第二章「汚い私は『特別』になれるの?」
第5話 少しだけ、世界に彩が戻った
その日は、珍しく昔のことを思い出さずに目を覚ました。あの日、幸山さんにもらった名刺を見て、自然と口角が上がっている自分に気付いて嬉しくなった。
「この人は良い人? 悪い人? 優しいけど信じていいの?」
脱ぎ捨てた服が散乱した部屋で、その名刺だけがたった一つの宝物のようにキラキラして見えた。
じっと眺めているだけで胸が高鳴って止まらない。
幸山さんの勤めている職場は特別養護老人ホーム。精神疾患の患者さんも通院しているって書いていた。
だから私みたいな人間にも理解があったのかもしれないって、自分勝手に解釈して終わらせた。
「どんなのか知ってるからこそ、逆に嫌がりそうなのに……。変な人」
それとも彼も他の男と同じように、下心で近づいているだけなのかな……。
最初はどんなに優しい人でも、仲良くなるにつれて卑猥なことを要求するようになって。
昔、ある男性に「お前にそういう隙があるのがいけないんだ」って言われたことがあった。その人の言い分は私だけが悪いみたいで少し納得できなかったけど、その言葉が棘のように刺さってずっと私を苦しめていた。
セックスは好きだし、気持ちいいことも好き。
でも終わった瞬間に興味が覚めていく様は酷く悲しいから——ちょっと嫌。
だけど誘われると断れない自分は、もっと嫌い。
「幸山さんは、そんな人じゃなければいいな」
冷蔵庫の中に入れていたミネラルウォーターを取り出して、乾いた体に流し込む。零れて流れた水滴が露わになった胸元に落ちて、濡らして消えた。
——……★
久しぶりにバスに乗って、知らないバス停で降りた。
人家よりも畑や田んぼが多くて、のどかな風景。でもどこの田んぼも雑草が背丈よりも長く伸びて荒れている様子だった。人が少なくて時間の流れがゆっくりだなって印象を受けた。
「特別老人ホーム ささの葉グリーンハイツ……ここだ」
幸山さんにもらった名刺を頼りに訪れた場所は、思っていた以上に田舎にあった大きな施設で戸惑った。
お礼用に買ったクッキーの詰め合わせ持参したが、大丈夫だったかな?
「急に会社を訪れるなんて迷惑だったかな? でもここしか知らないし」
大きな門を潜って、二〇〇メートルくらい先にある建物を目指して歩いた。
長い、ダルい。坂がキツい。
でもそこから見えた空が澄み渡っていて気持ちよかった。葉風が若葉を揺らす。夏日が眩しくて目を細めた。
「……ここだ。幸山さん、いるかな?」
だけど私は、この場所がどんなところかも知らないし、そもそもどうやって取り次いで貰えばいいのかも分からなかった。
病院に入る感覚で中に入ったけど、全く反応しない自動ドア。
ん、壊れてる……?
「えぇー……、どうしたらいいんだろ? 入所者様と面談希望の方はコチラに連絡を? 入所者じゃないんだけど」
キョロキョロと挙動不審にウロウロしていると、見兼ねたスタッフの人が声をかけてくれた。
「あの、何かお困りですか?」
その人は少し年上の、優しそうな女性だった。胸元のネームに「
いきなりのことで少し取り乱しそうになったが、右手でトントンと左肩を叩いて平常心を保つように心掛けた。
大丈夫、大丈夫……。
「あの、コチラに幸山さんって方はいらっしゃいますか? この前助けてもらったのでお礼をしたくて」
「幸山さん? あぁ、あの若い職員の人ね。そこの椅子にお掛けになってお待ち下さい」
瀬川さんは嫌な顔一つぜずに取り次いでくれた。
会えるんだ、また。あの人に。
そう思うと胸が高鳴って、興奮を抑えきれなかった。
それから数分後、自動ドアの開く音が聞こえて、カラフルなポロシャツを纏った幸山さんが姿を見せてくれた。
「え、明日花さん……? 何でこんなところに?」
てっきりあの時のように寛大な様子で迎えてくれると思い込んでいたのに、幸山さんから困惑な空気が伝わって、失敗したと後悔した。
迷惑だったんだ。
しまった、私……!
この場から逃げ出したくて即座に踵を返して走ろうとしたけれど、その手を掴まれて引き止められた。
「違う、違う! 驚いただけだから……! メールもなかったからスルーされたと思って」
涙で滲む視界。でも振り返った時、私の目の傍にいたのは困惑しつつも優しい笑みを浮かべた幸山さんの顔だった。
「わざわざ職場まで来てくれてありがとう。すごく嬉しかったよ」
色彩が、モノクロだった世界が一瞬で鮮やかに彩られていくような、そんな感覚に襲われた。
やっぱり幸山さんは、他の人とは少し違う。
「会いたかったんです……」
「——え?」
幸山さんは、黒縁メガネに眉毛も整えていないような、何なら寝癖も少し残っているような冴えない男性だったけど、私の知る男性の中で、一番優しくて温かい人。
だから会いたかった。もう一度、お母さんと同じ……優しい笑顔を向けられたかったんだ。
「あの、これ。この前のお礼のお菓子です。良かったら食べて下さい」
「いや、そんな受け取れないよ。そんなつもりで助けたわけじゃないし、それにせっかく頂いて申し訳ないんだけど、仕事の決まりでこういう差し入れは受け取れないんだ」
——え?
やんわりと拒否されて、一気に血の気が引いた。
「ゴメン、ここは老人ホームだから入居者の家族から差し入れとか多くて、キリがないから断るように言われているんだ。もちろん明日花さんは事情が違うって分かっているんだけど、他の職員に勘違いされるかもしれないから」
何も考えていなかった。
やり場のない手が宙に浮いたまま、思考回路が固まってしまって動けなくなってしまった。申し訳ないのとショックなのと、自分への自己嫌悪と。頭の中が真っ白になって、何も考えられない。
「明日花さんはここまで車で来た?」
「え、あ……バスで来ました」
「良かった。それじゃ、あと30分くらいで仕事が終わるから、そこの応接室で待っててくれるかな?」
そう言われて案内されたのはソファーと机がある部屋だった。ここは入居者の人と家族が面談するために使用する部屋らしい。
「少し待つことになるけど、ここで待ってて。支度が終わったらすぐに来るから」
そう言って幸山さんは仕事場へと戻っていった。一人残された私は、仕方なく腰掛けてスマホを眺めていた。
———……★
「——ビックリした。連絡なかったから諦めていたのに……」
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