんだよとそれはもう興奮して電話口の美帆さんに伝えましたが、現実は私の思い通りにはいきませんでした。

あなた誰?うちの真希奈は喋れないのよ、声が出る真希奈はうちの子じゃないわ、私の真希奈はどこ?どうして真希奈の携帯を持っているの

美帆さんは怒りを含んだ冷たい声でそう言い放ちました。

 予想外の反応を受けた私は怖くなり、とっさに電話を切って美帆さんにメッセージを打ちました。

友達がふざけて私のフリをして電話をかけた、ごめんなさいと送ると、そんなお友達とは縁を切りなさいと返信が来ました。それまで友人関係には一切口を出さなかった美帆さんがそんなことを言うなんて、本当に怒っているのだと思うと同時に、私は自分が勘違いしていたことに気が付いたのです。

 美帆さんが求めているのは「亡くなった真希奈ちゃんの代わり」などではなく「声の出ない真希奈ちゃんそのもの」であり、声が出るようになった偽物の遠藤真希奈を受け入れてはくれないのだと思った私は、ある決意をします。

 これから、もう二度と人前で声は出さない、喋らない。声の出ない遠藤真希奈として生きていく。

 どうしてそんなことを、バカなんじゃないかと思われるかもしれませんが、その時の私は美帆さんに捨てられるのが何よりも怖かったのです。

一人になった私を暖かい世界へ迎え入れてくれ、母親として愛情を注いでくれる美帆さんと一緒にいると、自分がまた人間に戻れるような気がしました。そして、そんな美帆さんに恩返しがしたいと思っていたのです。

 そして私の声が出るようになって少し経った頃、秀昭さんがおかしな行動をとるようになります。

私が一人でお風呂に入っているとドアを開けて中を覗いてきたり、部屋に入ってきてやたらと体を触ってくることがあったのですが、それは必ず美帆さんが夜勤で家にいないときでした。部屋や脱衣所で着替えをしていると、ドアの隙間からスマホのカメラを向けられていたこともあります。

 その場でやめてと拒否を口にすればよかったのかもしれませんが、二度と人前で声を出さないと決めた私にそれはできませんでした。ましてや秀昭さんに私が喋れることを知られてしまったら必ず美帆さんにも伝わってしまいますので、ひたすら声を出さず首を横に振り、我慢していました。

 そんなことが続いたある日、ついに事件が起こります。

 美帆さんが夜勤のため家を出た直後、いつも通り秀昭さんが私の部屋に入ってきたのですが、その日は体を触ってくるだけでなく、私が着ているワンピースを脱がせようとしてきました。手足をバタつかせて抵抗していると、秀昭さんは舌打ちをして自分の履いていたズボンと下着を脱いで私の頭を掴みました。

 私は咄嗟に近くにあった国語辞典を秀昭さんの顔に向かって投げつけ、怯んで手を離した秀昭さんを突き飛ばして押し出すようなかたちで部屋の外に出したのですが、そのときにバランスを崩したのか秀昭さんは部屋の前の階段から転落してしまいました。

 慌てて下に降り、倒れている秀明さんを確認しましたが、生きているのか死んでいるのか分かりませんでした。

 どうしよう、救急車を呼ばないといけない、だけど私は喋れないことになっているから電話はできない、どうしようどうしようと半ばパニック状態になっていると、忘れ物しちゃったと美帆さんが玄関を開けて入ってきました。

 美帆さんは目の前の光景に一瞬唖然とした表情を浮かべましたが、下半身を露出した秀昭さんと涙目でワンピースをはだけさせている私を見て、何が起きたのか察したようでした。

 美帆さんは私に、すぐお風呂に行きなさい、いつもより長めに入ってきてと言い、職場に電話をかけて欠勤することを伝えていました。

 私は言われた通りいつもより長めに入浴し、お風呂から戻ると美帆さんと秀昭さんの姿が消えていました。

どこかへ行ってしまったのかと不安になり、玄関周りを見ると美帆さんの靴と車がなくなっていたので、きっと秀昭さんを病院に連れていったのだと思った私はそのまま部屋に戻り眠ってしまいます。

 翌朝目を覚ますと、美帆さんはすでに帰宅していましたが秀昭さんの姿がなく、美帆さんからしばらく入院することになったとだけ教えてもらいました。

 その後秀昭さんが戻ってくる気配はなく、美帆さんも見舞いに行く様子がないまま何ヶ月か経過した頃、あの人はもう退院したけどうちには帰ってこない、どこかへ行ってしまったからと、美帆さんは私に言いました。

その時の美帆さんの表情や纏っている危うい空気感が私が命を奪ってしまった母と重なり、わかったと頷くのが精一杯で、どこへ行ってしまったのかとか、離婚してしまうのかとか、何も聞くことはできませんでした。

 私はずっとこの時の美帆さんの言葉を信じ、秀昭さんは生きていると思っていたのです。

 そしてこれはあくまでも私の憶測、妄想なので適当に読み飛ばしてもらって構わないのですが、おそらく亡くなった真希奈ちゃんも私と同じことをされていたのではないかと考えています。

 美帆さん不在のときに秀昭さんから体を触られ、もしかしたらもっと酷いことをされていたのかもしれません。

 美帆さんに相談することもできず精神的に追い詰められどんどん声が出なくなっていき、耐えられなくなった真希奈ちゃんはあの夜秀昭さんから逃れるため、パジャマのまま家を飛び出したのではないかと。

命を絶つつもりで踏切に侵入したのか、無我夢中で遮断機が降りてきていることに気付かなかったのか、それももう分かりませんが。

 秀昭さんが婚活サイトで美帆さんと親しくなり結婚を決めたのも、初めから真希奈ちゃんが目当てだったのかもしれません。

真希奈ちゃんが亡くなったことで代わりが欲しくなり、養子縁組にも積極的だった。声が出ない子であれば秀昭さんにとっても都合がよかったでしょうから。


 秀昭さんがさんがいなくなり、美帆さんの地元に移ってからの生活はとても穏やかでした。

 私は受験を経て無事に高校生となり、アルバイトをしたいと美帆さんに相談しました。

「誰が二人分の生活費を稼ぐのよ」

あのとき母に言われた言葉が忘れられず、私が自分で働いてお金を稼げればいいのに、早く働ける年齢になりたいという気持ちがずっと心の中にあったのです。

 その頃の美帆さんは一馬力で私を育ててくれていましたから、私も働いて美帆さんの支えになりたいという思いもありました。

 アルバイトをすること自体は快諾してもらえましたが、私は声が出ないということになっていたのでバイト先を探すのが大変でした。

 そこで美帆さんが働いている工場はどうかという話になります。そこの工場なら基本的には流れ作業でほかの作業員と会話をしなくても仕事は可能ですし、美帆さんがいるなら私も安心できると思い早速面接を受け、働かせてもらえることになったのです。

 そしてその頃から、私はだんだんと声を出さない、喋らない生活を息苦しく感じ始めます。

本当は声が出るのに、毎日誰とも喋らず話をせず、スマホの画面に文字を打っているだけ。少しでいいから声を出して話したい、誰かと声で繋がりたいと、そう思うようになってしまったのです。

 そうはいっても美帆さんに打ち明けるほどの勇気はなく、知り合いや友達にカミングアウトするのもリスクがあります。どんなに口止めしたとしても、どこから美帆さんに漏れるか分かりません。

 そこで私は、配信アプリを使ってラジオ配信をすることにしました。ラジオであれば顔を出さなくていいので、誰も私が喋っているとは分からないだろうと考えたのです。

 まさかこの行動が全てを終わらせることになるなんて、そのときは想像もしていませんでした。

 宏美さんは一般人のラジオ配信を聴いたことがありますか? ラジオといっても、企画を組むわけでもなくただの雑談なんかを一方的に垂れ流しているだけのものも多いんです。

 恥ずかしいので詳細は伏せますが、ある虫からとったハンドルネームを使って私も雑談やお悩み相談といった内容の配信をしていました。

絶対にバレないよう、美帆さんが夜勤などで不在のときを狙っての配信だったのでスケジュールが固定できず、ラジオの配信予定はSNSを利用して告知していました。

 秘密の配信を始めて一年程が経ったある日、私は学校からバイト先の工場へ向かう途中の空が綺麗だったのでスマホで写真を撮り、それをSNSに投稿します。

すぐにいくつかコメントが付きましたが、バイトが終わってから見ればいいと思い、確認せずに作業に入りました。

 数時間後、コメントを見て戦慄しました。

「撮影者様がミラーに映っていますよ」

慌てて投稿した写真を確認すると、左上のカーブミラーにスマホを空に向けている制服姿の私が映り込んでいたのです。

 すぐにその写真は削除し、コメントをくれた方にはお礼を言っておきました。

正直かなり焦りましたが、写真が掲載されていた時間は四時間程度でそれなりの人数が閲覧していたとしても、まさかその中に自分の知り合がいるわけないだろうとタカを括っていたのです。

 それが間違いだったと気付いたのは翌日、バイト先に到着したときでした。

 駐輪場で社員の一人が、これ真希奈ちゃんだよねと、削除したはずの写真を私に見せてきました。

あの事件の被害者、増田梨緒さんです。

 あろうことか増田さんはその写真を保存しており、これ真希奈ちゃんだよね? てことはあのラジオで喋ってるのも真希奈ちゃんだよね? 本当は喋れるの? どうして喋れないふりしてるの? ねえどうしてどうしてと、周りに聞こえるような大声で私を質問攻めにしてきました。

 私じゃない、人違いですと伝えましたが増田さんは引き下がらないどころか、保存した写真を美帆さんに見せて真希奈ちゃんかどうか聞いてみると言い出したのです。

そんなことはやめてくださいと頼みましたが、違うなら聞いたっていいでしょうと全く聞く耳を持ってくれませんでした。

 冷静になって考えれば、いくらでも言い逃れる方法はあったのだと思います。配信で喋っているのは友達で、私はSNSの投稿を担当しているだけだとか言っておけばよかったのかもしれませんが、その時の私はとてもそんな言い訳を考えられる程の余裕はありませんでした。

 とにかく美帆さんにバラされたくないと気が気でなかった私は増田さんを工場裏の普段利用していない駐車場まで引っ張って行き、そこでもう一度、写真に写っているのは私ではないし、美帆さんに見せるのもやめてほしい、その写真もすぐに消してほしいと懇願しましたが結果は同じでした。

 工場に戻ろうとする増田さんの首を、持ち歩いているスマホの充電ケーブルで後ろから絞め、気付いた時にはその場に倒れて動かなくなった増田さんを見下ろしていました。

 バチが当たったんだと思いました。

美帆さんに捨てられたくない一心で、喋らないことを自分の意思で決めたはずなのに、やっぱり他の人と同じように喋りたい話したいなんて、簡単に決意を曲げてくだらない欲を出してしまったから。

 信じてもらえないでしょうが、私は増田さんを殺すつもりなどありませんでした。とにかく黙ってほしい喋らないでほしい美帆さんに言わないでほしいと、そう思っただけだったのです。

 咄嗟に首を絞めるなんて、もう本当に私はあの時の母と同じような化け物になってしまったんだと絶望しました。

 勤務開始時間になっても私が現れないため工場から美帆さんに連絡が入ったらしく、何件かメッセージが届いていたので、すぐ来てほしい、助けてと返信すると、美帆さんは十分も経たずに駐車場へ来てくれました。

 美帆さんは秀昭さんが倒れているのを見た時と同じ表情を浮かべ、私にすぐ家に帰りなさい、何とかするからと言って動かない増田さんを抱え上げ、車に乗せようとしていました。

 化け物だと思い込んでいた母とは違う、「人」を殺してしまったという恐怖と悔恨と申し訳なさで足がすくみ動けなかった私はその様子をただ見つめていましたが、美帆さんはそんな私を早く帰りなさい!と怒鳴りつけました。

 美帆さんがそんなふうに声を荒らげることは初めてだったので、私は急いで駐輪場へ戻り自転車に跨って自宅へ向かいました。

 しばらくして帰宅した美帆さんに増田さんはどうしたのか尋ねましたが、あの人は生きてたわよと言うだけで何も教えてくれませんでした。

 それから数日して、自宅から数キロ離れた廃墟の井戸で二人分の遺体が見つかったというニュースが流れるのですが、私は瞬時に秀昭さんと増田さんであると確信しました。そして、二人とも生きていなかったという事実に押し潰されそうになったのです。

 実際のところ、秀昭さんと増田さんがどの時点で亡くなっていたのかは分かりません。私が殺してしまっていたのか、まだ微かに息のあった二人を美帆さんが確実に殺したのか……。

ただ、井戸に二人を遺棄したのは間違いなく美帆さんだったと思います。

 女性の身元が判明し、それが増田さんであると発表された後も私達はそれについて話をすることは一切なく、美帆さんとの関係も生活も何も変わらない、不気味な程にそれまで通りの日々を過ごしていました。

 そして井戸の中で二人の遺体が見つかった時から、いずれ美帆さんとは離れ離れになってしまう予感がしていた私は、また一人ぼっちになってしまう寂しさと恐れに震えていました。

 そんな時に出会ったのが、宏美さんと菜々ちゃんです。

 私が宏美さんに連絡先を教えてほしいと頼んだのは、二人と仲良くなればひとりぼっちにならなくて済むかもしれないと思ったからなのです。宏美さんの善意を利用するようなことをして本当にごめんなさい。

 きっかけはひとりぼっちになりたくないという自分勝手な考えからでしたが、菜々ちゃんの無垢さに触れ、宏美さんと楽しくメッセージのやり取りをするに連れて、私はだんだんと自分がしてきたことの重大さ、罪の重さを現実のものとして感じるようになってきました。

 これが私がまともな人間に戻れる最後のチャンスではないかと思った私は、全てを精算して罪を償う決意をします。ラジオ配信アプリとSNSのアカウントも、この時に全て削除しました。

 そして実の母に除草剤を飲ませたこと、本当はとっくに喋れるようになっていたのに美帆さんに捨てられるのが怖くて嘘をついていたこと、秀明さんと増田さんにしてしまったことについて警察に話すつもりでいることを、スマホの画面ではなく自分の声を使って美帆さんに伝えました。

 美帆さんは黙って私の話を聞いてくれていましたが、最後に「ごめんね真希奈ちゃん、もう、解放してあげるから」と涙を流し、そのまま家を出ていってしまったのです。

 その後は宏美さんもご存知の通り、美帆さんは警察に出頭し全て自分一人でやったことだと供述します。

 美帆さんが出て行った後、家に一人でいるのが耐えられなかった私は漫画喫茶やカラオケボックスを転々としており、美帆さん出頭のニュースもネットカフェで知りました。

美帆さんが私を庇って罪を全て被ろうとしていると知り、私の中で葛藤が生まれます。警察に本当のことを話し、自らの罪を償ってまともな人間に戻りたいという気持ちと、美帆さんが最後に私のためにしてくれた行為を無駄にしたくないという気持ちがぶつかり合っていました。

 いくら考えても正解が分からず、このままでは永久に答えを出せないと思った私は、ある賭けに出ます。

 西の喫茶店で桜のパフェを食べる約束をしたのを覚えていますか?

その日が来る前に美帆さん出頭のニュースが流れてしまったので、宏美さん達が約束通り来てくれるかどうか確信が持てませんでした。

だからその約束の日、宏美さん達が来てくれたら一緒にパフェを食べて、その楽しい思い出を胸に警察へ行く。もし来てくれなかったら、美帆さんの思いに従うと決めました。

 そしてその日、私はあの窓際の席で二人を待っていましたが、宏美さん達は現れませんでした。

 当然といえば当然ですよね。決して宏美さんを責めるつもりはありません。私だって逆の立場ならやっぱりそうしたでしょうから。

 だけど宏美さん、あなたは最後まで私のことを考えてくれていたんですよね。

 あの日いつもの癖で紙ナプキンを手に取った私は、宏美さんが残してくれたメッセージをしっかり受け取りました。

美帆さんの思いに従い、宏美さんの気持ちを受け止め、私は警察には行きませんでした。

 その判断が正しいものだったのか、正直今でも分からないままです。

 確かに言えることは、宏美さんが最後にくれたメッセージは間違いなく私の心の支えになり、今でも私を救ってくれているということ。本当に感謝しています。

 長い戯言に付き合っていただき、ありがとうございました。

 最後にまた自分勝手なお願いをしてしまうことを許してほしいのですが、この手紙は誰の目にも触れないよう処分していただきたいのです。

 どうかよろしくお願いします。

 追伸

 菜々ちゃんはお元気ですか?きっと今頃素敵な女子高生になっているんだろうなと思います。おいしいパフェを、もう一度一緒に食べたかったです。


 手紙を一気に読み終え、気が付くとお腹を空かせた菜々がキッチンに降りてきていた。

「手紙、誰からだったの?すごく真剣に読んでたけど」

 何か食べるものはないかと冷蔵庫を漁っている。

「……泡にならなかった人魚姫からよ」

「はあ? なにそれ」

 菜々は冷蔵庫からヨーグルトを二つ取り出し、また二階へ戻って行った。

 便箋を折りたたんで封筒へ戻そうとしたとき、中にまだ何か残っていることに気が付いた。

封筒をひっくり返してみると、馴染みのある喫茶店のロゴが入った紙ナプキンを折って作られた、小さなお守りが出てきた。よく見ると、すっかり薄くなってはいるが何か文字が書かれている。

『幸せになって』

 これはあの日、真希奈ちゃんと約束した日の前日に、西の喫茶店で私が真希奈ちゃんに宛てて書いたものだ。

 真希奈ちゃんはこのメッセージに救われていると言ってくれた。だけど私もまた、真希奈ちゃんの声に救われていたのだ。

 小さなお守りは財布にしまって封筒はボウルに入れ、そのまま庭に出て線香用のライターで封筒に火をつける。

 金属製のボウルの中でゆらめく小さな炎を眺めながら、この結末が本当に最善だったのか考えてみた。どこかの場面で、もっと早く真希奈ちゃんと美帆を救い出すチャンスはあったのではないか。

 炎はだんだんと勢いを失っていき、無数の小さな灰を残して消えてしまった。

 ボウルの中から灰をつまみ上げ、手のひらに乗せてみる。しばらくその場でチリチリと揺れたあと、夜風に吹かれて遠くへ飛ばされていった。

 真希奈ちゃんは今、どこかで幸せを感じられているのだろうか。

 遠くのほうで、ヂィーと高くて長い、透き通った声のニイニイゼミが鳴いていた。



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エクス・マキナ ユウヤミ @yumaxxx

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