鋼鉄乙女のモン・サン=ミシェル戦闘記
コダーマ
序章
鮮血の天使(1)
その日を、少年は海の上で迎えた。
「ねぇ、気付いてた? 今日はあなたの誕生日よ。ラドム」
「え?」
狭い船倉。窓のない空間で、時間の感覚は失われて久しい。
荷物の隙間に一家三人で身を潜めながら、不意に囁かれたその言葉に少年は戸惑いの声をあげた。
「母さん、そんなこと……」
そんなこと言ってる場合じゃないだろと告げかけて、ラドムと呼ばれた少年は言葉を飲み込む。
今だからこそ、日常の会話が貴重なのだ。
僅か数分先には儚く消えゆくかもしれない命に、せめてひとときの安息を。
彼等ユダヤ人にとって、まさに地獄の時代だった。
民族を理由に、無慈悲に命を奪われる。
何故という当然の疑問を、口にする者は祖国ポーランドにはもういなかった。
しかし少年の一家はまだ幸運だ。
少なくとも逃げ延びるチャンスを得ることに成功したのだから。
ナチスに席巻されたポーランド首都ワルシャワから脱出し、鉄道で海沿いの町ダンチヒへ。
多額の賄賂、それから船底の狭い倉庫から出ないことを条件に商船に乗り込み密航を図ってから、そろそろ三日ほどが経ったろうか。
時間の経過を、腹の減り具合から探ることも難しくなっていた。
持ちだした堅パンはすでに食べ尽くしてしまっている。
だから先だっての母の言葉が、うなだれたままの息子を元気付けようとしてのものだということは、今日十四歳になったばかりの少年にも理解できた。
1929年10月24日──後に第二次世界大戦を引き起こした要因の一つと数えられる
暗い運命を暗示されたように生れ落ちた我が子を気遣うかのごとく、母は彼の金髪を撫でる。
薄闇の中でしかと見ることは叶わなかったが、優しい笑みを湛えた母の表情が胸に去来したのだろう。
子猫が甘えるように、少年はあたたかな手の平に頬をすり寄せた。
「上が賑やかになってきたわね。上陸が近いのかしら」
先程から揺れが酷くなっていた。
北海に出たのかもしれない。
それなら目指すイギリスはすぐそこだ。
言われるがままにラドムは天井を見上げる。
だが灯かりもない暗い荷物置き場から、外の様子をうかがう術はなかった。
扉の隙間から僅かに漏れる電灯。
その微かな明かりに浮かぶ淡い金髪が、少年の額に年齢に相応しくない影を落とす。
今日は生きている。
だが、ユダヤ人の自分が来年の誕生日を迎えられるとは思えない──それは絶望の色だったかもしれない。
その時だ。
「しっ!」
直ぐ隣りから男の声。
「静かにして、もっと奥へ隠れるんだ」
「父さん?」
「あなた?」
迫害を受け続けてきたユダヤ人の用心深さか、中年の男が妻と息子を荷箱の隙間へ押し込む。
彼が家族を守るように二人に覆い被さり、そこでようやく少年は異変に気付いたのだった。
怒声と悲鳴。上陸準備にしては変だ。
時折低い破裂音が響くのは、ワルシャワでも聞き慣れた銃声に違いない。
こういう時の対処法は知っている。
息を潜め、声を立てず、小さくなって身を隠し、銃声が通り過ぎてくれるのを待つだけだ。
後に残る死体が自分たちでない事を祈りながら。
しかし今回は銃声は去ってはくれなかった。
乱暴な足音と共に、爆音は彼等の隠れる船底の倉庫に近付いてきたのだ。
少年を抱き締める母の腕、二人を抱える父の腕の力が強くなったと感じたときだ。
「見つけたッ!」
甲高い男の声と共に、勢いよく扉が蹴り開けられた。
次いで小型懐中電灯の強烈な光が彼等を照らす。
「やッぱりだ。
無遠慮に入って来た気配から一人であると分かる。
こちらからは逆光になっていて、声の主を確認することはできない。
だが、足音は重い。
それは銃器を携えた兵士ならではの響きであった。
不意に光が床に移動したのは、男が天井の金具に懐中電灯を吊るしたからだ。
同時に長身の男の影が、船倉の壁に禍々しく浮かび上がる。
無言で身を寄せ合う親子を、美味しい血を見付けた吸血鬼のように至福の笑みで見下ろして、男はざらついた笑い声をあげた。
「覚悟の上だろ? これは
耳に障る嫌な声に、力が込められる。
「死ねよッ!」
瞬間、息子を抱く父の身体が硬直した。
夫の背に柄まで深く突き立ったナイフを見て、母が押し殺した悲鳴をあげる。
その声を、まるで極上の音楽を楽しむかのように双眸を閉じて聞く殺人者の姿。
細い懐中電灯の光の中にはっきりと浮かび上がった喜悦の表情。
その男を、ラドムは睨みつける。
若い男だ。
二メートル近い長身、その細身の身体をドイツ軍服で包み、ベルト周りには幾本ものナイフを装着している。
脱色した髪を風になびかせ、死神のように青白い額にはどす黒く変色した赤い液体が飛び散っていた。
無論、自分のものではあるまい。
ここ数分のうちに殺した相手の返り血だ。
赤く充血した双眸が少年と母親を捕えた。
「ラ、ラドム。逃げてっ!」
叫び声と共にラドムの手が凄まじい力で引っ張られた。
母だ。
細い腕にありったけの力を込めて息子を突き飛ばす。
そのままの勢いで小柄な身体は扉近くの床に激突した。
同時に女は動いていた。
己の体重に渾身の力を重ねて、ドイツ兵に体当たりしたのだ。
「ワ、ワッ!」
ひょろりと長い体躯の男はそのまま床に倒れ込む。
「母さんっ」
少年の悲鳴は、男の右手に新たなナイフが閃くのを捉えたからのものだ。
しなやかな手は無駄な動きなく、刃のきっ先を女の心臓に向けた。
「死ねッ!」
一片の慈悲もなく刃物が翻り、一瞬後に女の心臓は冷たい金属に貫かれている筈だった。
しかしそうならなかったのは、男の腕に何かが取り付いたからだ。
「母さん、逃げて!」
その小柄な姿はラドムだ。
大木にしがみ付く小動物のように、両手と、それから足も使って男の腕に喰らいつく。
母が息を呑むのと、男のもう片方の手がラドムを弾き飛ばすのは同時だった。
流れるような動きでナイフの銀が一閃し、少年の身体は抉られる。
「うっ……」
腹に走った熱と衝撃。
咄嗟に押さえた右手の指の隙間から、じわりと生温かいものが溢れ出てくる。
「ラドッ……!」
腹を裂かれた我が子を目の前にしてあげられた母の悲鳴は、しかし途中で急激に掠れる。
閃いたナイフが、今度こそ彼女の心臓を深々と貫いたからだ。
絶命の瞬間、それでもドイツ兵を押さえ込むようにして倒れたのは子を助けたい母の執念か。
──ラドム、早く逃げなさい。
硬直した眼球にそう語られ、少年は跳ね起きた。
痛みなんて感じない。
両手で腹を押さえ、流れ出る液体をなるべく体内に押し戻すようにしながら部屋をよろめき出る。
必死になって階段を上り甲板に出て、そして彼は絶句した。
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