鮮血の天使(2)
夜の風が潮と血の匂いを運んでくる。
鋭い砲撃音が響き、自動小銃の連射音が止まらない。
白煙と黒煙が絡み合うよう夜空に靡く。
甲板上には凄惨な光景が広がっていた。
ドイツ軍服を着た兵士たちが十数人、銃を手に闊歩している。
その足元には、倍以上の数の船員達が血塗れの姿で転がっていたのだ。
噎せ返る血の匂い。
腹を襲う激痛。
遠退く意識を懸命に現世に引き戻し、足を動かす。
とにかく逃げなくては。
でも何処へ? 狭い船内に、逃げ場なんてない。
階段を上ってくる足音を背後に感じ、ラドムは咄嗟に柱の影に身を隠した。
全身を震えが覆う。
父を殺し、母を殺したあのドイツ兵が、今度は自分を殺しに来たんだ。
ワルシャワにいた頃から隣り合わせにいつもあった感覚──死への恐怖がジワリ。十四歳の少年を蝕んでいく。
住む所を追われ、全てを奪われ、理由もなく殺される──この理不尽。
何故と問えばお前がユダヤ人だからという答えが返ってくるに違いない。
ゆっくりと誇りを奪われ、存在を否定され続けていく。
暴力的な死を見せ付けられ、抵抗する気力もなくしていった。
全財産を引き換えにして、家族三人でワルシャワを逃げ出せたのは稀に見る幸運だったと言わねばなるまい。
その幸運も、この夜の海で潰えるか──。
どんなに小さく身を縮めても月光の下、少年の金髪はよく目立つ。
「隠れても無駄だよッ!」
甲高い声で男が吠えた。
同時にラドムの首を男の手が鷲掴む。
充血した双眸を近付けられ、少年の顔が恐怖に歪んだ。
「いい
真っ赤な舌をペロリと出すと男はラドムの小柄な身体を甲板に投げ捨てる。パックリ開いた腹の傷に軍靴の踵をねじ込んだ。
「ぐあぁっ!」
搾り出す悲鳴と共に、血液が喉から飛び散る。
甲板に撒き散らした己の血反吐を啜って噎せ返るラドム。
その額を掴み、男は少年の紫の眼球すれすれにナイフをちらつかせた。
「冥途の土産にボクの名前教えてあげるよ。逝って
失血と恐怖に半濁した意識で、それでも必死に首を振るラドムを見下ろし、K.アッド・オンは甲高い声をあげて笑った。
「ひゃは! 楽しいッ。コイツ、結構タフだな」
眼球すれすれにナイフを泳がされる少年は無論、小さな命を弄ぶ事に夢中になっていたKも気付かなかった──背後の異変に。
だから突如降り注いだその声に、兵士は弾かれたように上を見上げたのだった。
「
フランス語で語られた、それはか細く弱い少女の声だった。
──こんな商船に女が?
密航者がもう一組居たのかと考え、Kは一瞬の恐慌から立ち直る。
こんな所にのこのこ現れるとはこの女、頭が足りないんじゃないか。
「ボクのナイフで殺してやるまでのコトさ」
殺戮の喜びに真っ赤な舌をペロリと出した彼の、しかし充血した双眸は驚愕に見開かれる。
「な……、オマエ一体……?」
眼前からナイフが去り、ラドムはつられるようにしてKの視線を辿った。
そしてドイツ兵と同じ反応を示す。
「な、何……?」
霞む視界の向こう──船柱の上に鋼鉄色の乙女が立ち尽くしていたのだ。
狭い柱の天頂部に片足だけ乗せた体勢。
人間離れした平衡感覚で船の揺れ、潮風と爆風を耐えている。
風がもてあそぶ銀色の髪は、夜空に輝く鋭い月のように美しかった。
「
拙々しいフランス語で全く同じ台詞を繰り返すその態度に、ドイツ兵の苛立ちは一気に沸点まで上昇した。
「イイとこだってのに邪魔すんなよッ。あと、ドイツ語喋れッ!」
怒りに任せて投げられたナイフは完璧に少女の顔面を捉えている。
しかし刃が貫いたのは鉄色の残像だけだった。
十メートル近くはあろうかという距離を、少女は軽く飛び降りたのだ。
細い月の様に鋭利な弧の軌跡を目で追って、ようやくラドムとKは異常に気付いた。
甲板に居たドイツ兵が一掃されているではないか。
ある者は血も流さず昏倒し、ある者は味方の銃撃の流れ弾に当たって死んでいる。
他の者は夜の海に呑まれたのか。
「バカな……一体何が? 誰が? まさか……?」
気配すら感じさせず目の前に降り立った鋼鉄色の少女に、Kは本能的な恐怖を感じたのだろう。
反射的にナイフを構えた腕に、しかし瀕死の少年が取り縋る。
「だ、駄目だっ! 早く逃げろ……!」
ラドムは必死に叫んでいた。
残された最後の力を使って目の前の少女を助けようと。
しかし長身のドイツ兵からすればそんな抵抗は細やかなもの。
「いい加減クタバレよッ! このユダヤ人がッ!」
己に向かって振り上げられた刃物の唸りに、少年は今度こそ死を覚悟した。
その時、動いたのは少女だ。
ナイフの目標点、つまりラドムの首筋を覆うように自らの右腕を滑らせる。
構わず振り下ろされるナイフの輝き。血も出ない鮮やかさで少女の華奢な腕を切断するかと思われた刹那。
金属と金属のぶつかる乾いた音がラドムの頭上で響いた。
「何でっ……」
Kの悲鳴と共に、弾かれたナイフが甲板を転がる。
彼の眼の前で少女は身を翻した。
まるで殺戮の天使だ。
長い銀色の髪が月の光の下、流星のように鮮やかに舞う。
あまりのスピードに、甲板に溜まったドロリとした赤い液体も彼女の動きに合わせて滴を撒き散らした。
ナイフを弾き飛ばした少女の右手が拳に握り固められ、それは驚く程重い唸りをあげてKの左胸を貫く。
金属の塊が皮膚を穿つ嫌な音が、長く尾を引いて夜空に吸い込まれる。
残響が消える直前、実に無造作な動作で男の胸から自身の腕を引き抜く少女。
汚れを振り払うように軽く手を振る。
風を切る音とともに、血しぶきがラドムの頬を打った。
そこに在ったのは、圧倒的な暴力。
信じられない、という風に少女を見詰めKは絶命の瞬間、こう呟いた。
「オ、オマエは、《
その言葉を聞きながら、少年の意識も急速に闇に落ち込もうとしていた。
血煙の中に、鮮血に染まった
視界は血の赤に染まり、彼女の姿も次第に朧になっていく。
砲撃の耳鳴りで聴覚にも鈍い靄がかかっていた。
血反吐の中で咳込み、呼吸すら覚束ない。
腹の傷口が熱くて、心臓の鼓動と共に抗いがたい強烈な痛みを打つ。
手足がスッと冷たくなっていって、自分の身体から血液が失われていくのが感じられる。
「
フランス語で少女が怒鳴っている。
ああ、自分に向けて言ってくれている言葉なんだと悟り、ラドムは声をあげようとした。
しかし言葉は出ない。
喉から溢れ出す血液がゴボゴボと泡となって噴き出るだけ。
「
少女の右手に触れられ、ラドムの身体は反射的にびくりと震えた。
まるで死神のように冷たい手……。
「僕だって、しに……たくな……んっ」
震える唇を、やわらかなものが覆う。
ぼやけた視界いっぱいに少女の顔。
熱いものが口中に侵入するのを少年は抗う術もなく受け入れた。
気道を塞ぐ血痰を何度も吸い出して、少女はその度に悲痛な声で叫ぶ。
「
天使の声にしちゃ随分子供っぽいな……。
そんな事を考えて微かな笑みすら浮かべながら、ラドムはゆっくりと意識を手放していった。
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