第五章「過去、もういらないです」
第21話 そうだ、キャンプに行こう
壱嵩side……
明日花さんと知り合ってから一ヶ月が経とうとしていた。
最初のうちは色々と戸惑うことの多かった彼女だが、次第に片付ける習慣もついて職場でもミスが減ったと喜んでいた。
「パートさんからの評判もよくなってきたし、死にたいって気持ちが起きなくなったんだ。これも全部壱嵩さんのおかげだよ」
所々で重たいワードが入るが、せっかく彼女の気持ちが向上してきたのでスルーしておこう。
だがあくまで俺は土台を作っただけで、実際に努力したのは明日花さん自身だ。もっと自信を持っていいと思う。
「あ、そういえば明日花さんはキャンプとか興味ない? 職場の山本さんから道具を一式借りれることになったんだけど一緒に行かない?」
アウトドアが趣味だと豪語していた山本さん(38)がキャンプの良さを広げたいと言うことで貸し出しをしてくれたのだ。
キャンプ飯に興味があった俺は前々から色々と計画を立ててはいたのだが、明日花さんと出逢って交際が始まったので、予定を先延ばししていたのだ。もし興味がなければ一人で行こうとは思っていたのだが、どうだろう?
「キャンプ? 小学校の時以来だけど大丈夫かな?」
意外にもノリ気な様子に思わず聞き返した。
野外なので虫も出るし、眠る時も寝袋だ。自分達で火も起こさないといけないし、テントも張らないといけないが大丈夫だろうか?
「大人になってから、そういうイベントしたことがなかったから行ってみたいかも」
こうして俺達は二人でキャンプへ行くこととなった。
———……★
緑林の爽やかな香りがする。鬱蒼と茂る夏木立の中、透き通った青色の湖水に隣接した穴場へ辿り着いた。
整備されたキャンプ場と違い、周りには何もない。完全に二人きりの空間に置かれた俺達は、清々しい開放感を堪能していた。
「空気が美味しい……! さすがは山本さんオススメの穴場スポット」
「スゴい遠かったもんね。壱嵩さん、運転疲れたんじゃない?」
「いや、全然問題ないよ。ふぅ、とりあえず椅子を出して珈琲でも飲もうか。休憩したら二人でテントを張ろう」
昔見たCMのようなシチュエーションで、豆から挽いた珈琲を飲むことに密かに憧れていたのだ。
この日の為に買っておいたハワイのコナコーヒー豆を厳選して、手動のミルで引き始めた。そして車から引っ張ってきたコンセントで沸かしたお湯を適温に冷まして、セットしたドリッパーに注いだ。
この一手間が美味しい珈琲を作るのだ。
「スゴいね、壱嵩さん。ねぇ、何でこの豆は使わなかったの?」
「ん、あぁ。豆を挽く前に綺麗なのを選んで淹れた方が美味しいんだって。漫画で知ってから分ける癖がついてね。面倒くさそうって言われるけど習慣になっちゃったんだ」
もしかしたらズボラな傾向の明日花さんには理解できない作業かもしれない。案の定、興味なさそうに別の行動を始めたが、これも想定の範囲内だ。
「それじゃ、これも一緒に食べてください。クッキーとバウンドケーキ。私の大好きなココナッツをたくさん入れたよ」
形はまだらだけれども香ばしい香りが漂う。バウンドケーキも柔らかくて美味しいし、クッキーもサクサクして口の中で甘くホロホロとほどけていく。
「めちゃくちゃ美味しい! お店のと遜色ないし、明日花さんお菓子も作れたんだ」
「初めてのお泊まりデートだから……ちょっと気合い入れて作ってみた」
よくよく考えたら初めて食べる彼女の手作りお菓子だ。過去の彼女とはこんなイベントを過ごしたことがなかったので、嬉しくて涙が出そうだ。
「開放的な空間に美味しいお菓子と珈琲。もう贅沢の極みだ」
映画のようなワンシーンだと感動していたのも束の間。テントを張ろうと意気込んだその時だった。
キョロキョロと挙動不審に慌てる明日花さんの様子に、嫌な予感が脳裏を
「どうかした? 何か探してる?」
「あ、その……ごめんなさい。実はチャッカマンを家に忘れてきたみたいで。入れたと思ったんだけど」
「——え?」
道具入れの中を見直したが、確かにない。
しまった、俺も最終確認をするべきだったか?
火が起こせなければ、せっかく用意した漬けタレ肉が焼けない。ケトルで沸かしたインスタントラーメンは作れるが、それではキャンプ飯の醍醐味が味わえない。
「いや、待って! 確か万が一に備えて車にマッチが!」
ダッシュボードの中を見てみると、予備のマッチ箱が入っていた。危なかった……!
それに冷静になって考えてみたら、車に搭載されているソケットでも最低限の代用は可能だ。慌てる必要はなかった。
明日花さんも安堵したように胸を撫で下ろしていた。自分のせいでキャンプが台無しになったと責任を感じられても厄介だったので、俺も一緒にホッと息を吐いた。
「それじゃ、テントを張るのを手伝うね! 私はどうしたらいいのかな?」
「テントはワンタッチで設置できるらしいよ」
山本さんは投げるだけで作れると自慢していたが、本当だろうか?
半信半疑のまま宙に投げると、バッと開いてテントの形になって落ちた。
——スゲェ!
あとはペグとロープで固定をしたら完了だ。これは癖になる面白さだと感心した。
「壱嵩さん、これはどこに置いたらいい?」
仕込んでいた食材を運ぼうとしていた明日花さんが声を掛けてきた。結構な重さなので無理して運ばなくてもいいのに、彼女も浮かれ気味なのだろう。
それはバーベキューコンロと一緒に置いておきたいので、車の近くでいいと伝えようとした瞬間、足を滑らせてバランスを崩した彼女が勢いよく転んでしまった。
「明日花さん! 大丈夫⁉︎」
「ご、ごめんなさい! せっかくのお肉が!」
幸い漬け込んだ肉塊は無事だったが、購入していた手作りソーセージは数本ダメになってしまった。
「本当にごめんなさい! せっかく楽しみにしていたソーセージを……」
「いや、気にしないで。それより明日花さん、怪我はない? 足首捻ったりしてない?」
彼女は大丈夫と呟いたが、明らかにテンションが下がっている。
気にしなくていいのに。こんな失敗をいちいち引きずっていたら折角のキャンプが台無しだ。
「ソーセージはもったいなかったけど、明日花さんに怪我がなくて良かったよ。ここは足場が悪いから気をつけないといけないね。きっとこのソーセージも忠告してくれたんだよ。明日花さん、怪我しないでねって」
まるで子供をあやす様な言い回しに、流石の彼女も苦笑を浮かべていたが、少しずつ暗い雰囲気が薄れ出した。
「これからは怪我をしないように足元に気をつけるね……。壱嵩さんも心配かけてごめんなさい」
「うん、それでいいんだよ。さぁ、ランチにしようか」
こうして俺達は失敗しつつ、美味しいホットドックを完成させて昼食を済ませた。
その後は近くの湖で水遊びをしたり、昼寝をしたり、非日常的な空間を大いに満喫した。
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