第4話 欠陥のレッテル

 あんなにお店の中を走ってはいけないと言われていたのに、こりもせずに走った私は、ついに問題を起こしてしまった。


 気付いた時にはすでに手遅れ——……謝っても謝っても許されなくて、全てが後の祭りだった。


「申し訳ございません! 私達も病院へ同行いたしますので!」

「結構です! 全く、まともに子供の教育もできないなんて、頭がおかしいんじゃないのか? 落ち着きがないのは親の責任だろ⁉︎」


 罵声をあげるおじいさんの隣で座り込んでいるのは、ヨタヨタ覚束ない足取りで歩いていたおばあちゃん。

 私が走っていた先にいた人で、止まりきれず勢いよくぶつかって、そのまま倒れてしまったのだ。


 そして付き添っていたおじいさんに腕を掴まれて怒られて、私もママもずっと謝り続けていた。


「その子もその子だ! その年になっても走り回っているなんて、どこかおかしいんじゃいか? 一度病院に行って頭を調べてもらった方がいい。欠陥しているよ、コイツは!」


 その瞬間、ママの顔が凍りついたように無表情になったけど、堪えるように歯を食いしばって、また「すみませんでした」と謝罪の言葉を続けていた。


 私が全部悪いのに。

 ママは悪くないのに。


 ごめんなさい、もうしません。

 もうしないから、許してください。


 だけどおじいさんはずっと私とママのことを叱り続けていた。おばあさんが大丈夫だと立ち上がってからも、ずっとずっと起こり続けていた。


「あなた、私は大丈夫ですから。ごめんねぇ、お嬢ちゃん。おばあちゃんも回りをちゃんと見てなくて。怪我はなかったかい?」

「お前、こんな奴に気遣う必要ないだろう。被害者はこっちなんだぞ!」

「あなたは大袈裟なんですよ。私もバランスを崩しただけですから」


 倒れたおばあちゃんは優しく声を掛けてくれたけど、浴びせられた大きな罵声と恐ろしい剣幕が目にこびりついて、心身共に萎縮していた。


 私は悪い子、悪い子……私のせいで皆が悲しむ、私が悪い子——……。


 ——……★


 どうして今になって、あの時の記憶が蘇ったのだろう?


 初めて会った男の人の胸に縋りながら涙を流して、私は小さい頃のトラウマを思い出していた。


 あの後、ずっと私のことを優しく温かく抱きしめてくれていたお母さん……。

 この人にも、お母さんと同じ優しさを感じる。


 鼻を啜りながら少し距離を空けると、彼の胸元に涙の跡が染みていることに気付いた。

 しまった、初対面の人にこんな失礼なことをして情けない。私は慌てて距離を取ったが、もう手遅れだった。


「こんなの気にしなくていいよ。年季の入った古いトレーナーだし」

「でも、そんなわけには! 弁償しますので少し待っててください!」

「いや、本当に。それよりもごめん。俺もう行かないといけないから」


 そう言って差し出したお金を拒んで、彼はその場を去ろうとしていた。


 いやだ、待って——?


 咄嗟に掴んだ服の裾。そんな私の行動に彼は驚いて顔を向けて、戸惑うように口角を歪ませた。


「いや、本当に気にしなくて良いから、こんな安物。どうせ捨てるつもりだったし」

「でも、それならせめてお礼だけでもさせて下さい! 私、美味しいハンバーガー店を知ってるから、今度ご馳走させて下さい!」

「ハンバーガー……?」


 彼のキョトンとした顔を見て、ハッと我に返った。


 は、ハンバーガーだなんて!


 よりによってどうしてそんなことを口にしてしまったのだろうと、急いで真っ赤になった顔を両手で顔を隠した。


「違、その、もっと違うのもあるんだけど、咄嗟に出たというか、その!」

「——そんなに美味しいんだ。そこのバーガー店。それじゃ、今度ご馳走になろうかな。今日は忙しいから行かないといけないけど。これ、俺の名刺。ここに個人メールアドレスが載っているから、連絡してくれたら返事をするよ」


 そこには幸山こうやま 壱嵩いちたかと記載された彼の情報が載っていた。老人ホーム……? 補助スタッフ?


「私は鈴木すずき明日花あすかです。あの、名刺はないんだけど」

「俺もそれ、会社の番号だから気をつけて? それじゃ、明日花さん。帰り道気をつけて。それと——……」


 幸山さんは私の手首を両手で掴んで、水脹れのように腫れた数本の傷跡を親指で撫でた。


 いつ気付いたんだろう。こんな傷……。


 恥じるべき傷を咄嗟に隠そうとしたけれど、彼はあまりにも真剣に憐れむように見つめていたから、冷やかしではないと分かって、気を許すように力を緩めた。


「色々と大変なことは多いと思うけど、無理をしないで」


 幸山さんは自分のことのように苦しそうに顔を歪めて、私の痛みを感じてくれた。

 こんなに私に寄り添ってくれた人が珍しかったから、私はまた頬を濡らしてしまった。


「ごめん、本当は色々話を聞いてあげたいんだけど、俺も母親の世話をしなきゃいけなくて」

「いえ、大丈夫です。今日はありがとうございました。その、色々と」

「……うん。いいよ、大丈夫。ちなみに連絡はしてもしなくても気にしないから。渡されたからって気負いしないでいいよ」


 幸山さんはポンっと私の肩を叩いて、その場を去り始めた。


 短い時間のことだったのに、私にとってはとても大事で、とても優しい時間だった。


 彼との唯一の繋がりの名刺を大事に持って、胸に抱き寄せた。



「おかしいってレッテルを貼られた私だったけど、良いこともあるんだ……」


 久々に温かくなった胸中のまま、私も家路へと足を向け直した。


———……★


「——しまった、やっぱり名刺を渡すっておかしかったかな? けど個人の電話番号を渡すなんてナンパと思われそうだったし……(ぶつぶつ)」


幸山さんは幸山さんで盛大に悩んでいそうですねw



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